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第1章 牧童の少女は見習い精霊騎士となる 10-12

10

 それから程なくして、扉が小さくノックされたかと思うと、私をこの屋敷へと連れてきた秘書官様が、するりと部屋の中に入ってきて――いまだふてくされ、妙齢の淑女から数万キロほど離れた格好で座っていた私を見るなり、雷に打たれたように立ちすくみ、目を丸くした。

(いけね!)

 慌てて脚を膝から降ろし、なんとか体裁を取り繕おうとしたのだけれど、それより早く、秘書官様が大きくため息をつき、

「いえ、どうかそのまま、楽にしていてください」

 諦めたように言う。

 そうは言われても、一応きちんとしたかにとまずいよな、と思って、そっと脚を揃え、肘を両手を太ももの付け根に置き、かしこまった顔でうつむいていると、

「話は、ハワード様から聞きました。面倒なことになりましたね」

 いつの間にか、対面する椅子に座っていた秘書官様が、いかにも深刻な様子で、話を切り出した。

「面倒なこと……ですか?」

「ええ。説明しましょう。精霊使いは皆、その体に精霊界から送られた霊気をまとっています。それを、『エヴェレットの指』と呼ばれる道具で()し集めることで液体とし、精霊界とのつながるゲート――いわゆる契約紋や召喚紋、魔法紋を描くの使うのです」

「それが、フェアリーティアーズっていう液体ですか?」

「ええ、その通り。紋様を描くほか、傷の治療やある種の病気にも効果がある、というので、この現世では非常に高値で取引されています。精霊使いは、自らの体内でその高価な薬品を創り出すことができるため、生涯豊かで不自由のない生活を保障されるのですが……残念なことに、あなたの霊気から採れるのは、そのフェアリーティアーズではなかったのです」

「ああ、それで、ハワード様があれほど驚いていたんですか」

「ええ、ええ、そうなんです。フェアリーティアーズは、その名の通り、深い森の中の精霊の住む湖を映した、深く濃い藍色をしています。ところがあなたの液体は違った」

「そうですね。なんか、血のように濃い紅色をしてました」

「ええ。ドラゴンブラッドと呼ばれる、非常に珍しい種類の霊液なのです。ですが残念なことに、稀少は稀少なのですが、現世(こちら)では、取引すら行われていないのです」

「そうなんだ……」

 なんだよ、せっかく精霊使いになろうと思ったのに、しょっぱなから(つまづ)くのかよ、つくづく私の体って使えねえ……そんなことを思いながら、がっくりと肩を落とす。ついでに気分まで落ち込んで、思わず私は、顔をくもらせていた。

 と……そこへ、秘書官様が、いかにもわざとらしい咳払いをした。

 顔を上げると、すぐ向かいにすわっているのに、あえて私と目線を合わそうとせず、意味ありげな目つきで、机の上の水差しを見つめている。

(……ん?)

 私の眉間のしわが、より深くなる。

 ふと、昔の経験が、脳裏によみがえったのだ。


 牧場では、春に生まれた子牛を夏中手塩にかけて育て、秋に売りに出す。以前働いていたとある牧場で、私は、牧童頭がこの競り市の直後、高値で売れた子牛の値段をごまかし、安い値段で売ったと牧場主に報告しているのを、たまたま見聞きしまったことがあった。

(まずいことを聞いた……どうしよう?)

 家畜小屋の奥で一人私は立ち尽くし、どうしたものかとまごまごしてたのだが……牧童頭は、その私にそっと近寄ると、「黙っていれば、悪いようにはしない」と、取引を持ちかけてきた(その時の相手の様子があまりにも嫌らしくて、思わず私はその「取引」を蹴り、牧場主に報告して……結果、その牧場を追われることになったのだが)。

 その時の牧童頭の様子が、今の秘書官様の様子と、どこか似通っていたのである。


(あれ……この人、なにか後ろ暗いことを考えてる……?)

 だが、ふと芽生えたその疑念は――なんとも迂闊(うかつ)なことに――秘書官様の次の言葉で、すっかり吹っ飛んでしまった。

「本来ならば、フェアリーティアーズを持たない以上、精霊使いになることなど諦めさせた方がよいのでしょうが……ここまであなたをお連れしたのは、他ならぬわたくしです。その責任を少々感じておりまして。それに、あなたはこの上なく豊かな素質をお持ちでもある。それを、あたらドブに捨ててしまうのは、あまりにももったいことです。ですから……」

 秘書官様は、ぐっと身を乗り出した。

「実はわたくし、ご主人様からいただいたフェアリーティアーズを一瓶、所持しております。もしよろしければ、特別に、あなたから採取されるドラゴンブラッドひと……十瓶と交換に、進呈しようではありませんか」

「え……いいんですか!?」

「ええ!私にとって非常に大切なものですから、大変惜しいのですが……前途有望な方のお役に立てるならば、それぐらい、なんともありませんよ!」

「すいません……ありがとうございます」

「いえいえ、これぐらい、どうってことありません。……そうだ!ついでと言ってはなんですが、契約紋と召喚紋の一つを、特別に、私の手で、あなたに描いて差し上げましょう!」

「え!それもお願いできるんですか!」

「ええ、ええ!もう既にご存じかと思いますが、わたくしはマーガレット様の精霊で、ツナと申します。現世では秘書官を担当しておりますが、こうなる以前、精霊界でわたくしは紋章学を修めており、上級紋章学博士として認定されております。ですから、本来、紋章を描いて差し上げるには、それなりの返礼をいただくのですが……他ならぬあなたのためです。特例として、描いて差し上げましょう」

「何から何まで、本当にありがとうございます!」

 すっかり感激して、私は、思い切り秘書官様――ツナ様に頭を下げていた。

 その時の私は、大好きだった騎士団や、他の動物たちにもう一度会いたい一心で、思い切り目が曇っていた。もしも動物たちの現世での復活が可能ならば、代わりにどんなえげつないこと――寿命を十年分いただくとか、片腕をよこせとか、後ろの穴を十人の男に使わせろとか――を要求されても、喜んで承諾するつもりだった。

 だから、髪の毛をくしけずるだけでジャカジャカ出てくる液体を差し出すだけでいい、それで願いが叶うという「簡単な」条件にのぼせ上がり、秘書官様の怪しげな仕草や、その後、私が提案をのんだ時に見せた、いやな陰のある笑いの意味など、一切考えることなく、何から何まで秘書官様の仰せにすっかり従うつもりになっていたのだ。


 今から考えれば、あの頃の私は、本当に何も知らず、人を疑うことを知らない小娘だった。おかげで私は、後々、自分と、そしてこの国に住む人全てを、とてつもない窮地へと追い込むことになってしまったのだ……。



     11

 ツナ様が「研究室」と呼ぶその部屋は、屋敷の右の塔の最上階にあった。

 円形をした壁の半分を、床から天井まである巨大な書棚が占め、分厚い本がずらりと並べられている。残り半分を占める棚には、にょろにょろしたチューブが一杯くっついた、変な形のガラス瓶や、火にかけてもいないのにボコボコと泡立っている不気味な液体、周りにハエのようなものがぐるぐる回っている球体とか、なにに使うのかさっぱり分からないものが、ごしゃごしゃと詰め込まれている。

 私は、その研究室の真ん中にある、丈夫な木でできた広いテーブルの上――雑然と広げられた羊皮紙を押しやってつくられた、ど真ん中のスペースに、素っ裸で寝そべっていた。

 秘書官様は、目の前に立てかけた分厚い本と首っ引きで、私の腹のあたりにかがみ込み、慎重に慎重に、複雑な紋様を描いている。

 身じろぎして模様が崩れれば元も子もないから、決して動かず、静かにしているようにといわれているのだけど、細いペン先でコリコリと腹のあたりを引っかかれるのは、狂おしいほどむずがゆい上、極度に集中した秘書官様の吐く深い息が産毛をそよがせ、とてつもなくくすぐったい。

