第1章 牧童の少女は見習い精霊騎士となる 7-9
7
その夜は、よく眠れなかった。
毎晩毎晩、仕事を終えて寝床に倒れ込むやいなや、数秒もしないうちに寝入っている――ただし、寝床の中に男が潜んでいたときは別だ――私にしては、ひどく珍しいことだ。
理由は、よく分かっている。今まで経験したことのない暮らしの中にいきなり放り込まれ、頭も体も混乱しっぱなしだったからだ。
ベッドに入る数時間前、「おばちゃん」――辺境女伯との面会が終わった後、私は執事さんに連れられ、1回にある、とんでもなく広い部屋へと案内された。
そこは、つい昨日まで私があくせく働いていた牧場の家畜小屋が、そっくりそのまますっぽり入るんじゃないか、って位広い上に、キンキラキンの調度がこれでもかと詰まった豪勢極まりない部屋で、てっきり私は、寝室の用意ができるまで、ここでしばらく待つように、と連れてこられたのだとばかり思っていた。
だから、案内してくれた執事さんが
「では、明朝までごゆっくりおくつろぎください」
と一礼した時には、本当にあせった。
「え……?ちょ、ちょっと待って!まさか、ここで寝ろってんじゃ……」
だが、おろおろし過ぎていたせいで、声を出すのがちょっと遅れ、呼びかけた時にはもう既に扉は閉まっており……私の必死の呼びかけは、ただ部屋にうわんうわん反響を響かせただけに終わった。
(どうしよう……くつろいでくださいって言われても、こんな高そうな椅子になんて、座れないし……)
その時の私は、牧場から連れてこられたそのままの格好をしていた。つまり、一通り布きれで拭ったものの、牛糞とほこりまみれの牛舎の中を転げ回った時そのままの――薄汚れてぼりぼろ、こびりついた牛糞のせいで、少し「香ばしい」匂いまで漂う――みすぼらしい姿をしていた、ということだ。
いくら私が無作法で田舎育ちでも、ここにある調度品の上に私が腰をかけようものなら、取り返しのつかないシミや汚れをつけてしまうことになることぐらいは、はっきり分かる。
(どうしよう……どうしたらいいんだろう……)
私は、椅子はおろか、床に座ることもできず、それどころか、薄汚れたブーツで歩き回ることもままならず、執事さんに案内された場所に立ち尽くしたまま、じっと途方に暮れていた。
これは、ずっと後になって気づいたのだが……サーモン――この時部屋まで私を案内してくれた辺境女伯様の執事は、私が部屋の中で進退窮まり、困り果ててしまうのを悟っていて、速やかにその「困り果て」を取り除こうとしてくれていたのだと思う(あるいは、単に、ろくに風呂にもはいっておらず、体中から異臭を発している女を、とにかく早く「汚物以外のなにか」へと変化させたかった、という可能性も捨てきれない)。でも、その時の私は、自分の身に降りかかった状況をのみ込むのに精一杯で、周りの人間の思惑なんか、全く構っちゃいられない状態だった。だから……いきなり扉がばあんと大きく開き、恰幅のいいメイドが数人、問答無用でずかずかと部屋に入ってきた時には、髪の毛が全部逆立つほどに驚いたのだ。
「……え?なに?」
目を丸くし、おどおどと問いかけたのだが……そろいも揃って、今にもゴスペルを歌い出しそうな体格の――けれども陽気さはみじんもない――丸太のような腕をした三人のメイドは、この上なく不機嫌そうにじっと私をにらみつけるだけで、返事すらしない。
「あの……」
困り果てて、柄にもなく体を縮こまらせていると、ようやく、先頭に立っていたメイドが一言、
「身なりを整えさせていただきます」
それだけを口にしたかと思うと、三人揃って私に襲いかかってきた。
「なにしやがんだ、ちきしょ、この変態!やめろおおおおおおおおっっ!」
いきなりの攻撃にパニクり、思い切り手足をばたつかせ、なんとか逃げだそうとしたのだが、なにしろ相手は、前世は闘牛用の雄牛か、そうでなければオークかゴブリンだったに違いないという感じの、屈強な巨漢三人。必死の抵抗もむなしく、私は、あっという間に身につけているもの全て――ご丁寧に、下着まで!――脱がされ、生まれたままの姿にされてしまった。
今まですさんだ――何人もの、好きでもない男に抱かれる生活をしてきたとはいえ、一応私も、若い女だ。人前に裸をさらすのは――やせぎすで、乳も尻も申し訳程度しかない、貧相な体だと分かっているだけに――やっぱり恥ずかしい。
裸足のまま、床にうずくまって見られたくない部分を隠し、「てめえら、なんのつもりだ!」「あたしにそんな趣味はねえ!」「ふざけんな、ババア!」と、思いつく限りの悪態を――素っ裸で不安なせいか、我ながら、言葉に力がこもってなかったけど――口から垂れ流していたのだけれど、メイド達は一切無視。一人は、私からはぎ取った服を拾い集め、顔をしかめながら運んでいき、残る二人は、私の両脇にたつと、いとも軽々と持ち上げ……そして、私は琺瑯製のバスタブに、ドスンと放り込まれた。
「でっ!!」
思い切り尻を打ち付け、もだえ苦しんでいるところへ、桶に入れた、やけどしそうなほど熱いお湯を頭からぶっかけられる。
「ぎゃっ!」
頭から顔から肩から、お湯のかかった全ての部位の皮膚が「じゅっ!」と音を立てて縮んだ気がして、慌てて両手でそこら中をこすっているところへ、今度は、泡立てた石けんと、普通は床を掃除する時に使う、長い柄のついたブラシが登場。
「ぐええええ……!」
ただでさえ熱いお湯のせいでヒリヒリしている肌が真っ赤になるまで、徹底的にがしがしとこすられる。
(ちょ!あたしは床かよ!いやまあ、そりゃ確かに、ここのお屋敷の床よりは、相当汚いかもしれないけれど!)
そんな文句――今考えれば、これじゃ相手に対する非難でなく、単なる自虐だ――を言ってやりたいのは山々だったが、口を開けようものなら情け容赦なくブラシを突っ込まれそうな気がしたので、うなり声を立てるだけで、なんとか苦行に耐え続ける。
無限とも思えるほどの長い時間が立ったように思えた頃……。ようやく、ブラシのチクチクした毛先が肌に刺さる感覚が、ふっと消え去った。
(やった、終わりだ!)
