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第1章 牧童の少女は見習い精霊騎士となる 1-6

 一日中動物たちの体をこすり、疲れ切った体を粗末なベッドに投げ出した私は、その晩も、いつものように「魂の牧場」へと足を運び、そこでも(!)動物たちの世話に没頭していた。

 馬房に帰った馬たちを一頭一頭丁寧にブラッシングし、それが終われば、次は牛の世話。羊の頭を一頭一頭なでてやりつつ、病気などしていないか目を光らせ、豚たちの居心地がいいように、寝わらを整えてやる。

 猫たちの喉をこすり、カラスたちとしばらく戯れ、最後に、騎士団と、その見習いたちを呼び集めて、そのふかふかの毛皮に埋もれながら、一頭一頭の背中をなで、静かに語りかける。

 つらいことしかない一日の生活の中、唯一の「至福の時」。金払いと女癖が悪い牧場主も、すぐに頭に血が上る下品な牧童頭も、この「魂の牧場」までは追いかけてこない。眠りの中、この場所に逃げ込みさえすれば、心ゆくまで動物たちとふれあい、一人きりで、のびのびと気持ちを安らげることができる……はずだった。

「ごきげんよう。ここは、気持ちがいいわね」

 犬たちを周りに侍らせて、時折その背中や鼻面をなでてやりながら、ゆったり体を伸ばしてくつろいでいた私は、突然頭の上から落っこちてきた声に、びっくり仰天した。

 慌てて体を起こし、あぐらをかいた姿勢のまま――その時はいていたのが、フリルのたくさんついたお気に入りのフレアスカートだったから、かなりみっともない格好になった――声のした方へと頭を向ける。

 そこにいたのは、落ち着いた紫色のパラソルを差し、やはり紫色で、かなり古風なドレス――裾が大きくふわっとふくらみ、ついでに肩口までもふくらんだ、童話の「お姫様」が着るようなドレスだ――を身につけた女性だった。

「こんなところ、初めて。素晴らしいわ。広くて、健康で、あたたかくて、動物たちの手入れも行き届いてる……」

 見るからに貴族だと分かるその女性は、頬にわずかな微笑をたたえ、牧場の広い敷地に目をさまよわせたまま――私のことは全く見ようともせずに――さらに言葉を続ける。いかにも貴族らしい、無意識に傲慢な態度だ。

 私は少々むっとしながらも、口を開いた。

「ほめてくれてありがとう。ええ、ここはあたしの夢の中の牧場で、動物たちの世話は、あたしがしてるの。それで、おばちゃんは、どなた?」

 17歳にもなってこんな幼い話し方をしているなんて、ひょっとしてこの娘、かなり残念な子じゃないのか……と思われては癪なので、一応言い訳しておく。この「魂の牧場」での私は、あの「襲撃の夜」直前、12歳だった頃の姿そのままなのだ。

 あの時以降、いい思い出なんてないから、せめて一番くつろげるこの場所では、幸せだったあのときのままでいたい、と願っていたからなのか、それとも、ただ単純に、ここにいる動物たちの大半が、あの襲撃で死んでしまった動物たちだからなのか……理由は分からないけど、私は、この「魂の牧場」では、いまだ髪の毛をお気に入りの赤いリボンで結び、それと同じ色のリボンをスカートの後ろで結んだ、生意気だけどまだまだ世間知らずの,12歳の女の子、といった姿なのである。

 そのせいか、話し方まで当時の私に引きずられ、動物たちに話しかける時にも、ついつい「はい、キレイキレイしてあげますね~」とか「わあ、なんてかわいいのかしら!」とか、幼い言い回しになってしまっている。まあ、ちょっとした「ごっこ遊び」をしている気分なのだ(その「ごっこ遊び」をしているのが、17歳のいい年こいた女だってことは、この際目をつぶってほしい)。その癖で、見知らぬ貴族女性にも、ついつい子供っぽい言葉で話しかけてしまった、というわけ。

 まあ、わざと「おばちゃん」という言葉に力を込めて発音することで、今の私が感じている不快感を、相手に味合わせてやろうという、いかにも「いい年こいた女」っぽい会話テクニックをも、会話の仲に潜ませはしたけれど。

 「おばちゃん」は、ほんの一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに先ほどと同じ、ぼんやりした笑顔に戻ると、今度は、まっすぐに私の目を見つめてきた。

「あなた……見かけ通りの年齢じゃないのね?」

「ええ、そう。分かっちゃいましたか?こんな姿で、こんなしゃべり方だけど、本当はもっと年上なんです」

「そうなの。どのくらい年上?」

「うーん……5歳ぐらい」

「あら!じゃあ、5年前から、ずっとその姿で、ここの動物たちを管理していらっしゃるのね」

 あっさり本当のことを言い当てられて、私はぎょっとした。

「え、そんなことまで分かっちゃうの?」

 と、「おばちゃん」は、口元に手を当てて、いかにも上品そうに……いかにも優しそうに、にっこりと笑った(その笑顔があまりにも穏やかで、私は思わず、このおばちゃんを、好きになってしまってた……この5年間、いやっていうほど、人を簡単に信用しちゃいけない、って学んできたはずなのに)。

「ええ、分かりますよ。わたくしも、昔はそうでしたから。わたくしもね、少女の頃から夢の中に『魂の中庭』をもっていたの。あなたのこの牧場よりずっと狭くてこぢんまりしているんだけれど、ここと同じくらい、居心地のいいところだったわ」

「居心地のいいところ「だった」って……今はもう、居心地よくなくなっちゃったの?」

「いいえ。今でもいいところですよ。でもね、ある時から、夢の中庭は、本当の中庭になったから。だから、あまり夢にこだわらなくてもよくなったの。その時からだったわね、私が、現実に近い姿になったのも……」

 微笑んだまま、ふうっと視線を遠くにさまよわせて、おばちゃんは、なんだか楽しそうなことを思い出しているふうだった。けど、私には、彼女の言ったことがよく分からなくて――「夢にこだわらなくてよくなった」って、どういうことだ?年取って、夢なんか見てる暇がなくなったってことか?――眉根にしわを寄せていた。

 と、その時。急に目の焦点が合わなくなったかのように、牧場の風景がうっすらぼやけ……私は、目覚めが近いことを悟った。

「おばちゃん、ごめんなさい、私そろそろ行かないと……」

「あら、待って!まだお話の途中よ!あなたのお名前もだって、まだ聞いてないのに!」

「私は、パット。パトリシア……!」

 ますますぼやけ、色あせ、淡くはかなく遠ざかっていく牧場に焦りながら、私はなんとか、自分の名前だけをおばちゃんに伝えようと、声を張り上げ……次の瞬間、寝床の上で、ぱっちりと目を覚ましている自分――17歳の、やせっぽちで、不格好なほどに手足が長く伸びた自分に気がついていた。



 壁板の隙間から、うっすらと光が入ってきている。もう夜明けが近いらしい。

 階下からは、牛たちの規則正しい寝息に混じり、ぎしぎしと床を踏みならす音が聞こえてくる。もうすでに何頭かが起き出し、夜の間にぱんぱんに張った乳を搾ってもらいたがっているらしい。

 さっさと支度して、搾乳にかからないと。

 だが……残念ながら、今のままでは、ベッドから起き上がれない。

 ごつい両腕を私の腰に回し、貧弱な私の胸を枕にして、があがあいびきを立てて寝入っている男がいるからだ。

 私は、鼻にしわを寄せ、ゆっくり首を左右に振った。

(ったく。男ってヤツは、本当にしょうがない……)