 それでも、背中に「契約紋」を描いている間は、どうにかこうにか我慢したのだけれど、仰向けで、腹に紋様を描くとなると、むずがゆさとくすぐったさに加え、若い男性が目の前にいるというのに、生まれたままの姿でいるのがどうにも恥ずかしく――「どうかお気になさらず。私は単なる精霊に過ぎないのですから」とツナ様は当然のように言ったけれど、そういう問題じゃないんだ――思わず身じろぎしそうになってしまう。

 そのたび、イライラした表情を浮かべ、とがめるような視線を送られて……私はすっかり恐縮し、動かないように必死で――あまりにも我慢しすぎて、頭がくらくらし、体中に鳥肌が立つぐらい必死で――苦行に耐え続けていた。

 無限に続くんじゃないかと思われる時間が過ぎたところで、ようやく

「書き上がりましたよ。これでいいはずです」

 秘書官様の天からの声が響き、私は慌てて跳ね起きた。

 手近にあった服でとりあえず股間を隠し、同時に、おそるおそる腹を眺める。と、そこには、ハワードの体に描かれていたのとよく似た紋様が、細く繊細な筆致で、青く描かれている。

 が……紋様はずっと、停止したままだ。

 私は、おそるおそる秘書官様に尋ねた。

「あの……これで、完成ですか?」

「ええ、そうですよ」

「これで、『魂の牧場』にいる誰かを呼び出せるんですよね?」

「はい。呼び出す準備は整いました」

「準備……ですか?」

「ええ、そうですよ。この後、「召喚の呪言」を唱えれば、お望みの精霊が現世に再び降誕するはずです」

 参照していた本を閉じて書棚へ戻し、ペン先を綺麗に洗って拭いと、てきぱき後片付けをしながら、秘書官様は、馬車の中で見たのと全く同じ、素っ気ない態度で答える。

 その冷たさに心がつぶされそうになりながらも、私はようやく、

「あの……その「召喚の呪言」って、どういう……」

と、言葉を絞り出した。

 秘書官様は、目を見開き、信じられないといわんばかりに、まじまじと私を見つめた後で――恥ずかしさのあまり、顔から火が出そうに真っ赤になっているのが、自分でも分かった――深々とため息をついた。

「そうでしたね。あなた、なにひとつご存じないんでしたっけ。ああ、そうでした」

「あの……申し訳ありませんが、できれば、その……」

「仕方ありませんね。本来ならば、教本を手渡し、そこにあえる呪言をそのまま詠みなさい、というところですが……あなたに古代文字が読みこなせるとも思えませんし。ああ、本当に手間のかかることだ!」

「すみません……」

「謝罪の言葉など不要です。分かりましたから、さっさと済ませてしまいましょう。私の後について、私のいうとおりに唱えてください」

 そう言うと、秘書官様はやにわにうつむき、胸に右手を当てた。

「古き盟約と新しき契約により、混沌より生まれし秩序に従い乞う」

 慌てて私も、股間から服が滑り落ち、再びすっぽんぽんになるのも構わず、右手を胸の谷間に――「谷間」にほど遠い、右胸と左胸の間の、ちょっとしたくぼ地に――右手を当てる。

「ふ、古き盟約と新しき契約により、コントン?より生まれしチツジ、ジョに従い乞う」

「信頼と絆を橋となし、彼の地より再び我の元へその姿を顕現せよ」

「信頼とキ、キズナをハシとなし、蚊の血よりふたたび割れのもとえケンケン?あ、いや、ケンゲンせよ」

「とく来たれ、なになによ!」

「とくきたれ、なになによ!」

 と、秘書官様が、心底情けなさそうな顔で、じろっと私を見る。

「名前!名前をいうんです!」

「名前!名前をいうんです!」

「だから、そうじゃなくて!」

「だから、そうじゃなくて!」

「違う!とく来たれ、といった後で、呼び出したい精霊の名前を唱えるんです!」

 ここまで言われてようやく秘書官様のいいたいことが、私の頭にすっぽりと入った。

 慌てて、

「とく来たれ、パトリック!」

 そう唱える。

 が、何も起こらない。

 あれ、やっぱりちょっと間違いすぎたかな、もう一度唱え直し?とか思った、その瞬間。胸に描かれた紋様から、真っ青な光がほとばしり、次いで、ゆっくりと回り出した(どうやら、あまりに(つたな)い呪言だったせいで、精霊界の神様(?)も、どうしたものかと頭をひねった末、しぶしぶ魔法を発動してくれたらしい)。

 紋様の回転が速まるに従い、光もどんどん強くなり、ついに、満月をいくつも並べたほどの光が部屋中にあふれ……ふっと消える。

 その直後、私は、ものすごい勢いでテーブルの上に押し倒され、顔中をなめ回されていた。

「パット……?パット!」

 顔中をべろべろとなめられ、唾液でべしょべしょにされながら、それでも構わず両手でその頭を抱きかかえる。

 ごわごわした固い、しっかりした上毛の下に、柔らかくてなめらかな手触りの下毛。左目は、無残な傷跡になってしまっているが――「あの日」、人狼にやられた傷だ――残る右目は、灰色に近いほどに色の薄い水色。その瞳が、再び会えた喜びで、輝いている。

 間違いない。牧場で一緒に育った、私のパットだ。

 思わず、私の両目からどっと涙があふれた。

 と、それを見たパットが、心配そうに、後から後からあふれる涙をペロペロとなめとってくれる。

 昔と同じだ。私が畜舎でいたずらし、父さんに怒られて、牧場の隅で一人泣いていると、パットは決まってかたわらに寄り添い、こうして、ペロペロと涙をなめてくれた。 

「パット……会いたかった……会いたかったよ……」

 あの頃に戻ったように、パットの首を思い切り胸に抱き、そのたくましい胸に顔をうずめると、懐かしい枯れ草のような匂いが、鼻孔一杯に広がり……私は、涙で彼の胸の毛をぐしょぐしょに濡らしながら、顔全体を笑顔にして、にっこりと微笑んでいた。

 と、そこへ。

「あーあ、大事な書類を、残らず床に落としてしまって。全く、主が下品だと、しもべまで礼儀知らずになるんですね」

 聞こえよがしの皮肉が机の脇から響き……パットが、ピクリと身を固くし、たてがみを逆立てるのが伝わってきた。

「さあさあ、用事は済んだのですから、早くその貧弱な体をしまって、ここから出て行ってください。あ、くれぐれも約束をお忘れなく。それと、召喚されたその犬ころですが、三日ほどはその姿のままでいるかと思います。その後、自分が精霊として召喚したことを自覚すると、私のように人の形を取ることが可能になりますが、最初は生まれたままの姿となるので、それまでは屋敷の中で過ごすことをおすすめいたします。さもないと、道ばたでいきなり、素っ裸の男があなたに寄り添っている、なんてことになりますからね……ええと、これはどこにしまうのだったかな……」

 秘書官様がこちらに目もくれず、だらだらと言葉を垂れ流している途中で、パットはそっと前足で私の胸をつき、私の両腕を首から外させた。そして、再び私の顔をじっとのぞき込み、口を大きく引き開け、犬特有の笑顔を――それも、どこか不吉なものを感じさせるふてぶてしい笑顔を――その顔に浮かべる。