と思ったのもつかの間、またもや頭から熱いお湯を勢いよくぶっかけられる。
「むひゅ……げほぐほがほげえっふぉぐほげほ……」
あまりの熱さにびっくりして、ひゅっと大きく息を吸い込んだのだが、ついでに大量の汚水まで鼻から吸い込んでしまい……とてつもない勢いでむせて、死ぬかと思うほど咳き込んでいるところへ、今度はもっと大量の泡立てた石けんと柔らかい布とが、私の柔肌に襲来した。
もし、ブラシであちこちが赤むけになるぐらい徹底的にこすられてなかったとしたら、それはきっと、心地よい刺激だったのだろうと思う。でも、体中が刺激に敏感になっているところへきて、耳の穴から鼻の穴の奥まで、セリ市に出す前の牛や馬だって、ここまで念入りにグルーミングしない、ってほど徹底的にこすられまくるのは、苦行以外のなにものでもない。
(もうダメだ、息ができない、体が熱い、目が回る、ヒリヒリする、苦しい、死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ……)
意識がもうろうとし、危うく気絶しそうになったところで、またもや全身に熱いお湯をぶっかけられ、一気に目が覚める。おまけに、乾いた柔らかい布で全身を――体中の穴という穴の奥深くまで――拭きまくられ、ヘトヘトになったところで、ようやく、「お着替えです」と、胸元が大きく開き、あちこちにごてごてとリボンやらフリルやらレースやらがくっついた「普段着のドレス」とかいう代物に着替えさせられた(もちろん、どうやって来たらいいかもよく分からないので、私はただ突っ立っているだけ。その周りをメイドがてきぱきと動き回り、気がついたら体も髪からすっかり石けんの泡や水滴が拭われ、すっかり乾いた肌の上に、下着や服が体に付着していたのだ)。
ようやくおわった、これで解放される、とほっとしたのもつかの間、いつの間にか現れた執事さんが、
恭しく一礼したかと思うと、
「お食事です」
と、悪魔の宣告よりも無慈悲な一言を告げた。
正直言って、その時の私は、朝からなにも食べていなかったにもかかわらず、全くお腹が空いてなかった(いや、お腹が空いていることは空いているのだろけれど、緊張と疲労で、全くその空腹を意識できない状況だった、といった方が、より正確かもしれない)。
こんな時に食事したところで、まず間違いなく、栄養にならない。それどころか、高い確率で、手ひどい下痢腹痛やらを引き起こすに決まってる。よくよくそれが分かっていたから、一応、私も抵抗めいたことを試みてはみた。
「あの……あのさ。私、今、そんなにお腹空いてないんだよね。だからさ、その……サンドウィッチとか、チーズにクラッカーとか、そんな簡単なものですましたいんだけど……」
だが、執事さんは、この上なく無情だった。
「申し訳ございません。ご希望に添いたいのはやまやまなのですが、もう、ご夕食を用意しておりまして」
あくまでもにこやかに、しかし眉毛を下げ、暗に「この料理を食べていただかないと、大変困った状況に陥る人間が数多くいるのですが、それでも「食べない」とおっしゃるのですか?それならそれで、致し方ないとは思いますが、しかし……本当に残念です」と、私を柔らかく脅迫する目つきで、じっと見つめてくるのである。
もし、この目つきに対抗できる力が私に備わっていたら、やたらと捨て犬や捨て猫を拾ってきては、自分の食事を削って育てることなんてなかったはずだし、病気の動物たちをひと思いに殺すことだってできて……父さんの牧場は、もう少し繁盛していたはずだ。
結局私は、屋敷の中央近くにある、だだっ広い大食堂に――一体全体、どんな魔法を使ったら、屋内にあれほど広くて天井高い部屋を作ろことができるのか、知っている人がいれば教えてほしい――連れていかれ、二十人は優に座れる巨大なテーブルの端にたった一人、ぽつんと座らされた。そして、数え切れないほどのナイフやフォークがずらりと並ぶ中、次々運ばれてくる「簡素な夕食」とやらを、一体自分がなにを食べているのかさえよく分からないまま――皿が運ばれてくるたび、ナントカカントカのウンジャラソースだの、ハンニャラモンニャラのデンデラ風だのと執事さんが説明してくれるのだが、それが一体なにをどうしたものなのか、全く見当がつかないのだ――ひたすら腹に詰め込んでいった(幼い頃、母にテーブルマナーを仕込まれていて本当によかったと思う。あの知識がなければ、私は今もなお、ナイフとフォークの森の中で迷子になったまま、身じろぎもせず椅子に座り続けていたはずだ)。
もうこれ以上食べたら胃の中の収めてものすべてがものすごい勢いで口から逆流する、というところまで食べ物を詰め込んだところで、ようやく夕食は終わった(どれだけおいしい食べ物であっても、満腹を通り越してさらに食べ続けるのは、ひたすら苦しく、しまいに食べ物そのものまでが憎らしく思えてくるものだと、その時私は、初めて知ったのだ)。
またもや執事さんに誘導され、最初に案内された部屋に戻ると、待ち構えていた三人のメイドに「お着替えです」と、深々一礼される。さっきのような着せ替え人形状態にもう一度耐えなければならないことに怖じ気づき――ちょっと強めの刺激がお腹に加わった途端、盛大に粗相して、せっかくのきれいな部屋も服もベッドも台無しにしてしまいそうだった、ということもある――私は、
「あの、着替えなんていいって。もう、今日はこのまま寝るからさ」
彼女たちのプライドを傷つけないよう、精一杯の愛想笑いで、でもはっきり断った……つもりだった。
けど、どういうわけかメイド達、この言葉を耳にするなり、みるみる目尻をつり上げて、
「んまあ、なにをおっしゃいます!ナイトウェアに着替えずお休みになるだなんて、なんてはしたない!絶対に着替えていただきます!」
言うが早いか、半ば押さえつけるようにして、無理矢理私から服をはぎ取り、白くてふわふわの、やたら肌触りのいい――その分、なんだか頼りない――服をかぶせられてしまった(着替えの最中、何度か腹がヤバいことになりかけたが、命がけで、なんとか我慢した。着替えが終わった瞬間、トイレはどこかと聞かなくてはならなくなったけど……)。
口をゆすぎ、よろよろと部屋へ戻ると、横一列に並んだメイドが待ち構えており、「それでは、今日はこれで失礼させていただきます」と一斉に礼。なんと答えていいか分からず、「ああ、いえ、はい……」とまごまごしている間に、さっさと部屋を出て行ってしまい……私はぽつんと一人、薄暗い部屋に残されることになった。
気がつけば、もう日はとっぷり暮れていた。
怒濤の一日がようやく終わったのだ、と気がつくと同時に、疲れがどっと押し寄せてきて、私は、そそくさとベッドに――天蓋付きで、四方八方にゴージャスなレースが張り巡らされている上に、なにが詰まっているのか知らないが、あまりに深く、柔らかく沈み込むせいで、手をついたらつんのめってひっくりこけそうになった、仰々しいことこの上ない代物だ――もぐり込んだ。
ところが、背中の感触があまりにふわふわと頼りなさ過ぎ、どうにも不安で寝つくことができない(酷使した胃袋を優しく包み込んでくれたのだけは、とてもありがたかったのだけど)。体はともかく、心はヘトヘトに疲れ切っているはずなのに、いざ目をつぶると、頭の芯が冷たく冴え、次から次へとめまぐるしくいろいろな想念が思い浮かんで、夢の世界への入国を意地悪く邪魔するのだ。