 私をベッドに押さえつけるような格好で寝入っているこの男は、ガス。

 数ヶ月前、私がこの牧場に流れてきてから「そういう仲」になった男だ。

 本音を言うなら、夜明け前から、時には深夜まで仕事をしなきゃいけないんだから、せめて夜の間ぐらい、一人でゆっくり羽を伸ばして寝たい――そして、心ゆくまで「魂の牧場」でくつろぎたい――と思う。が、残念なことに、牧童で、しかも若い女である私には、そんなぜいたくはゆるされない。牧童のほとんどは若い男で、しかも自分が「魅力的だ」と勘違いしているようなヤツばかりだからだ。

 一人で寝れば、必ずといっていいほど、夜中に男が一人――時には二人のこともある――ふがふが言いながら、寝床に忍び寄ってくる。そうなると、ものすごく面倒くさいことになる。

 なにしろうぬぼれが強い勘違い野郎ばかりな上、白目が血走るほど興奮しきっているから、なにを言っても無駄。疲れているから寝かせろといっても、オンナノコの日だからできないといっても、全く意に介さず、無理矢理私の服をひっぺがし、欲望を満足させようとする。しかも、そういうヤツに限ってタフで、ひっかいたり、殴ったりした程度では、全然ひるまない。本気で噛みつき、金玉を蹴り上げ、ナイフをちらつかせ……それでようやく、私が本気で嫌がっている、と悟り、すごすご退散していくのだが、その頃には、決まって夜が明けかかっているのだ。

 結局その日は、寝不足でふらふらしながら仕事をしなきゃならなくなる。しかも、撃退したヤツはたいがい私を恨み、なにかというと嫌がらせをしてくるようになる(どうして男ってのは、ケツの穴が小さいヤツばかりなんだろう?)。そして、その日の晩になると、また違う男がベッドに忍んできやがるのだ。

 こんなことを毎晩繰り返していれば、いくら私が「パットブル」――一度怒り出すと手がつけられず、相手が誰であろうと噛みついて離れない性格が、勇猛果敢で獰猛な闘犬「ピットブル」そっくりだ、というので、数年前に当時の牧童頭だった男からつけられたあだ名だ。ついでに言っておくと、そいつの金玉が片方だけになってしまったのは、別にあたしのせいじゃない。自業自得ってやつだと思う――だからって、さすがに体が保たない。

 安眠する時間を確保するには、誰か適当な男と「そういう仲」になってしまうのが、一番手っ取り早いのだ。

 ガスは、その点まさに「条件にぴったりな男」だ。

 毛むくじゃらで少々頭が弱く、怠け者だが、疑い深くて腕っ節が強く、他のヤツが私に色目を使おうものなら、本気でぶち切れて殴り倒す。

 ある程度――週に1、2回、「オンナノコの日」はお預けだから、せいぜい月に4、5回ぐらい――相手をしてやれば、それでおとなしく満足してるし、女を殴って興奮するだとか、別の「穴」を使ったりとかいう特殊な趣味もない。きちんと教えこんだ後は、しっかり手順を守るようにもなった(中には、何度痛い目を見せて教え込んでも、いきなり入れようとするヤツだっているのだ)。

 そして、何よりありがたいことに、ガスは信じられないぐらいの「早撃ち」――それこそ、入れて5分もたたないうちに、もう弾丸を放ってしまうのだ。しかも、その「早撃ち」がコンプレックスなのかなんなのか、一度射撃が終わると、こそこそと恥ずかしそうにベッドの端で丸くなって、寝てしまう。

 おかげで私は、夜のほとんどの時間、ぐっすり眠ることができる。

 まあ、セックスをエサに、でかくて従順な番犬を飼っているようなものだ(本物の犬たちのようなかわいげなど、まるっきりないのが難点だけど)。

 とはいえ、どれだけ尻尾を振って、嬉しげに抱きついているとしても、人様の仕事の邪魔をするようでは、番犬失格だ。そのあたり、厳しくしつけておかないと、どんどん増長し、手に負えないほど性格が腐ってくる。

 というわけで。私は、なんとか左膝を立ててガスの下半身を持ち上げ、もう片方の膝を、思い切りヤツの股ぐらあたりにたたき込んでやった。

「は、はう、む……!」

 なんとも情けない声をあげ、腰をもぞもぞくねくねと引きながら、ガスがうっすら目を開く。そこへ間髪入れず、

「朝だ。起きな」

 しかめっ面のまま、平板な声で命令を下す。

 だが、ヤツは相変わらず、私に覆い被さったままだ(全く、男ってヤツは、猫より聞き分けが悪くて、狐より性悪だ)。

「なんだよ、パット。まだいいじゃねえか。一日ぐらい寝坊したところで、牛は死んだりしねえよ。それより、もう我慢できねえんだよ。な?だから、な?……」

 すっかり労働モードになっている私に、毛むくじゃらの胸を擦り付け、ガスは甘ったるい、気持ち悪い声を出す。そのナメた態度にカチンときて、目尻と唇をきりきりとつり上げつつ、私は枕の下に右手を差し込んだ。

「いいから、早く私の上からどきな」

 氷よりも冷たい声で宣告しながら、枕の下より取り出したナイフを――刃渡り32センチもあって、ずっしり重い、父さんの唯一の形見だ――ヤツの鼻先に突きつけてやる。

 途端に、ガスはぴたりと動くのをやめ、じりじりと体を起こし始めた。

「な、なんだよ、おい。ちょっとふざけただけじゃねえかよ……おい、ちょっと、これ、どけてくれよ……」

 ヤツが起き上がるのに合わせて、ナイフをどんどん上へと動かしてやる。と、ガスのヤツは当然、それにあわせて――見開いたまなこを寄り目にして、鼻先に突きつけられた刃先を見つめ、冷や汗をかきながら――どんどん上体をそり上がらせていかざるを得なくなる。

 その「上体そらし」がとうとう限界に達し、ヤツの無駄にたくましい筋肉がぶるぶるけいれんし始めたところで、切っ先で、ヤツの胸板を、軽くつつく。

「ひっ!」

 情けない声を上げると同時にバランスを崩し、ガスはベッドから転げ落ちた。

 したたか打ち付けた後頭部を抱え、うめき声を上げながら床を転げ回る情けない姿に、私は唇をゆがめ、「ふん」と一瞬、心の底からの軽蔑した笑いを浮かべる。ちょっとだけ気分は晴れたが、そんな気持ちはおくびにも出さず、イヤな笑顔をすぐにしかめっ面へと戻すと、わたしは、素っ裸のまま壁際へと歩き――いまだにおびえた表情のガスなど、完全に無視して――ブーツの上に脱ぎ捨てたままのシャツを、仕事の段取りを考えつつ、ゆっくりと体にまとわせていく。

 底辺男たちに混じって働く、底辺女のリアルな一日の始まりだ。

 当たり前だけど、その時には、明け方見たふわふわした夢のことなど――「おばちゃん」?誰だ、それ?――とっくに私の頭から消え去っていた。



 牧場の仕事は、基本全て汚れ仕事だ。

 牛の糞にまみれながら寝わらを掃除し、整え、たった一日でもう腐りかけている餌をバケツにあけて、餌箱を水で流し、新しいエサと水を補充する。井戸から水をくんで牛の体をブラシでこすってやる時も、油断するとすぐに汚水を浴びせられるし、草を刈ったりエサのビーツを収穫する時期には、体中汗まみれになる。

 けれど、汗と泥――そして動物たちの糞尿――にまみれて働くことは、あまり苦にならない。私が汚れてきたなくなった分、動物たちの表情が穏やかになり、行動に喜びが満ちてくることを、実感できるからだ。

