10.置き去りの心
練習を終えて部室を出ると、夕暮れの風が汗ばんだ肌に心地よかった。
ラケットを肩に背負い、仲間たちと校門へ歩いていく。
――と、そこに。
「おつかれ、澪」
校門の前で、白銀の髪を揺らす少年がひょっこり手を振っていた。
「……カイ!? え、なんで。佐木さんと帰ったんじゃないの?」
澪は思わず声を上げる。
カイは悪びれもせず、にっと笑った。
「送ってったよ、ちゃんと家まで。それからまた学校戻ってきた」
「……は? なにその謎行動」
澪が呆れた声を上げると、横からひなたとりりあが食いついた。
「えー! もしかしてカイ先輩、私たちとも一緒に下校したかったんじゃないですかー?」
「やだー、そういうことなら早く言ってくださいよ!」
キャーキャー盛り上がる二人に、カイは肩をすくめる。
「いやいや、そうじゃなくてさ。今朝おじさんに夕飯の買い物お願いされてたの、すっかり忘れてて。澪が一緒じゃないと何買えばいいか分かんないんだよね。だから戻ってきた」
「……めんどくさ」
澪はあきれ顔で歩き出す。
「ひどいー! こんなに素直にお願いしてるのに!」
カイも笑いながら歩調を合わせる。
「じゃーねー!」
琴羽と詩音が自転車にまたがり、手を振りながら別の方向へ走っていった。
「先輩、お先でーす!」
杏と優理もペアで自転車をこぎ出し、夕焼けの通りに消えていく。
残ったのは、澪とカイ、それにひなたとりりあ。
「で、で!」
「さっきの彼女さん、どんな人なんですか? なんで付き合うことにしたんですか?」
ひなたとりりあが両脇から迫るように質問攻めを始める。
カイはにこにこしながら答える。
「んー、かわいいから、かな。ただ、それだけ」
「えー! やっぱかわいいは正義なんだ!」
「く~、小顔色白に生まれてきたかったー!」
カイが肩をすくめて笑う。
「まぁ、ちょっとわがままなとこもあるんだけどね。そこもまた、魅力ってやつ?」
「きゃー、わがままさえ魅力って言ってもらえるなんて!」
「美人ってほんと得よなー」
笑い声が続くまま、やがて分かれ道に差しかかる。
「じゃあ、ここで!」
二人は立ち止まり、惜しそうに手を振った。
「それでは――澪先輩、カイ先輩! お買い物デート、楽しんでくださいね!」
「はぁ!? 誰がデートよ!」
澪が全力で突っ込むと、ひなたとりりあは楽しそうに笑いながら帰っていった。
残された澪とカイ。
「……で? 本当に買い物一緒に行くの?」
「もちろん。澪と一緒なら、スーパーの買い物も楽しそうだよね」
「……はいはい。調子いいんだから」
澪は呆れながらも、歩幅を合わせて夕暮れの道を歩き出した。
街路樹の影が長く伸び、空は茜色から群青へと移り変わっていく。
澪とカイは並んで歩きながら、近所のスーパーへと向かっていた。
「で、今日は何買えばいいの?」
「おじさんから頼まれたのが……『魚と、野菜と、豆腐と……副菜になりそうなもの』って感じなんだよね」
「……ふんわりしすぎでしょ、それ」
澪は思わず苦笑する。そんなざっくりした注文を押し付けられたカイに、少し同情を覚えた。
「だよねー? これじゃ買い物初心者にはハードル高すぎるよね」
カイが肩をすくめながらにっと笑うと、澪は呆れたように鼻を鳴らした。
スーパーに入ると、クーラーの効いた店内に賑やかなBGMが流れている。
買い物かごを押す澪の横で、カイは興味深げに野菜や魚をのぞき込んでいる。
「これ美味しそうだな。ブリ?」
「今の時期まだ高いよ。こっちのサバのほうが安いし脂乗ってる」
「へぇ、澪って主婦みたい」
「誰が主婦よ!」
口では突っ込んでいるのに、澪の視線はどこか宙を泳いでいた。
野菜を手に取り、値札を確認するふりをしながら――頭の中では灯のことがぐるぐる回っている。
(……灯……)
思考がよぎるたび、胸がざわついて落ち着かない。
そんな澪を、カイはちらりと横目で見つめていた。
やがて必要な食材をかごに詰め終わり、ふたりは並んで家路についた。
***
夕飯の食卓には、焼きサバと野菜炒め、それに澪が手伝った豆腐とわかめの味噌汁。小鉢にはひじきの煮物ときゅうりの浅漬けが並んでいた。
テーブルにずらりと並んだ料理を見て、カイは「おじさんの料理、美味しそうだね」と感心したように声を上げる。
「いただきます」
三人の声が重なり、箸が動き始めた。
「で、カイ。学校はどうだ?」
父が焼きサバに箸を入れながら、気さくに尋ねる。
「んー、まあまあ楽しいよ。授業はちょっと退屈だけど、クラスの子たちはみんな仲良くしてくれるし」
「はは、そうか。もう友達ができたんだな」
「うん、すごく親切にしてくれるよ。お昼も一緒に食べようって誘ってくれるし」
そこで、澪がすかさず口を挟む。
「……女の子たちだけでしょー」
父が愉快そうに笑った。
「なるほど、カイは男前だからな」
澪はしらっとした表情のまま、味噌汁をひと口すすった。
そこでカイがふと思い出したように、ぽんと口を開いた。
「そういえばさ――僕、彼女できたんだよね」
「……え?」
父の箸がぴたりと止まった。
「か、彼女? 転校してきてまだ二日だろ? もうか!?」
「うん、昨日三人から告白されて、その中で一番僕好みの子を選んだんだ」
「な、なんだそれは……」
父は呆気にとられ、口をぱくぱくさせている。
「……マジ調子乗ってる」
澪がぼそっとつぶやいた。
カイはにっと笑い、わざとらしく澪の方を見やる。
「まあ、好かれるのはいつものことだし……罪な男でごめんね?」
「そのうち刺されるんじゃないの? てか、学校で『俺、澪のいとこです』とか言いふらすの、ほんとやめてよね、巻き込まれたくないから」
澪のツッコミが飛ぶ横で、父はまだ信じられないといった顔で固まっていた。
父は頭を抱えながらため息をつく。
「ちょ、待て……今どきの高校って、そんなスピードで付き合うのが当たり前なのか?」
「いや、カイだけだから」
「そうそう、僕だけ特別」
「はぁぁぁ……」
父が深くため息をつき、澪は呆れたように頬杖をついた。
食卓には笑いが混じった賑やかな空気が流れる――はずだった。
けれど澪の心は、どこか遠くに置き去りにされたまま。
灯のことが、どうしても胸から離れなかった。




