第一章
朝、鳥の声が聞こえる。
隣の空き家の屋根裏に鳥の巣があるようで、雀の声が聞こえる。
目覚ましを見ると、目覚ましが鳴る前に起きたようで、まだ目覚ましはなっていなかった。
「……。」
(…ソプラノも持っていくんだったっけ。ダブルケースどこに置いたかな。)
無言で起き上がり、そのままシャワーを浴びる。
「……。」
(……。)
言葉も頭でも何も考えられず、ただ無言でシャワーを浴びる。
バスルームを出ると、リビングに入る。
広いリビング。
昔は両親と一緒に過ごしていたリビング。小さい頃は母方の祖父母も一緒に住んでいた。それゆえに、5人で住んでも広い家で、今は1人暮らし。
もう何も考えることも、思うこともない。
冷蔵庫からベーコンを3枚と卵1個取り出し、ベーコンエッグを作り、リビングのテーブルに白米と一緒に並べる。
1人で朝食をとると、食器を片付け、2階に上り、作業部屋に入る。
カーテンのしまった窓。窓際に作業机。入って右側には楽器のケースや楽器の部品が置かれた棚。左側の床には長いケース。そしてスタンドに置かれた壊れたバリトンサックス。机の上に置かれた完全に再組立てのされていないクラリネット。
そんな作業部屋に入ると、棚からアルトサックスとソプラノサックスの入るダブルケースを取り出すと、すぐに作業部屋を出る。
そのまま1階に降りると、自室にケースを置き、さっき使った食器を洗う。
「……。」
(…9時に桜木町の駅前だったか。)
そのまま食器をしまうと、自室に戻り、ソプラノをケースから出すと、アルトと一緒にダブルケースにしまう。
手早く着替え、ジャケットを羽織る。いつも動画で着ている服と狐の仮面を鞄に入れ、肩に背負い、キーホルダーに手を伸ばす。
ふとキーホルダーに目を落とすと、家の鍵と家の裏口の鍵、それにバイクの鍵が2つ。バイクの鍵から玄関の方に目をやると、バイクのヘルメットとグローブが置かれている。
(…今日はバスで行くか。)
キーホルダーをベルトかけると、財布に携帯、ケースを持って家を出る。
そのままバス停の方に歩き、バスに乗る。
しばらく乗っていると、横浜駅前のバスターミナルにつく。
バスを降りると、地下鉄の改札を通り、地下鉄に乗る。
横浜駅から桜木町駅まではすぐにつく。
『つぎは、桜木町駅。桜木町。県民共済プラザ前です。お出口は、右側です。JR根岸線は、お乗り換えです…。』
(桜木町か。)
駅に着きドアが開くと、ケースと鞄を持ってホームに降りる。
ホームの時計を見ると、8時35分をさしている。
(どうせあいつらは遅れるだろうし、茜は時間通りに来るかな。)
そんなことを思ってると、スマホが着信で振るえる。
―LINE―
雄二≪わりぃ!神田と関口遅れるらしい!俺も少し遅れるかもしれん!≫
賢治≪わかった。茜が時間通り来るようなら俺と茜だけで先に行ってるわ。≫
雄二≪わりぃ、頼んだ!≫
―――
スマホをしまうと、そのまま改札を出ると、桜木町駅正面に向かう。
桜木町駅の正面には、人がごった返している。
すると、また着信がある。
―LINE―
アカネ≪賢治ー。もうついてる?≫
賢治≪今桜木町駅前に着いたよ。≫
アカネ≪よかったー。何か軽音部のメンツは遅れるらしいから、先に行っててだってー。≫
賢治≪いや、それはもう聞いてるけどさ、茜はどこにいるんだ?≫
アカネ≪私ももうすぐ着くよー。≫
賢治≪わかった。駅前広場のでかい木のところにいる。≫
アカネ≪おけ~。≫
―――
スマホをしまい、木に寄りかかる。
広場では、様々な団体が、自分たちの活動を知ってもらうためのブースが立っている。赤十字募金に保護犬、孤児や献血などかなり多い。