 動物はいい。気持ちがまっすぐで、わかりやすい。こちらが世話をしてやればしてやった分だけ、素直に感謝し、喜んでくれる。

 それにひきかえ、人間は――特に男たちは――どうしてあんなに分からず屋なのだろう。

 自慢ではないが、私は牧童としては有能な方だ。

 少なくとも、朝はなかなか起きてこず、昼間はだらだらとだらけてばかりで、夕方になればすぐにビールを飲み始める、この牧場の男たちに比べれば、数段ましな働きをしていると思う。

 なのに、なぜ牧童頭は私を「怠け者」と呼び、ことあるごとに怒鳴りつけるのか、さっぱり訳が分からない。

 今日も、雌牛の乳を一通り絞ってから、放牧場へと出してやり、寝床を掃除して、新しい寝わらをしくまでを――ほとんど私一人で!――やり終えたところへ、私の数倍不機嫌そうな顔でようやくやってきたかと思うと、

「まだ終わってねえのか、この怠け者が!馬の世話はどうした、さっさとしねえか!」

 いきなり怒鳴りつけてきやがった。

 これには私もさすがにムカついた。なので、

「そんなにさっさと終わらせたきゃ、牧童小屋でぼやぼやしてやがる男どもに、言ってやりな!」

 相手をにらみつけながら、でかい声で言い返してやったんだ。

 と、牧童頭のヤツ、ますますいきり立った。

「新米のくせに、えらそうな口叩くな!奴らには奴らの仕事があるんだ!」

「へえ。私ら牧童に、動物の世話以外のどんな仕事があるってのさ」

「だから、牛以外に、馬やら羊やら豚やら……」

「馬に羊に豚?笑わせるんじゃないって。私が来るまで、ここの動物たちは皆、ろくに世話されてなかったじゃねえか!かわいそうに、馬は痩せて、羊はドロドロ、豚ときたら、糞まみれで……」

「うるせえ!とにかくお前は、おとなしくおれの言うことさえ聞いてりゃいいんだ!」

 かぶっていたハットを地面にたたきつけ、すさまじい剣幕で怒鳴り声を上げると、牧童頭は突き出た腹をぶよぶよ揺らしながら、大股で去って行った。

 形勢が悪くなると、いつもこうだ。自分の非を決して認めようとせず、ハゲ散らかした頭のてっぺんまで赤黒くして、ただただでかい声を張り上げれば、それで相手が納得すると思っている。

 あんなふざけた、えばりくさった野郎の言うことなんざ、絶対おとなしく聞いてやるものか、と私は思うのだけれど……この牧場の男どもは、私とは意見を異にしているらしい。

 牧童の一人は、私に剣呑な一瞥をくれると、「頭!待ってくだせえ~!」となよなよした声を出しつつ、ヤツの後を追いかける。そしてもう一人は、やはり私に非難がましい目を向けた後で、牧童頭の投げ捨てたカウボーイハットを拾い上げ、砂をはたきながら、大慌てで仲間の背中を追っていく。

 そして、最後の一人――ガスは、でかい体を無理に縮めたような格好で、私の斜め後ろに立ち、

「なあ、パット。あれはまずいって。あいつに逆らうと、後が怖いんだから……」

 私の耳に口を寄せ、おろおろと情けない声で、ささやきかけるのだ。

(本当にまあ、どうして男たちは、こうなんだろう……)

 私は深いため息をついてから、言いつけられた仕事をこなしに、無言で馬小屋へと向かう。

 きちんと動物の世話をしてやりたい――私はただ、そう思っているだけだ。なのに、どうして、一日に何度も男たちとやり合い――そのたび、憎らしげな目を向けられなければならないのだろうか。これ見よがしに働きやがって、と文句をつけるのなら、負けずに自分も働けばいい。なのに、なぜかヤツらは、ありとあらゆる嫌がらせ、悪口、罵声については勤勉にこなすのに、真面目に働くことだけは、どんな手段を使っても避けようとする。

 そのくせ、私がヤツらの分も働こうとすると、ぶうぶう文句を言うのだ。

 本当に、怠け者というヤツは、訳が分からない。



 男たちとの激しい言い争いと、その合間の過酷な肉体労働、わずかな食事にありついた後は、ろくに体も拭かず爆睡し――時折は仕方なくガスのお相手をしてやってからだ――「魂の牧場」でくつろぐひとときだけ、安寧を手に入れる。5年間ずっと続けてきた――そして、この先ひたすら続いていくと思っていた――希望のかけらもない、厳しく険しい生活。夢の中で正体不明の「おばちゃん」に出会ったのは、確かに目新しい出来事だったけど、しょせん、夢は夢だ。日々のシビアな現実と格闘しているうち、その記憶は、あっという間に薄れ、かすれてしまい、一週間もたたないうち、もはや「おばちゃん」の姿形どころか、出会ったことすら、どこか遠い海の彼方へと消え去ってしまっていた。

 そんな頃だ。

 なんとも珍しいことに、牧場主のヤツが、いきなり牛小屋に、その姿を現した。

 ヤツは、私が働く牧場のオーナーではあったのだが、牛馬の世話は牧童頭に任せっきりで、ひたすら「監視官」の仕事に夢中になってる男だった。

 監視官といっても、王様とか、この地方を領する貴族とかから、きちんと任命されたってわけじゃない。深い森や山で隣国と国境を接するこの「東辺境地方」では、中央からの目が行き届かないことをいいことに、山賊やら強盗団やらが、やたらと出没する。そいつらを駆逐する、とはいかないまでも、どうにかこうにか撃退するため、近所の住人が寄り集まって、なんとなく自警団みたいなものを作っているんだけど……牧場主は、その自警団の団長みたいな扱いをされてて、いつの間にか自分で「監視官」を名乗るようになっていたんだ(と、いつぞやベッドで、ガスが聞いてもいないのに教えてくれた)。

 牧場主のくせにジーンズもはかず、ピカピカの濃紺のスーツにチョッキ、黒の蝶ネクタイにダービーハット、おまけにキズ一つ付いてない黒の短靴(一体あんた、どこの都会からわいて出てきたんだっていう格好だろ?)。その上、腰にはガンベルトを巻き、ピカピカに磨き上げた拳銃を見せびらかすように差してる。仕上げに、胸にはこれまたピカピカの「監視官」バッジを――わざわざ腕利きの飾り職人に注文して、作らせたんだそうだ――つけて、見かけだけは立派な愛馬にまたがり、あっちの牧場からこっちの農場と、日がな一日、ぱかぱかとお散歩してる……そんなおめでたいヤツだ(ちなみに、ヤツの奥さんである牧場主夫人も、「パイセン」だか「マメセン」だかいう名前のティーカップ集めに血眼になっている中年女だ。どちらも浮世離れした、ある意味似合いのカップルだと思う)。

 そんな男が、馬にも乗らず、普段は寄り付きもしない牛小屋にやってきた上、「パットブルはいるか?」なんて、名指しであたしを呼びつけたもんだから、私はびっくりを通り越して、ひたすら困惑した。