 と、その顔がふわりとゆがみ、次の瞬間には、私の前に、銀髪を短く刈り込み、片目に眼帯をしたおじさまが、苦み走ったその頬に不敵な笑顔を浮かべ、じっと座っていた。

「よお、パトリ。久しぶりだな」

 渋い声で呼びかけられたものの、あまりに驚きすぎて口をあんぐり開けていたせいで、返事すらすることができない。そんな私の頬を、大きくて分厚く、いかつい手のひらで、軽くなでると、パットは――間違いなく、その男性はパットの化身だった。だって、どれほど姿が変わろうとも、灰色に近いほど薄い水色の瞳だけは変わらなかったから――ひらりと机の上から飛び降り、すたすたと無造作に秘書官様に近づいて、その肩に腕をかけた。

「よお。お前さん、猫だな?なあに、言わなくても、その匂いと態度ですぐに分かったぜ」

「え、は?な、なんなんです、ちょっと、この腕を……」

 肩にいきなり、ずっしり重たげな腕を乗せられ、どこか剣呑な低音でしゃべりかけられたためか、秘書官様は、びっくうう、と身をすくめ……だが、皿のように見開いた目に幾分おびえを宿しつつも、なんとか威厳を取り繕おうとした。

 が。

「俺のこと、何やらあれこれ気にかけてくれてるみたいだな。それについちゃ感謝する。だがな、あいにく、心配は無用だ。ほれ、この通り、俺は人型にもなれるし、精霊界(あっち)で手に入れた服もあるんでな」

「え、は、え?いや、そんなことより、この腕を、ちょっと……」

 秘書官様は、体をくねらせ、なんとかパットの腕をはずそうとする。が、よほどがっちり肩をつかまれているのか、一向に振りほどけない。そしてパットは、そんな秘書官様の様子に一切気がついていないかのように――そんなわけないのだけれど――いかにも上機嫌な様子だ。

「この服はな。先の精霊戦争の時の手柄で、精霊王からもらったもんだ。闇のドラゴンの皮でできてて、こっちの世界にもこうして着てこられる。どうだ、便利な代物だろ?]

「え?いや、あの……」

「オレが身につけてる長剣もナイフも、全部、あっちの世界から持ってきたもんだ。といえば分かると思うが、全部、精霊鉄を鍛えて作った業物で、普通の武器は通用しない魔界や精霊界の生き物でも、簡単にぶっ殺せるって品だ」

「だから、そんなことより、これ!、いい加減にしないと……」

「それでだ。一つ言っておく」

 不意に、声の調子が氷のように冷たくなったかと思うと、パットは目にもとまらぬ早さで胸のホルダーに挿してあったナイフを引き抜き、秘書官様の鼻先、ほんの数ミリの壁に、「どん」と突き立てた(大して力を込めたようにも見えなかったのに、ナイフの刀身の半分近くまでが壁にめり込み、一瞬、屋敷全体が、ぐらぐらと震えた)。

「に゛ゃっ!」

 秘書官様は、突然目の前に研ぎ澄まされた白刃を――いや、これは、「修辞的表現」とかいうヤツで、本当のことをいえば、そのナイフ、父さんからもらった私のナイフ同様、うっすら青みを帯びた「蒼刃」だったのだけれど――突き立てられ、体中の毛を逆立てて、すくみ上がった。

 そこへ。

「いいか。今後、我が主に少しでもナメた言葉を吐いたり、コケにした態度を取ったら、お前のこの頭をミリ単位でそぎ切りにし、魔界ガエルのエサにしてやるから、そう思え!!」

 剣呑この上ない――少しでも対応を間違えば、あっという間に本気で八つ裂きにされるに違いない、と確信できるほどの怒りがこめられたささやき声。それを、パットは秘書官様の耳元に注ぎ込んだのだ。

 有能で、牧場主と牧童頭を一瞬で無力化できるような、恐ろしい魔法を使いこなせる秘書官様も、パットの、この圧倒的な「暴力」の前にはひたすら無力で……ただ屈服することしかできなかった。

 体中をぶるぶる震わせながら、これ以上は不可能というほどに大きく目を見開き、針の先ほどに小さくなった瞳で、じっとパットを見つめ……慈悲を乞うように、かくかくと細かくうなずくことだけが、彼にできる精一杯だったのだ(なんとも気の毒なことに、ナイフを突き立てられた瞬間から、彼の股間には黒々とした染みができてしまっていた。そしてその染み、高価そうなズボンの内股全体を覆い尽くすほどに広がって……猫特有の、きついおしっこの匂いが、部屋中に充満したのだった)。

 これら、全く予期しなかった一連の出来事に呆然としながら、私は、頭のどこかで、ああそうだった、パットは昔から、ずっとこういう奴だった、と懐かしく思い出していた。

 普段は穏やかで、決して怒気を見せるようなことはなく、私にとってこの上なく優しく、辛抱強い兄貴分だった。けど、牧場の他の動物たちは、パットの内からあふれ出る威厳に圧倒され、どのコも決して、逆らおうとしなかった。そして、牧場に敵対すると見なしたもの――ことに、私や家族に害をなすと感じたものに対しては、闘争心をむき出しにし、圧倒的な身体能力でもって、あっという間にねじ伏せた。

 パットは、私たち親子の一員で、守り神であると同時に、牧場の動物たちに君臨する帝王だったのだ。

(精霊になっても、ひとにらみで相手を服従させる凄みは変わらないな……いや、人型になって、余計に迫力が増してるかも……それにしても、相手は秘書官様だってのに、ちょっとやり過ぎなんじゃ……)

 私の心配をよそに、パットはようやく満足げな顔に戻り、壁のナイフをひょいと引き抜くと、ゆっくり秘書官の肩から腕を外した。

「分かってくれりゃ、それでいいのさ。これから同じ精霊同士、仲良くやろうぜ。なあ?」

「は、はい!はい、それはもう、はい!で、では、私はこれで……」

 できうる限り体を縮め、この恐ろしい男――その力が私に対し振るわれることは絶対にないと分かっていてさえ、恐ろしかったのだから、その矢面に立たなければならなかった秘書官様の怖ろしさは、一体どれほどのものだったのか――の鎮座する部屋から出て行こうと扉へ向かった(扉のノブに手をかける直前、ツナは、この上ない恨みのこもった――この借りは必ず返す、いいか絶対だ、その時になって後悔してももう遅いぞ、せいぜい今のところはいい気になっているんだな、などなど、悪役の捨て台詞にありそうな文句がそっくりそのまま込められた――目で、ちらりとパットを振り返った。それで私は、せっかくできた「味方」が、あっという間に敵に――それも、不倶戴天の敵に回ってしまったことをはっきり理解し、近い将来、パット共々、きっとひどい目に遭わされることを予感したのだった)。

 が、残念なことにというか、ありがたいことにというか、私のその予感は、全く的中しなかった(本当に私の「女の勘」は当てにならない)。むしろ、ひどい目に遭わされたのは……秘書官様の方だったのだ。

 ツナが扉を開こうとしたその瞬間、

「おっと。そうだ、一つ忘れてた」

 パットが再び、上機嫌なそうな声を上げたのである。

 ツナは「ひっ」と、その場ですくみ上がり……それから、おそるおそる振り返り、こわごわパットをのぞき見る。

「お前さん、さっき確か、我が主に向かって『約束』がどうとかいってたよな?ありゃ一体、なんのことだ?」

 ネズミをいたぶる猫のように――猫をいたぶる犬のように?――パットは、ゆっくり優しげに、問いをなげかけ……その途端、ツナの額に、ぶわっと冷や汗が浮かんだ。

「あ、いえ、あれは、べつに、その、なんでもない、つまらない約束でして、そう!あの、この後のお食事のことで、ちょっと……」

 慌てふためいてなんとか言いつくろおうとする秘書官様を、冷たく鋭い目でにらみ据えた後で、パットは不意に視線を私の方へ向けた。

「なあ、パトリ。お前、こいつになに言われた?」

「え?なにって、だから……」

 慌ててツナが口を挟む。

「何でもないんです、本当につまらない……」

 そう言いかけたところで、

「我が主の言葉を遮るな!その無礼な口をなで切りにして、精霊樹の養分にしてくれるぞ!!!」

 さっきの倍ほど大きく、数倍の怒気のこもった声で、パットが怒鳴りつけた。

「ひ、ひゃい……!」

 これ以上ないというほどに縮めていた体を、どうやってかさらに小さくし、股間から、さっきよりもっと濃厚なおしっこの匂いを漂わせながら――どうやら再び(それも、さっきより盛大に)もらしてしまったらしい――ツナは泣きそうな顔でその場に立ちすくんだ。