それからどれくらいたっただろう。
集合時間の10分ほど前になると、駅から小柄な少女が出てくる。
「賢治~!おまたせ~。待った?」
「大丈夫だ。そこまで待ってないし、雄二たちに比べればいい方だろ。遅刻もしてないし。」
「良かった~。じゃぁ行こうか!先に行ってセッションしてようよ!」
「ああ。そうしようか。」
茜が元気に走り出す後ろをゆっくり歩いていると、茜が戻ってきて隣を歩く。
――茜サイド――――――
駅を出ると、目の前の広場の大きな木に寄りかかる人影を見つける。賢治だ。
中学生時代から打楽器奏者として色んなコンサートに出ていた私と同じように、賢治も中学時代から色んなコンサートなどに出ていた。ただ唯一違ったのは、私が色んなコンクールに出て賞をもらったりしている中、賢治はコンクールに一つも出なかった。それでも賢治の管楽器の腕前はかなり売れていたため、賢治は『無冠の王者』と呼ばれている。
中学時代は私と賢治はライバル同士という扱いを受けていた。もちろん自分でもそう思っていたが、賢治はそんなこと思ってなかった。
彼は、私や他の奏者たちも全員同じ奏者だと思っている。
それは、目上の人間を同等と思っている反面、まだ音楽を始めたばかりの奏者や子供たちにも同等に接するため、子供向けや初心者向けの音楽教室にもよく参加を求められる。
だが、私が高校に入学した直後、両親と訪れた銀行で、銀行強盗が発生し、その時の死亡者として私の両親も名を連ねた。
両親が亡くなってからしばらくの間、学校へ行けなかった。
しかし、私が学校に行かなくなってから1週間が過ぎたころ、私の家をある人が訪ねてきた。
それまでも、楽器メーカーや楽団の人が訪ねてきた人はいたが、どれも出なかった。人としゃべる気になれなかった。自分の目の前で両親が死んだのに、笑顔で学校に行ける自信がなかった。あれだけ毎日叩いていたドラムも、両親が死んだ日からずっと叩いていなかった。
どんなことも嫌になって自分の部屋で、布団にくるまっていた時に、彼が訪ねてきた。
インターホンが鳴って画面を見ると、賢治が立っていた。
急いで玄関を出ると、
「良かった。まだ元気そうだね。」
と少し微笑みながら立っていた。
「差し入れがあるんだが、食べる?」
うなずくと、彼を家に上げ、お茶を出した。
リビングに通し、彼からの差し入れを食べる。
ふと彼の服装を見ると、どこかで見覚えのある服装だった。
「……高橋さん、その恰好って、私の高校の制服…?」
気づくと、口を開いていた。
「ああ、やっと話してくれたね。というか、知らなかったの?俺と佐々木、同じ高校だよ。同じクラスで、席も隣だし、そんな近くに仲間の演奏者がいるのに、その本人が来ないなんて寂しいから、学校に直接確認して住所を教えてもらったんだ。」
その時は凄く驚いたが、たぶん表情には出ていなかったと思う。もともと彼は話すのが嫌いなのかだれかと親しげに話してるところなんて見たことなかったし、それどころか彼の両親も見たことがなかった。
彼の持ってきた差し入れは、どこかの店の物かと思って開けてみたところ、どれも手作りの物に見え、とてもおいしかった。
「佐々木、俺の話しを聞いてほしい。中学卒業前にやった、同年代の演奏者が集まった演奏会、覚えてる?」
「うん。私が打楽器のパートリーダーで、高橋さんが低音リーダー兼サックスパートパートリーダーやった演奏会。私がドラムで高橋さんがバリサク。ディープパープルメドレーでのデュエット。本来はバリサクのソロを、高橋さんが指揮者に頼み込んで私とのデュエットに変更して、そこのパートを3回繰り返して演奏した。」