 でも、まあ、いくら困惑してたって、呼びつけられたら、返事をしないわけにはいかない。

「パットブルは、あたしだけど……?」

 手近な柵にかかってたぼろ布で手を拭きながら――私だって、雇い主にはそれなりの礼儀を払う――奥まった暗がりからゆっくり牛小屋の中央へと出て行く。

「ああ、そうか。貴様がパットか。ふむ……」

 牧場主のヤツ、大きく開け放した扉を背に、仁王立ちしたまま、動かない。扉越しに、外から明るい光が入ってくるせいで、ヤツの顔形や表情は影に沈んでよく分からないけど、どうやら顎のあたりに手を当てたまま、私を観察しているようだ。それも、牧童たちのような、男の欲望にまみれたいやらしい目で、じゃなくて、どこかに憎悪の念を宿した、とびきり冷たい目でもって。

 その姿が、なんだか不気味に大きく感じられて、心が、だんだんざわついてきた。

「あの……なんでしょう?」

 腰に手を当てて胸をはり、精一杯虚勢を張った姿で、私は牧場主をにらみつける(内心は不安でいっぱいで、その証拠に、いらいらと指先を動かさないではいられなかったけれど)。

「なにか、私の仕事ぶりに問題でも?」

 せっかくありついた仕事を首になれば、また食うや食わずのまま、辺境のあちらこちらに散在する牧場を訪ね歩く生活に――夜はオオカミや熊におびえてろくに眠れず、時にはわずかな食料のために、男に体を投げ与える生活に――戻らなければならない。それだけは、なんとしても避けたかった。

(なんだろう?ガスにやってやってることを、自分にもやれ、というんなら、それぐらい喜んで――いや、別に嬉しくはないけど――やってやる。けど、どうもそういうことでもないみたいだし……)

 気詰まりな沈黙が延々と続き、私の指先の動きは、より速くなっていく。とうとう、不安のあまり、相手を悲鳴交じりの声で怒鳴りつけそうになったところで、牧場主は、ようやく口を開いた。

「どうしてだ?」。

「……はあ?」

 私は、思わずマヌケな声を出してしまった。相手が何を言いたいのか、全く理解できなかったからだ。

 だが、相手の牧場主様は、そんな私の様子に一切お構いなしで、意味不明な言葉をどんどん投げかけてくる。

「だから、なぜやったんだ?」

「一体なんのことだか……」

「金か?」

「はああ?」

「それとも、正義感か?」

 牧場主は、「正義感」という言葉を、いかにも馬鹿げたくだらない、無価値なものであるかのように、鼻でせせら笑いながら口にした。それだけで、この男のどうしようもない下劣さが透けて見え、私は――すり切れてきているとはいえ、まだ「正義感」という言葉に多少の希望を見いだしたいと願っている「世間知らずの小娘」は――反射的にヤツの鼻柱を思い切り、グーで殴りそうになった。

 が、そんな真似をしたら、面倒なことに――少なくとも、この農場から追い出されることになるのはわかりきっている。なので、ぐっと右手を握りしめただけで、どうにか自分をなだめ、険しいしかめっ面になりそうな顔面を、どうにか「困った笑顔」に見えなくもない表情へと変えて、へつらっているように聞こえなくもない声を絞り出した。

「あの、本当に私、話が見えなくて……私の仕事ぶりに落ち度があったら、謝りますんで……」

 が、そんな私の決死の努力も、無駄に終わる。

「貴様……ふざけるな!」

 牧場主の出したいきなりの大声に、私は思わず、ぎょっと身をすくめた。

 驚きで目を見開き、両腕を胸の前で抱えている私を険しい目で見上げながら、私の周りに半円を描くようにして、牧場主は牛小屋の奥へと向かう(あ、なんで「見上げる」かっていうと……こいつ、かかとの高いブーツで必死にごまかそうとしてるけども、かなりなチビなんだ。私は、女にしてはかなり背が高い方なんで、どうしてもそういう位置関係になっちゃうわけ。必死で威厳を保とうとしてるヤツからすれば、すごい屈辱なんだろうけど、こればっかりはしょうがないよね)。

「……いつまでとぼけていられると思ってるんだ?」 

 真後ろに立ったところで牧場主は立ち止まり、ぐっと大きく胸を反らすと、いかにも憎々しげな表情で、私をにらみあげた(その背後の房にいる数頭の雌牛たちが、何事?と言わんばかりの顔で、こちらをのんびり見ているのが目に入り、私は危うく吹き出しそうになった)。

 本当ならば神妙な顔をしなきゃいけないのに、どうにもこうにも緊張が高まらず、かえってどんどん気持ちがくつろいでくる(首をかしげる牛さんを背景に、どう見ても子供の扮装にしかしか見えないピカピカの服を着た上、顔を真っ赤にして怒ってるおちびちゃん、とくれば、緊張を保っていられる方がおかしいよね)。そんな私の様子を見て、牧場主はますますいきり立った。

「白状しろ!どこまで知ってるんだ?」

「しらばっくれても、こっちはちゃんと分かってるんだ!いい加減、覚悟を決めろ!」

「素直に洗いざらい吐けば、こっちも多少は考えてやる」

「さもないと……どうなるか、分かってるだろうな!」

 次から次へと、どこかできいたような脅し文句を並べ立てる牧場主。だが、いったん落ち着いてしまった上、今いる状況が「お笑い的」としか思えなくなっている以上、どれだけ怖ろしい言葉を吐かれようと、ちっとも胸にこたえない。

 私は、ぐっと目に力を入れて、相手を強くにらみ返した。

「ねえ。さっきから何を言ってるんです?なんのことだかさっぱりわからないって、何度言ったらわかってもらえるんですか!」

 叩きつけるように言葉をぶつける。と、牧場主は大きく目を見開いて、わざとらしくのけぞってみせた。

「これは驚いた。なんとまあ、これほど言っても、まだとぼけようとするとは!」

「だから、とぼけてなんか……」

「全く、ふてぶてしいとしか言いようがないな!だが、その態度が、はっきり告げている。思ったとおり、どこかの回し者だったわけだ!」

「……は?」

「どこの手の者だ?誰に命じられて、この牧場に来た?」

「いや、あの……」

 ますます話が見えなくなって、私はひたすら混乱するばかりだった。が、牧場主はそんなふうにまごついている私を完全においてけぼりにし、大げさに肩をすくめて両手を空に向けると、「どうしようもない」といわんばかりに天を仰いでみせた(本当に、どうしてこの男は、わざわざとってつけたような、目にするだけでムカつく仕草をしたがるんだろう?安っぽい小説の主人公を演じている自分に、酔ってでもいるんだろうか?)。

「……といったところで、素直に吐くわけがないな。仕方がない。手荒な方法は私の生き方にそぐわないと常々思っているんだが……おい!」

 牧場主が私の背後をすかし見るようにして、くい、あごをあげる。と、誰かにいきなり背後から、強い力でがっちり両腕を押さえられた。

(しまった!油断した!)

 牧場主の猿芝居に付き合わされているうちに、何者かが背後からそっと忍び寄っていたのだ。

「ちきしょ、離せ!」

 体をねじり、思い切り手足を動かして、なんとか振りほどこうとするが、相手はびくともしない。むしろ、太い両腕に力を込め、逆にギリギリと締め付けてくる。

「無駄だよ、パットブル。静かにしな」

 その声と、うなじのあたりから漂ってきた葉巻とウイスキー混じりの腐ったような口臭とで、背後にいるのが牧童頭だと分かった(でっぷり太った腹を突き出して、いつものろのろ動いてばかりなくせに、この野郎、力だけは無駄に強いんだ)。

 無駄と言われたって、抵抗しなきゃどんな目に遭わされるか分からない。が、牧場主が一切手加減なしで力を込めているせいで腹が圧迫され、その苦しさでどんどん力が抜けていく。

(くそ……なんか、出ちまいそうだ……)

 額に脂汗を浮かべながら、必死で両腕に――牧童頭の腕と比べると、泣きたくなるほど細くて非力な腕だ――力を込め、少しでも腹にかかる圧力を減らそうと悪戦苦闘する。そこへ、必要以上にもったいぶった態度で、牧場主がゆっくり近づいてきた。

「さて、これでようやく、腹を割って話せるというものだ」

 言いながら、腰のガンベルトからナイフを抜き出し、私の鼻先に突きつける。

 鈍い光を発する金属片が鼻の頭に触れたのを感じ、私は反射的に腰のナイフを――肌身離さず身につけている父さんの形見のナイフを抜こうとした。が……かろうじて握りに手は届いたものの、牧童頭の怪力に阻まれ、鞘から抜き放つことすらできない。

(くそ……!くそっくそっくそっ!)