中でも、度々思い浮かんだのは、「おばちゃん」――マーガレット・ブラックバーン辺境女伯のことだった。
泥まみれになって動物の世話をするほか芸のない私のような女をわざわざ探し出し、救い出してくださったばかりか、お目にかかってすぐのうちは、あれほど温かく迎えてくださった。なのに、二こと三こと言葉を交わしただけであれほど不機嫌になられたということは、きっと私が気づかぬうちに大変な失礼を働いたからに違いない。本当に申し訳ないことをしてしまった――しかし一体、私のどの言葉が失礼だったのだろうか、言葉ではなく、心の中で「あ、夢で会ったおばちゃんだ!」と思ったのが、伝わってしまったのだろうか――そんなことを思い悩みながら、ごろんごろんと何度も何度も勢いよく寝返りを打っているうちに――あまりにマットが柔らかすぎて、勢いをつけて転がらないと、寝返りさえできないのだ――どんどん時間が経っていき、気がつけば、真っ暗だった部屋の中が、うすぼんやりと明るくなっていた。
普段なら起き出して身支度を始める時間だ。
その頃になってようやく、
(よし、決めた。日が昇ったらすぐ、荷物を返してもらって、ここから立ち去ることにしよう。なんのご恩返しもしないままいなくなるのは心苦しいけれど、御領主様は、私の姿を見るだけでご不快の様子だし、さっさと姿をくらました方が、きっとご安心なさるはず。うん、そうしよう……)
ようやくはっきり心が決まり……私はようやく、すうっと眠りの世界に引き込まれていったのだった。
普段なら、眠りに落ちればすぐに、「魂の牧場」へと足を踏み入れ、動物たちと楽しい時間を過ごせるのだが……この日は、眠った後まで最悪だった。
久々に、母さんの夢を見たのだ。
夢の中で、12歳に戻った私は、あの襲撃の晩、隠れていた木のうろの中に戻り、何もすることができずにただただ震えていた。そこへ、異様に長い手足をぶらりぶらりと揺らしながら、母さんがのたりのたりと近づいてくる。脚の長さが伸びた分だけ背丈も伸びて、今や母さんの顔は、木の枝の間にできたうろにいる私より高い位置にある。
目を見開き、歯を食いしばったまま口を大きく開けた、恐ろしい笑顔を浮かべ、木々の枝を見下ろしながら、ひょろ長い手で枝をがさがさとかき分け、子供が隠れられそうなところを、一つ一つのぞき込んでは、「ちがあう」「いなあい」とつぶやき、また次を探して……次第に私の隠れている木へと近づいてくるのだ。
やがて……ついにその時がやってきた。
「いたああ……!」
うろの中で身を縮こまらせ、樹上を見上げていた私に覆い被さるように、母さんはぐうっと顔を近づけ、食いしばった歯の隙間から、かすれた笑い声を立てる。
「わたしがこんな姿でさまよっているのに、お前は、ぬくぬくと眠っているのか……?」
母さんの言葉に胸を切り開かれ、私は、たちまち大声で泣き始めた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
「許さない……ゆるさなあああああい……!
「ごめんなさい、ごめんなさい!」
両目から止めどなく涙があふれ、頬を伝って流れ落ちてゆく。私のために犠牲になり、私のために死んでしまった、愛しい母さん。どれほど謝っても謝り足りない。
「だああああめだ、ゆるさなあああい……お前は、絶して幸せになってはいけあああい……」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
そうだ、私には、幸せになる権利などない。安楽な生活を送る権利もない。こんな心地よいベッドで眠り、湯気を立てたおいしい食事を――なにをどうして作ったのか、全く分からない代物だけど――お腹いっぱい詰め込むなどということは、私には許されないのだ。
「不幸になれええええ……不幸になれえええええええ……」
涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、私は精一杯の謝意を込めて、何度も何度もうなずく。
わかっています、絶対に幸せになんかなりません、不幸でいます、私は悪い子です、幸せになんかなりません……。
言葉にならない分、精一杯の気持ちをこめて、私は母さんに誓いを立てる。
絶対に幸せになどなりません、不幸でいます……。
8
ふと気がつくと、母さんの顔があった位置そのまま、私に覆い被さるようにして、じっと私を見つめている顔があった。
あまりの驚きに大きく息を吸い込んだまま、全く息ができなくなる。
と。私を見下ろしていたその顔が、にたり、と笑った。
(喰われる!)
思わず目をつぶり、顔をそむけたのだが……いつまでたっても、喉元に牙が突き刺さる感触がやってこない。
おそるおそる目を開けると……相変わらず目の前に合った顔が、不機嫌そうな真顔に戻っていた。
「お目覚めでございますね?」
そこで、記憶が一気に戻った。
ここは辺境女伯様のお屋敷。一介の食い詰め牧童に過ぎない私は、どういうわけかいきなりここへ連れてこられ、今まで見聞きしたことすらなかった生活にいきなり放りこまれた。その衝撃が強すぎてなかなか寝付けず、ようやく明け方頃に寝付いたところ。そして……私を揺り起こし、顔をのぞき込んでいるのは、泥まみれだった私をバスタブで洗浄し、研磨し、文字通り一皮ひん剥いた――バスタブに残った汚れと垢は、優にそれぐらいの分量があったと思う――メイドの一人だ。
「朝のお支度をいたします。起きてくださいまし」
縦にも横にも巨大な体。その上に、傲慢・尊大・不機嫌を体現した顔が、どっしり鎮座している。その口から発せられる言葉は、礼に適った「要望」という形を取ってはいるものの、実のところ、明らかに私への「命令」だ。
無駄なんだろうな、と思いつつ、私は一応、おそるおそる彼女に声をかけた。
「あなた、名前は?」
「ダーラと申します、お客様」
「お客様はやめて。私はパトリシア。それでね、ダーラ。あの……実は私、昨日はなかなか眠れなくて、夜が明ける頃になってようやく寝ついたんだ。だからその、もう少しだけゆっくりベッドで休めないかなと思って……」
本当のところ、久々に母様の夢を見たせいで、もうこれ以上ないってほどに目は覚めていた。が、いきなりたたき起こされたあげく、昨晩のような手荒い洗礼を施されるのはなんとしても避けたくて、なんとか彼女たちを部屋から退出させ、そのすきに自分で身繕いしてやろうと思っていたのだ。
ところが。
ダーラは一瞬にやりと笑うと、つんとあごを上に向け、さげすむような目つきでじっと私を見つめる。
「パトリシア様が、どうしても朝寝坊したいとおっしゃるならば、私どもは下がらせていただきます。ですが、奥様から承ったところによると、パトリシア様は、今朝9時に――もう後一時間後でございますね――あるお方とご面会していただく予定だそうでございます」
「え」
「お見えになるそのお方は、奥様の甥御様で、今は騎士様ですが、やがて爵位をお継ぎになる予定の、若く、素敵な殿方でございます。その方の前に、くしゃくしゃの髪、腫れぼったい目、だらしない寝間着姿でぜひとも現れたい、とおっしゃるのでしたら、ええ、私どもはこれで……」
「わかった、分かったよ!降参!私が悪かったです!」
悲鳴のような声で私は叫び……その後一時間、彼女らの手で思う存分磨き立てられ、再び「品評会直前の牛」になった気分を味あわされたのだった。
