『One on One, with Wang!』
放課後の体育館の端っこの端っこ。
大鏡の横は、ここ最近のお気に入りの場所だった。
部活に勤しむ友人たちの声を聴いていると、たとえ平凡な柔軟運動であっても、俄然やる気が湧いてくるというものである。
「拓真センパーイ」
風通しがよく、気分が沈むこともない。どこかリラックスした気分にさせてくれる。
必要に応じてヨガマットやトレーニング機器を借りることが出来るのも高ポイント。
「拓真センパイー?」
まるでこの世界から一歩引いた場所にいるような気分になる。日常に埋もれていたあれこれが、ここでは少しずつ遠くのものになって、俺はただ自分と向き合うだけの時間を持っていた。こうしているとその内、関係の無い雑音は自然と聞こえなくなってくる。
そう、まるで別世界の出来事みたいに────。
「佐藤っ!拓真っ!!センパーーーイィッ!!!」
「あああぁっ!!!うっさいわ馬鹿ぁ!聞こえてるよっ!」
爆竹を思わせる巨大な音が耳元で放たれた。
思わず両耳を抑え、辺りを転がり身悶える。
「あっ。やばい。あっあっ耳が、なんかジクジクしてる耳が……」
鼓膜、逝ったろ。絶対逝った、たぶん、きっと。
上のほうから、「大丈夫ですかぁ」なんてのんきな声が聞こえてくる。
おっ、良かった、鼓膜無事っぽい。……良かないわっ!
「な、なんで?なんでそんなことするの?」
俺は顔をゆがめながら頭上の王を睨みつける。まさかの大声攻撃、あんなに近くで叫ばれるなんて想像してなかった。心臓がまだドクドクしている。
王は、こちらを見てキョトンとした顔をして、しばらく無言だった。だが、やがて小さく肩をすくめて、満面の笑顔でのたまう。
「だってセンパイ、気づいてくれないですから!」
「無視してたんだよ、無視ッ!聞こえてないわけないだろうが!まえに俺言ったよな?部活中は気が散るから話しかけるなって!」
王は「あれー?そうでしたっけ?」と小首をかしげ、屈託なく笑う。
こいつ、反省って言葉を小学校に忘れてきてるのか?
「大体な、なんださっきの暴挙は。あの距離で発していい音はせいぜい内緒話レベルだぞ。お前のあれは体育祭の応援団長だ、役不足どころの騒ぎじゃない」
「中国人は大きな声で喋るが癖になっているんですね~」
「あらまぁ、随分お淑やかに話されますこと。他の中国人に謝れ加減知らず」
王は、んふふ〜と悪びれもなく笑って、「えー?センパイ、そういうとこですよ、モテないの」とぬかしやがった。
「いや、話の流れ全然関係ないからな!?てか俺、別にモテようとしてないし!」
「ア~、そういうとこ、モテないですね!」
「よし、おんなじの食らわせてやる。膝曲げろ、頭下げろ」
「イヤで~す。ほらほら!頑張ってください!つま先伸ばして~、私より大きくなってみる~?」
「……お前、それ完全に煽ってるよな?」
俺はムカつき半分、悔しさ半分で王を睨み上げる。
そう、睨み上げる。
この時点で察してくれ。こっちは一応高校三年生だぞ? それなのに、目の前のこの中国人女子高校生───王 凌菲は、俺の頭一つ分くらい、平然と上から見てきやがる。
背、高すぎんだよ、お前。
それもただ背が高いだけじゃない。手足は長いし、姿勢も無駄にいい。いつ見ても無駄にポージングが決まってて、まるで広告の中から抜け出してきたみたいだ。こんな見た目で笑うと、全力で子どもみたいな顔するんだから、そのギャップがまた腹立つ。
「ねぇセンパイ、そんな顔しないでよ〜。ちっちゃいのもかわいい、ですよ?」
「誰がちっちゃいだ馬鹿!!あとかわいくないわ!!高校生男子に向かって何言ってんだ!!」
「事実、言ってるだけですね〜」
「よーし、決めた。今日お前のスニーカー踏んづける。一回じゃ済まさねえぞ」
「わー、それダメ!私の靴、ナイキの!たかいの!」
「知らねぇ!今日ばっかりは情け容赦ねぇぞ!」
俺が足をズイッと踏み出すと、王は大げさに両手を広げて、まるで警戒態勢のポーズ。
「暴力反対!非道!人権侵害!」
「そのナイキ一足に人権詰まってんのかよ!」
「詰まってますとも。命の次に大事!」
「……」
あまりの即答に、思わず言葉を失う。
……こいつ、なんか色々とすごい。
「もういいや……で、なんの用だったんだよ、わざわざ耳を破壊しに来てくれたのか?」
「うーん、まあ、それもちょっとだけ……うそうそっ、ちゃんと理由あるですよ!」
王は肩をすくめて、いたずらっぽく舌を出す。冗談のつもりらしいが、まったくもって笑えない話だ。
「……まじで一瞬、死ぬかと思ったんだけど」
「え?でも死んでないですから、大丈夫です!」
「いやいやいやいや、雑!そのフォロー雑!!」
「没问题!無問題!没事儿!」
「『大丈夫』三連チャンありがとな!ご丁寧に出身地以外の方言まで!レパートリーの問題じゃないけどねっ!」
そんな俺のモヤモヤをよそに、王はずいっとバスケットボールを俺の胸元に押し付けてきた。
「はい、ボール。ワン・オン・ワン、やるですよ」
「……あー、やっぱりそれが本題か」
「センパイ、最近ぜんぜん動いてないから!せっかくリハビリ終わったなら、ちょっとは動かさないと、感覚もどらないですよ〜?」
王の顔は笑っているけれど、その目は意外なほどまっすぐだった。
「いやさ、まだしっかり動かしてないし、今日もストレッチしに来ただけなんだけど」
「負ける、怖いですか?」
王は首をかしげて、わざとらしく挑発するような口ぶりで言う。けれどその視線は、冗談半分の軽口とは裏腹に、どこか真剣な色を帯びていた。
俺は、思わず口を閉じた。
──負けるのが怖い?