 眼力だけで相手を殺せるなら、とっくの昔に即死させてる、ってほどのすさまじい顔つきで、私は牧場主をにらみつけた。が、ヤツはもちろん、そんな私の憎しみなど、意に介しもしない。

「……誰の差し金だ?」

 鼻先にあったナイフを一度引くと、今度は私の右の頬へ、強く押しつけた。

 弾力に富んだ頬の肉は、刃を跳ね返そうと必死で頑張っていたが……やがて圧力に負け、冷たいものが、頬骨のすぐ下にぶつりと入り込んでくる。

 牧場主が素早く腕を引くと、冷たさは顎のあたりまで届く一筋の細く熱い衝撃となり、次いで、その細い筋から熱い液体があふれ出てきた。

(こいつ……!本当に切りやがった!)

 刃先からしたたる私の血を、真っ白なハンカチでゆっくり拭い取ると、牧場主は、再びそれを、私の頬に――じわじわ血がにじみ出ている傷のすぐ横に――再び突きつける。

「遊びは終わりだ。いいか、よく聞け。これから俺は、お前にいくつかの質問をする。お前は、よく考えた上でその質問に答えろ。お前が質問に答えなかったり、俺の気に入らない答えを返したりすれば、俺は、お前の頬に突き立てたナイフを引く。大声はなし、言い訳もなしだ。そして、またお前の頬の違うところにナイフを押し当てて、質問をする。答えが気に入らなければ、またナイフを引く。お前も知っての通り、ナイフの切り傷は、一筋だけならなんてことない。一週間もすれば、きれいに治る。だが、何本も平行に並んだ傷はやっかいだ。たいがい、傷口と傷口に挟まれた肉がただれ、後々まで醜い傷跡になって残る。まして、平行に切った上、ぶっ違いに傷つけてやると、さらに悲惨なことになる。傷に囲まれた部分の皮がぴらぴらめくれ落ち、赤黒く変色した肉から、じくじく血がにじむようになる。お前のそのつるつるした頬が、腐ったボンレスハムのようになるのが嫌なら、俺の質問を黙ってよく聞け。そして、どう答えれば俺が気に入るのか、よく考えて答えを口にしろ。分かったか?」

 牧場主は、決して声を荒げたりしなかった。ひたすら冷静で、淡々としていて……むしろ、どこかけだるげにさえ見えた。それがかえって、ヤツの「本気」をひしひしと感じさせ……私は、瞳孔の縮まった瞳で相手をじっと見つめ、小さくうなずくことしかできなくなっていた。

「よし。分かったようだな。では、聞く。誰に雇われた?」

 焦りのあまり、頭が空転する。なんて答えればいいのか、まるで分からない。どこからか聞こえてくる、ネコのにゃごにゃごのんきそうな鳴き声だけが、うつろな頭に反響する。

「私は……私は……!」

 突きつけられたナイフの切っ先に、ぐっと力が込められるのが分かり……私は、思わず目をつぶった。

 と。

 突然、体がぐにゃりと重くなった気がした。

 「気がした」どころではない。体が明らかに重くなり、頭を持ち上げているだけでしんどくなってくる。なんとか体勢を立て直そうとしたが、どうしようもない。どれだけ必死で首筋を伸ばそうとしても、眠りに入る直前のように力が入らず、どんどん頭が前に倒れてきてしまうのだ。

(いけない……ナイフが頬に……)

 だが、その心配はなかった。

 ナイフはすでに頬から外れ、今にも牧場主の手から滑り落ちそうになっている。先ほどまでヤツは、軽々とそのナイフを扱っていたのに、今ではそれがまるで牛一頭分の重さがあるかのように、どんどん腕が下がっていき……ついに、指先からぽとりとナイフがこぼれ落ちる。

 どうやら牧場主も――そして、両腕で抱えていた私をずるずる地面にずり落としているところからして、牧童頭も――全身から力が抜けつつあるらしい。

 とうとう私たちは、立っていることさえできなくなり……もつれ合うような格好で、地面に重なってくずおれた(本当についていることに、私の上に折り重なったのは牧場主だった。もしあの巨体の牧童頭の下敷きになっていたら、きっと肋骨の一本や二本は折れていただろうし……腹部を圧迫され、我慢できずにズボンを濡らしていたかもしれない)。

 家畜小屋のくさい土に顔の右半分をべったりくっつけ、だらしなく口を開け、舌をだらりと出した、なんともみっともない格好で、私は倒れていたのだが……その目の前に、しゃれた都会風の折り返しブーツを履いた小ぶりな足が二本、立ち止まった。

「どうやら間に合ったようですね」

 一体誰なのか、どうして助けてくれたのか、なぜ牧場主たちは私をひどい目に遭わせようとしたのか……聞きたいことは山ほどあった。が、顔面からも力が抜け落ちてしまっているせいか、よだれをだらだら垂らしながら、あうあういうだけで精一杯。しかも、目の前の相手は、そんな私を完全に無視だ。

「ああ、君。この人が、パット――パトリシアさんに間違いないですね?ああ、うん。分かりました。じゃあ、まずはこのお嬢さんを、少し離れたところへ連れて行ってあげて。そうすれば回復するから。……ああ、だめだめ!範囲内に踏み込んだら、君にまで効果が及ぶだろ!そうじゃなくて、足先を持って、引きずるかなんかして!」

 と、ブーツに強い力が加わり、私は、家畜小屋のきたない床に、顔から胸から髪の毛から、全身をこすりつけながら引きずられ……手前の柵に上半身をもたれかけるような格好で座らせられた(幼い頃に一緒に遊んだ毛糸人形のベッキーと同じ格好だ、とちょっと思った)。おかげで、でかい図体を縮こませるようにして、心配そうに私の顔をのぞき込むガスと、私を助けてくれた恩人の(ブーツ以外の)姿――小柄で、整った顔の、でも、なんだか少し冷酷そうな、お金のかかった格好をした身ぎれいな若者だ――を、ようやく目にすることができた。

「あ……ありがとう……ごじゃいまふ……」

 ようやく力が戻り始めた口を無理矢理動かして、なんとかその若者にお礼を言った。が、相手は私の言葉なんか全く聞こえなかったかのように、ひたすら書類に目を注いでいる。

「さて、これでよし……後は、五分もすれば回復するから……ああ、君!」

 突然声をかけられ、ガスが、びくっと身を震わせた。

「え……あの、おれですか?……」

「ああ、うん、君だ。今回のことはご苦労だったね。後で、何かしらの褒美を贈る」

「いえ、そんな、それよりあの、パットは、その、これから……」

「それは、君には関係のないことだ。気にする必要はない」

「あ、はい……」

「それでだ。牧場の外に待ってる馬車を、ここまで連れてきてくれないか。彼女が回復し次第、すぐにここを立ち去りたいのでね」

「あ、はい、わかりやした……!」

 肩をすくめたまま、がくがくと何度もうなずくと、ガスは慌てて家畜小屋から出て行く。それまでずっと書類から目を離さなかった若者は、そこで初めて顔を上げ、なにか見落としはないかというふうに、周囲に目を走らせた。