「そうそう。実は、俺その演奏会前日、親が目の前で死んだんだ。交通事故だった。家族で食事に向かう途中、真横からトラックに突っ込まれて車の前部座席だけ吹き飛んで、後部座席の方は何とか無事だったんだけど、精密検査とかで当日の午前中までかかった。両親は、即死だった。」
「……そんな中で、演奏会に出てたの?なんであなたは両親が目の前で死んだ次の日にステージに立って2000人の前で演奏できるの!?」
自分の中でも、あの時の衝撃はとんでもなかった。自分と同じ境遇なのに、自分が、悲しすぎて涙すら出なかった精神状態と同じような精神状態の中で2時間演奏した彼の精神状況が理解できなかった。
「それと、高校入学前の演奏会覚えてる?」
「え、うん。あれも私と高橋さんのデュエットがあったし、何より、それまでの演奏会とかの中で一番楽しかったと言っても過言ではないような演奏だったけど…。」
「それに、柏田ってやつ知ってるか?」
「うん。高橋さんと同じ中学で、高橋さんと同じくバリサク奏者で中学生演奏者として活動していた。高橋さんが『無冠の王者』、柏田さんが『低音の貴公子』と呼ばれていて、高橋さんが技術と音量で、柏田さんは音色と表現で優れていたんでしたっけ。確か、高橋さんの中学の定演の終演後、帰り道で車にはねられて亡くなったとか。」
そこまで言って、やっと気づいた。
彼は、両親を失った直後にもう1人大切な人を失ったということを。
「俺は、今までライバルだと、ともに上達していきたいと思った人は2人だけだった。その1人が、柏田だった。」
その時の私には、『2人』という単語に気づくことができなかった。
「事故の直後、柏田の葬式で柏田の両親に、息子さんのバリサクを譲ってほしいと頼んだんだ。あいつのバリサクを自分の手で直して、いつかステージであいつの楽器をもう一度響かせてやりたいと思ったからね。」
そして、そこまでの話しを終えると、彼は椅子を立ち上がり、私の横に歩いてくると、私の手を取る。
「佐々木、俺は両親が死んだときも、ライバルが死んだときも、その直後に演奏会があった。もちろん演奏会をキャンセルして出ないって選択肢もあったはずだ。だけど、両親が死ぬ前の車の中で俺の演奏を聴いて死にたいって言ってくれたんだ。それに、柏田も俺の演奏が一番楽しいと言ってくれた。だから、俺は演奏会に出て、親と、柏田に伝えたかったんだ。俺は今後も音楽を続けていく。だから絶対見てろよって。」
「……高橋さん、今日はずいぶんしゃべるね。いつも会話では原稿用紙2、3行行かないのに、珍しい。」
「ああ。じゃぁ単刀直入に言おう。佐々木、音楽やめるの?」
その言葉に、すぐに答えられなかった。
やる気になれないけど、音楽は続けたい。でもやる気になれず、今日はいいかなって思ってまた何日も経つ。
「答えに悩むってことは、続けたいんじゃない?」
「!?」
心を見透かされたかと思って驚く。
「佐々木、さっきライバルだと思ってる人が2人いるって言ったな。」
「そういえば言ってたね。」
「柏田ともう1人、それは佐々木だ。俺のライバルだと思ってる人が、音楽をやめるなんて嫌なんでね。」
私はその一言に、とんでもない衝撃を受けたことを覚えてる。
「佐々木、セッションしない?」
彼は、そういいながら持っていたケースからアルトを取り出す。
「ごめんね。今日はバリサク持ってないんだ。」
彼はサックスを組み立て始める。
そんな彼を見ながら、ソファに置いてあるスティックケースを見つめる。
すると、サックスを組み立て終わり、ソファに置かれたスティックを取り、差し出してくる。