違う。それはちょっと違うんだ。
たしかに最近は、まともにバスケなんかやってなかった。膝のリハビリは終わったって言われたけど、いざとなると怖いんだよ。踏み出す一歩、ジャンプする一瞬、あのヒリつくような攻防。あれら全部が、どこか遠い日のものみたいで……。
「……お前、そういうとこ、ズルいよな」
「え? 褒めてます?」
「褒めてねぇわ」
そう言いながら、俺は胸元のボールをふっと持ち上げて、何度か弾ませる。音が、鳴る。ちゃんと響いて、指先に重さが返ってくる。
まだ、いける。少なくとも、やってみなきゃ分かんねぇ。
「……三本勝負だ。ライン関係なく入ったら一本、二本先取で勝ち……先攻はお前でいい」
「え~?三本~?つまんな~い」
「ビビってるんじゃなかったのかよ、俺のほうが」
「んふふ、じゃあそれでいっか。……負けないですけどね、センパイ」
王は軽くウインクして、ボールを受け取った。すっと重心を落とし、ドリブルを始める。その姿勢は、いつもよりもずっと引き締まって見えた。
ただの冗談混じりの勝負じゃない。
こいつ、ちゃんと俺とやろうとしてるんだ。
体育館の奥。誰も見ていない、誰の声も届かない場所で。たったふたりきりのコート。
──試すには、ちょうどいい。
「いきますよ、センパイ。ちゃんと止めてくださいね?」
「……後悔させてやる」
次の瞬間、王が一気に踏み込んだ。纏められた長髪が軽やかになびく。
ドリブルの音が変わる。ステップが軽くなる。左か──いや違う、右のフェイントか?
──リハビリ明けの足が、自然に反応する。
よし、思ったより悪くない!
そんな思いが脳裏によぎった次の瞬間
──右っ。
俺は瞬時に横ステップで身体を寄せる。が、王の腰が一瞬沈む。───フェイント!
気が付いた時には、すでに遅い。
「はい、いただきっ」
王は俺のタイミングを完全に外し、スルッと抜けていく。
俺の指先はギリギリ届かず、王はレイアップを綺麗に決めた。ボールがネットに触れる乾いた音が、ハーフコートに小さく響く。
「センパイ、遅いです~」
「……チッ、やるじゃねぇか」
「え? 今褒めました?」
「調子乗んな」
ボールが返ってくる。次は俺の攻撃。呼吸を整え、ボールを手のひらで転がす。
……体は、悪くない。むしろ、さっきの動きでスイッチ入った感じすらある。
相手を、王を正面に見据える。
相変わらず背が高い。スラッとした脚に、肩幅も広くて、なんつーか、普通にモデルみたいだ。けど、言葉は綿菓子よりも軽い。
「……次、こっちの番な。後悔すんなよ」
「こいっ、センパイ。ナイキ、簡単には踏ませませんからね!」
ドリブルを始めると、床の感触とボールの反発が心地いい。身体が自然に動く。フェイントで揺さぶると、王はきっちり重心を低くして対応してきた。
──じゃあ、それを逆に使わせてもらう。
一歩引いた瞬間に、スッと前に踏み込む。
「甘いぞ、凌菲っ!」
「えぇっ!?今なまえ……、ってはやっ!」
王の足が半歩遅れる。その一瞬を逃さず、俺は右に抜けた。レイアップじゃない。ここは、確実に沈める。
ジャンプシュート。腕の先からボールがきれいに放たれ──リングの中心を通って落ちた。
カコンッ、と快音が響く。
「っしゃ、一本!」
「いま、名前……」
「おいおい、どうした。言い訳か?」
「……かっちーん。キレました」
「へっ、上等だ。一本一本で並んだな。次、決めた方が勝者ってわけだ」
ふたりとも軽く息が上がってる。でも、それが心地よかった。久々の「真剣勝負」に、胸が高鳴っていた。
王がもう一度ボールを持ち、ポンと地面に弾ませる。
「じゃあ、最終戦。王 凌菲、まいります!」
「こいよ、王。中国四千年の力、見せてみろっての」
言葉を交わすたびに、ふたりの間に漂う空気が変わっていくのを感じる。ただのじゃれ合いだったはずのゲームが、今は妙に静かで、張り詰めた雰囲気に包まれていた。
王がドリブルを始める。リズムが、変わった。速い。さっきとは違う。左右への揺さぶりに、ほんのわずかな「間」が加えられていて、そのせいでタイミングが取りづらい。