 と、その目が、足下に転がっていた牧場主のナイフに止まり……若者は、ゆっくり、それを拾い上げる。

「ふむ。若い女性の顔に、消えない傷を刻もうとするとはね。全く、事情も知らないくせに先走って、これだから田舎者は困るんだは……」

 大きくため息を一つつくと、私の恩人は、ここで初めて、私に目を向け、内面を見透かすように、じっと見つめてきた。

「さて。さっさと魔法の効果範囲から引きずり出したので、もう間もなく、あなたは動けるようになるはずです。あそこに転がってる男たちは、まだしばらく――もう後一、二時間は動けないでしょうね。そして……」

 と、若者は一瞬視線を外し、家畜小屋の入り口から、外の様子をうかがう。

「……馬車を迎えに行かせたあの男は、もうしばらくは戻らないようです。ということで、若干の時間の猶予が、あなたには与えられることになります」

 ここで、若者はいったん話を切り、軽く咳払いをした。

 私は、話の行く先が見えず、眉をひそめてひたすら彼の顔を見つめるばかり。

 若者は、にやり、と笑うと、いかにも秘密めかした態度で、ナイフを私に手渡した。

「馬車が来るまでの間なら、待ってもいいですよ。ええ、それだけの時間があれば、この男たちの尻なり頬なりに、思う存分、好きな模様を刻めるはずです。私は……見ないふりをしていますから」

 


 馬車は、ひどく揺れた。

 見慣れた荷馬車や辻馬車と違い、車輪が木製ではなく金属製だったり、窓や扉にも金属の縁取りがあったり、立派な制服を着た御者がいたりと、どこをどう見ても大商人かお貴族様が外出につかう、立派な――私なんかが一生乗ることはない、と思っていた――馬車に乗っているにもかかわらず、ものすごく揺れた。

 御者は、ごくごくゆっくり馬を走らせているのに、それでも、石に乗り上げてはごとり、穴に落ちてはがたり、ぬかるみに入ってはじゃぶりと、上下前後左右に派手に体が揺さぶられる。日頃から牧童として馬を乗り回し、体が揺さぶられるのに慣れていなかったら、今頃、真っ青な顔でそこら中に朝食を吐き戻していたところだろう。

 だが、そんな中でも、私を助けてくれた、あの不思議な若者――小柄で童顔だし、若者というより、むしろ「少年」といった方が似合いそうな感じだ――は、慣れているのか、揺れに合わせて器用に体を起こしたり、縮めたりでバランスを取りながら、手にした書類から目を離さない。

(すげえな。馬に慣れた私でさえ、何度か座席から滑り落ちそうになったってのに、こいつ、こんなバカ揺れする乗り物に、よくまあ平然と座ってられる。金持ちも、結構侮れないな……)

 と、私が目を見開いてじっと見つめていることに気づいたのか、向かいに座った若者は、一瞬だけ書類から目を離し、チラリとこちらを見た。

「……なにか?」

「あ、いえ。その……こんだけ揺れる中で書類読むって、すごいな、と思って」

「慣れてますから」

 会話終了。

 若者はまた書類に没頭し、私は、馬車の揺れと一人で格闘することになった。

 馬車の乗り心地が悪いのには、揺れもあるけれど、それ以上に、若者のこういう無関心な態度にあった。

(危ないところを助けてもらって、ありがたいのはありがたいんだけど……普通は、もうちょっとなんか説明があるんじゃねえの?なんで私をあの牧場から連れ出したのかとか、自分は何者なのかとか、どこに向かってるのかとか……)

 だが、いくら待っても相手が口を開く様子はない。仕方なく私は――ようやく馬車が揺れなくなってきたこともあって――窓の外に目を向け、ぼんやり通り過ぎていく光景を眺めることにした。

 私の住むこの国、ラマンデル聖王国は、西のオルガニア大陸と東のヘドニア半島をつなぐ地峡部分にある。……なんていうと、なんだか細長い小さな国のように感じるかもだけど、なにしろ両側の土地――大陸と半島――がばかでかいので、間にある土地もそれなりに大きい。地峡の北側には険しい山脈がそびえ、南側には「内海」と呼ばれるハイドラ海が広がる、その間の平地にラマンデル聖王国はあるのだけど、山脈の麓から海岸沿いまで、馬に乗り、ほぼまっすぐ南下して、丸二日かかる。西の国境から東の国境までをつなぐラマンデル街道を同じように馬で走ると、一週間(そんなに馬を走らせたら、倒れてしまうけど)。だから、それなりに大きい国なのだと思う(というか、まだ生きていた頃に、地図を見せながら、「それなりに大きい国なんだぞ」と、どこか自慢げに父さんは教えてくれた。生まれてこの方、牧場と、すぐ裏の森しか知らなかった幼い私は、「大きい国」といわれても、なんだかしっかりしたイメージを持てず、ただ「ふうん」とうなずいただけだったけれど……今となっては懐かしい思い出だ)。

 その大きな国の北西、山脈の麓にひろがる広大な森と、その森を切り開いて作られた牧場や農場が広がるあたり――「西辺境地方」のさらに辺境、町はおろか、ろくに商店すらないような田舎。それが、これまで私が生きてきたところだ(「暮らしてきた」とはいいたくない。「あの夜」以降の私の生活は「暮らし」なんていいものじゃなかったから)。

 そんな田舎だから、馬車が走れるような街道もたった一本。その街道を走ると、やがて東辺境で一番大きな町、パイロバーグへと向かう主街道に出る……はずだ。

(馬車があまり揺れなくなったのは、きっと、その主街道に出たからだ。やっぱり、主街道だけあって、よく整備されてるんだな……)

 そう思って窓外の光景をよく見ると、相変わらず牧場や農場ばかりが連なっているものの、私の見慣れた田舎のものとは違って、柵が壊れていたり、農具小屋が半分つぶれかけていたりもせず、どこもきちんと整備されている。

(土地がきちんと耕されてて、しかも、土が黒々としてる。手入れを怠っていない証拠だ。いいなあ、こういう土地なら、きっと牧草の育ちもいいんだろうなあ……)

 軽快に走り出した馬車の心地よい揺れに身を任せながら、移り変わっていく景色に、私は徐々に没入していった。

(牛!……丸々肥えて、お乳もよく張ってる。毛並みもつやつやして……なんて幸福そうなんだろう……!牧草がいいのもあるんだろうけど、それだけじゃない、すごく手をかけてもらっている。ここらの牧場主や牧童たちは、本当に牛を愛しているんだ……)

 角はもう切ってしまっているのか、尻尾の様子はどうか、鼻面はきれいな色をしているか、目の光はどうか……やや遠方に固まっている牛たちの、さらに細かいところを見たくて、私は、馬車の窓の貼り付くようにして、必死で目をこらす。

 と、そこへ。

「そんなことをしてていいんですか?」

 夢中になっている私に思い切り冷や水を浴びせかけるかのような、思い切りあきれ果てた声が、背後から響いた。

(……私が話しかけた時には素っ気ない返事しかしなかったのに、私が他のことに集中し始めると、邪魔するように話しかけてくるって。あんたは、ネコかよ!)

