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第2章 牧童の少女は見習い精霊騎士団指令となる 2-4

 北へと向かったのは、総勢八人だった。

 私、パット、ハワードの他、「騎士団」メンバーで同行したのは、「エル」ことエレノアだ。

 騎士団副長のアニーが三十代の妖艶な、落ち着いた美女だとすれば、エルは私よりちょっと年上――十代後半か二十代前半で、一体なにを食べたらそんなに発育するの、お願いだから、その胸、半分分けてよ、って女なら誰でも思うぐらい――え、「まな板レーズン」な私だから思うだけで、普通の女子はそんなこと思わないの?――出るべきところがどおんと出た、スーパー悩殺ボディと、めちゃくちゃ化粧映えするド派手な顔立ちの持ち主だ。そのくせ甘えんぼで、今回こっちの別働隊に彼女を加えたのも、「せっかくお嬢様と再会できたのに離ればなれになるなんて、考えられない!」と、泣きながらパットに頼み込んだかららしい。

 そのせいか、別働隊に選ばれてからは――みんなの話だと「普段は仏頂面で、不機嫌を絵に描いたような」態度で過ごしているというのに――ずうっと上機嫌で、私と並んで馬を走らせつつ、「お嬢様!あそこに綺麗な花が咲いてますよ!」だの、「お嬢様!ほら!あの木に小鳥が!」だのと、ひっきりなしに話しかけてくる(ちなみに、反対側にはハワードが並んで馬を進めており、こっちはこっちで「パトリシア!空が綺麗だね!」とか「ほら見てパトリシア!あの雲、シュークリームみたい」とか、ひっきりなしに話しかけてくる)。

 この四人のメンバーに加え、誰か内政に詳しい者が一人いた方がいい、ということで、官僚群である猫からは、アカナが同行することになった。

 彼女は私の精霊たちの中ではかなり特殊で、他のヤツらはみんな、どれほど若くても10代後半の、成長した人間の姿をしているのに、この子だけは、なぜか十代前半――どう見ても12歳を超えてないよね、という、幼い少女の姿をしている。

 しかも――一体どうやって調節したらそんなことができるのか、本当に謎なのだが――肩の高さに切りそろえた髪の、普通人間の耳があるよりもかなり頭頂に近いところから、にょきっと、そこだけふさふさの猫の耳が突き出しているのである(後から聞いたのだが、それがアカナなりの「おしゃれ」なのだそうだ)。そして、いつでも、愛くるしい顔にニコニコと笑顔をたたえ、かわいらしいフリフリドレスに身を包み、書類を抱えて忙しそうに、ちょこちょこ早足で歩いている。

 こんな幼い姿で仕事ができるのか、とはじめは思ったのだが、見かけによらず、彼女はすごく有能で、他の猫たちが「律法官」「紋章官」「歴史官」などという名の下、それぞれ専門にこなしている仕事を、オールマイティーに全てこなせるのだそうだ。そのため、「書記官」という肩書きのもと、その時その時で忙しい部署に赴いては、皆をサポートしているらしい。

 今回別働隊に選ばれたのも、その万能ぶりが買われたからだろうと思うのだけど……それにしては、なんだかちょっと違和感が残った。

 アニーがアカナをメンバーとして推薦した時、パットは少し顔をしかめ、ためらうような様子をみせたのだ。

「アカナか。まあ悪くはないんだが……」

「いいから、彼女を連れて行ってくださいな。今回の遠征では、きっと彼女が必要になると思いますわ」

 二の足を踏むパットをアニーが押し切る形で決定し、それで、今アカナは荷車の縁にリュックを背負った背中をもたせかけ、相変わらずニコニコしながら、小さく鼻歌を歌っているのである。

 さらに、「こいつの出番だって、俺の勘が言ってる」とパットに指名された牛のシーダー。料理人揃いの豚の中でも、オールマイティーになんでも作れる、リーダー格のステーキ。そして、足の遅い彼らを乗せた荷車を引く、馬の中で一番体の大きいアンタレスと、パットがいうには「こういう仕事の時には、犬以外じゃ、もっとも頼れる三人」を隊列に加え、私たちは、

「さあ、それじゃいくとすっか」

 団長であるパットの発した、やる気があるんだかないんだか分からない声とともに、館を出発したのである。


 パットが馬で先行し、そのすぐ後に荷車、最後に私とハワード、エルが並ぶ隊形で、数時間――その間、両側からひっきりなしに話しかけてくるハワードとエルに向かい、交互に顔を向け、相づちを打っていたせいで、すっかり首が筋肉痛になった――走り続け、ようやく私たちは、第一目標地点――本街道と、私がつい数日前まで働いていた、あのクソ牧場主とウンコ牧童頭のいる牧場の方へ伸びる、でこぼこだらけの荒れた道が分かれる地点へとたどり着いた。

(ここからが、道が悪くて大変なんだよな……)

 数日前に馬車でこの道を通った時の「この上なく快適な乗り心地」を思い出し、ちょっとうんざりしながら前方を見据える。と、曲がり角に立つ「元は多分案内板だったんじゃないかと思われる、棒杭に木切れの残骸を打ち付けたもの」の上に、カラスが一羽、ちょこんととまっていた。

 私たちが近づいているのに気がついているのに、騒ぎもせず、飛び立ちもせず、じっと私たちを見つめいたそのカラス、やおら羽を広げたかと思うと、ふわりと地面に下りたち……徐々に旅の若者へとその姿を変えつつ、こちらへと歩いてきた。

「遅かったですね。ずいぶんお待ちしましたよ、お嬢様」

 ニコニコと話しかけてきたのは、フジマルの手勢であるカラスの精霊の一人、クリケットだった(道理で普通のカラスに輪をかけて図太く、ふてぶてしい態度を取るはずだと、私はひそかにうなずいた)。

「よお、クリケット。伝令か?ご苦労さん」

 パットが声をかけると、クリケットは、高々と挙げた右手を胸の前に起き、膝を曲げ、いかにも芝居がかった仕草で、深々と一礼する(カラスは、本当にこういう悪ふざけが好きなのだ)。

「これはこれは隊長。わたくしクリケット、フジマル殿から伝令の大役を仰せつかり、この場に控えておりました次第でございます」

 仕草と同じぐらい大仰なあいさつに、パットはふんと鼻を鳴らし、にやりと笑う。

「いかにも、そのようだな。んで?なにが分かったんだ?」

「はい。私どもカラス部隊で、街道一帯にわたり、辺境女伯様の紋章が入った馬車を見かけなかったか、と聞き込みを行ったのですが」

「おう」

「今朝早く、それらしき馬車が、ここで主街道から離れ、西へ向かったということでございます」

「なるほどな」

「それだけではございません。ここら辺りに巣くう土地のカラスが言うには、これまでも同じ馬車が度々ここを曲がり、西へ行くのを見かけたことがあるとのこと。その頻度たるや、多い時で、月に数回に及ぶとか」

「……それ、おかしくね?私、ずっとこの辺で働いてたから知ってるけど、この先って、ずっとさびれた牧場やら、農場やらが続くばかりだよ?そんなところに、領主様の秘書官が、一体なんの用事があるっての?」

 私が口を挟むと、パットが満足そうに、何度もうなずいた。

「そうだな、パトリ。経済的にも軍事的にも無意味なさびれたド辺境に、何度も役人が足を運ぶなんざ、普通じゃあり得ねえ。てことは、だ。秘書官様――ツナの野郎は、この先に、なにやら普通じゃない用事があったってことだ。それも、わざわざ本人が、何度も足を運ばなきゃいけねえ用事が、な」

 なるほど。

「どうやら、俺の勘が当たったようだな。それじゃ、パトリ。お前さんがこの間まで働いてたっていう牧場まで、なるべく急いで、案内頼むぜ」

「え……うん。それは構わないけど、でも、どうしてあんなさびれた牧場に?」

 そう尋ねると、パットは「困った奴だな」と言わんばかりの大きな苦笑を浮かべ、大きな手のひらを、ぽんと私の頭にのせた(それは、まだ私が幼い頃、なにかちょっとしたいたずらなんかをしでかすたび、父さんがよくやってくれた仕草で……不意にこみ上げてきた懐かしさで、私は思わず、息が詰まりそうになった)。