手加減、もうしてないな。
──構え直せ。落ち着いて、見るんだ。
目の動き、肩の角度、重心の乗り方。
フェイントか、本気か。それを見極めるには、感覚じゃ足りない。
「センパイ、真ん中、空いてますよ?」
「バカ、誘ってんのバレバレだっつーの」
王がニヤリと笑って、一瞬、左に体を振る。そのまま鋭く切り返し───。
「っ……!」
来る。速い。
俺は瞬時に横にステップを踏んだ。だけど、その一瞬の踏み出しを読んでいたかのように、王は逆にターンを入れて、こちらの背後を取る。
マズい、抜かれる!
とっさに伸ばした腕が、王のドリブルに触れた。ボールがわずかに浮いた。
「あっ──!?」
「チャンス……もらった!」
反射的に手を伸ばす。ボールを弾き返すように奪い取ると、王の視界から一瞬外れて背を向ける。今だ。
俺はそのままドリブルを一歩、大きく前に進め──リングへ向かって加速する。
後ろから気配が迫る。王だ。追いつこうとしてる。いや、いける……!
俺の、勝ちだっ!
「───好きですよ」
……その言葉は、リングに向かって跳ぶ直前の、ほんの一瞬。
まるで時間が止まったみたいに、耳に届いた。
重力を忘れた体が、空中で戸惑う。
足元がぐらつくわけでも、バランスを崩したわけでもない。
ただ、頭が──心が、追いつかない。
手から離れたボールは、目標から大きくそれて、バックボードに当たり、力なく跳ね返る。
そのボールをひょいと掬い上げられ、そのまま弧を書いてリングに吸い込まれていった。
「私の勝ち……ですねっ」
王が口元に手を当てて笑っていた。
けれど、その笑みには、いつもの冗談の色はない。
紅潮した頬は、身体への負担か、勝利故の興奮か────
「王ちゃ~んっ!!先生がぁー、呼んでるよぉーーっ!!」
突然、正反対のコートから王を呼ぶ声があがる。
「は~いっ!すぐ行きます~~!!」
「お、おい、待て……さ、いごの」
王はバスケットボールを軽くスピンさせながら、くるりとこちらに振り返る。
「……最後の、なんですかぁ?」
その声は、いつもみたいに明るくて、どこかとぼけた調子。でも───その目だけは、さっきと変わらず、まっすぐだった。
「いや、その……」
口の中で言葉がもつれる。
言おうと思えば言えるはずなのに、俺の声は、ほんの少しの勇気を置き忘れたままだった。
王は、くるりとこちらを向いたまま、眉をぴくりと上げた。
そして、ひと呼吸だけ間を置いてから、彼女はにんまりと、いじわるそうに笑った。
「……えへっ、これでおあいこですよ~だ」
「お、あいこ…………はぁ!? んだそれっ!」
「また明日~!」
「おい、まて!くっそ、ワケわかんね……。おあいこって、なんだよ」
呆れたように呟いた声は、自分でも驚くほど小さかった。
さっきまであんなに騒がしかった空間が、急にしんと静まり返る。他の生徒たちもとっくに帰っていたらしい。
負けた。完全に。
それでも、心のどこかで、笑ってる自分がいる。
出口にたどり着いた王が、もう一度だけこちらを振り返る。
その顔は、夕陽の赤を受けて、どこか儚げで、どこか嬉しそうで──
そして、最後の最後に、口を開いた。
「也训练你的头脑~~♡」
茶化すような口調。でも、どこか、やさしい声だった。
俺は立ち尽くしたまま、何も返せなかった。
ただその言葉だけが、いつまでも胸の奥に、ぽつんと残っていた。
意味は、まったく分からない。それでも──まいったな。
───今日のは、たぶん、けっこう効いた。
ここまで読んでくださっている方々。本当にありがとうございます!
短編ですので、ひとまず完結です。いつか王視点なんかも書いてみたいな~!
今後長編の連載を行う予定ですので、よろしければ旧Twitter(現X)の方もよろしくお願いいたします!
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