 イラッとした気分そのままの険しい顔で若者の方を振り向き、

「そんなことをしててって、どういうこと?私は、外を眺めることも許されないの?」

と、たたきつけるように吐き出す。

 ところが、相手はそれでも全く応えていない様子(それがまたムカつく!)。目を伏せ、軽くため息をつきながら、いかにも「教えてやってるんだ」的な口調で、

「いえ、ここで何をしようとあなたの自由ですよ。ですが、この後のことを考えると、のんきに窓の外なんか眺めてていいのかな、とちょっと思ったものですから」

「この後、何があるっての?大体あんた、私をこの馬車に押し込んだ後、何一つ説明してくれなかったでしょ。あ、いや、牧場で私を助けてくれたことには、感謝してる。それは本当。ありがとうございました。でもね、その後のあんたは……」

 まだまだ文句を浴びせてやりたかったのだけど、

「あなた、何一つ分かってなかったんですか!」

 若者がいきなり素っ頓狂な声を上げたので、思わず私は息を飲み込み、トーンダウンせざるを得なくなった。

「……分からなかったのかって、だって、なんの説明もないままじゃ……」

「私の服を、見ましたよね?」

「え?見たけど……なんかこぎれいでゴテゴテした服だ、としか思わなかったし……」

「え!ゴテゴテした服って……見たことありませんか?これ、秘書官の制服ですよ!」

 あまりにあきれたように言われ、私は思わず、叱られた犬のように、首をすくめていた。


 「秘書官」という仕事がある、ということは(一応)私も知っていた。牧場主が手紙を手に「秘書官様からこんな通知が」と血相を変えて大騒ぎしたり、牧童頭が「秘書官様のお達しのおかげで、やりにくくてかなわん。もう少し下々の者のことを考えてくださればいいのに」などとブツブツ言っているのを見たことがあったからだ。

 けれど、知っているのはそれだけ。なにせ私がこれまで過ごしてきたのは、東辺境地方のど田舎だ。秘書官様がやってくることなどめったになかったし、そのめったにない機会の時も、「町から来たお偉い秘書官様」をちやほやするのは牧場主やその夫人、せいぜい牧童頭まで。下っ端の牧童だった私は、普段と変わらず、牛糞まみれの藁と格闘するばかりで、秘書官様の姿を拝む機会など、まるでありはしなかったのだ。


 ……なんていうことをごにょごにょと言い訳すると、目の前の若者――秘書官様は、慮外の状況もはなはだしい、といわんばかり、大きくため息をつき、ゆっくり首を左右に振る。

「やれやれ、ですね。それじゃあ、当然、この馬車や、扉に輝く紋章を見ても、なにも思わなかった、と」

「ええと……なんだかいろんな飾りがついた、高そうな馬車だな、とは思ったけど……」

 秘書官は、うんざりした表情で再びため息をついた(なんだかとんでもない間違いをしてしまった気がして、私は肩をすくめ、すっかり縮こまっていた)。

「最初にあなたを目にした時から、バカっぽ……世間知らずな印象でしたが、まさか、ここまでマヌ……常識のない方だったとはね。いいですか。見ておわかりのように、この馬車は、個人用です。このラマンデル聖王国で、個人用の馬車の所有が許されているのは、爵位を持つ方――すなわち貴族に限られています。しかもこの馬車、キャビン――というのは、あなたが今お乗りになっているこの「客室」のことですが――の外枠が、金で縁取られていましたね?これは、伯爵以上の上級貴族にのみ許されるデコレーション。そして――この西辺境地方で、そのことを知らない人が存在する、というのが、実に嘆かわしいことですが――扉に大きく彫りつけてあった「雷光を背後に火を吐く火竜」の紋章。これは、西辺境地方の領主一族であるブラックバーン家のもの。すなわちこの馬車は、この広大な西辺境地方全てを実質統治している、ブラックバーン辺境女伯ご本人の、プライベート用馬車なのです」

 幼い子供に言い聞かせる時のような口調で、一気にそこまで説明した後、秘書官様は、ご丁寧にも、小首をかしげ、いいですか?おわかりになりましたか?といわんばかりに、私の顔を無言でのぞき込んだ。

 私は、大慌てでがくがくと首を前後に振った(自分が一体なにに巻き込まれているのかは、さっぱり分からないままだったけど)。

 その私の様子を見て、よろしい、というように一つうなずくと、秘書官は再び口を開く。

「辺境女伯が、ご本人のプライベート用馬車で秘書官を遣わし、あなたを迎えに来させた。ということは、もうおわかりですね。今この馬車は、パイロバーグにある辺境女伯様の屋敷へと向かっています。到着後、あなたはすぐに、西辺境地方領主である、マーガレット・ブラックバーン辺境女伯その人とご面会することになっているのです」

「……え?」

 自分がなにを言われているのか、全く理解できなかった。いや、相手の言っている内容自体は分かるのだけど、それが一体なにを意味しているのか、全く飲み込めなかったのだ。

 このラマンデル聖王国に一握りしかいない上級貴族の女伯爵様で、西辺境地方の御領主様でいらっしゃる方が、毎日毎日、朝から晩まで家畜の糞にまみれて生きている、最下層の牧童をわざわざお屋敷まで呼びつけ、ご面会なさる?雲の上にすんでいるお方が、地面に這いつくばり、泥水すすって生きている私に、なんの用事があるっていうんだ?

 あんぐり口を開け、呆然としている私を見つめ、深いため息をつくと、若者は――秘書官様は、再び口を開いた。

「もう一度言いますよ。あなたは、馬車の到着後すぐ、身だしなみを整える暇もないままに、ブラックバーン辺境女伯ご本人と面会する予定になっています。なのに、いいんですか、ぼんやりしてて。用意する暇がなかったので、着替えられないのは仕方ないとしても、せめてそのブーツについた、ものすごく臭い汚れや、シャツや髪の毛にまでこびりついているほこりをはたき落として置いた方がいいと思いますよ」

 なるほど、たしかにそれは、その通りかも。

 私は「きかん気のパットプル」にしては珍しく、秘書官様のアドヴァイスに素直に従い、手渡された布きれで――シルクでできた、それだけで私の服が何着も買えるほど高価な布きれだ――のろのろとブーツを頭を、顔をこすりはじめた。

 高価な布きれを、二度と使い物にならないほど真っ黒に汚しながら、私は、一体なにに巻き込まれてしまったのかと、ずっと首をひねり続けていたのだった。



 パイロバーグの町からちょっと離れたところにあるだだっ広い芝地。

 そのど真ん中に、辺境女伯の屋敷は建っていた。

「あれが、目的地ですよ」

 と秘書官様から教えられ、目をこらした時には、周りに何もないせいで、ぽつんと建つその建物が、意外にこじんまりして見え、辺境女泊とかいっても、案外質素に暮らしてるんだ、なんて思ったのだが……それは大きな間違いだった。

 周りに大きさを比べられるものが何もないせいで、目がごまかされていただけで、馬車が近づくにつれ、その圧倒的的な大きさが――石造りの堅牢な三階建てで、両側に円塔を備え、その間に本館がどーんと鎮座している――分かってくる。

(うわあ……なんだろ、これ。昔、父様母様と住んでた家が、一体いくつ入るんだ……)

 あんぐり口を開けたまま上階を見上げているうちに、屋敷の正面で馬車が止まる。

 誘導されるままにおっかなびっくり入り口の扉をくぐり――中に控えていた、ビシッとした格好の紳士が、頭を下げて(この私なんかに!)出迎えてくれた――前をすたすた歩いて行く秘書官様の後をついて、うわ、天井高いな、しかもなんか模様がある、そんで、あのゴテゴテしたキラキラはなんだ?ひょっとしてあれがシャンデリアか?うわ、なんだろ、鎧が飾ってある、うわ、こっちは絵だ、こんな馬鹿でかい絵、誰が描いたんだ、んで、描かれてるこの人、一体誰?などと、あっちこっちきょろきょろしながら、びくびくとついていく。