 その彼を、ひとくさりにらみつけた後でふっと緊張をゆるめ、再びパットは、私に向き直った。

「で……なに言われたんだ?」

「え……だから、約束したんだよ。あんたたちを召喚するのに必要な『フェアリーティアーズ』っていう高価な薬をもらう代わりに、私の体から採れる液体を十瓶もらいたいって。なんか、私の体から採れる液体じゃ、あんたたちを呼び出せないんだって。だから、私……」

「ほう。んで、お前さんから採れる液体は、どんなものだった?」

「なんかこう、真っ赤な液体で……そう、『ドラゴンブラッド』って……」

 それを口にした途端、ツナは、ものすごい素早さで扉を開け、脱兎のごとく――脱猫のごとく?――逃げだそうとした。が、その一瞬前に、

「動くな!!!!」

 パットの咆吼が、屋敷をびりびりと震わすくらいの大音声で響き渡り……ツナはその場に、へなへなと座り込んでしまった。

 それを確認したところで、パットは再び私に向き直ったのだが……見ると、その頬に、剣呑な笑みが浮かんでいる。

「なあるほど、読めてきた。お前さん、他にもなんか言われなかったか?ドラゴンブラッドには、全然価値がない、とかなんとか」

「え、うん、言われたよ。なんか、珍しいことは珍しいんだけど、取引されたりはしないって。だから、てっきりそんなに価値のないものだと思ったんだけど……え?まさか、違うの?」

 パットは、私の問いかけに渋い笑みだけを返すと、くるりときびすを返し、いつの間にかホルダーから引き抜いていたナイフを片手でもてあそびながら、扉の前にへたり込んだままのツナに、ゆっくり近づいていった。

「全く、猫族ときたら!有能っていやあ有能だが、高慢で自信過剰で、ちょいと目を離すと、決まって勝手なことをし始める。うぬぼれが強くて、自分よりも賢いものはいないと思い上がり、この世の全ては自分の思い通りになると思い込んで、とんでもなくヤバい橋を渡っているとも気がつかず、取り返しの付かないことをしでかす。全く、猫って奴は、本当に手に負えない!」

 ため息交じりにつぶやきながら――だが、どことなく楽しそうな様子で――パットはツナの背後に立つと、その頭に、そっとナイフをあてがった。

「あの……どうか……」

 ツナが今にも泣き出しそうな声を出すが、パットは全く取り合わない。

「取引がされてない?なるほど、確かにな。だがそれは、価値がないからじゃねえよな?あまりに貴重過ぎて、国王や領主の手によって、厳重な上にも厳重に管理されているから、取引できねえんだよな?」

 一言一言、相手に言い聞かせるように言葉を発しつつ、ゆっくりとナイフを動かし、パットは、ツナの頭髪をするするとそり落としていく(ナイフの切れ味ときたら恐ろしいほどで、髪の毛にあてがった途端、毛が自らの意志でそうしているかのように、頭からはらりと落ちていってしまうのだ)。

「精霊界じゃ、もっとあからさまだ。ドラゴンブラッド一瓶ありゃ、俺が身につけている装備も服も、一式そっくり手に入り、さらにおつりが来る。精霊王その人への献上しか認められてないから、はっきりとした相場があるわけじゃねえが、その価値でいえば、まあ、ドラゴンブラッド一瓶で、フェアリーティアーズ一万瓶、ってところか。それを、たった一瓶で、ドラゴンブラッド十瓶?えらく足下を見たよな、おい?」

「あの、このことはどうかご内密に……」

 ぶるぶる震え出すツナに一切構わず、パットはナイフを動かし続け……今ではもう、八割方、髪の毛が地に落ちてしまっている(せっかくの美少年が台無しだ)。

「さっきお前さん、召喚されてすぐは動物の姿で、それからしばらくして人型になる、ただし素っ裸で、とか言ってたな?思うに、あれはお前さん自身の経験だろ?つまり、お前さん、精霊界から何も持たず、猫の姿で現世に召喚されたってわけだ。ところが、今のお前さんは、貴族の役人にしても分不相応に高価なものばかり身につけている。おそらくお前さんの部屋には、もっともっと高価なものが、たくさんしまい込まれているはずだ。一体どうやってそういうものを――主におねだりしただけじゃ、到底手に入らない数々の品を、手に入れてきたのか。なかなか興味深いよな?」

 ついに頭髪を全てそり落とすと、パットは、ツナのツルツルになった頭を、満足げにぴしゃぴしゃと何度か軽く叩いた。

「さて、いいカンバスができあがったことだし、刻みつけるとするか――『ハスケルの烙印』をな」

「お願いです……それだけはどうか、どうか……!」

 ツナは、とうとう本当に泣き出してしまった。けれど、パットは上機嫌な表情のまま、追求の手をゆるめようとしない(犬だった時から薄々気づいてはいたけれど、パットは、どうやらとてつもないドS野郎のようだ)。

「主の命令でもないのに、無知な人間をたばかり我欲を貪ろうとしたんだろ?俺には、烙印を押すにふさわしく思えるんだがな」

「烙印を刻まれたら、二度と仲間の元に帰れなくなってしまいます!さげすまれ、嘲笑され、忌み嫌われて、たった一人で人目を避けて生きていかなければ……」

「それだけのことをしでかそうとしたんだからな。仕方あるまい?」

「お願いでございます!これには深い事情が!」

「ほう。でもまあ、理由がなんであれ、無垢なる我が主を導こうともせず、食い物にしようとしたことには変わりないしな」

 引き抜いたナイフで、ちくり、とツナの頭のてっぺんあたりを刺すと、泣き声が一段と激しくなった。

「おね、お願いでございます!どうか、どうか!なんでもいたします!なんでもさせていただきます!ですから、どうか、どうか……!」

「……なんでもするんだな?」

「はい!もちろん、我が主の不利益にならぬ限り、あなた様のご命令通り、なんなりと!」

「心を入れ替えるってのか?」

「は、はい!今後一切、精霊にあるまじきことに手を染めたりはいたしません!」

「へええ。悪事がばれた途端に改心するって?なんとも都合のいいことだな、おい?」

「ほ、本当でございます!どうか、どうか信じてくださいまし!」

「ふうん。でもよ、何もなしで改心したかどうか信じるってわけにはなあ……」

「なんでもお言いつけください!あなた様のために、このわたくし、どんなことであろうと……」

「俺のため、だと?」

 また、パットの声に剣呑な響きが混じり、ナイフを持つ手にほんの少し力が入ったのか、ツナの頭の皮膚がぷつりと裂け、血が一筋、つうっと流れ落ちた。

「た、大変失礼いたしました!あなた様と、あんた様の主でいらっしゃるパトリシア様のために、なんなりと……」

 ツナが慌てふためいてそう口にした途端、パットは再び、陽気で上機嫌な口調に戻った。

「そうかい!そこまでいってくれるってのかい!いや、実はな、お前さんにちょっとした頼みがあったんだよ」

 それを聞いて、ツナも、ここが勝負所と、

「はい!私にできることならなんなりと!」

 精一杯へりくだり、哀れな声を出す。

 その姿を見て、パットは満足そうにうなずいた。

「そうかいそうかい。そりゃありがたい。いや、なに、そんなに難しいことじゃねえよ。我が主の体に、もう一つ、召喚紋を描いてほしくてな。俺は、そういうチマチマした作業がどうも苦手でよ」