メイド三人組の獅子奮迅の活躍によって、約束の刻限の五分前に、どうにか私は「初対面の高貴な方にお会いする」のにふさわしい――ダーラが言うには「なんとか失礼には当たらない位にはなりましたね」レベルらしい――出で立ちに仕立て上げられた。ゼイゼイ肩で息をしながら、高い背もたれのついた椅子にへたり込み、しばらく息を整える。それからようやく背筋を伸ばしてすわり、真一文字に引き締めた唇の端を軽く引き上げ、どうにか笑顔に見えないこともない顔をつくり、来客を迎え撃つ体制を整える。
と、そこへ。
「ハワード様がいらっしゃいました」
昨日、私が食事している最中も、常に冷静で穏やかな態度を崩さなかった――さぞやとんちんかんなマナー違反を死ぬほど犯していたに違いないのに――執事のサーモンが、心なしか心弾ませているような声で、そう告げる。同時に、扉がものすごい勢いで大きく開き、
「やあ、はじめまして!君が、この国の救い主になるかも知れないっていうお嬢さんだね!」
満面の笑みを浮かべた長身の青年が、飛ぶような勢いで私のすぐそばまで駆け寄り――私に立ち上がる隙さえ与えずに――両手を強く握りしめた。
「嬉しいよ!僕たち以外に精霊使いがいて、しかもその人が強力な力を秘めていて、その上、まさか、君のように美しいお嬢さんだなんて!」
金髪巻き毛にまん丸縁なし眼鏡のイケメン――というには、ちょっとだけ童顔で、朗らかすぎるけれど――にいきなり両手を包み込むように握られ、吐息がかかるぐらいの距離で、熱く恋を――いやいや、わけの分からないことをささやかれ、私はがらにもなく、すっかり舞い上がってしまった。
「あ、あの……ごめんなさい、申し訳ないけど、手を、離してくださいますか……?」
ちょっとはにかむようにもじもじ身じろぎすると――ああ、本当に、どこからどう見ても私らしくない。普段の私なら、男に気安く手を握られようものなら、即座に振り払って、ナイフを抜いているところなのに――相手の青年――ハワード様は、慌てて手を引っ込め、はにかんだ笑みを浮かべて、ガリガリと頭をかいた。
「ごめんね、びっくりさせてしまって。あんまりわくわくして、ちょっと我を忘れてしまったんだ。なにしろ、マーガレットおばさまに師事した者以外で精霊使いが見つかるなんて初めてのことだし、しかもその人が、誰よりも多くの精霊を呼び出せるほどの才能があるっていうんだからね!君、本当にすごいよ!」
ハワード様は、再びぎゅっと私の手を握ると、大きく見開いた目をキラキラさせ、憧れの女性を見つめるような目で、じっと私を見つめた。
(うわ、この人、瞳の奥まで澄み切った、きれいなブルーの目をしてる。身分の高い人は、瞳まで綺麗なんだ……)
ありふれたハシバミ色の瞳に、日々の労働で浅黒く日焼けした肌。美人というには目も眉毛もいささかつり上がりすぎた、気性が激しくてけんかっ早い、男勝りの牧童――それが私だ。
そんな私が、場違いなお屋敷で、場違いな服装を着せられ、一目見ただけで生え抜きの貴公子だと分かる殿方に熱く見つめられているのだ。あまりにあり得ない状況に、困惑や恥ずかしさを通り越して、なんだか哀しい気分にさえなってくる。
「あの……ハワード様。大変心苦しいのですが、あなたはなにか、誤解なさっているようです。私は、一介の牧場主の娘に過ぎません。それも、幼くして両親を亡くし、以来牧童として動物の世話をして生きてきた、つまらぬ女です。あなたのいうような特別な力など、私には……」
と、ハワード様の表情が、わずかに曇った。
「え?でも……おばさまから聞いたけど、君、信じられないほど美しくて広々した魂の牧場に、すごく多くの動物を飼っているんでしょ?」
「それは、まあ、そうですが、そのような夢の話など……」
「もちろん夢の話だよ!それが大事なんじゃないか!夢こそ、この生者の世界と精霊界とをつなぐ架け橋なんだから!」
「お願いです、そのような夢物語で、私をからかうのは、どうかおやめください。いくら夢の世界で大きな牧場を持っていようと、そんなもの、現実では何の役にも……」
「もう、そんなにとぼけないでよ。叔母様から聞いてるんでしょ?それじゃ、早速……」
私の両手を握りしめていた手を放すと、ハワード様はいきなり、私の頭を片手で押さえつけ、片手を腰のベルトに当てた。
(これは!)
……私の頭を乱暴に股間へと引き寄せ、「ほら、咥えろよ」といいながら、ズボンを下ろした中にある、薄汚いモノを、顔にぎゅっと押しつける――そんな、思い出したくもない光景が、一瞬頭の中をよぎった。
私は、
「何しやがる、この変態野郎!」
と叫ぶが早いか、目の前にあった燭台を反射的にひっつかみ、ハワード様――いや、ハワードの野郎の腹めがけて、まっすぐに突き出していた。
今まで相手にしてきたゲス男たちで、これをかわすことのできた男は、誰もいない。皆、あまりの衝撃に、えぐられた腹を押さえ、苦悶の表情を浮かべながら、じたばた地面をのたうち回るのだ。
そのみっともない姿を見ながら、「このパットブル様に迂闊に手を出すから、はらわた食いちぎられるのさ。これからバカな真似をするときゃ、よくよく相手を選びな、このゲス野郎!」と啖呵を切り、意気揚々と立ち去るところまでが、お定まりのパターンだったのである。
ところが。
ハワードの野郎は、信じられないほど敏捷な動きで、やすやすと燭台の先をかわすと、
「ちょっとお~!いきなりなにをするのさ、危ないじゃないか~!」
突然の攻撃に対する驚きも怒りも全くない――ということは、私の攻撃に全く脅威を感じなかった、ということだ――ただ困惑だけがこもった、情けない声を出しやがったのだ。
「てめえこそ、私に何させる気だったんだ、このゲス野郎!」
必殺の一撃を余裕綽々でかわされた屈辱で、頭に血が上った私は、大声で雄叫びを上げつつ、当たればただでは済まない勢いで、何度も何度も燭台を突き出す。が、ハワードは、必要最小限の動きでそれらの攻撃を全てかわしながら、
「ねえ、どうしたの?いきなりこんなの、変だよ。お願いだから、落ち着いてよ……」
困り顔で、ひたすら懇願するばかり。
せっかく綺麗にといてもらった髪を振り乱し、上等なドレスを汗で台無しにして、相手を口汚くののしりながら攻撃すること、十数度。燭台の重さに腕が上がらなくなり、とうとう私は、疲れ果ててその場に座り込んでしまった。
「ちきしょう……ちきしょう……!」
悔しさに、自然と涙が頬を伝い落ちる。
そんな私を気遣うように、ハワードは、そっと背後から私の肩に触れた。
「あの……なにか気に障ったようで、本当にごめんね。僕は、ただちょっと、確かめたかっただけなんだけど、あんなに怒るなんて、思ってもみなくて……」
「なにが確かめるだ!ちくしょう……!勝手に人の頭押さえつけて……男の考えることはみんな一緒だ、ちくしょう……!」
「え!?ええっ!ち、違うよ!そんなんじゃないよ!頭を押さえたのは、ただ……」
「好きにすればいいだろ!こんな賤しい女のカラダがほしいんなら、くれてやるよ!ほら!」
肩に置かれた手をつかみ、胸元にぎゅっと押しつけてやる(残念ながら、ちょっと押しつけただけで、すぐあばらにぶつかる程度の膨らみしかないのだけれど)。
と、驚いたことに、ハワードは、
「ひゃあああああ~~~!!!」
とものすごい悲鳴を上げると、大慌てで手を振りほどき、
「び、びっくりした!何するんだよう~!」
胸に触らせた方の手を自分の胸に押し当てながら、みるみる顔を真っ赤にしていく。
(え……?なにこの、うぶな反応……?)