 そうしている間にも、場違いのところに来てしまったという感覚はどんどん強まっていき、屋敷の奥まった部屋の前までたどり着いたときには、これは絶対なにかの間違いだ、そうに決まってる、御領主様に助けてもらったお礼だけ言ったら、くるっと回れ右してさっさと帰ろう、うんそうしようと、はっきり心に決めていたのだった。

「マーガレット様。パトリシア嬢をお連れいたしました!」

 ノックの後で、秘書官様がそう告げると、扉の向こうから、

「入っていただきなさい」

 やや低い、落ち着いた、りんとした声が――いつか、どこかで確かにきいた覚えのある声が響いた。

 扉を押し開け、支えてくれている秘書官様に促され、おそるおそる部屋の中へと入る。

 そこは、なんといえばいいのだろう、今まで歩いてきた屋敷の、豪壮だけど、どこか冷たく、人を寄せ付けない部屋とは、まるで雰囲気が異なっていた。

 かわいらしい食器の並んだ棚や、乱雑に本が並べられた本棚。書きかけの手紙らしきものや、読みかけのまま伏せてある本などが散らばるライティングデスクに、小ぶりのクッションがいくつか置いてある、二人がけのソファー。そして、裏庭に直接出入りできるらしい掃き出し窓の前には、使い込まれた草木の手入れ道具が一式、大きな棚にまとめて置いてある。こちゃこちゃとたくさんの小物が――あるじが普段から慈しみ、愛用している様々な道具が置いてあるせいか、広いはずなのにこぢんまりと感じて、なんだか部屋中が温かいのである。

(なんだろう……初めて来たのに懐かしい感じがする……)

 後から聞いたのだが、そこは辺境女伯の私室で、「貴族的社交」というものにあまり興味を示さない彼女は、公的な用事がない限り、一日のほとんどを、この部屋か、裏庭で過ごしているのだそうだ。

 私が初めてその部屋に入ったその時も、辺境女伯は直前まで、裏庭で植物の手入れをしていたようで、私に背をむけ、庭仕事用のエプロンを棚にかけようとしているところだった。

 背中に手を回し、後ろにある結び目をほどこうとして体を揺するたび、その結び目と同じくらいのところまである豊かな髪が、ふぁさふぁさと揺れる。

(なんて豊かでまっすぐな、美しい髪だろう……しかも、なんだか青くみえるぐらい、黒々としてる……まるで、父様のようだ)

 父のスティーブも、豊かでまっすぐな、見事な黒髪の持ち主だった。

 農場の仕事の邪魔だからと、できることなら短く切ってしまいたかったらしいのだが、母が、絶対切ってはだめだと泣いていやがるほど、その長髪を愛していたため、仕方なく三つ編みにし、後ろに長く垂らしていた。

(父様はいつも、三つ編みの先を赤いリボンで結んでいた。歩くたびにそのリボンがゆさゆさと揺れて、いたずら者の猫や、時には「騎士団」の誰彼まで、そのリボンめがけてじゃれついて、父様に怒られていたっけ……)

 懐かしい思い出が胸にあふれ、危うくその波に押し流されそうになる。が……今はそんなときではない、と慌てて気を引き締め、私は、女性の背中に向かって、深々とお辞儀した。

「あ、あの……お目にかかれて光栄です、ブラックバーン様」

「ああ、よく来てくれたわ。ちょっと待ってね、今これを脱いでしまいますから。ええと、パトリシア……?」

「はい。パトリシア・ブルフィンチと申します」

 エプロンの紐をほどこうとしていた手が、ぴたりと止まった。

「パトリシア……ブルフィンチですって!?まさか、お父様の名前は、スティーヴンとおっしゃるのでは?」

「はい、父の名はスティーヴンです。あの、父をご存じなのですか?」

 辺境女伯は、もはやエプロンを外そうともせず、そのままゆっくりとこちらを振り向いた。

「まさか!ああ、そんな、まさか!」

 私の顔を一目見るやいなや、彼女の顔に、見間違えようがないほどにはっきりとした驚愕の色が浮かび上がった。そして、見てはいけないものを見てしまったといわんばかりに、すぐさまその顔をそむける。

「あの……ブラックバーン様?」

 眉をひそめながら、おそるおそる顔を上げる。と、私の目に、夢の中で――私の「魂の牧場」で出会った「おばちゃん」をほんの少し老けさせ、ちょっぴり太らせて、少しだけ哀しげな雰囲気を漂わせた女性が、右手で左の二の腕を抱くような格好で、正面に立つ私から顔をそむけ――その顔には悲痛極まりない表情を浮かび上がらせて――立っていた。

「あ……あなたは!」

 夢で会ったおばちゃん!……と言いかけて、危ういところでのみ込んだ。夢の世界で、しかも私が少女の姿であるならいざ知らず、成長した娘が土地の大領主様を「おばちゃん」呼ばわりすれば、どんな災難が降りかかるか分かってものではない、と思ったのだ。

 が、当の「おばちゃん」は、私が声をかけたことにすら、気づいていない様子だった。

「そう……そう……考えてみれば、あり得る話だわ。でも、まさか、そんな……今になってそんなこと……そう、そうだわ!」

 辺境女伯は、はっとしたように私に向き直り、一瞬私の顔を直視したかと思うと、慌てて目線を下に――私の腰のあたりへと移した。

「あなたがもしスティーヴンの娘なら、彼から受け継いだものがあるはずです。お見せなさい」

「受け継いだもの……ですか?」

「ええ、そうよ、早く!」

 相手の口調がだんだんぶっきらぼうになっていくことに焦りと困惑を覚えながら、それでも私は、なんとか相手の要望に応えようと、必死で考えこんだ。

「父は成功した牧場主でしたが、五年ほど前、何者かに牧場を襲撃された時に、なにもかもを失ってしまいました。私が父から受け継いだものといえば、丈夫な体と、家畜を育てる知識の他には、ナイフぐらいしか……」

「それよ!見せて!早く!」

 相手の剣幕に驚きながらも、ベルトに下げていたナイフをさやごと外し、いつの間にかすぐ後ろに立っていた秘書官様に手渡す。

 秘書官から恭しくナイフを手渡されると、辺境女伯は――ちなみに彼女、この間一瞬たりとも私の顔を見ようとしなかった――私の手にもあまるほど大きく重いそのナイフを、慣れた手つきですらりと抜き放った(小柄できゃしゃで、食事に使うナイフ以外手に持ったことないという雰囲気の方だったのに、これは意外だった)。

「ああ!間違いない!これは「ドロレスの牙」。あの人の……スティーのナイフだわ!」

 悲痛な声でそう言い放つと、辺境女伯は手のナイフを放り投げるように秘書官様に返し――すごくぞんざいな手つきだったのに、きちんとナイフがさやに収まったのを見て、私はもう一度びっくりした――またもやそっぽを向いた。

「パトリシア・ブルフィンチ。長旅ご苦労さまでした。部屋を用意しますから、まずは下がって休みなさい。明日にでも人をやりますから、詳しいことはその者に聞くように。分かりましたね?」

「あ……はい……」

「では、ごきげんよう」

 その言葉を最後に、辺境女伯はくるりと背を向け、そのまま、二度と振り返らなかった。



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