「お前さん、昨日、紋様を描かれてる時の暇つぶしに、これまでの暮らしぶりについて、いろいろ話してくれただろ?その時、言ってたじゃねえか。『あの牧場じゃ、誰もろくに動物の世話をしないのに、牧場主はぴかぴかの服を着て、奥方は高そうな食器を集めてる』ってな」

 そこまで言われて、ようやく私にも理解できた。

「そうか!ろくに仕事してないのに、あんな贅沢ができてたってことは……」

「ああ。なにか、後ろ暗いところがあるに違いねえってことだ」

 言われてみれば、確かにその通り。あれだけ怪しげな人間は、そうそういない。

 でも……。

「確かにあの牧場主は怪しいけどさ。けど、それとツナのことと、なんか関係あるの?」

 すると、パットは肩をすくめた。

「さあな。今はまだ分からねえ。けど、俺の勘は、この二つが密接にかかわってそうだって言ってる。だからな、その辺も含めて、お前さんの元雇い主に、とっくりと話を聞いてみようってことなのさ」

 パットはそこで言葉を切ると、クリケットへと頭を向けた。

「報告、ご苦労だった。引き続き、辺境北西部での情報収集に努めるよう、フジマルに伝えてくれ」

「了解いたしました、隊長殿。それでは、失礼をば」

 クリケットは再び深々と頭を下げると、そのままカラスの姿になり、「カァァ!」と一声高く鳴き声を上げた。そして、翼を広げ、宙に舞い上がったかと思うと、鋭い風切り音だけを残し、あっという間に青々とした空の中へと吸い込まれていく。

「よおし。それじゃ、オレたちも急ぐとするか。パトリ、案内役、しっかり頼むぜ」

 パットのその声で、私たちは再び馬上へと戻り、西へ向けて、旅を再開したのだった。



 「それにしても、本っ当にさびれた、きったねえ牧場だな。ここの動物たちに、心から同情するぜ……」

 そうつぶやいたのは、エルだった。

 本街道を離れてからさらに数時間後、ようやくたどり着いた私の古巣を一目見るなり、のことだ。

 その言葉に、私は、しょんぼりと肩をすくめる。

「うん、汚いよね。私も、精一杯なんとかしようとしたんだけどさ。でも、独りじゃやっぱり、手が回りきらなくて……」

 と、エルはぎょっとした顔で、息をのんだ。

「お嬢様!違います!決して、決っっしてお嬢様の仕事ぶりを批判したのではなく、私はただ、ここの牧場主と牧童頭の怠慢を批判しようとしただけなんです!」

 私の肩にすがり、揺さぶるようにしながら、泣き出しそうな声を出しつつ、おろおろと顔をのぞきこんでくる。

 長身で迫力のあるグラマー美女が、必死でご機嫌を取ろうとしてくれるのは――なんだか自分がすごく価値のある人間になったような気がして――純粋に嬉しい。が、満足な世話をしてやれなかったという引け目を、ここの動物たちに感じていたこともあって、私はそうそう、笑顔にはなれなかった。

「ありがとう。エルに悪気がないのは分かってるよ。でも、実際、ここはひどいだろ?地面は穴だらけだし、畜舎はボロボロ、おまけに掃除が行き届かないせいで、匂いもすごい。こんなイヤな場所で家畜を飼うのに協力してた上に、仕事をほっぽり出して辺境女伯様のところに出かけてたんだ、やっぱり、動物たちに申し訳ないなあって思って……」

「そんなこと!たとえ一瞬でもお嬢様に世話していただいただけで、動物は皆、この上なく幸せです!」

「よしてよエル、いくらなんでもそりゃ買いかぶりすぎだよ」

「いいえ!お嬢様ほど愛情深く、動物に幸せを与えてくださる方はいらっしゃいません!私たちは皆、そう思っております!ね、隊長、そうですよね?」

 エルが、すがるような目をパットに向ける。と、煮ても焼いても食えないしたたかな隊長殿は、にやりとした笑顔を頬に浮かべた。

「ま、そうだな。もっとも、父親のアンドリュー殿に比べると、まだまだ修行が……」

「隊長!そんなこと絶対ありません!お嬢様はこの国で一番、世界で一番、歴史上で一番の牧童です!……」

 意地になったのか、エルが、私本人も困惑するほど大風呂敷を広げはじめたところで、背後から、聞いただけで息の臭さがはっきり分かるようなダミ声が響いた。

「誰だ、人の牧場に勝手に入り込んで、大騒ぎしてやがるのは……お?お前、パットブルじゃ……」

 牧童の一人、メルヴィンだ。

(こいつ、相変わらず家畜の世話もせず、牧童小屋で酒飲んでやがったな。ったく、まだ昼過ぎだってのに、しょうがねえやつだ……)

 顔をしかめてにらみつけたのだが、当人は、そんな私の視線など全く意に介さず、とろんとした目に下卑た、人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべ、ふらふらと近づいてくる。

 が……そのふざけた態度も、そう長くは続かなかった。

 それまで私に取りすがっていたエルが、奴のだらけた笑顔を目にするなり、きりきりと眉をつり上げ、すっと立ち上がったのだ。

「お?誰だあんた?へええええ、こりゃまた、えらくいい女じゃ……」

 エルの美貌に、ますます目尻を下げ、やに下がった顔になるメルヴィン。が、エルは、そんなお世辞など全く耳に入らなかったかのように、一直線に酔っ払った中年男へと近づいていき、早足で歩いていった勢いそのまま足を振り上げ、一切の手加減なく、股間につま先をたたき込んだのだ。

「ぎゃうんっ!」

 思い切り棒でひっぱたかれた犬のような悲鳴を一声上げると、メルヴィンは股間を押さえて地面に転がり、うずくまった。が、エルは情け容赦なく、そのみぞおちめがけて、もう一度、爪先がずぶりとめり込む勢いで、蹴りを放つ。

「ぐぼおおおええええ……」

 あまりの痛みに地面を転げ回るメルヴィンに対し、

「このクソ野郎が!てめえが!きちんと!仕事を!こなさねえから!危うく!お嬢様に!悲しい思いを!させるところだったろうが!」

 八つ当たりに聞こえなくもないような怒声を浴びせつつ、なおも情け容赦ない蹴りを、雨あられと浴びせ続ける。

 みるみるうちにメルヴィンの顔が変形し、人間の顔色とは思えない、カラフルな色合いになったところで、

「死ね!死んでわびろ!」

 エルが目にもとまらぬ早さで、腰につけたナイフを抜く。

 そこへ、

「エル!殺すなよ!」

 パットが吠えた。

 その声に、エルはビクッと一瞬体をこわばらせ、ナイフを鞘に戻すと、

「チッ!命拾いしたな!」

 見るもおそろしい形相でつばを吐き捨て、ゆっくり、こちらへと戻ってくる。

(こわ!なに今の、こっわ!私も「一度噛みついたら離れない」パットブルなんて呼ばれてたけど、エルはそれ以上じゃん。暴れ出したら、手がつけられない狂犬女……)

 突風のような暴力をいきなり見せつけられ、すっかりのまれてしまった私は、目を丸くして、こちらに帰ってくるエルをただじっと見つめるばかりだった。

 ところが、いつの間にか私の横に立っていたハワードは、

「いやあ、すごいね!。あんなに胸が大きかったら、下に転がってる男なんかよく見えないだろうに、よくもまあ、あそこまで正確に蹴りを出せるよねええ……」

 にこにこと屈託のない笑みを浮かべながら、のんき極まりない感想をもらすのである。

(いや、そこ?今気にするところ、そこ?)