「ええ、ええ、お安いご用でございます!喜んで、描かせていただきます!」

 話がもりがっている二人を尻目に、私はただただあきれていた。ツナの変わり身の早さ、調子の良さにもあきれたけど、それよりも、私の忠実なパットが――いつも私のそばにいて、私に寄り添っていたあの優しいパットが、実はこんなに食えないオッサンだったことに、ものすごい衝撃を受けていたのだ。

(なんだ、こいつ……純朴で誠意に満ちた、ピュアな狼犬だと思ってたのに、実は、純粋培養の狸オヤジだったのかよ……)

 無二の親友のように肩を組み、笑い合う――ただし、パットはどこか威圧的で、ツナはこびへつらうような笑いだ――ふたり。そこへ、ふと、ツナが真顔になり、

「あ、あの……一つだけ、お願いがあるのですが」

 おそるおそる、そう切り出した。

 パットが問いかけるような表情になると、ツナは困ったような、情けないような顔で、

「作業にかかる前に、ちょっとだけ、お時間をいただきたいのです。その……ズボンを履き替えてくる間だけ」

と言ったのだった。



     12

 「ねえ、パット。あんたって、昔からそんなだったっけ?」

 研究室のテーブルの上に、再び素っ裸で横たわりながら、私は、目の前の椅子にゆったりと座るおじさま――に見える精霊――に、そう尋ねた。

「なんのことだ?」

 パットは、目をこらして刃先を見つめながら、手にした砥石で慎重にナイフをタッチアップして(研いで)いる。

「なにって、あんたのその性格。そりゃ、昔からふてぶてしいところはあったけど、さっきみたく、横暴というか、煮ても焼いても食えない感じじゃなかったと思うんだけど」

「いや、こんなもんだったぜ?ただ、(あっち)の姿だと、人間に言葉が通じないからな。吠え声や仕草をいいように受け取って、なんとなく「素直で純粋」とか思ってくれてたんじゃないのか?驚くだろうな、俺や、俺の部下どもが、牧場でなにをしゃべっていたか知ったらよ」

「それにしても、ちょっとあの、ツナ様への態度はないんじゃない?あの人、私が牧場で殺されかかってたのを助け出してくれた、恩人なんだよ」

 とがめるようにいうと、パットはやれやれといわんばかりにため息をつき、砥石とナイフを置いて、私をじっと見つめた。

「ツナ様、じゃねえ。ツナだ。あいつは俺と同じ、ただの精霊で、元はただのネコだ。お前、ペットや家畜を『様』付けで呼ばないだろ?世話になったとしても、『ありがとう、助かった』ぐらい声をかけてやればいいんだ」

「あ、うん……わかった」

 有無を言わせぬ強い口調で言われ、私は思わず素直にうなずいていた。

 そんな私を見て、パットはにやりと微笑む。

「お前さんは、あの頃とちっとも変わらないな。困ってたり、いじめられているものを見捨てておけない、優しい女の子のままだ」

「いや、そんなことないよ。今の私は、すれっからしの流れの牧童だよ。その私から見ても、あのツナへの扱いは、ちょっとひどいんじゃないかって思ってさ。私を救ってくれただけじゃなくて、あんたを呼び出す手伝いだって……」

「その辺はな、精霊界(あっち)での立場やらしがらみやら、いろいろあるのさ。というか、俺はこれでも、まだ甘い方なんだぜ?本当にきついのは、俺よりむしろ……」

 パットがそう言いかけたところで、

「あの……召喚紋、描き終わりました……」

 ツナが、おそるおそる声をかけてきた。

 今の今まで、私の腰から尻にかけてのあたり――女らしくない、薄い尻。私の数多いコンプレックスの中の一つだ――にかがみ込み、新たな召喚紋を描いてくれていたのである(ちなみに、ズボンは真新しいものに履き替え、床についた染みも、ツナ自らせっせと拭き取ったのだが……研究室の中はいまだに、少しネコのおしっこ臭かった)。

「おう、できあがったか。ご苦労さん。それじゃ、早速呼び出すとするか。なあ?」

 嬉しそうに身を起こしたパットの呼びかけにうなずきで答え、私は、先ほど習い覚えたばかりの呪文を、もう一度――今度もつっかえつっかえ――唱える。

 と。

 目の前に、全身真っ黒で、やや長毛のシェパードが、忽然と現れた。

「アニー!」

 うれしさのあまり、つい大声で叫ぶと、アニーも満面の「犬的笑顔」となり、その優しげな黒い瞳でじっと私を見つめながら、長い舌でペロリと私の顔をなめる。

 と、次の瞬間、アニーが座っていたところには、優雅な黒のロングドレスを身にまとった、背の高い女性が、片膝をついてかしこまっていた。

「パトリお嬢様、お久しぶりでございます。再びお元気なお姿を拝見できて、本当に嬉しゅうございます」

「……え?あ……ええ、久しぶり……」

 しばらく私は、声を出すのも忘れて、目の前の女性に見入っていた。

 大きな目と高い鼻、そしてやや大きめの、肉感的な唇。やや面長の輪郭にそれらのパーツがバランスよく配置されていて……人間化したアニーは、思わず息をのんでしまうほどの美人だったのだ。パットの次の古株なのだから、相当年齢も高いはずなのに、そんなことなど全く感じさせず、むしろ成熟した女性の魅力をむんむん放出していて――同じ女のはずの私でさえ、「うわ、なんて美しい……」と、思わずみとれてしまう。

 アニーは、アホ面さげてぼんやり座ったままの私ににこりと笑いかけると、すっと立ち上がり、腕を伸ばして、私を、思い切り胸に抱きしめた。

「うわ、わわわ……!」

 豊かなボリュームと弾力のある双球に顔をむぎゅっと挟まれ、思わず私は、わたわたしてしまう。

「ああ、こんなに痩せてしまわれて!あの若さでご両親を亡くし、さぞ苦労なさったのでしょうね。本当においたわしい!今後は、私たちが全力でお守りいたしますわ!」

 あ、いやまあ、苦労はしたけど、やせてるのは多分体質で、ひもじい思いもそれほどはしてないよ、そんなことよりこの胸すごい、谷間に顔がもぐり込んで、息ができなくなりそう、うへへ……なんてオヤジのようなことを考え、うっとりしていたところへ、

「おいおい、主へのあいさつはそれぐらいでいいんじゃねえか?いつまで俺にお預けを食らわせるつもりだ?」

 笑みを含んだ低い声が響いた。

「もう……!せっかくパトリお嬢様との再会を楽しんでいたのに、あなたったら、本当にせっかちなんだから……」

 そう言いながらも、アニーはそっと私から体を離し、背後で待ち構えていたパットの胸元にいそいそと飛び込んで……二人は濃厚なキスを交わした。

 それはもう、ぶっちゅうううううう……という音が聞こえてきそうなほどの愛情がこもったキスで、いきなり目の前に現れた「大人のラブシーン」に、私は再びわたわた。柄にもなく赤面して、不自然に顔をそらしてしまう(結構な場数をふんできたはずなのに、「愛情」のこもった行為を見ると、いまだ五年前と変わらず、気恥ずかしくてたまらないのだ)。

 二人はそれからも、しつこくしつこく、5分以上もの間、唇を交わしていた(ああ、もう、恥ずかしいったら!)。そして、ようやく――名残惜しそうに――体を離したところで、アニーが妖艶な流し目でパットを見つめながら、ねっとりとした笑みを唇に浮かべた。