私が眉をひそめたところで、
「ハワード様。ひょっとして、このお嬢さん、なにも知らないんじゃないですかね?」
ハワード様の背後から、どこかうんざりしているような声が聞こえてきた。
「夢の世界を、現実とはなんの関わりもないもの、とか言っちゃってるんですよ?絶対この子、なにも知らないんですって」
「え?でもさ、ホットミルク。この子を見いだしたのは、ほかならぬマーガレット叔母様だよ?わざわざ自分の馬車と秘書官――ツナまで派遣して連れてこさせたんだよ?なのに、なんの説明もしてないなんて……」
「だったらなんで、このお嬢さん、あんなに大暴れしたんです?それに今だって……」
ホットミルク――どこか人を見下したような少年とハワードは、同時にゆっくりと私を振り返り……そのしばらく前から二人を交互に見つめていた私は、慌てて視線を下に落とした。
けれどホットミルク様は――すっとぼけた名前だけど、ハワード様にずけずけと自分の意見を言えるぐらいなのだから、きっとこちらも「様」付けしないといけない身分の人なのに違いない――私のばつの悪い心持ちなどまるで頓着せず、ずい、と顔を寄せ、至近距離から、いかにもうさんくさそうな表情で、じっと私を注視してきた。
「お嬢さん。わたしが何者か――どういう立場の者か、分かりますよね?」
「え……あの、その……きっと、ハワード様の弟君か、親戚の方です、よ、ね?」
そう言った途端、ホットミルク様はやってらんない、といわんばかりに大きなため息をつき、ハワード様は、この上なく驚愕した、といわんばかり、大きく体をのけぞらせた。
「ほらね?この子、何にも分かってないんですって!」
「そのようだね……マーガレット叔母様ったら、どうしてこんな、中途半端なこと……」
「さあね。それはさておき、とりあえず、この子にはじめから説明してあげた方がいいんじゃないですかね?」
「あ、うん、そうだね!」
ホットミルク様の言葉遣いがどんどんぞんざいになっているのに、ハワード様はそんなこと、全く気にもしていない様子で、素直に彼の言葉にうなずくと、
「さあ、お嬢さん」
と私に手を差し出し、再び椅子に座らせてくれ、自分はテーブルの反対側に腰を下ろした。
「えっと、じゃあ……どうして君がここに連れてこられたか、なんだけど。知っての通り、マーガレット叔母様は、このラマンデル聖王国きっての魔法使いでね。君は、大魔法使いの後継者となるべき人間なんだよ」
私の目が大きく見開かれ、ぽかんと口を開けたのを見て、ハワード様はまたしても、大慌てに慌てだした。
「待って、待って!怒らないで!暴れないで!泣かないで!ちゃんとはじめから、順を追って説明するから!お願いだから、そんな顔しないで!あのね、まず、君が夢だと思っている魂の牧場だけど、あ、もちろん夢は夢なんだけど、それだけじゃなくてね……」
ホットミルク様のあきれたような視線にも気づかず、ハワード様は、大きく手を振り動かし、必死の形相で説明をはじめたのだった。
9
ハワード様の説明によると――彼の説明だけではなんだかよく分からなかったので、ところどころホットミルク様から補足してもらいながら――どうやら私が「魔法使いの後継者」有力候補と目されるようになったのは、私が夢の中に「魂の牧場」を所有し、「騎士団」をはじめとした数多くの動物をそこで世話していたから、であるらしい。
気がつけばいつの間にか、私の心の中には広々とした牧場があった。そこで、かつて生活を共にした動物たちとともに過ごすのは、私にとって、ごくごく当たり前のことだった。それは本当にありふれたことに過ぎず、ペットであろうと家畜であろうと、動物と少しでも親しく付き合ったことのある人ならば、皆そのような「魂の場所」を持っているものだとばかり思い込んでいたのだが……どうやら、そのような場を心の中に構築できるのは、ごくごくまれなことであるらしいのだ。
「「魂の土地」に呼び入れられる動物は、現世で真に愛情を込めて世話をした後、亡くなった動物の魂だけでしてね。そして、「魂の土地」を心の中に所有するには、植物たちに敬意と愛情を持って接していなければならないのです。その条件を二つながら満たす人間は、本当に数少ないのですよ」
ホットミルク様が丁寧に説明してくれる横で、ハワード様がぶんぶんと首を縦に大きく振る(妙齢の男性にしては、ちょっと無邪気すぎる仕草だ。冷静で落ちついているホットミルク様と比べると、どちらが年上なのか、まるっきり分からない)。
「そうなんだよ!僕なんか、小さな頃から叔母様に、植物の世話もしっかりしろ、って言われ続けてたのに、なかなかうまくできなくて!なんか、植物って、虫がつくでしょ?僕、あれがすごく苦手で、今でも触れないんだよ!おかげで、魂の中庭も、本当に小さい、猫一匹飼うのがやっとの大きさしかなくて、ブラックバーン門下の劣等生、なんて呼ばれちゃってるんだよね!あははははは……」
自分の無能ぶりを、会ってからまだ一時間も経っていない私に、あっけらかんと話した上、それがいかにも楽しいことであるかのように、大声で笑い飛ばす。その、あんまりにもこだわらない態度に、私はどう返答していいか分からず――まさか、「そうだね、そりゃあ本当に無能だね!」と一緒に笑い飛ばすわけにもいかないし――困惑した笑顔をひたすら向け続けた。
私のぎくしゃくした笑顔を見かねたのか、
「というわけで、誰かから教えを受けたのでもないのに広大な土地を心の中――精霊の地に所有し、そこに多くの動物の霊を住まわせているあなたは、まれに見る才能の持ち主、と言うことになるのですよ。ええ、稀代の魔法使いである辺境女伯その人が、わざわざ八方手を尽くして探し出し、自らの腹心を遣わしてスカウトしてくるほどにね」
と、ホットミルク様が、やや早口で助け船を出してくれる(この少年、本当によく気が回る。ひょっとすると、ハワード様がこんなだから、その世話をするうち、自然と気が利くようになったんだろうか?だとすると、ハワード様ってやっぱり、相当残念な方なのであろうか……)。
私はほっとしながら――同時に、ハワード様の評価を「素敵な青年貴族」から「かわいらしい貴族の少年が、そのまま青年になっちゃった人」にシフトさせつつ――おそるおそる口を開いた。
「あの……「魂の牧場」を持っている人間は、すごく珍しいんだ、ってことは、分かりました。でも、まだよく分かりません」
「うんうん!なにが分からないの!?」
「毎晩夢の中で訪れる「魂の牧場」があって、そこに動物たちがたくさんいる。彼らがいてくれたおかげで私は、現実のつらい日々にも耐えて、今日まで生きてくることができました。けど、それ以外に、魂の牧場が一体なんの役に立つんです?」