 突然の暴虐な振る舞いを「怖いなあ」と思う自分がずれてるんだろうかと、少し自分の感覚に自信がなくなりかけていた、その時。

「う、うちの牧場で何をしている!」

 牧童頭と、残り二人の牧童を従え、母屋の方から出てきた牧場主が、うろたえきった大声を上げた。

「おい、メルヴィン!大丈夫か!」

 急ぎ足で倒れたままのメルヴィンに近づき、とりあえずは、命に別状はないと確認したところで、ぴかぴかの服を着込んだ小男は、怒りに満ちた目を私たちに向けた。

「おいお前達、どういうことだ!どうしてうちの牧童にこんなひどいことを!」

 小太りな体を精一杯のけぞらし、ぎっとパットをにらみつける(ヤツの行動を見て、あ、やっぱ「いきなり暴力」に対する反応って、こういうもんだよ、私、間違ってなかったって、ちょっと安心してしまったのは内緒だ)。

 私は、エルの体の陰から出ると――彼女の後ろに立つと、やせっぽちな私は、相手の視線からすっかり隠れてしまうのだ――腰に手を当て、牧場主をにらみつけた。

「貴、貴様は、パットブル!」

 私を認めた牧場主と牧童頭が、はっとした顔で尻を押さえた(数日前、ツナと一緒に馬車でここを出る前に、ケツにナイフで刻みこんでやったハートマークがうずいたに違いない)。

「久しぶりね」

「貴、貴様!何をしに戻ってきた!早く立ち去らないと、コイツを喰らわして……」

 腰のベルトに差したぴかぴかの拳銃に右手を伸ばしたその瞬間、目にもとまらぬ早さでエルの鞭が一閃、「ビジッ」と重たい音とともに、拳銃を持ったその手を打ち据えた。

「あひっ!」

 だらしない悲鳴を上げて身を縮こまらせ、牧場主は、みるみる腫れ上がっていく右手を、慌てて左手で支える。

「てめえら、だんなになにを……」

 雇い主の危機に直面し、巨体の牧童頭と牧童の一人、フランクも、手にしたショットガンをこちらに向けようとする。が、エルの正確無比な鞭によって、牧場主同様にしたたか手を打ちすえられ、二人とも、あえなく銃を取り落としてしまう(学習しないヤツらだ)。

 背中を丸め、手を押さえて苦悶の声を上げている三人と、なにをどうしていいか分からぬまま、両手で帽子をもみくちゃにしているもう一人の牧童の――かつて私の「恋人気取り」だった――ガス。

 彼らの前に、ゆっくりとパットが進み出た。

「銃口を突きつけたったことは、殺し合いの覚悟があるってことだよな?ってことは当然、殺されても文句は言えねえってことだ。そうだな?」

「わ、私は……!」

「敵認定されたからには、容赦しねえ。今はたまたま、鞭で勘弁してやったが、次は、こいつがお前さんの額に突き立つことになる。分かったか?」

 にやりと笑いながら、いつのまにか抜きはなっていたナイフの腹で、牧場主の頬をピタピタとたたく。

 牧場主の額に、ぶわっと汗が浮かび上がった。

「わ、分かった!私はただ、その、パットブルってクソ女といざこざがあっ……ぷがっ!」

 鼻柱にパットの鉄拳がめり込んだせいで、牧場主は大きく後ろに吹っ飛ぶ。後ろに控えていた牧童頭の巨体にぶつかったために、かろうじて無様に倒れ込むことなく、身を起こしたが……その鼻からはだらだらと鼻血が流れ、真っ白いシャツの襟に、早くも大きな赤黒い染みを作っている。

 パットは、おびえきった表情を浮かべた牧場主にのしかかるように上体を傾け、この上なく剣呑な目でにらみつけた。

「貴様、言葉に気をつけろ。我が主パトリシア様は、貴様のようなウジ虫の数万倍は尊いお方だ。後一言でも我が主を侮辱する言葉を吐こうものなら、貴様の体中の皮を剥ぎ取り、中の肉を一片ずつちぎり取って、魚のエサにしてやる!」

 パットのあまりの迫力に、牧場主はもちろん、牧童頭も牧童達もすっかり意気を失い、顔をこわばらせたまま、ただがくがくと首を縦に振ることしかできない。

 相手がそういう「ふぬけ状態」になってようやく、パットはふっと笑みを浮かべた。

「よおし、わかりゃいいんだよ、わかりゃ。これでお互い、余計な手間をかけずにすむってもんだ」

 満足げにうんうんとうなずいているところへ、おそるおそる、牧場主が尋ねる。

「あの、それできさ……あなた方は一体……?」

「ん?オレたちか?オレたちは、このあたりの監視官だ」

 えっ、そうだったの?

 私は目を丸くして、パットを見つめた。が、灰色の髪に眼帯、いかつい顔のおじさまは、そんな私の視線など全く意に介さず、涼しい顔だ。

「わざわざこんなところにやってきたのは他でもねえ。ちょっとお前さん達に、聞きたいことがあってな。なあ、「旧監視官」どの?」

 そう言うと、パットは再び、ぎっと牧場主をにらみつける。

「ば、バカなことを言うな!なんの権利があって、監視官を名乗る!そんな話、秘書官様から全くお聞きして……」

「そうそう、その秘書官だがな。主であるブラックバーン辺境女伯様に対する、重大な背任行為を働いた嫌疑がかかっている」

「ば、ば、バカな!なにを証拠に……」

 先ほどまでのおびえた顔はどこへやら、牧場主は、慌てているのと怒り狂っているのとで、目を怒らせ、顔を真っ赤に紅潮させている(いまだ鼻血をだらだら流し、あごから首から胸元までどす赤くなっているから、まさに正真正銘ゆでだこ状態だ)。

 ところが、パットはあくまで冷静。余裕しゃくしゃくな態度を崩さない。

「証拠?証拠か、そうだな、いろいろあるが……ま、一番わかりやすいのが、お前さん本人だな」

「は?私が証拠だと?一体なにを言っているん……」

「一目この牧場を見て分かったが、お前さん、ろくに家畜の世話をしてねえよな。エサをケチっているせいで牛の声にゃまるで元気がねえ。掃除も、ブラシがけもろくにしてねえから、イヤなにおいが充満してる。畜舎はぼろぼろ、運動場は穴だらけ、これじゃあ、ろくに乳すら取れねえはずだ。にもかかわらず……」

 パットは、ゆっくり牧場主に近づくと、その胸元にぐいと手を伸ばし、燦然と光り輝く「監視官」バッジをむしり取った。

「こんな手の込んだ細工品を、特注で作ったりしてやがる。それだけじゃねえ、その上着もズボンも、お前さんのちんちくりんな背丈と出っ張った腹に合わせた、注文品だろ?生地は上等で、仕立ても一流、しかも、染み一つない。てことは、少なくとも数着、これと同じ服を持ってて、順繰りに着替え、念入りに洗濯してるってことだよなあ?」

「それは、その……あれだ、監視官としての手当から……」

「ブラックバーン辺境伯領において、監視官は名誉職です。俸給はありませんよね?」

 せっかくの言い訳を、アカナに一言で粉砕され、ヤツがむっつり黙り込んだところで、

「不思議だよなあ。家業をほっぽり出し、金にならねえ道楽にのめり込んでるってるのに、一体どこから金が湧き出してくるのか。そこんとこ、詳しく説明しちゃくれねえか?「旧監視官」どの?」

 パットに見据えられ、ついに進退窮まった牧場主は、ヤケクソといわんばかり、やおら割れ鐘のような大声を上げた。

「黙れ!黙れ黙れ黙れ!私は、秘書官様から直々にこの地の治安を任された、れっきとした監視官だ!その私と、こともあろうに領主様直属の秘書官様に犯罪の嫌疑だと?新たに監視官に任命されただと?ふざけるな!さっきも言ったが、お前達に一体どんな権限があるというのだ!何の後ろ盾のない、ただのチンピラが、正規の役人に向かって暴行を働き、暴言を吐くなどと……」

 拳を振りかざし、地団駄を踏みつつ、牧場主はとんでもない勢いでがなる(うわ、好きな遊びを中断させられた、わがままな子供じゃねえか、いい年して、なんてみっともないんだと、私はただただあきれて、その醜い姿を見物していた)。、

 が、それも、

「もちろん、権限ならばあるとも!」

 屈託のない笑みを浮かべたハワードが、ずい、と一歩前に出、すらりと抜きはなった長剣を天にかざすまでだった。

「この剣こそ、私が父より譲り受けた伝説の名剣『ランドルフの爪』!といえば、もう分かったはずだ!私は、現アップルトン公爵である「残念公」スチュアート・アップルトンが長子にして第一後継者、ハワード・アップルトン!騎士見習いパトリシア・ブルフィンチの指導者(メンター)であり、辺境女伯様直属の、ブラックバーン精霊騎士団の正騎士が一人!人呼んで、『残念な騎士!』」

 高らかな宣言が響き渡った後……しばらくの間、なんとも居心地の悪い静寂が、周囲に立ちこめた(のどかにさえずる小鳥の声が、遠方からかすかに聞こえてきたことを、今でもはっきり覚えている)。