「あなたが召喚紋を描いてくださったの?この種の細かい作業は苦手かと思ってましたのに」 

「いや、俺がやってもよかったんだがな。ちょうどいい人材がいたんで、そいつに頼んでやってもらったのさ」

 パットがあごで指し示した先にいたツナを一目見るなり、アニーの顔から、ふっと笑みが抜け落ち、完全な無表情になった(それは、一目見ただけでずっと背筋が寒くなるような恐ろしい顔で……美人から表情を取り去ると、あんなに冷酷で無慈悲な印象になるのかと、思わず私は身震いしてしまった)。

「あら……そう。あなたが」

「は、はい!ツナと申します、以後、お見知りおきを……」

「ええ、よろしく」

 かわいそうにツナは、組み合わせた両手を胸の前でもじもじと動かし、少々肌寒いくらいの室温だというのに、額に大粒の汗を浮かべている。

「あ、あの、用事は済んだようですし、それでは、私はこれで……」

 上体をかがめ、気の毒なほど卑屈な態度で、ツナが扉へと向かったところで、

「お待ちなさい」

 氷のような声が、彼の足を床に縫い止めた。

「匂いで分かるわ。あなた、ネコね」

「は、はいっ!」

「今すぐ白状なさいな。あなた、ひきかえになにを要求したの?」

「は……え?」

「我らは、主のためにのみ在り、働くもの。その精霊の端くれで――ましてネコであるあなたが、何の代償も求めずに労働を提供するがありません。早く言いなさい。あなたは我が主に、一体どのようなことを要求したの?」

 無表情な仮面を通して、内に激しい怒りがつのりつつあるのが、透けて見える。圧倒的でわかりやすい、パットの怒りとは対照的な、冷たくて無機的な、とりつく島のない怒り。かわいそうにツナは、アニーの怒りの不気味さ、怖ろしさにすくみ上がり、ろくに口をきくことすらできず、ひたすら「あの……その……」と繰り返すばかりだ(私自身、アニーの内部で沸き立つ怒りの怖ろしさに心底震え上がり、彼女が私の忠実な友で――怒りの矛先が私に向けられたのではなくて、本当によかったと、早鐘を打つ胸をそっとなで下ろしていた)。

「なに、たいしたことじゃない。こいつ、我らが主をたばかり、彼女の所持するドラゴンブラッドを不当に手に入れようとしてやがったのさ」

 ツナの答えを待っていたのでは、いつまで経ってもらちがあかないと思ったのか、パットが横から口を差し挟む。

 それを聞いた途端、アニーの目が、きりきりとつり上がった。

「まあ……ドラゴンブラッドを?」

「そうなんだ。しかも、自分(てめえ)の主に無断でな。それを聞いて俺は『ハスケルの烙印』を刻むのにふさわしいと思ったんだが、こいつが泣いて頼むんで……」

「まあ、あなた!なんてこと!『ハスケルの烙印』ですって!」

 アニーが責めるような目でパットをきっとにらむ。途端に、パットは叱られた子犬のような表情になり、肩をすくめた(その一方で、ツナは、地獄で救世主に出会った、といわんばかりのキラキラした、希望に満ちた目で、アニーを見つめていた)。

「あ、ああ……烙印は、まずかったかな?」

「当たり前です!いいですか、あなた!一度でも悪事に手を染めたネコは、消滅させるか、徹底的に、性格を根こそぎ変えてしまうぐらいの罰を与えなければ、また同じことを繰り返すものだと、何度も言ったではありませんか!それを、『ハスケルの烙印』?罰として、あまりにも甘すぎます!」

 希望に輝いていたツナの目は、アニーのこの言葉に、あっという間に輝きを失い……彼は、がっくりと肩を落とした。

 無理もない。

 横で聞いていた私だって「え、そっち?どうしてもっときつい罰を下さなかったって、怒ってるの?」と驚いたのである。罰せられる当人にすれば、地獄で救世主に出会ったと思っていたら、実は相手が大魔王で、さらなる地獄の底に突き落とされたかのような気分だったに違いない。

「もう、あなたったら、あまりにも優しすぎです!鷹揚で寛大なのは、人の上に立つ者として素晴らしい資質ですけど、そればかりでは、下の者に示しがつかないではありませんか……」

「いやあ、すまねえすまねえ。その辺は、ほら、お前がうまくやってくれてたからさ」

「もう、そうやって、私にばかりいやな役を押しつけるんですから……」

 ツナの絶望を――そして、私のあきれた視線も――全く気にする素振りも見せず、パットとアニーは、またもやひとしきりイチャイチャとじゃれ合う。その隙に逃げ出そうと思ったのか――それともヤケクソだったのか――ツナが突然、扉へ向かって駆け出した。

 が、もちろん、アニーが逃走を許すはずもない。

「お待ちなさい!」

 鋭い声を発したかと思うと、目にもとまらぬ早さで懐から抜き出した細長いなにかを、手裏剣のように放った。

 ねらい違わず、その細長い物体は、扉のノブに手をかけていたツナの後ろ頭に――先ほどつるっぱげにされたばかりの、気の毒な後頭部のど真ん中に――ぴし、と音を立てて刺さる。

「痛っ!なにをする……あ、痛い!痛い!に゛ゃあああああああああっ!痛いいいいいいいっ」

 ツナの頭に刺さった細長い小さな物体は、たちまちにょきにょきと二つに、四つに枝分かれし、緑の葉を茂らせながら、さらにどんどん成長していく。

「に゛ゃあああああああああああああっ!く、苦しい!痛ああああああいいいいいいっ!取って!取ってくださあああああああいいいいい!」

 どれほどの激しい激痛なのか、ツナは頭を抱え、地面をのたうち、転げ回る(先ほど着替えたばかりのツナの股間に、またしても黒い染みが広がり、ネコ特有の濃厚なおしっこの匂いが、再び研究室内に充満した)。

 その状態がほんの1分ほど、続いただろうか。

 それだけで、ツナの心はすっかり折れてしまったらしい。

 もはや、絶叫する気力も絶えたのか、あうあう言いながら涙を流し、研究室の床に転がって、体をひくつかせている。そのツナに、アニーはゆっくり近づくと、ピンヒールを履いた足で、頭をぐっと踏みつけた。

「魔界樹の一つ、吸魂樹をあなたに植え付けました。知っているでしょうが、吸魂樹は精霊などの魂にとりつき、絶大な痛みを与えつつ根を張り、その精力を吸収しつつ、急速に成長します。このまま放っておけば、あなた程度の位階の精霊なら、そうですね……ものの2時間程度で、跡形もなく消滅するでしょうね」

「取って……ください……お願い……」

 涙で顔をぐちゃぐちゃにし、なおも股間の染みを大きくしながら――一体どれほど強烈な痛みなんだろう――なんとかツナはしわがれ声を絞り出す。と、アニーは、天上の妙なる調べを耳にしたかのように、うっとりとした笑顔を浮かべ、ヒールのかかとに全体重をかける勢いで、ぐりぐりと踏みにじった。

 再び、絶叫。

 その絶叫がひいひいというすすり泣きに変わったところで、アニーは再び口を開いた。

「先ほども言いましたが、悪事の味を覚えたネコなど、百害あって一利なし。この世に存在してしまったことを心底後悔させつつ、魂のかけら一つさえ残さず消し去ってしまうべき、というのが私の持論です」

「そ、そんな……」

「消滅させられるのがいやなら、自らの能力を私に示しなさい。自分はこの世に在り続けるだけの価値があるのだと、証明しなさい。その結果が満足すべきものであるならば……」

「お、仰せのままに!何でもいたします!いたしますから、どうか……」

 ツナの言葉に、アニーは再び、にったりと笑ったかと思うと、すっとツナの頭から足を上げ、コツコツと足音高く、大机に向かって歩き出し――その途中で身をかがめ、床の落ちていたローブを拾い上げると、いまだ全裸で机の上にあぐらをかいていた私に、そっと羽織らせてくれた。