ハワード様とホットミルク様は、私の言葉を聞くなり顔を見合わせ、それから、にっこりと笑った。
「「夢の中の土地」は、精霊界とつながっていてね。そこに住む動物は、樹木の加護と人間の愛情とによって、死んだ後、精霊として昇華した存在なんだ」
「え……?」
なにを言われているのかよく分からず、私は眉をひそめた。と、ハワード様がちらりとホットミルク様に目をやり、ホットミルク様が、心得顔でこくりと頷いた。
その瞬間。
それまで確かに少年の姿であったものが、ぼんやりとした靄に包まれたかと思うと、たちまちふわふわと溶け出し、どんどん縮んでいき……気がつくとそこに、一頭の猫が、いたずらっぽい笑顔を浮かべ、きちんとすわっていた。
驚きのあまり、声の出ない私に、
「紹介するよ。生きていた頃から僕の一番の友達で、今は精霊として僕を助けてくれている、ホットミルクだ」
と、ハワード様が嬉しそうに言うと、それに合わせてホットミルク様――いや、ホットミルクも、「にゃ」と短くあいさつする。
「マーガレット叔母様は、この国一番の魔法使い――精霊使いでね。12匹もの動物を魂の中庭に住まわせ、精霊として呼び出し、自在に使いこなして……数々の奇跡を起こしてきたんだ」
その後を引き継ぐように、いつの間にか少年の姿に戻っていたホットミルクが、
「あなたはね。この国で唯一、ブラックバーン辺境女伯よりも広大な「魂の土地」を所有し、そこに、彼女よりも多くの動物たちを住まわせている、偉大な精霊使いの素質を持った方なのですよ」
と、嬉しそうにささやく。
私は――私は、ただただあんぐりと口を開け、「……へ?」とマヌケな声を出すだけで、精一杯だった。
とりあえず落ち着かなくちゃ、ということで、ハワード様が目を丸くするのも構わず、目の前に合った水差しをひっつかんで中身をごくごくとラッパ飲みし、ドレスの袖で、ぐい、と口をぬぐったところで、
「えっと……えっとさ。よく分かんないんだけど、とにかく、あの、あんた……ホットミルクは、一度死んで、それから、精霊としてよみがえった、ってこと?」
言葉遣いが普段通りの乱暴なものに戻ってしまっているのにも気がつかず、息せき切って私がそう尋ねると、ホットミルクはにっこりと笑った。
「ええ、その通りです。動物として一度死んだ後、すぐに召喚されましてね。今はこうして、精霊としてハワード様にお仕えしています」
「あの、じゃあ、じゃあさ。私の「魂の牧場」には、大好きだった動物たちがたくさんいて、毎晩夢の中で会いにいってるんだけど……あの子達と、もう一度、この現世で会うことができるの?寝ている間の短い時間だけじゃなくて、ずっと、ずっと一緒にいることができるの?」
椅子を後ろに跳ね飛ばし勢いで立ち上がり、ぐっと体を乗り出し、ハワードの顔を正面からまじまじと見つめる。そんな私の勢いに引いたりせず、ハワードも真剣な目で、じっと私を見返し、うなずいてくれる。
「うん、できるよ。ただ……」
「やる」
「いや、ちょっと待って。精霊を召喚するには、いくつかの条件が……」
「うん、なに知ればいいのか教えて。すぐにやるから」
もしもう一度パットを――「騎士団」や他の子達をこの腕で抱きしめられるのなら、なんでもする。どんなつらい代償があろうと耐えて、絶対彼らを呼び戻してみせる。
が、ハワードは、そんな私を見て、困ったような顔で、ちらり、とホットミルクを見た。
彼はため息を一つつき、ひどく真剣な顔で、じっと私を見つめた。
「パトリシア様。あなたは本当に自分の動物達を愛していたんですね」
「当たり前だろ!あの子達は、私の、かけがえのない家族だ!」
「あなたに世話された動物は、きっと皆、幸せだったのでしょうね。ですが、ちょっと待ってください。精霊使いになるのは、そう簡単なことじゃないんです。正式な精霊使いになるためには、いくつかの段階を踏まなければいけないし、なってからも、いろいろな制約や規則に縛られることになります。それでも……」
「うん、構わない。なにをすればいいのか、教えて」
全くぶれない私の返事に、ホットミルクは、にっこりと笑った。
「分かりました。では、説明しますね。まずあなたには、王国騎士になっていただかなくてはなりません」
……キシ?騎士って、きらびやかなヨロイを着て、槍やら剣やらで敵と戦う、あの騎士?いや、なれって言われりゃなるけどさ、私みたいな平民の底辺みたいな女が、そう簡単になれるの?
ぐっと眉根にシワを寄せていると、ホットミルクがさらに説明してくれる。
「我が国では――というより、「現世」のどの国でもそうなのですが――精霊使いは、我欲を封じ、国のためにのみ力を奮うと誓いを立てなければなりません。そうしないと、ただ精霊使いである、というそれだけで、国軍に追われ、犯罪者として断罪されることになります」
「ただ、精霊使いだってだけで!?そりゃ、あんまりじゃないか?」
「それだけ強大で、危険な存在なのですよ、精霊使いは」
「お、おう」
辺境女伯様やハワードを見る限り――特にハワードを見る限り――危険な力を秘めた人間には見えないけどな。
「えーと、それじゃ、その「誓い」ってのを立てればいいのか?今ここで?」
そう言うと、ホットミルクはぎょっと目を見開き、慌てて首を振った。
「まさか!違いますよ!国の守りのために尽くす、と誓うってことは、つまり、「騎士になる」ってことなんですよ?王都にある大聖堂で、有力な貴族と位の高い聖職者達が見守る中、国王陛下その人の前で誓いを立てるんです」
「え、ええっ!?国王陛下って、王様?ひょっとして、あの、この国で一番えらい、あの王様のこと?」
「普通、王様は国で一番えらいと思いますが」
「そんな人に、誓いを立てなきゃいけないの?」
「そりゃ、王国騎士ですから」
「ひゃああ……そんなおおごとなんだ……王様って、そういう人がいるのは知ってたけど、今まで見たこともないよ。そんなえらい人が、私なんかに会ってくれるのかな。まあ、いいや、じゃあ、行こうか」
「え?行こうかって、どこへです?」
「え、だから、王都へ。そこで王様に会って、誓いを立てるんだろ?」
「いや、もう、だから!そんなに簡単じゃないんですってば!」
ホットミルクが、あきれ果てたといわんばかり、うんざりした声を出す。
そんなこと言われたって、昨日まで、私が知ってる「えらい人」っていえば、牧場主とその奥方ぐらい、騎士とか貴族とか国王なんて、歌か物語の中でしか聞いたことない、って生活を送ってきたんだ、それを急に「騎士になれ」って言われても、どうしていいか知ってるはずないじゃないか。もう、いっそ、「これであなたも騎士になれる!若者のための騎士のなり方」とか「騎士になる10の方法――底辺から騎士への華麗なる転身」とか、そういった本でも用意してくれよ、それで勉強するから……!