「……あれ?」

 笑顔のままだが、やや焦りの見える表情で、ハワードが居合わせた皆の顔をきょろきょろと見回したところで、パットもようやく気を取り直したのか、何度かわざとらしく咳払いをする。

「……ま、まあ、そういうわけで、ハワード殿は正騎士だ。役人から、正式な任命状もなく仕事を委託されたに過ぎないお前さんに嫌疑をかけ、尋問をとりおこなうだけの権限を、当然持っていらっしゃる。任務の遂行に必要であれば、暴行や暴言の行使も許される。分かったか?」

「ふ、ふざけるのもたいがいにしろ!その若造が正騎士だと!?冗談も休み休み言え!」

 いや、それが、冗談じゃないんだ……残念なことに。

「それにだ!もし、もし万が一、その若造が、あのいろんな意味で有名な「残念な騎士」であったとしてもだ!正規の信任状がない限り、この私を捕らえ、問いただす権利などないはずだ!脅し?暴力?好きにすればいい!だが、私は、決して屈しない!たとえ、どのような目に遭わされようとも、なにも話しはしない!殺すなら殺せ!その覚悟はとっくにできている!貴様らを嘲りながら、血の海に倒れ込む覚悟がな!」

 そう言うと、牧場主は憎々しげに私たちをにらみつけ、険のある笑い声を高らかに響かせた(ハワードが素晴らしいバカッぷりをひけらかしたもんで、あれだけびびってたってのに、余裕を取り戻してしまったらしい)。

 牧場主のふてぶてしい態度に、パットの顔が、渋ーい表情へと変わった。

「やれやれ、面倒なことになったぜ……」

 頼りがいのある兄貴分が、あごに手を当て、なにやら考えこんでいる仕草を見て、これはひょっとすると、結構長引くかもしれない、あまりいい思い出はないけど、数日間はこの牧場で寝起きしなきゃいけないかも……なんとことぼんやり考えていた、その時。

「お嬢様。団長。お耳に入れたいことが」

 耳元から5センチも離れていない至近距離から、いきなりささやき声が聞こえ、

「うひゃっ!」

 私は、思わず飛び上がった。

 こわごわ振り向くと、いつの間にか、そこにフジが――ずっと前からそこにいましたよ、といわんばかりの顔で――立っている(我が愛犬ながら、この出没の仕方、どうにもこうにも心臓に悪い)。

「おう、フジ。どうした、なにか分かったのか?」

 が、フジのそんな、幽霊か亡霊かという出現の仕方にも――いやまあ、確かに精霊なんだけど――慣れているのか、パットは平然としたものだ。

「はい。ツナの行方を突き止めたのですが……お二人に確認していただきたいことが」

 いつもと変わらぬ、とぼけたような、どこか上の空のような口調だが、よく聞くと、声音にほんのわずか、緊張した調子が聞き取れる。

 ツナに、何かあったのかもしれない。

 パットも同じことを感じ取ったのか、

「分かった。エル、馬を頼む」

 ニヤニヤ笑いを引っ込め、至極真剣な顔でうなずいた。

「ほう?なにか急用でもあったのか?ならばさっさと立ち去るがいい!私は、逃げも隠れもしない!いつでも相手になって……」

 私たちの緊張ぶりを見て、牧場主は、勝ち誇った声を出したのだが……その彼を、パットはちらと、いかにも気の毒そうな目つきで眺めた。

「お前さんの言うとおり、急用ができちまってな。俺たちは、しばらくここを離れなくちゃならねえ。その間、代理の者を残していくから、しばらく、そいつと話してくれ」

「ほう!自分ではかなわないとみて、代理だと?そりゃあ面白い!誰でも相手してやるとも!貴様の手のものなど、どうせたかがしれているからな!」

「ああ、その通りだな。できることなら、さっさと用事を済ませ、お互い気持ちよく別れたかったんだが……こういう事態を招いたのは、お前さん本人だからな。俺を恨むなよ」

 浮かない顔で――牧場主に言い負かされたのが、そんなに悔しかったのだろうか、そういうプライドだけ高いタイプには見えないんだけど――そう言ったところで、

「アカナ、出番だ。しばらくの間、頼む」

 エルから馬の手綱を受け取りながら、パットは、いかにも当然、といった口調で、小柄な猫の書記官を、代理人に指名した。と、指名を受けたアカナもまた、それが当然といわんばかり、

「はあい!お任せくださあい!」

 にこにこした笑顔で、明るく朗らかに返事をする。

 そのやりとりをみていた私も、牧場主らの目がある手前、「そう、当然アカナが代理人だよね」という顔でうなずいたのだが……その実、心中ではクエスチョンマークが華やかに舞い踊っていた。

(え、なんで!?なんだって代理が、よりによってアカナなの?)

 パットの代理としてこの場に残り、脅したりすかしたりして相手の口を割らせるのなら、アカナよりもエルの方が――先ほどいきなりメルヴィンを袋だたきにし、奴らにとんでもない恐怖感をたたき込んでいるのだし――よほど適任のはずだ。

 なのに、なぜよりによって、幼い、非力なアカナなのか?

 いや、まあ、エルは私と離れたくないあまり、無理矢理こっちの「別働隊」についてきたぐらいだから、きっとここにだって残りたがらない、というのを見越して、パットは彼女を指名しなかった、というのはあるのかもしれない。が、それにしたって、他にもまだ、牛のシーダー、豚のステーキ、馬のアンタレスと、筋骨隆々とした、強面の部下がついてきてるっていうのに、なんだって、一同の中でもっとも相手になめられやすいであろう、ネコ耳のきゃしゃな少女が、交渉の――実質「恫喝」の――代理人なのか。私には、まるで理解できなかったのだ。

 けれど、アカナが代理であることに異を唱えるものは一人もいなかったし、

「それじゃ、アンタレスさん、シーダーさん、ステーキさん、お手伝いをお願いしますね!」

 彼女が三人にそう頼めば、

「お、おう」

「ああ……分かった」

「了解だ」

 気乗りはしなさそうではあるが、皆おとなしく従う。

(よく分からないけど……なんか、事情があるみたいだな)

 ここにいるみんなとは、牧場で長い時間を一緒に過ごした。けれども、虹の橋を渡って精霊界の住民になってしまってからは、夢の中で短時間会っていただけだ。それ以外の時間、彼らは精霊として、パットの統率の元、互いに助け合い、協力して、生活してきたらしい。その間、きっといろんな事情があったのだろうから――一応「ご主人様」ではあるとはいえ――アカナの指名について、あれこれ差し出口をたたくのもよくないかなと、無理矢理自分を納得させる(ま、いいから任せておけよ、パトリ、なんて、お子ちゃま扱いされるも嫌だったし)。

 とはいうものの、すっきりと気持ちを割り切ることもなかなかできず、精霊達の「秘密」について、いろいろと思いを巡らせていたところへ、

「おい、パトリ。なにをぼんやりしてるんだ?ここは任せて、俺たちは急ぐとしようぜ」

「あ、う、うん……」

 パットに促され、私は慌ててうなずき――口を出しても黙っていても、結局お子ちゃま扱いされるのかよと、少々情けない思いを味わいながら――エルが差し出してくれている手綱を受け取った。

「フジ、道案内を頼む」

「は」

 一礼とともにすっと姿が見えなくなったかと思うと――本当に、一体どうやって姿を消しているんだろう――牧場の入り口から少し離れた路上に、懐かしい雑種犬の姿に戻ったフジが、ひょこっと顔を出す。

「よし、いくぞ」

 早足で馬を進めたパットに続き、私も――そして、「ついて行くのが当然ですが、なにか?」といわんばかりの顔をした、エルと「残念な騎士様」も――馬首をそちらへと向けたのだった。


 「そういえばさ。アンタ、『残念な騎士』って呼ばれてんの?」

 牧場を出てしばらく経った頃、くつわを並べて馬を歩かせている最中、思い出したようにハワードへ尋ねたのは、エルだった。

(うっわ!エル、それ聞いちゃう!?)