「さ、やろう。佐々木位の奏者なら、家にドラムあるだろ?」
「……あるよ。」
そういいながら、ドラムが置かれた防音室に向かう。
防音室の明かりをつけ、ドラムに座ると、彼がサックスをくわえる。
どうしようかと思ったが、頭の中で流れ始めた曲をドラムでたたき始める。
すると、彼はそれをくみ取ったのか、曲の通りに始める。
軽快なアルトに、低音の伴奏はドラムで代用する。
最初の前奏が過ぎると、春らしい軽やかなメロディーが流れる。
どれも同じような感じで始まるマーチの中から、よくこの曲と分かったものだ。
私が演奏したのは、スプリングマーチ。彼が合わせてきた演奏は、スプリングマーチ。
この曲は、高校入学直前に行われた新高1の演奏者と現役の高校生演奏者たちの演奏会の、第3部の一番最後に演奏した曲で、選曲者曰く、これからかがける学生たちにこの曲のような晴れやかな気持ちで学生生活を送ってほしいという願いを込めたらしい。
最後に叩いてから、1か月もまともに叩いていなかったから、自分が思うように叩けない。いつもなら、スプリングマーチ位叩くのは造作もないはずなのに、まだ調子が出ない。まるで楽器を始めたころのような、思ってる通りにドラムを叩けない。
気持ちよく叩けない。
楽しくない。
だけど、楽しい。
久しぶりに叩いたドラムは、初心者の頃を思い出し、両親に支えられながらドラムをたたき続けた小学生時代を思い出し、自然と涙が出てくる。
(そっか。私、音楽がなきゃ今みたいに楽しめてなかったのかもしれない。)
涙がこぼれながらも、必死にドラムをたたき、両親の顔を思い出す。
そして、両親が私のドラムを聞いて喜んでくれたことを思い出し、賢治がどんな気持ちで、みんなの前に立ち、ソロを演奏していたのか、少しわかった気がする。
涙目になりながら、彼の方を向くと、彼は目を閉じて演奏している。
(そうか。彼は、色んな人を亡くしながらも、私と同じ孤児になりながらも、音楽が好きなんだ。)
演奏が終わる。
流れた涙を拭き、彼に言葉をかける。
「ありがとう。音楽は、楽しいね!」
私が今音楽を続けているのは、賢治がいたからだ。だから、賢治と音楽を続けていく。
――――――――――――
雄二たちは、俺と茜がスタジオに入ってから30分後に入ってきた。
高校の軽音部である雄二たちと、ドラムの茜と、サックスで俺が入る。
茜はもともと東雲音楽団に所属しているため、俺と同様仮面をつけて、動画に映る。
曲はアニソンなどの4曲を演奏し、動画をとる。
「おつかれ~。意外に時間かかったな~。」
「そら練習して録画しながら別の機械で録音してるんだから、時間かかるだろ~。」
「東雲さん兄弟もありがとうな!」
雄二たち軽音楽組は、和気あいあいと話しているが、俺たち東雲音楽団の正体を知っているのは雄二だけなので、雄二以外のいるところで仮面をとるわけにはいかない。
ちなみに、東雲音楽団とは兄妹でやっているという設定の為、俺が兄で茜は妹という設定だ。ちなみに、俺が『東雲皐月』で、茜は『東雲夕月』という名前で活動している。
「いえいえ、雄二さんからお話しもらった時は驚きましたけど、楽しかったですよ。」
「ええ。ドラムセット2つで演奏したのは初めてなので、楽しかったです。あ、私はこの後用事がありますから、これで失礼します。」
そういいながら、茜がスティックをケースにしまいスタジオを出ていく。
「皐月さん、この後少しセッションしませんか?まだまだスタジオの使用時間にはありますし。」
「うれしいお誘いですけども、今回はご遠慮いたします。では私もこの辺で失礼しますね。」
「そうですか。では、お疲れさまでした!」