私が唇をとがらせ、むっつり不機嫌な顔になったのを見て、ハワードが慌てて口を挟んだ。
「あ、あのね!騎士になるには、力を示さなくちゃいけないんだよ!指導者――マーガレット叔母様の前で、他の魔法使いと模擬戦を行い、そこで、確かに国を守るだけの力がある、と証明しないといけないんだ!」
「そう、そうなんです。そこで、「この者は、確かに騎士になるにふさわしい実力を身につけた」と認められると、国王へ推挙してもらえる。そこで、さらに中央政府が審理をし、認可されてから、初めて王都大聖堂での叙任式に臨む、という流れになるんです」
「なんか、結構面倒くさいんだな」
「ええ、そう、面倒くさいんです。しかも、騎士になってからだって、国家の公式な使節として赴くのでない限り、基本外国には行けなりますし、国家の命令があれば、絶対に従わなくてはいけません。それに、国の外から敵が攻めてきたときには、体をはって戦わなくちゃいけないんです。ま、簡単に言うと、この先一生、国に縛りつけられて生きていかなければならない、ということです」
「そうなんだ……」
「騎士ってね、表向き、華やかでかっこいいだけのように思われがちだけど、義務と軍務にずっと縛られる、結構つらい立場なんだよ。それでも大丈夫?耐えられる?」
顔をのぞき込むように見つめられ、心の底から心配そうな声音でそう言われて――ハワードのような「絵に描いたようなイケメン」に気遣ってもらえてるんだ、と思うと、そんな場合じゃないのに、私の心はふわふわと浮きたち、思わず、柄にもなく「ウフフ」とか笑いそうになった――私は、ちょっと考えこんだ。
騎士ってのは、国のため、敵と戦わなくちゃならない仕事らしい。でも、今までだって私は、人を殺したことこそないものの、欲情した男たちや、横暴な牧童頭、牧場主なんかと、体をはって戦ってきた。相手に深手を負わせたことも、逆に、半死半生の目に遭わされたこともある。今更、戦うことにためらいはない。外国に行けなくなる?自由を制限される?しがない流れの牧童に、もともと外国へ行くチャンスなんかないし、雇い主にやいやい言われながら朝から晩まで働かなくちゃならない私に、そもそも「自由」なんてものは全くなかった。そんな今までの生活と比べて、騎士の生活は窮屈か?いや、あんまり変わらない。明日の寝床と飯の心配をしたり、夜中にやってくる毛むくじゃらの男がいなかったりする分、大分マシ。――うん、分かった、OK。
私は顔を上げ、ハワードの心配そうなまなざしを、強い意志を込めた視線で受け止めた。
「心配してくれてありがとう。それでも私は、騎士になる――なりたいと思う」
「そう!よかった!」
ハワードがにっこりと笑い、つられて私も、笑顔を浮かべた。
けれども、ホットミルクは難しい顔を崩さない。
「あと、もう一つだけ、確認させてください。召喚魔法を使い、精霊を呼び出すには、霊力を統べたもう神々の一人と契約した上、精霊一人一人を呼び出すための召喚紋を結ばないといけません。それらの契約紋、召喚紋は、術者――つまり、あなた自身の肉体に直接書き込む必要があります。それも、覚悟できますか?」
「体に書き込むって、入れ墨みたいな?それって、痛いの?」
「痛くはありませんよ。けれど、特殊な液体で紋様を書き入れるため、一生消えることはありません。しかも、精霊を呼び出している間――それはおそらく、あなたが生きている限り、精霊使いである限りずっと、ということになるかと思いますが――紋様は発動し続けます。発動した紋様は、あなたの肌の上を止まることなく動き続けることになります」
「動き続けるって……あちこちに移動するのかい?」
「いえ、そうではなくて……どう言えばいいですかね……」
と、ここで、ハワードがホットミルクに、にっこり微笑んだ。
「ホットミルク。実際に見てもらおうよ。それが一番早いって!」
言うが早いか、ハワードは、身につけていた上着やベストを振り捨てるように脱ぎ、クラバットをむしり取ると同時に、シャツのボタンを次々外し、たちまちのうちに、細身ながら、見事に鍛え上げた上半身を披露した。
(うおっ!すげえ……牧童たちの、ムキムキだけど、どこかたるんだカラダとは全然違う……私がいくら攻撃したって、やすやすとかわされるはずだわ……)
無駄な肉がひとかけらもない、強靱だけど柔らかな筋肉に包まれた、まさに古代の彫刻そのものといった肉体を、私はうっとりと眺め、
(こんなすごいカラダで抱きすくめられたら、どんな心地になるんだろう……)
思わず妄想してしまう。
そこへ。
「ほらほら、ここ!これが、精霊紋だよ。見て、動いてるでしょ?」
ハワードが無邪気な声を出し、私は、自分のいかがわしい妄想を慌てて振り払った。
気を取り直し、改めてハワードが指さしたみぞおちあたりを見ると、そこには確かに――さっきは肉体の見事さに見惚れて、全然目に入らなかったけど――直径20センチぐらいの円に囲まれた紋様が、くっきりと青く描かれている。
中心に動物のような模様が描かれ、その周りを三重に取り巻くようにして、見たこともない文字が書かれているのだけど、よく見ると、なるほど、中心の動物紋は右回り、その外側の文字は左回り、その外側は右で、さらにその外側は左、といった具合に、互い違いの方向にぐるぐるとゆっくり、全ての紋様が回転している。
なんとも不思議な光景だった。
今まで一度も見たことのない紋様や文字が描かれているだけでも十分神秘的な感じなのに、その、ただ肌の上に描かれただけの紋様が、生きているかのようにくるくる動いているのだから、驚異的、というのを通り越して、なんだか妖しげな印象さえ受ける。
(これが……召喚紋……)
だがハワードは、私が畏怖に近い心情を覚えていることなど全く感じ取っていない様子で、
「ね?ほら、動いてるでしょ?面白いよね!」
と、この上なくあっけらかんと言い放つ。思わず私は苦笑した。
「そうだね。本当に不思議だ。それで、契約紋っていうのは?」
私が促すと、ハワードは、
「あ、それはね、こっち!」
くるりと後ろを向く。
そこには、腹に描かれた召喚紋より一回り大きい紋が、背中のど真ん中に描かれていた。
「こっちは、動いてないでしょ?契約紋は、契りを結んだ神を呼び出したときだけ発動するだけだからね!」
ハワードのいうとおり、確かにこちらの紋様は、微動だにしていない。その分、書き込まれた文字や模様の精緻さと絶妙のバランスが、よく分かる。
芸術品にも似た美しい紋様を――それともちろん、ハワードの、思わず触れたくなるほど見事に鍛えられた、美しい背中も――十分堪能したところで、
「もういいよ、ありがとう」
私は、彼に声をかけた。
ハワードがいそいそと服を着ている間に、ずっと気遣わしげな目で私を見つめているホットミルクに、向き直る。
「思ってたより、大きな紋様だね」
「はい。かなり目立ちますよ」
「でもさ、すごく綺麗な模様だった。私のこんな、胸も尻も貧弱な、男みたいな体には、いいアクセントになるんじゃないかな」
「契約紋は一つ描けばいいのですが、召喚紋は、呼び出す精霊の数だけ描かなくてはなりませんよ」
「いいよ。構わないから、できるだけ多くの紋を描いてほしい」