 私は内心、大いに焦った。けど、ハワード本人の前で焦ったそぶりを見せるわけにもいかず、ただただ、額に汗を浮かべ、こわばった笑顔を浮かべるばかり。

 そんな状態で、そっとハワードの様子をうかがったのだが、当の騎士様は、

「え、うん、そうだよ!」

 かけらも屈託のない、素晴らしい笑顔で、あっけらかんとそう答える。

(え、なに、やだ、この人、自分が「残念な騎士』って呼ばれてることに、何のわだかまりもないの?……いや、ないんだろうな、なんせ、ハワードだもんな……)

 私は、この明るくて天真爛漫なお坊ちゃんが、なんだかとっても気の毒になってしまい、つい、哀れむような目で、彼を見てしまった。

 が、質問を発したエルは、

「ふーん、そうか」

 至極真面目な、なんだか妙に納得したような顔でうむうむうなずくのである。

(なんだろ、なんでエルったら、こんな、感心したような顔でハワードを見てるんだろ?)

 ちょっと不思議に思いはしたが、それよりなにより、ヤバげな話題がいきなり放り込まれたのに、誰かがいらだつことも、傷つくこともなく話が終わったことにほっとする気持ちの方が、その時は強かった。だから、それについて深く考えることもないまま、

「さ、急がないと、パットがイライラしてるよ」

 話題を変えようとしたのである。

 が。

 よせばいいのに、エルは再び口を開くと、

「いいのか、残念な騎士なんて呼ばれてて?」

 エルが、さらに追い打ちをかけたのである。

 私は、目の前が真っ暗になった。

 ああ、もう、なんだってこの子は、こんなに言わなくてもいいことばかりいうのか!いくらハワードがボンクラだからって、ここまでいわれりゃ、さすがに怒るに決まってる!不機嫌になってエルを怒鳴りつけ、エルはエルで、かっとなって言い返して……和やかな旅はおしまい、これから先ずっと、いやな雰囲気のまま進んでかなきゃいけなくなるんだと、私はてっきり、そう思い込んでいた(だから、額にますます多くの汗の粒をはりつけ、さらにコチコチにこわばった笑顔で、おそるおそる騎士様の表情をうかがったのだ)。

 が……ハワードは、私が思っていた以上に、とことん、徹底的にハワードだった。

「え、いいのかって、すごいでしょ?精霊騎士団でも、異名を持つ騎士は、僕と、後2人しかいないんだよ!」

というと、この上なく嬉しそうに、にっこりと笑ったのである。

 私はそのあまりの屈託のなさに、まずはあっけにとられ……それから、目の前の青年が、正視できないほどにかわいそうな存在に思えてきて、つい、彼から目をそらし、エルへ、とがめるような視線を向けた。

 だが、そんな私の視線になどまるで気がつかないのか、エルはさらに追及の手をのばす。

「でもさ、お前、よりにもよって『残念な騎士』だぞ?もうちょとマシな異名ならまだしも……」

「え、だって、それはしょうがないよ。父さんが『残念公』で、僕は、その跡取り息子だからね!」

 その言葉を耳にして、私ははひそかに首を振った。

(いや、ハワード君。君の異名には、きっと、それ以外の意味がたくさん込められていると思うんだ……)

「父君は、なぜ残念公なんだ?」

「あ、えっとね、本当なら、うちの父さんがこのラマンデル聖王国の王位を継承する予定だったんだ。それが、なんかよく分からないけど、いつのまにか、いとこの現王が継ぐことになっちゃたみたいでね!その時から、残念公って呼ばれるようになったらしいよ」

 ああ……いとこに出し抜かれて、まんまと王位を持って行かれてしまったのですね。お父様も、きっとあなたとよく似たタイプの方なんだ……。

「でも、全然残念じゃないんだけどね!王様なんかになっちゃったら、気苦労が多くて大変だったから、ならずにすんで助かった、むしろ、幸運公って呼んでほしかったって、父さん、いつも言ってるし!」

 いや、だから、「残念公」なのは、たぶんそれだけの理由じゃないんだって。

「家臣達は、主君がそんなふうに呼ばれてることについて、なにも言わないのか?」

 エルがそう尋ねると、ハワードは、無駄に整ったその顔をかしげ、しばし考えこんだ。

「家臣?うーん、みんな、特になにもいわないかな。あ、そういえば、昔一度だけ、ホットミルクに「たとえどういった形にしろ、世間の人々に名が知られているっていうのは、領主として悪いことじゃありませんから……」ってため息つかれたことはあったかな!」

 嬉しそうに宣言するお坊ちゃまの顔を見て、

(ああ……ホットミルクはじめ、家中の人たちの苦労が、手に取るように分かる気がする……)

と、私までため息をつきたくなる。

「馬に乗って、領内を父さんと散歩してるとね。みんな笑顔で手を振ってくれるんだ!だから、僕らもにっこり笑って手を振り返すと、みんな嬉しそうにしてくれるの!ほんと、領民の人たち、いい人ばかりなんだ!」

 そりゃあね。よほど根性がねじ曲がってなきゃ、誰も、こんな人のいい領主をだまそうとは思わないよね……。

 領民たちから「この上なく愛されている」ボンクラ父子の様子が目に浮かび……なんだかハワードくんが、無邪気な三歳児そのもののように思えてきたところで、

「なかなかよくできた領主様だな」

 ぼそりと、よく響く低音の声が響いた。

 見ると、いつの間にかくつわを並べて馬を走らせていたパットが、至極真面目な顔で、あごをなでている。

(え、なに、どういうこと!?どこをどう聞いても素晴らしいボンクラぶりなのに、「よくできた領主様」?えーと、なんだろ、お貴族様の世界では「頭の鈍いやつほどえらい」とかいう、私たち下々の者には分からないような常識でもあるの?)

などと思いつつ、思い切りまゆをひそめてパットの顔を凝視する。が、そこにいつものニヤニヤ笑いはかけらもない。まさか、と思って振り返り、エルの顔を盗み見たが、こちらもまた、心底納得した、といわんばかりのすっきりした顔。

(本心だ……二人とも本心から、このボンクラ親子を「いい領主様」だと思ってる!)

「そうなんだ!みんな父さんのこと、いい領主様だって褒めてくれるんだよ!」

 嬉しそうにうんうんうなずくハワードの声の明るさとは裏腹に、私は、あまりのわけのわからなさで、その場にうずくまり、頭を抱えたくなった。

 今でこそ、領主たる者、自らの英知をひけらかし、あれやこれや余計な差し出口を叩く「インテリ系ボンクラ」よりは、自分はボンクラだとわきまえ、難しいことは専門家に任せておとなしくにこにこ担がれている「正統派ボンクラ」の方が、家臣や領民にとって、よほどありがたい存在などだと分かっている。が、当時の私は、食い詰め牧童から騎士見習いに成り上がったばかりの、統治のことなどなに一つ知らない「ウルトラハイパーボンクラ娘」だった。だから、パットたちの態度が、ひたすら不気味なものに感じられるばかりで、

「おいおい、いつまでぼんやり世間話なんかしてるんだ?急がないと、現場に着く間に日が暮れるって!」

 理解の範疇を超えた話をそれ以上聞いていたくない一心で、かなり無理矢理にその場の話を断ち切り、自ら先頭に立って、道を進み始めたのだった。

     

 「……発見したのは、数時間前です。その時にはもう、この状態で」

 深い森の中を走る寂しい街道から外れ、木々の中に少々踏み込んだ、人気のない場所。

 そこに、一昨日私が乗ったばかりの、辺境伯所有のあの馬車が、無人で放置されていた。

 フジの案内の元、牧場から馬を走らせること――「残念公爵家」の話を聞いてからは、意図的に、やや他のみんなと距離を取りながら――数時間。たどり着いたのが、大きく育った木々が立ち並ぶ以外、なにもないように見えるこの場所だった。

「こんな森の中にあるの、よく見つけたね!」

「ありがとうございます。カラスたちがこのあたりの群れに聞き込んでくれたおかげで、大体の場所は分かったので、後は匂いをたどりまして」

 こともなげな様子ではフジはそう答えたが、わずかに頬が上がっているところを見ると、私が感心したのが相当嬉しかったらしい(そういえば、昔からこのコは、どんだけ褒めてもしっぽをちょちょっと振り、軽く微笑むぐらいで、あまり感情を表さなかったっけ)。