俺たちの正体を知らない3人は笑顔で送り出すが、奥で雄二が申し訳なさそうな顔をして手を挙げている。
スタジオを出ると、仮面を外しスマホを出し、トイレに向かいながら雄二に一言、≪今度食事でもおごれよ。≫とLINEする。
トイレで私服に着替えると、動画用の服を鞄にしまい、鞄を背負ってトイレを出る。トイレを出ると、そのままどこにも寄らずにビルを出る。
(久しぶりに海の方を通って帰るか。最近行ってなかったし、何より、海風に当たりたい。)
ビルを出ると、国際橋のほうに向かい、そのまま赤レンガ倉庫に向かう。
マリン&ウォークを通りすぎ、横浜港駅のプラットホーム後に腰掛ける。
しばらくプラットホームから見える広場や旧税関、赤レンガ倉庫に大さん橋を眺めると、不意に楽器が俺に「早く帰ろう」と言っている気がして、プラットホームを後にする。
どう帰ろうか考えた末に、臨海パークに足を向ける。
(ごめんよ。風が寒いかもしれないけど、もうしばらく俺の散歩に付き合ってくれ。)
心の中で楽器たちに語りかけると、そのまま海沿いに歩き、もう一度国際橋を渡り、ぷかりさん橋の方に曲がる。
海の方を向きながら、歩いていると、遠くからサックスの音が聞こえてくる。
(誰かが演奏してるのかな。にしても、これはテナーとアルトの五重奏?変な編成だな。たぶんアルト3本とテナー2本かな。)
音のする方に歩いていくと、思った通りアルト3本にテナー2本の五重奏だったが、何より驚いたのは、演奏しているのがどう見ても女子小学生だった。
臨海パークの一角で演奏している小学生たちは、音程も音色もどの技術も未発達で、どれも発展途上といった印象を受ける。
だが、どの子もにじみ出る才能が感じられる。
演奏中だった少女たちのうち1人と目が合う。
その瞬間、俺の心の中で、今すぐ楽器が吹きたいという気持ちが大きくなる。すると、楽器たちも「吹きたいなら吹けばいいよ!」「吹きたいときいつでも吹いていいよ!」と言っているような気がした。
気が付けば、少女たちの近くにケースを置いて、ソプラノを取り出していた。
彼女たちは少し戸惑っていたようだが、演奏を続けていた。
彼女たちが演奏していたのは、人生のメリーゴーランド。
アルトが1本メロディを担当し、残ったアルト2本が同じ音でハモリをして、テナー2本で伴奏をしている。そこに、ソプラノのメロディが参加する。
少女たちとの演奏は、思ったよりも楽しかった。というか、久しぶりに管楽器と合わせた気がする。
『パイレーツオブカリビアン』に『ルパン三世』といった有名な曲から、『Bad Apple!!』や『少女奇想曲』といった一部の人しか知らないような曲、『夏の決心』や『夢見る少女じゃいられない』などの昔懐かしい曲までもチョイスしてくる。
合計で、30分くらい一緒に演奏したころ、5人の少女たちと俺は、初めて言葉を交わした。
「あの、お兄さんはどこかの演奏者なんですか?」
「こんなに上手いってことは、実は有名な奏者だったり?」
少女たちは、興味津々によってくる。
「あ~確かに少し前まで普通に活動してたけど、今は表に素顔で出ることはないかな。まぁ仮面をつけてネットに動画を挙げたり、仮面のまま演奏会に出たりしてるから、奏者ではあるかな。」
「仮面の奏者…。あの!あなたってヴァイオリンやピアノでもコンサートなどに出たことありますか?」
「ヴァイオリンやピアノか…。最近はコンサートでは引いてないけど、動画とかでは引いてるよ。最も、もともとバリサク奏者だから、本当に趣味程度のものだけどね。」
俺の返しに、質問をしてきた少女が驚きの顔をする。