「背中に、両肩、脇腹、胸、両方の尻。胴体のほとんどが、紋様で埋め尽くされることになりますよ。普段はハイカラーのドレスを着ればなんとかごまかせるでしょうが、肩の出るイブニングドレスを着なければならないパーティーなどでは、否応なく……」
紋様が人目に触れることになる、か。なるほど、辺境女伯様が、少し古くさい襟の高いドレスを着ていたり、社交に興味を示さず、屋敷にずっと引きこもっていたりするわけが、分かった気がする。
でも。
「それでも構わない。私の動物たちと、再び現世で会えるのなら、どんな代償だって払うよ」
きっぱり言い切ると、ホットミルクとようやく納得したのか、にっこりと笑い、うなずいた。
「決心は固いようですね。分かりました。それでは……」
と、ハワードへ視線を送る。そのハワードは、既に再び服を身につけ――クラバットはひん曲がり、ベストのボタンは掛け違っていたけれど――にっこりと微笑んだ。
「それじゃあ、まずは紋様を描いてもらう準備をしないとね」
「うん、よろしく頼む。えっと……なんか、特殊な液体が必要だっていってたけど……」
「そうなんだ。「フェアリーティアーズ」っていうんだけど、一部の人間にしかその存在を知られていない、すごい液体でね。現世と精霊界を橋渡ししてエネルギーの行き来を可能にする働きがあるんだ!だから、ものすごい高価でね、これくらいの瓶一つで、2千ドラクマぐらいするんだ」
これくらい、とハワードがテーブルから持ち上げたのは、高さ10センチほどの、ジャムの入った小瓶だった。私は体中から音を立てて血の気が引いていくのを意識すると同時に、思わず甲高い声で叫んでいた。
「二千ドラクマ!え、たったこれっぽっちが、金貨2千枚もするの!」
「そうなんだよ、本当に手に入れるのが難しい、秘薬だからね」
私は、真っ青を通り越して真っ白になった顔で、ぶんぶんと激しく首を振った。
「無理無理無理無理!そんな高価なもの、絶対買えない!あ、やっぱり私、魔法使いになるの、無理です!そんなお金、一生どころか、この先十回ぐらい生まれ変わったって、絶対手に入りそうにないし!」
首に合わせて両手もぶんぶん振っていると、それがよほどおかしかったのか、ハワードがケラケラ笑い出した。
「大丈夫だよ!僕たち、魔法使いはね、フェアリーティアーズを買う必要はないんだ!」
「え?」
「フェアリーティアーズが高価な理由はね、それが、魔法使いの体でしか精製されない液体だからなんだ」
「魔法使いの……体?」
「うん。精霊界から目に見えない道を通って魔法使いの体に送られ、体内に蓄えられているんだ。だからね、僕らは、必要に応じてそれを自分の体から抽出し、使えばいいんだよ!」
「抽出って……どうやって?」
それだけ高価な薬が魔法使いの――つまり私の体から採れるのであれば、できる限り一杯絞り出し、売り払って大もうけできるのでは?騎士になんてならなくても十分なくらいのお金が手に入るかも、なんていう我ながらあきれかえるほど下卑た考えが、ふと頭をよぎる(長く貧乏暮らしを続けていると、心まで意地汚くなってしまうのかも知れない)。
「ほら、これ!『エヴェレットの指』!これを使うんだ!」
ハワードがベルトに下げてあったなにかを取り出し、いかにも自慢げに、私の目の前に突きつけてきた。
(……金属製の、櫛?ブラシ?……握りの先に、ガラスでできた瓶のようなものが……)
「この櫛全体が精霊銀ていう、特殊な金属でできていてね。これで髪の毛をくしけずると、そこにわだかまっている精霊気が、フェアリーティアーズとなって流れ落ち、このガラス瓶の中にたまるようになっているんだよ!」
わずかに青く光る金属に、精緻で優美な線刻が施された、その美しい器具に目を奪われ、私はしばらくの間、無言で見入っていたのだが……そのうち、はっと気がついた。
「あの……ハワード様。さっき、私の頭を押さえたのは、ひょっとして……」
「うん、そう!これで、君の頭をくしけずろうとしたんだ!そしたら、君があんなに怒るんで、本当にびっくりしたよ!」
そうか。そういうことか。全ては、私の完全な……下卑た勘違いだったのだ。
みるみる顔に血の気が戻り、さらにどんどん熱くなって……気がつけば、私は顔中を真っ赤に染め、だらだらと汗をかいていた。
「ごめんなさい!私、勘違いして!その、あの、つい下品なことを考えてしまって、その……本当にごめんなさい!」
立ち上がり、肩をすぼめて、思い切り――危うくテーブルに頭を打ち付けそうになるほどの勢いで――頭を下げる。が、ハワードは笑っておおらかに手を振るばかり。
「いいっていいって!気にしないで!急に頭を捕まれたりしたら、そりゃびっくりして当然だもの!僕のほうこそごめんね、驚かしちゃって!」
「は、いえ、あの、本当に……!」
あまりに申し訳なくて頭を上げることすらできず、ずっと頭を下げっぱなしにしていると、
「あ!ちょうどいいや、しばらくその格好のままでいてくれるかな?」
と、ハワードの声が聞こえ……そのすぐ後に、なにかがそっと頭のてっぺんにあてがわれ、そのまますうっと、優しく髪の毛をなで下ろしていくのが伝わってきた。
(なんか、ちょっと気持ちいいな。もっと痛いとか、しんどいとのかと思っていたけれど……こんなんで、採れたのかな?)
おそるおそる私が顔を上げると、ハワードは、満面の笑みで『エヴェレットの指』を眼前に掲げたところだった。
「すごいね、ひとけずりでこんなにたくさん採れたよ!君って、やっぱり……」
と、そこで、ハワードの言葉が途切れた。
見ると、その顔から先ほどまでの笑みは消し飛び、顔中が目になったのではないかというほど大きく見開いて、じっと瓶の中にたまった深紅の液体を見つめている。
「これは……ドラゴンブラッド!」
ハワードが、喉から絞り出したようなかすれ声で叫ぶ。
え、フェアリーティアーズじゃないの?と尋ねようとした矢先、
「なんですって!まさか!」
ホットミルクが、素っ頓狂な大声で叫び、
「だって、ほら、見てよ、これ!」
ハワードが、瓶の中の液体をパチャパチャさせながら、再びわめき、
「本当だ!!これは……これは大変なことになりましたよ!」
先ほどまでの落ち着きはどこへ行ったのか、ホットミルクが興奮しきった様子でそわそわ体を震わせる。
「ねえ、いったいなんのこ……」
「と、とにかく、まずは確認です!確か、辺境女伯様が、一瓶所持しておられたはずですから、すぐに……」
「わ、分かった、すぐ行ってくる!」
言うが早いか、ハワードは慌てふためいて――私になにか言い置くのすら忘れて――扉を蹴り開ける勢いで、部屋の外へと走って行く。
「待ってください!わ、私も一緒に!」
と、頼みの綱のホットミルクまで、その後を追って駆け出してしまい、部屋には、ぽつんと私だけが残されることになった。
「……で、なに?私はまた、事情も分からないまま置いてけぼり?」
部屋の扉に向かい、ぼそっとつぶやいてみるが、当然ながら、返事は返ってこない。
なんだよ、私から採取したなんかで大騒ぎしてるのに、肝心の私になんにも教えないって、一体どういうこと?ふざけんじゃないって!
すっかりへそを曲げた私は、フリルがばさばさついたドレスの裾を膝上までたくし上げ、いつも牧場でやっていたように、片膝の上にくるぶしをのせ、つま先をぶらぶらさせつつ、テーブルに肘をついてあごを乗せ、ぶすくれた顔で「ふん」と不機嫌な鼻息をもらしてやったのだった。