「それで?俺たちに確認してほしいことってのは、なんなんだ?」

「は。こちらへ」

 フジは、なおも馬車の様子を子細に調べているエルとハワードをそのまま放置し、私とパットだけを、馬車からさらに数分、森の奥へと入っていった場所に案内した。

「ここです……おわかりになりますか?」

 一見、何の変哲もない、静かな森の中だ。

 が、森の中を歩き慣れた者の目で見ると――好きでそうなったわけじゃないけど――その場所の違和感は、ありありと分かる。

「あのオークの巨木の根元だよね。下生えと落ち葉が踏み荒らされて、乱れてる」

「ええ、その通りです」

「ふむ……」

 パットはいきなり片膝をついたかと思うと、犬の姿へと戻り、慎重な足取りで落ち葉がもっとも荒らされているあたりへと近寄って、しきりに匂いを嗅いだ。

 やがて、なにかを嗅ぎ当てたらしく、落ち葉と地面の色が、周囲とやや違っている場所へとやってくると、両前足をリズミカルに前後させ、すごい勢いで穴を掘り出す。

 ある程度掘ったところで穴に鼻面を突っ込むと、なにかを咥え、とことこと私のところまで戻り、目の前に置く。

 それは、ツナがはいていた、あの高級そうな半長靴だった。

(ああ……あまり考えたくないけど、ツナは、やっぱり……)

 私がその長靴を凝視したまま固まっていると、いつの間にか人間の姿になっていたパットが、静かにつぶやいた。

「ドラゴンブラッドはなし。それ以外の、ヤツが身につけてたもの一式、埋められてたよ。となると、考えられることは一つだ。ネコの姿に戻され、連れ去られたんだ」

「そんな……ツナ、生きてるよね?」

「まあ、ここには消滅の痕跡もないし、連れ去られた時に生きてたのは間違いねえ。けど……いっそ、消滅させられてた方があいつのためかもしれねえな……」

「パット!やめてよ!」

 私が目をいからせてたしなめると、パットは慌てて「あ、ああ。すまねえ」と口をつぐんだ(その時の私は、全く気がついていなかったのだ。この世界には「死よりも恐ろしい運命」というものが、確かに存在する、ということに)。

「生きているんなら助け出してあげないと!ね、なんか手がかりはないの?」

「そうだな……ツナの服やらなにやらに、不審な匂いは嗅ぎ取れたんだが……」

「さすがパット!それじゃ、その匂いをたどれば……」

「そのはずなんだが……」

 パットが渋い顔になったところで、エルとハワードが、ざくざくと落ち葉を踏みしだいて近づいてきた。

「ダメですね。馬車にほんの少し不審な匂いがついちゃいますけど、その周囲にはなんの匂いもありません。目立った傷や、破損した部分もない。襲撃者は、恐ろしく手際よく、御者席に座ってたはずの御者だけを、どっかに連れ去ったみたいです」

 エルが、残念そうに頭を振る。そこへ、柄にもなく難しい顔をしたハワードが、

「ねえ、君。さっきまでたどっていた街道だけど、あの先にはなにがあるのかな?」

と、フジに尋ねる。

「国境警備隊の監視所に突き当たります」

「監視所以外に、目立った建物とかはあるの?」

「いえ、なにも。警備隊の詰め所と、国境監視所があるだけですね。今現在、西のオーガニア帝国とは国交がほとんどありませんから、たまに食糧補給の馬車が行き交う以外、滅多に人も通らないようです……ハワード殿なら、とっくにご存じのことばかりかと思いますが」

「あ、うん。そうなんだけど、一応確認したくてさ。だって、変でしょ?あたりを調べたけど、あの馬車以外に、ここしばらく馬車が通った跡がないんだ。なのに、相手はどうやって、御者やらツナやらを連れ去ったの?」

 私は、ちょっとハワードを見直した。おつむの底まで残念極まりないコかと思っていたけれど、意外にも、こういう方面に関しては、それなりに頭が働くようだ。

(そうだよな。騎士っていえば、きらびやかなイメージばかりがつきまとうけど、実際は、いくさに出て働く軍人だものな。頭の中がお花畑なだけじゃ、さすがに務まらないよな……)

 素直に感心し、なんだか胸の奥がうずくような感覚を覚えかけたのだけど……。

「あ、わかった!きっとでっかいドラゴンがやってきて、みんな食べちゃったんだ!」

 ハワードはやっぱりハワードで、せっかくバラ色にときめいた胸の奥を、ドドメ色に塗ったくるようなことを口走ってくれる。

「ちょっと、ハワード!ドラゴンって、なにバカなこと言ってんのよ!子供のおとぎ話じゃないんだよ!」

 いくら残念な騎士だからって、夢物語と現実をごっちゃにするのは、ちょっと残念の度合いがひどすぎる。うんざりしたような声でたしなめると、

「そうですよ、ハワード様。ドラゴンのように巨大なモノがやってきたのなら、そこら中に足跡が残っているはずです。第一、そんな目立つモノ、部下のカラスたちが見逃すはずありませんし」

 加勢してくれたフジの言葉に、私は目を丸くして、彼を振り返った。

「え……?ドラゴンて、本当にいるの?」

「はい、おりますが、それがなにか?ここ数百年ほどはひっそりと姿を隠していますが、このラマンデル聖王国だけでも、3、4頭は生息しています。え、まさかお嬢様、ご存じなかった……」

「知ってた!ちゃんと知ってたって!やだな、知らないはずないじゃん!ドラゴンが現実なのは、世間の常識だって!」

 あの無表情なフジが、信じられないものを見つめる目つきで私を見つめそうになる寸前、私は大慌てで大声を上げ、彼の言葉を遮った。

 まごついた顔で彼が言葉をのみ込んだのを見て、私はほっと胸をなで下ろす。

(よかった、どうにかごまかせた……それにしても、知らなかった、ドラゴンって実在するんだ。てっきり、おとぎ話の中にしかいないもんだとばかり思ってたよ……)

 「残念なコ」なんてハワードのことを見下してる場合じゃない、この分じゃ、私もそのうち「残念な騎士2号」とか呼ばれるようになっちゃう、気をつけなきゃ……なんて思っていたところへ、パットが背後から近づき、ニヤニヤ笑いながら、ポンと頭に手を乗せた。

「フジ、主にあまり恥をかかすもんじゃねえぞ。そういうときは、疑わしいなと思ってても、おっしゃるとおりですね、って顔で引き下がるのが、従僕の務めってもんだ」

「ちょっと、パット!なななな、なに言い出すの!」

 思わず顔が真っ赤にし、慌てて食ってかかる。その私から、フジは不自然に目をそらし、

「は、団長。ご教授ありがとうございます。今後は、おっしゃるとおりに」

 深々と頭を下げる。

「いや、だから!フジ、あの、違う!私はね……」

「は。分かっております。全ては僕の誤解です」

「だから!違うって!そうじゃないの!」

 あまりの恥ずかしさに泣き声交じりになったところで、再びパットが私の頭をぽんぽんする。

「ま、そんなことより事件の分析を続けないとな、我が主、超残念女騎士様」

 思わず私は拳を固め、生意気な兄貴分の肩を思い切りたたいたのだった。


 「……ボンクラの国境警備隊はともあれ、うちのめざといカラスどもにも見つからずに忽然と現れ、やすやすと御者と精霊を捕らえる。そして、大の男を抱えたまま、俺たちの鼻でも追跡できない方法で、再び忽然と立ち去る、か」

「ええ。それも、相当手際よく、素早い動きで、です。ツナの行き先を突き止め、ここにたどり着いたのが、ツナよりも2時間ほど後だったのですが、その時にはもう、全ては終わった後でしたから」

「こりゃあ、なかなか手強そうな相手だな」

「しかも、その相手の手に、ドラゴンブラッドが渡ってしまいましたからね」

「ああ。相当気を引き締めてかからねえと」

 パットとフジが深刻な顔で言葉を交わすのを、エルとハワードも難しい顔で聞き、うなずいている。そんな中で、私だけが、自分で言うのもなんだけど、事情が飲み込めず、きょとんとした顔をしていた。

 でも、このまま黙って「分かってる振り」をしたら、きっとまた、わけの分からないまま置いてけぼりにされる。また残念な騎士呼ばわりされるかもしれないけど、ここは恥を忍んで、ちゃんと聞かないと!