「…どうした?」
「あなたって、中学生でフリーの演奏者として活動してたバリサク奏者の高橋賢治さんですか!?」
「え!?俺の事知ってるの!?」
30分の演奏と、数問の質問で俺の名前を言い当てる人なんていないと思ってた。
「もちろんです!私のあこがれの奏者なんです!」
「俺があこがれ?…ああ、だからアルト奏者なの?」
「やっぱりわかりますか!?」
俺が中学時代に担当して、今でも主軸の楽器に選んでいるバリトンサックスは、基音がE♭。つまり、バリサクのドの音は、ピアノでいうシのフラットになる。
サックスというのは、基音がE♭のE♭管と、基音がB♭のB♭管が交互に並び、下から、バリトンサックス、テナーサックス、アルトサックス、ソプラノサックスという順番に音が高くなっていく。
バリトンサックスとアルトサックスは1オクターブ違いで、基音であるE♭がドであるE♭管。テナーサックスとソプラノサックスが、基音のB♭がドのなるB♭管なのである。
「バリサクは高いですし、中古でも高いし、何よりあんまり出回らないので、同じ調のアルトを吹いてるんです。バリサク一回も吹いた事ないですし。」
「あの~、ちょっといいですか?」
会話に混ざっていなかった少女が1人、おずおずと手を挙げる。
「お兄さん、仮面付けて楽器演奏してるって言ってましたよね。」
「ああ、これだよ。」
鞄の中から狐の仮面を取り出し、顔に当てる。
「あ!東雲皐月だ!」
「東雲皐月って横浜在住ってホントなんだ!」
「サックス奏者の高橋賢治って、東雲皐月と同一人物なの!?」
子供たちの反応が一気に寄ってくる。
YouTuberって職業は、やっぱり子供たちに人気なのかな。
「ん?」
子供たちが寄ってきている中、彼女たちの持っている楽器に目がいく。
どの楽器も整備や手入れがされていないのが気になった。
「あの…。」
楽器をじっと見てると、少女のうち一人が不思議そうにな顔をしていることに気づく。
「ああ、ごめんね。何でもない。」
すると、さっきのアルトの子が何か気づいたように話す。
「お兄さん、私たちの楽器が気になってる?」
「え?ああ、うん。ちょっとね。」
「私たちみんな孤児で施設で暮らしてるの。だからお金がなくて楽器の整備に出せなくて。どの楽器もだましだまし吹いてるの。」
「そっか…。」
どの楽器も、楽器としてのグレードが悪くないが、状態が良くない。
楽器の表面のくすみは、ビンテージ品のようなものではなく、ただ単に掃除がされていないようで、どのキーもオイルを指していないのかネジが緩んで飛び出ている。
(今すぐに整備したいけど、今は整備用の道具を持ってないからできない。)
少し悩む。
音楽が好きな子供たちの今後を考えれば、どうすればいいかすぐに答えが出る。
「君たち、これから俺の家に来ない?」
「…へ?」
急な誘いに、全員不審者を見るような目で見るが、さっきのアルトの少女だけは目を輝かせる。
「現役の演奏者の家に行けるなんて……!」
「鈴ちゃんが大丈夫だと思うなら、大丈夫なのかな…。」
「東雲皐月なら大丈夫かな…。」
みんな懐疑の目で見てくる。
まぁそりゃそうだ。今さっきであった男が急に「家に来ないか」なんてただの変態だ。
しばらく少女たちで話し合った後、こちらに向き直る。
「あの!」
「うん。」
「良ければ、お邪魔してもいいですか?」
少女たちのうち1人が勇気を振り絞ったように緊張した顔で聞いてくる。
「うん。いいよ。じゃぁ、楽器をしまっていこうか。」
自分も、楽器をしまいながら、「サックスのスタンドって5本もあったっけなぁ」なんてことを考えながらソプラノをしまう。