6.ユーシアの部屋にて――困惑と後悔と
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ジークハルトは、非常に戸惑っていた。
彼の困惑の原因は、言わずもがなユーシアだ。
彼女は彼を「愛する」宣言通り、彼の為に朝から晩まで尽くしているのだ。
仕事で疲れ果て伯爵家に戻り、自分の部屋に入ると、心安らぐ匂いの香が焚いてあり、レモンクッキーと紅茶が机に置かれてあった。
疲れている日は、確実と言っていいほど自分の好きな匂いの香が焚かれ、自分の食べられる軽食が置いてあるのだ。
クッキーは焼き立てで、紅茶はまだ熱かった。恐らく、自分の帰宅時間をヴォルターから聞いて、それに合わせて出してくれているのだろう。
自分が部屋に入った後で持ってこないのは、彼女に対して言った「君に一切関わらない」の言葉を配慮してくれているのだろう。
彼女の遊び心なのか、たまに星型やハート型のクッキーがあって、中には動物だと思われるよく分からない形のものもあり、ジークハルトはそれを見る度表情が綻んだ。極稀に焦げているものもあるが御愛嬌だ。
どんな形でも焦げていても味は相変わらず美味しいので、残さず食べる。二番摘みのダージリンティーを飲んでホッとし、仕事の疲れが癒やされていく自分を感じ――愕然とした。
(ち……違う! 俺は絆されてなんていない! そうだ、クッキーと紅茶が美味いからだ。この安らぎは全てこれのお蔭だ)
心の中で必死に弁明する自分に、誰に弁明しているんだ? ともう一人の冷静な自分が突っ込む。
息を盛大に吐き気持ちを落ち着かせると、残っていた事務作業をやりに執務室へと向かった。
すると、執務机に山になっていた筈の書類が、明らかに減っているではないか。
「失礼いたします」
するとノックの音が聞こえ、丁度良いタイミングでヴォルターが現れた。
「ヴォルター。ここにあった書類はどうした? 今夜中に片付けてしまおうと思っていたんだが」
「それはユーシアお嬢様が処理され、正式に終わっております」
「ユーシア嬢が!?」
驚きの声を上げるジークハルトに、ヴォルターは微笑みながら言葉を続ける。
「いつもお忙しい御主人様に少しでも休息を取って欲しいと、お嬢様が自ら『自分にも出来る仕事を教えて欲しい』と仰ってきたのです。お嬢様は呑み込みが早く、次々と仕事を覚えていっておりますよ」
「…………」
「本日はもうお休み下さいませ。御自愛をし、無理は決してなさらぬよう。それがお嬢様の願いであり、わたくし達使用人の願いでもあります。おやすみなさいませ、御主人様」
淀みなく一礼をし、ヴォルターは執務室から出て行った。
ジークハルトは暫く扉を見つめていたが、フラリと廊下に出る。そして、その足はユーシアの部屋へと向かっていた。
何故か無性に彼女の顔が見たくなったのだ。彼女とは擦れ違う度笑顔を向けられてはいたが、ジークハルトは視線をそちらに移すことなく通り過ぎていた。
今まで彼女の顔をろくに見ずに過ごしてきたのだ。
(……今の時間だと、もう寝ているか……。せめて顔だけでも……)
扉をノックしようとした手を寸前で止め、そっと取手を回し、少しだけ扉を開く。
その隙間から視界に入ってきた光景は、色んな本の山に囲まれて、椅子に座ったまま机の上に突っ伏しているユーシアの姿だった。
「……っ!?」
思わず身体が動いて中に入り、ユーシアの下へと駆け寄る。彼女は両腕を枕にして、スヤスヤと眠っていた。ジークハルトは我知らずホッと息を吐く。
周りにある本は、この家の事業に関する書物や、この国の貴族に関する書籍等、中には自分でも理解が難しい本もあった。
(……毎日、夜遅くまでこれらを読んでいたのか……)
ジークハルトは唇を噛み締めると、ユーシアの身体を起こさないように抱き上げた。
(……! こんなにも軽く、細い身体で――)
少しでも力を込めれば壊れてしまいそうだ。
ジークハルトは慎重に彼女をベッドまで運ぶと、静かに降ろし、すぐに毛布を掛けた。
彼女はモゾモゾと身動ぎした後、フニャリと無防備に微笑んだ。
「…………っ」
その可愛らしい笑みに、ジークハルトの胸が大きく高鳴る。
再びスヤスヤと寝息を立て始めたユーシアの脇に片膝をつき、恐る恐る手を伸ばすと、フワフワした栗色の髪を撫でた。撫で心地の良い、いつまでも触っていたくなる髪質だった。
その撫で心地に懐かしさを感じ、ギュッと瞼を閉じる。
暫く髪を撫でていたその指は彼女のほっそりとした頬へと滑り下りて、半開きになっている柔らかい唇をなぞった。
フニフニとしていて気持ち良い。
「…………」
ユーシアの頬に手を添え、ジークハルトの顔が、彼女の顔へと近付き――
「……うぅん……」
すぐ間近で聞こえた彼女の小さな呻き声でハッと我に返り、ジークハルトは顔を離すと勢い良く立ち上がった。
焼けるほど熱くなっている顔を手で抑える。
(俺は……俺は今、彼女に何をしようと……っ)
慌ててユーシアの部屋から出たジークハルトは、高鳴り続ける胸をそのままに、足早に自分の部屋へと戻っていった。
――その翌日から、ジークハルトはユーシアを無意識に目で追うようになった。
使用人達と笑顔で話している彼女。
真剣な顔つきで唸りながら書物を読んでいる彼女。
厨房で鼻歌を口ずさみながら、楽しそうにクッキーを作っている彼女。
「この前は猫を作ったから、今度はウサギにしましょう! あの猫クッキーは誰が見ても猫だと分かる傑作品でしたよね?」
「フフッ。お嬢様の動物クッキーの形は、いつも独創的でいらっしゃいます」
「……それ、褒めてます? それとも貶してます?」
……やはりアレは、動物の形で合っていたようだ。
アレが猫だとは誰が見ても分からないだろうが。
プクリと頬を膨らませている彼女がとても可愛く感じてしまう。
彼女を見掛ける度に目で追い続け、そして気付けば彼女の仕草どれもが可愛い、愛しいと思ってしまう自分がいて。
彼女のことを四六時中考えてしまっている自分がいて。
擦れ違って笑顔を向けられる度、鼓動が高鳴り彼女から目が離せない自分がいて。
自ら「関わらない」と言ってしまった手前、話し掛けられないことが酷く悔しいと思う自分がいて。
何であんなことを言ってしまったんだと激しく自責する自分がいて。
ジークハルトは、ユーシアに対するこの気持ちに酷く危機感を感じていた。
(このままだと駄目だ。このままだと、俺は彼女を……。どうする? 一体どうすれば――)
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