「いとしいお嬢様。さぞお疲れのことと思いますが、申し訳ないことに、今宵はまだまだ、ご苦労いただかねばなりません。ですから、その前に、しばらくの間、あちらでご休憩していただけますか?軽くなにかをつまみ、生理的欲求を済ませなどして、英気を養っていてくださいな」

 そう言いながら、優しい手つきで私を机の上から下ろし、椅子に座らせる。そして、道すがら、身につけていた服をするすると無造作に脱ぎ捨て、一糸まとわぬ姿となって――服の上からでもゴージャスな体型だと思っていたけど、全裸になると、豊満な形のよい乳房に、きゅっと引き締まったウエスト、そして、完全に球形をしたお尻と、女の私でも思わず息をのんで見つめてしまうほど、完璧なプロポーションだった――先ほどまで私が横たわっていた場所に、長々と寝そべる。

「何をしているの?さっさと始めなさい」

 私への、情愛に満ちた声音とは対照的な、氷のように冷たい声で、そっぽを向いたまま促すと、ツナははじかれたように立ち上がり、必死で痛みをこらえながら、筆を取った。

「あの、奥様。契約紋と、召喚紋をお書きすればよろしいのでしょうか?」

「それ以外に、あなたの前に全裸で横たわる意味があるとでも?いちいち全て説明してあげないとなにもできないの?だとしたら、失望ですね」

「と、とんでもございません!大変失礼いたしました!」

 恐怖と焦りにうわずった声で返事を返すと、ツナは、絶え間なく激痛に顔をしかめ、脂汗を流しながら、ものすごい早さで筆を動かし始めた。


 ツナは、その後15分で、アニーの体に召喚紋と、契約紋を二つ、描き上げた(私に契約紋とパットの召喚紋を描いた時には、たっぷり二時間はかかったのだから、それに比べると、信じられない早さだ)。

 だが。

「我が力を振り絞りました。い……いかがでしょうか?」

 やや誇らしげにツナは声をかけたのだが、アニーは全く興味なさそうな表情のまま、

「ふうん。この程度なのですね」

 一言、そうつぶやいただけだった。

「お、奥様!お言葉ですが、これほどの速度と正確さで魔法紋を描けるものなど、精霊界広しといえども、そうはいないのではないかと思いますが!」

 必死の形相で食い下がるツナを、汚いものでも見る目つきで一瞥すると、

「ずいぶん自信を持っているのですね。では、あなたのその自信が妥当なのかどうか、問いただしてみるとしましょうか」

 言うが早いか、アニーは突然、顔だけ犬の時の姿に戻り、

「わおおおおおおお、わおおお、わおん!」

 不思議なリズムの吠え声を、素早く立て続けに上げた。

 と、次の瞬間、アニーの体に描かれた召喚紋二つが、ばあああっと光を上げて回転を始め……

「にゃああああああん」

「にゃああ、ああご」

 いつの間に私の肩に駆け上がったのか、二匹の猫が、いかにも懐かしそうに、嬉しそうに、私の両の頬に、その顔を擦り付けていた。

「ローズ?それに、パンジーね!」

 父の農場の穀物小屋の一番高いところに鎮座し、他の猫たちを従えて、我が物顔に下界を睥睨していた、リーダー格の灰色猫、ローズと、常にその横に付き従っていた、サブリーダーの三毛猫、パンジー。彼らが目を光らせている限り、穀物小屋も、私たちの住んでいた母屋も、決してネズミの害にさらされることはなかった、頼りがいのある管理者たち。

 そして、私が穀物袋の上で昼寝をしていると、いつの間にか脇の下やお腹の上に丸くなっていて、気がついた私がそっと背中をなでれば、心の底から満足そうに喉を鳴らしてくれる――ローズとパンジーは、仕事ができるだけではなく、とびきり性格もよくて優しい猫だった。

 この時も、私が名前を呼ぶやいなや、この上なく嬉しそうに

「にゃごろ」

「にゃにゃにゃああん」

 満足げな甘え鳴きをしてくれたかと思うと、二頭同時に床へと飛び降り、たちまちその姿を、跪いた人間へと――ローズは長身痩躯、キリリと引き締まった顔に片眼鏡をかけ、濃紺のスリーピーススーツを一分の隙もなく着込んだ老人の姿、パンジーの方は、やはりおじいちゃんだけど、人の良さそうな丸い顔に丸い眼鏡をかけ、丸まっちい体に、茶色い毛織物のズボンをはき、その上に肘当てのついた毛織物のジャケットを羽織った、いかにも「図書館の住人」といった雰囲気を漂わしている――変化させた。

「お嬢様。久しぶりでございますな」

「夢の中だけでなく、この現世で再びお目にかかれて、まことに嬉しゅうございますぞ、お嬢様」

「あなたたちは、なんだかイメージ通りって感じだね。猫だった時も落ち着いてて、他の猫たちから一目置かれてたし」

 私が思ったことを口にすると、ローズが峻厳な顔をほころばせた。

「私ども猫は、犬の方々と違って、年長者を敬い、経験を尊ぶ習性がありますのでな。深い知性の象徴たる老齢を隠したりせず、むしろ進んで表に出したがるのございます」

「あらローズ。それは、私たちに対する皮肉かしら?犬は見せかけの若さばかりにこだわる、野蛮な種族だとでも?」

 机に足を組んで腰かけ、豊満な裸体を惜しげもなくさらしながら、アニーがにったりと微笑む。

「奥方様、なにをおっしゃるのです!私は単に、犬と猫とのものの考え方を述べたまで。皮肉など、とんでもない!」

 いかにも心外だ、といわんばかりにローズが抗議すると、アニーは手の方を口に当てて、くすくすと艶やかに、この上なく品よく笑った。

「ええ、分かっておりますよ。ほんの冗談です。あなたたちの誠実さを疑ったことなどありませんわ」

「奥方様ときたら、お人が悪い……」

「全くですな。これほど長くお仕えしても、まだ我々猫を疑うようなことを口になさるのですから」

 ローズとパンジーが揃ってため息をついたところで、アニーは少し、困った顔になった。

「ごめんなさいね。あなた方を疑うわけではないのですが、ネコ族の品位を疑わざるを得ない経験を、今し方したばかりだったので」

「なんですと!?それは、聞き捨てなりませんな」

「ええ、ええ、ぜひとも、詳しくお聞かせください」

 二人が揃って顔をこわばらせたところで、

「実はね……」

と、アニーが全身を硬直させたまま、立ち尽くしているツナを紹介し、ついでに、彼がやらかしそうになったことをかいつまんで説明する。

 耳を傾けるうちに、穏やかだった二人の顔が、みるみる怒りで険しく紅潮していった。

「なんとまさか、そのような悪事を働くネコが、まだおったとは!」

「ネコ族全体の名誉にかかわる問題だ!困ったことをしでかしてくれたな!」

 非難のこもった目で見つめられ、ツナは痛みも忘れたのか、直立不動で、ひたすら脂汗を流している(至って緊迫した、真剣な場面なのだけど、彼が身じろぎするたび、頭に生えた木がわさわさとと葉をゆらすので、思わず笑ってしまいそうになる)。

「長老様……教授……違うのです。これには、その、訳が……」

「言い訳など聞きたくない。わがネコ族の顔に泥を塗りおって!」

「紋章学博士としての栄誉を保持するための品性すら持ち得ぬ愚か者に、学位を与えてしまうとは、自らの不明が恥ずかしくてならぬわ!」

「たかが紋章三つを描くだけに、15分もの時間をかけるとは!しかもたかがその程度の実力を鼻にかけ、奥方様に口答えするとは、言語道断!」

「なにが上級紋章学博士じゃ!一体いつわしが、貴様にその称号を許した!貴様には二級紋章士の称号を、しかも貴様の父が「ぜひとも頼む」と泣きつくから仕方なく与えただけではないか!どこまで自らをうつろに飾り立てれば気が済むのだ!」