 一人だけ蚊帳の外に置かれるのはもうごめんだ、どれほど笑われてもいい、私だって、状況を理解して行動したい、と心を決め、ありったけの勇気を振り絞って――プライドは無理矢理押さえつけて――私は、素っ頓狂な声を出した。

「あ、あの!あのさ!今更なに言ってんだって思われるかもしれないけどさ、でも、分からないんだ!あの、なんでドラゴンブラッドって、そんなに問題になるの?私の髪の毛をくしけずったら勝手にジャバジャバ出てくるんだろ?だったら、こっちはたくさん用意しとけば……」

 急に話を遮ったというのに、パットたちは怒りのかけらも見せなかった。それどころか、意外なことに、驚いて目を丸くすることも、ニヤニヤと笑いながら頭をぽんぽんしたりして子供扱いすることなく、至極真剣な目を互いにかわし、うなずき合っているのである。

「そうだな。こんだけの問題が起こっているっていうのに、当のパトリが事情を飲み込めずぼんやりしてるようじゃ、守るったって限界がある。お子ちゃま扱いしてからかうのも楽しかったんだがな」

 あ、こいつ、やっぱり、知っててお子ちゃま扱いしてやがったんだ、とむっとして、思わず下唇を突き出してにらみつけた(そういう仕草をするから子供扱いされる、と私が気がつくのは、もう少し後のことになる)。

「詳しいことは、ストマリーの根城に着いてからみっちり教えるとして、とりあえずさわりだけでも教えておくか。……おいエル、フジ、なんか適当な魔法、あるか?」

 そう言われて、二人は腰にさげた鞄を探った。

「あ~……あたしは炎系ばかりですね。こんな森の中で使っちゃ、山火事になってしまいます」

「それじゃ、僕の、風系魔法でどうでしょう?ちょうど手頃なのが、いくつかありますから」

「よし、それでいくか」

 パットはうなずき、フジの差し出した、丸めた羊皮紙の束をいくつか受け取ると、私に向き直った。

「いいか、パトリ。これが一般の魔法だ。こうして」

 羊皮紙の一つを慣れた手つきで広げると、そこに書いてある紋様――昨日、私の体にいくつも描かれたものとよく似た、幾重にも重なった円の中に模様や見慣れない文字が細かく書き込まれた、精緻で美しい、青い線の連なり――を、私に見せつつ、

「羊皮紙にフェアリーティアーズで紋様を書くことで、精霊界とのつながりを作る。そして、所定の呪文を唱えることで、門を開き、発動するんだ。ハワード殿、ちょっとやって見せてやってくれるか?」

「うん、分かった!」

 にこにこしながら差し出された羊皮紙を受け取ると、不意に、この上なく真剣な表情になった。


 古き盟約と新しき契約により、混沌より生まれし秩序に従い乞う!

 我と我が力を架け橋とし、彼の地より大いなる力を求めん!

 来たれ、大いなる風よ!

 ウインドカッター!!!


 と、最後の言葉を発し終わるやいなや、羊皮紙の紋様が青く輝き、ぐるぐる動き出すそして、羊皮紙の奥深くから、何か力あるものが見えない階段をものすごい勢いで駆け上がり、ほとばしり出て……次の瞬間、ものすごい突風が前方へと吹き荒れ、ハワードの前に立っていた巨木にぶち当たったかと思うと、その幹を激しく揺らし、枝葉を激しく吹き散らしていた。

(すごい……あんな太い枝までへし折るなんて!)

 発動した魔法のあまりの威力に目を見開き、呆然としているところへ、

「ま、ざっとこんなもんだ。呪文を正しく唱えさえすれば、誰であろうと魔法は使える。魔術の心得が一切なくてもな」

「え、そうなの!?」

「そうだよ!でも、魔術を封じ込めるための羊皮紙はすごく質のいいものじゃないといけないし、魔法紋を描くフェアリーティアーズもすごく高価だし、1回魔法を発動したら魔法紋は消えちゃうしで、魔法使い以外の人は、そうそう使えないんだけどね!」

 にこにこしながらハワードが説明してくれる。

「しかも、今ハワード殿がやって見せてくれたように、魔法は発動まで、かなりの時間がかかる。所定の呪文を定められた抑揚、リズム、イントネーションで唱えないと、門の鍵を開くことができないのさ。だから、かつては、魔法はせいぜい、戦場を多少かき乱す程度のもので、あまりいくさの役には立たない技術だと考えられてきたんだ。そこへ、一人の卓越した知恵者が現れ、オレ達精霊を利用することを思いついた。フジ、頼む」

 フジはうなずき、パットから羊皮紙を受け取ると、顔だけを犬であった頃のものに戻し、


 わわわわ、わん! わん、わん、わわわわわわん! わわん!


 不思議なリズムで吠えた。

 と、手にした羊皮紙の紋様が青く光り、先ほどと同じように魔法が発動して、木々の枝葉を弾き飛ばす。

「どうだパトリ、気づいたか?」

「うん。ハワードが呪文を唱えた時より、呪文が発動するまでが短かった……と思う」

 頭をひねり、考え考えそう言うと、パットは満足そうにうなずいた。

「その通りだ。魔法を発動させる呪文は、その種族の寿命全体に対し、一定の長さの時間を消費しないと発動しないっていう、厄介な決まり事がある。ハワード殿は、さすが精霊騎士だけあって、なかなか見事な詠唱を披露してくれたが、あれが大体、人間の精一杯ってとこだ。あれ以上短い時間で呪文を唱えたとしても、魔法は発動しねえ。ところが」

「そうか!あんたたちは、人間よりも与えられた寿命が短いから……!」

「そういうことだ。寿命が短い分、短時間の詠唱で、魔法を発動できる。といっても、犬やネコのままのお粗末な頭じゃ、呪文を唱えることなんてできねえ。けれど、生涯を全うし、虹の橋を渡って精霊界に入った後、再び呼び出された精霊なら……」

「人間より、短い時間で魔法を詠唱できるんだ!」

 パットが、いかにも嬉しそうにその力強い手を私の方に置き、「いいぞ」といわんばかりに、幾度かぽんぽんと軽くたたいた。

「オレ達精霊を魔法の唱え手として使うようになってから、いくさは一変した。それまで添え物に過ぎなかった魔法が、戦場の主役になったんだ。王侯貴族は、有能な精霊使いをこぞって雇い、領地の防衛や、侵略の手駒とした。そのうち、精霊使いやその血脈に連なる者自身が王侯貴族となり……現在に至る、ってわけだ」

 なるほど。だから、精霊使いは皆、貴族や騎士なのか。

 私は深く納得した。

 けど……。

「魔法の歴史?は分かったよ。けど、それと、ドラゴンブラッドと、一体どんな関係があるの?」

 パットはうなずくと、肩に置いた手で私を軽く押し、先ほどハワードが唱えた魔法が命中した木の目の前へと、私を導いた。

「この木を、よく見てみろ。分かるか?」

 額にしわを寄せ、幹の表面を見てみると……魔法が命中したたりに、ほのかに青く光るシミがある。

「なんか……この辺、青くなってない?」

「その通り。それが、魔法の痕跡だ。魔法を発動すると、必ずどこかにこの跡が残る。強力な魔法を使えば、その分大きく派手に跡が残るから、見る者が見れば、どこで、どんな魔法が使われたか、すぐ分かるのさ」

 私がうなずくのを待ってから、老練な騎士団長はふと真顔になり、さらに言葉を継いだ。

「ところが。とてつもなく強力な魔法を使っても、痕跡が残らない場合が一つだけある。ええと……」

 パットがさっと一同を見渡すと、いかにも嬉しそうに、ハワードが手を上げた。

「はーい!僕!僕がやる!僕の血筋は、移動系の魔法が宿ることが多いんだよ!」

「おお、それは助かる。オレ達のはみんないくさ系なんで、迂闊に発動できないんだ。よろしく頼む」

 にこにことうなずくと、ハワードは、腰に下げた袋の中から、あの変わった形をした優美な櫛――『エヴェレットの指』を取り出した。

「あの、パトリシア。ちょっとだけ、髪の毛をとかしてもらうけど、いいかな?」

 ハワードが、おそるおそる私の顔をのぞき込む。

(そんな顔しなくたって、もう事情も分かってるし、大丈夫だよ……)