「貴様のような面汚し、精霊界に帰る場所はないと思え!」

「吸魂樹の根に蝕まれ、頭に激痛が走るたび、おのれのしでかした大罪を心に刻みつけよ!そして、我らネコ族全ての非難を一身に浴びつつ、そのまま干からび、滅びてしまうがよい!」

 研ぎ澄まされた剣のように鋭い舌鋒でかわるがわる責め立てられ、ツナは、かわいそうに、立ち尽くしたまま、めそめそと泣くことしかできない。

 その様子を、パットもアニーも「我関せず」といわんばかり、ゆったりとした笑顔を浮かべ、なにいわずに見守っていたのだが……とうとうツナが座り込んで、嗚咽し始めたところで、ようやくアニーが口を開いた。

「まあまあ、そのくらいでよろしいのではないかしら?どうやらそのツナとやら、精霊に変化してまだ間もない様子。なのに、いきなり現世に呼び出されたのですから、自分がもの知らずなのを理解せず、傲慢な性格になってしまったのも、致し方ありませんわ」

「それは確かにそうやもしれませぬが、しかし、この愚か者の所業ときたら……」

「ええ、ええ、到底このまま、何の罰も与えずにおくというわけには……」

 ナイフで脅され、頭をツルツルにそり上げられ、頭におそろしい樹木を植えられ、長老二人にギャンギャン叱責されて――おまけに、二度も失禁させられて――それで、まだ「何の罰も与えられていない」って……一体どれだけ精霊の法律は過酷なのかと、私は目を丸くした。

(私をだまくらかそうとしたとはいえ、私をピンチから救い出してくれた恩もあるしな……)

 いくらなんでも、あまりにツナが気の毒すぎる気がして、一言アニーに言っておこうと、椅子から身を起こしかけた、その時。

 ふと、肩にがっしりとした手のひらの圧力を感じて、私は肩越しに後方を見上げた。

 と、パットが困ったような笑顔を浮かべて、ゆっくりと首を振る。

「やめときな。パトリの言いたいことも分かるが、精霊には精霊のやり方ってもんがある。下手に首を突っ込むと、余計こんがらがるぜ」

「でも、あれじゃあんまり……」

「なあに、アニー達だって、その辺は分かってるって。そこまでひどいことにはならねえよ。むしろ、今のうちに、精霊界の掟を守らないと、どれだけひどい目に遭うか、教えといてやらねえと、泣きを見るのはあいつなんだぜ?」

 そう言われて、私はおかしなことに気がついた。

「……ツナは、辺境女伯様の飼い猫だったんでしょ?それなら、精霊になったのもあんた達よりずっと先じゃないの?それなのに、あんなふうに若造扱いするって、どういうこと?」

 と、パットが軽く目を見開き、笑顔がなにやら楽しげな雰囲気をまとったものに変化した。

「へええ。お前、そういうところにも気がつくんだな」

「なに、馬鹿にしてんの?」

「いやいや。昔は、元気なだけ元気で、そういうことには全く気づかない奴だったからさ。成長したんだな」

 夢の中では毎日のように会っていたとはいえ、この世で再会するのは五年ぶりだ。それだけ時間が経ってるのに、中身が以前のままだったら、それこそどうしようもないバカだ。

 私が憮然とした顔をしていると、頭をかきかき、パットが再び口を開いた。

「まあ……あっちの世界じゃ、いつ転生したかより、何回転生したかの方が重要なのさ。精霊になるってことは、不滅の魂を手に入れるってことだからな」

「それじゃあ、あんた達は、私の『騎士団』になる前にも、何回か現世を生きたことがあるってこと?」

「まあな。と、それより、そろそろ話がついたみたいだぜ?」

 精霊界の話になると、パットはなぜかそわそわして、話を濁す。よほど、内情を私に知られたくないらしい。

 すっきりしない答えに大いに不満だったけど、実際、アニーとローズ、パンジーが、しおれきって今にも床にへたり込みそうなツナを引きずるようにしてこちらにやってきたので、私は仕方なく質問を打ち切り、彼女らの方へと顔を向けた。

「お嬢様。大変お待たせいたしました。それでは続きを……」

 アニーが言いかけたところで、その言葉を遮るように、

「ねえアニー、そこにいる、ツナのことなんだけど、悪事を企んだとはいえ、私を助け出してくれた、恩人でもあるんだ。だから、いい加減に……」

 そう言ったのだけど、全て言い終わらないうちに、今度は逆に、アニーが大声で私を遮った。

「まあああ!お嬢様、なんて慈悲深いお言葉でしょう!お姿だけでなく、内面まで立派に成長なさって、本当に嬉しゅうございますわ!それにひきかえ、ツナ!あなたときたら!」

 今にもなめ回さんばかりに私を褒めた後で、アニーはいきなり、先ほどよりも数倍いらついた調子でツナを叱責する。

(あ、あれ?ちょっと待って、そういうことじゃなくて……)

 意図と真逆の反応を引き出してしまい、私がおろおろ焦っているところへ、

「全くじゃ!このように情け深い主をたばかり、私腹を肥やそうとしたのだぞ、貴様は!」

「汚らわしい奴め!顔を見るだけで腹立たしい!今日だけ我らに尽くせば貴様の罪にも目をつぶってやろうと思っておったが、やはり許せん!」

「うむ。今後のことは、協議の上、改めてきつい罰を下すことにする。覚悟しておくのだな!」

 ローズもパンジーも、怒りを再び爆発させて、ツナを責め立てる。

「まことに……まことに申し訳ありません……!」

 ようやく泣き止んだところだったのに、ツナは再び泣き出し、地べたに這いつくばるようにして、私への謝罪の声を絞り出した。

「え……あ……いや……その……」

「お嬢様、お怒りはごもっともですが、この者に対しましては、ネコ族の長どもが、責任を持って対処いたします。ですから、この場はどうかこれで収めていただけませんか?」

「おお、おお、お嬢様、どうか私の顔に免じて」

「平に、平にお願いいたします!」

 三人に跪かれ――真ん中のアニーは、いまだにすっぽんぽんのまま、ゴージャスな乳をたぷたぷ揺らしてお辞儀している――私は、

「あ、う、うん。分かった、任せるよ」

 そう口にするしかなかった。

 跪いた三人の向こうで「やれやれ」といわんばかりの苦笑を浮かべ、パットが私を見つめている。

(……なるほどな。精霊には精霊のやり方があるってわけか。その辺を理解せずに余計なことを言うと、とんでもないことになってしまうんだ……)

 口添えするつもりが、かえって傷口を深くえぐることになってしまい、へたり込んでしゃくり上げているツナを、私は後ろめたさ満載の目で見つめた。

 記憶の中では、あれほどおとなしく、従順で、限りなく優しかったのに、いざ精霊としてよみがえらせてみると、彼らは癖の強い、一筋縄ではいかない存在だった(それとも、これは私の記憶が美化されているだけ、彼らの言葉が理解できなかったから勘違いしていただけで、動物だった頃から、彼らは似ても焼いても食えない性格をしてたんだろうか?)。

 再びパットやアニーや、他の動物たちと現世で会えると言われ、深く考えずに精霊使いになってしまったのだけど……どうやら私は、これからまだまだ、様々なことを学んでいかなければならないらしい。

 それにしても……しれっと牧羊犬なんかやっていたけど、パットやアニー達、本当は何者なんだろう?



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