 辺境女伯様のお屋敷に連れてこられたばかりの自分を思い出し、ちょっとやるせない気分になりながら、私はうなずく。

「パトリ、でいいよ。髪の毛、このままでも大丈夫?」

と、ハワードの背中を向け、長く馬に乗って移動したせいで、ざんばらになってしまった髪を――お願いだから、汗臭くなってませんように――向ける。

「うん!うん!大丈夫!ほんの1回、くしけずるだけだし!じゃあ、いくよ?」

 ハワードは、私の頭のてっぺん近くに、そっと魔法具をあてがうと、そのままゆっくりすべらせた。

 他人に――しかもイケメンの男性に髪をといてもらうっていうのは、なんだか落ち着かない経験だ。

 こんな田舎のほこりっぽい道をずっと馬で走ってきて、髪がほこりっぽくなって、べとついてるんじゃないか、不潔で手入れの悪い髪だと失望されてるんじゃないかととか、不安でドキドキする一方、頭のてっぺんにそっと指をあてがわれ、ほのかに冷たい櫛の歯でもって、すうっと優しくなで下ろしていく感覚は――相手にそんな気持ちはないと分かっていても――口づけをかわす前に、優しい笑顔で頭を抱きかかえられた時のような錯覚を呼び起こし、うっとりと……ドキドキしてしまう。

 ドキドキの二重奏で、顔がほてってきているのを隠したくて、わたしは、櫛の歯が髪の先を抜けるやいなや立ち上がり、ハワードに背を向けたまま、大股で歩きつつ、しきりに頬をこすった。

「人に髪の毛をいじられるのって、なんか苦手で!はああ、くすぐったかった!」

 聞かれもしてない言い訳を大声で口にしながら、まだ濃厚に残る頬の赤みをごまかそうと、皆のあきれたような視線をよそに、両手でぴしゃぴしゃと頬をたたく。

「……で?どう?十分採れた?」

 これぐらいたたいておけば、多少顔が赤くても言い訳が立つはず、と納得したところで、わたしは、何ごともなかったようにハワードに問いかけた。

「うん!大丈夫!」

 ハワードは、いかにも嬉しそうに、櫛の取っ手部分にある容器を振ってみせると、中に入った深紅の液体が、それにあわせて、パシャパシャと陽気なダンスを踊る。

「さて、さっきの続きだ。とてつもなく強力な魔法であるにもかかわらず、一切の痕跡が残らない魔法――それは、鬼神召喚術と呼ばれている」

「召喚術?……それって、あたしがあんたたちを呼び出したのと同じ?」

「ちょっと違うな。お前のいう召喚術――正確には『精霊召喚術』というんだが――は、生物や精霊の肉体に召喚紋を描き、一定の呪文を唱えることで、深い「縁」でつながった精霊を現世に呼び寄せることだ」

「うん」

「鬼神召喚術はな。同じ召喚術でも、精霊よりももっと高位の、力ある「鬼神」――遙かなる高次元にいまし、ありとあらゆる事象の「理」を構築している存在――をつかの間呼び出し、その力を借りて、様々な効果を現出させるんだ」

「……えーと、言葉が難しくてよくわかんないけど、なんか、えらい神様を呼び出して、いろいろやらせちゃう的な、そういうこと?」

「……魔法術の精髄たる鬼神召喚が、なんだか俗っぽくて、みもふたもないことのように聞こえるが……まあ、そういうことだな。覚えてるか?俺たちを呼び出す召喚紋を描く前、まず最初に契約紋、っていうのを描いたはずだ」

「あ、うん、覚えてるよ」

 他の紋様はくるくると忙しく、皮膚の上を回転し続けているのに、最初に描かれた契約紋だけは、全く動かず――いや、普通、描かれた紋様は動かないもんなんだけどさ――背中の中心にどっしりと鎮座していた。

「鬼神召喚は、あの紋を使う。そもそも人間や精霊は、契約紋を描き、特定の鬼神と「縁」を結ぶことで、精気を操ることが可能になる。鬼神は、いわば精気の根源みたいなものでな。だから、そいつを召喚すれば、一気に巨大な力を解放することができるのさ」

「へえええ~!そうなんだ!」

「ただ、相手はなにしろ「えらい神様」だからな。ただ紋を描き、呪文を唱えたくらいじゃ、力を貸しちゃくれねえ。特別な貢ぎ物を供える必要があるんだ」

「え、まさか、それが……」

「そう。ドラゴンブラッドだ。これさえあれば……」

 パットは、そこでわたしから目線を外すと、ハワードに目配せした。

 と、ハワードは大きくうなずき、容器の中にほんの五ミリほどたまっていたドラゴンブラッドを一気に飲み干すと、


 古き盟約と新しき契約により、混沌より生まれし秩序に従い乞う!

 玄妙なる理と縁により結ばれし我の願いを聞き届け、その大いなる力を示せ!

 とく来たれ、古きもの、疾風のごときマーキュリーよ!


 大声で呪文を唱えた。

 途端に、何か優しく、力強いもの――目に見えない「力」そのものがふわりと私たちを包み込んだかのように思われ……気がつくと、私たちはさびれた牧場が目の前に広がる街道のど真ん中に、ぼんやりと立っていた。

「え、ええっ!」

 深い森だったはずの周囲の光景が、一瞬で変化したことに驚き、目を見開いてきょときょとと周囲を見回して……もう一度、私はびっくりした。

 ところどころ横木が壊れた柵、申し訳程度にしか生えていない草、ぬかるんだ運動場、そして、牧場の入り口にかかる、かすれ、色あせて、もはや名前が全く読み取れなくなってしまった表札プレート――間違いなく、そこは、わたしがよく見知った場所だったのだ。

「ここ……わたしが働いてた牧場じゃん!」

「そうだよ。ツナの捜索は一段落したし、いったんここに戻るっていってたから、目的地をここにしたんだよ……」

 にっこりほほえんだハワードの顔を何の気なしに振り返り、私はぎょっとした。

 ほんの一瞬前まで、体中どこもかしこも無駄な精気があふれています、ってぐらいに元気はつらつだったハワードが、目の下にクマを作り、心なしか、げっそりやせて、しぼんだように見えるほど、疲れ切っていたのだ。

「ハワード!?どうしたの、大丈夫?」

「うん、守護神を呼び出した反動で、ちょっと疲れちゃっただけだから……」

 話してる内容だけは元気そうだけど、体はもうふらふらで、立っているだけでもやっと。一歩足を前に進めただけで、体をふらつかせ、その場に崩れ落ちそうになる。

 私は慌ててハワードに駆け寄り、背中から抱きつくようにして、その体を支えた(その時、やせて見えるけど意外にがっしりして、引き締まってるよな、しかもすごくいい匂いがする、うひひ……などと下品なことを考えてしまったのは、墓場まで持っていく秘密だ)。

「鬼神は、その力を発動する時、体中の精気も残らず奪い取っていくからな。相当鍛え上げていても、こんな風になっちまう。威力は絶大だが、反動も大きい、いちかばちかの大技なんだよ」

 力が抜け、ぐったりとなったハワードの体を、私からもぎ離すように抱きとめ、軽々と支えながら――見た目からしてかなりのオジサンなのに、こいつ、一体どれだけ力があるんだろう――パットは、やや浮かない顔になった。

「しかし、参ったな。ちょっと離れた場所に移動するだけでよかったんだが、まさかこんなところまで連れてこられちまうとはな……」

「あの場所での用事は終わったし、後は帰るだけだと思ったから、ここまで跳んだんだけど……なんか、まずかったかな?」

 疲れ切った顔に、純粋な疑問の念を浮かべ――自分が披露してみせた高位の術に文句をつけられてるってのに、不機嫌な様子を一切見せないところに、性格の良さ、生まれの良さがにじみ出てると思う――ハワードは、自分の体を支えてくれている男の顔をのぞき込んだ。

「ん、あ、いや、確かにあの場で調査することはもうなにもなかったけどな。しかし、あそこにゃ、辺境女伯の馬車と、俺たちが乗っていった馬とが残ってただろ?あれをまた、取りに行かにゃならんと思ってな……」

 いかにも「やらかした」と言わんばかり、目を大きく見開き、口を力なく半開きにした後で、ハワードは、しょぼんとうなだれた(さすが「残念な騎士」なだけのことはある……とはいえ、かくいう私も、パットに言われるまで、ひたすらハワードの術に感心するだけで、馬車や馬のことなんて、まるっきり気づかなかったけど)。

「まあ、やっちまったことは仕方ねえ。ハワード殿をどこかで休ませて差し上げたいし、馬車や馬は後でなんとかするとして、今はとりあえず、中に入ろうや」

 そういうと、パットは、がっくりと体中の力が抜けたハワードを引きずるようにして、牧場のゲートへと歩いて行き……私たちも、その後に続いたのだった。


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