2.獣人局の人達
それからというもの、忙しい日々が続いた。
本来三ヶ月かけてじっくり行う研修を前倒しに凝縮された内容で叩き込められ、その上獣人達の情報に関する取扱いのレクチャーを受け、住居を橋渡区にある獣人町への引っ越し手続きを行い、引っ越しまでの間に実家に報告を入れ、仕事用のスーツやカバンなどの準備と、とにかく目まぐるしく日常が過ぎていった。
勿論、動物園や水族館に行く暇など無かった。
そうしてようやく4月を迎え、ついに稲葉春秋は獣人局へと足を運ぶ事となった。
獣人町は引っ越しの際に何度か訪れる事になったが、簡潔に言えば田舎町だ。
戸建てが建ち並ぶ住宅街と商店街に、少し足を進めれば田畑に山が広がっている。
その割に交通の便は田舎にしては良い方で、バスや電車の本数は多く、また、一駅二駅進めばビル群が建ち並び、ちょっとした都会気分が味わえる。
無論、あくまで気分であるが。
そこまでが獣人町と定められており、主に彼らの生活圏は住宅街の方にある。
そのためか、獣人局も住宅街のど真ん中に鎮座しており、戸建てやアパートが並ぶ中、不釣り合いな大きさの建物が一つ、姿を現した。
「ここが獣人局か……そういえば入るのは初めてだよな」
研修は全て別の所で行っていたため、獣人局に入るのは今日が初めてである。
流石に初めての場所となると柄にも無く緊張してしまう。
見知らぬ人が来た時の奇異なものを見る視線は、一人だと中々慣れるものじゃない。
動物園や水族館であれば慣れたものだが、そうではないので、春秋は一度深呼吸をして気持ちを落ち着けると、中へと足を踏み入れた。
廊下を少し進むと、すぐに広い所に出る。
事務机が整然と並べられ、その上は雑多に資料が山積みにされ、その山を無視して朝の仕事の準備に取り掛かっているだろう職員の姿が幾人か見受けられた。
そしてその中から見覚えのある姿が顔を出してきた。
「おお、稲葉君!待っていたよ!」
「おはようございます、局長」
獣人局局長である梶谷平蔵であった。
彼も春秋の姿を見るや、初対面の時と変わらぬ人の良さそうな笑顔を向けて、声をかける。
ある意味その人の良さそうな笑みに騙されて、春秋は今ここにいる原因になった人なのだが、何度か顔を合わせる内に、あの時本人にまったく悪気が無かった事だけは理解した。
それ故余計に性質が悪いので、今後も局長の発言にだけは注意していきたい。
「いやあ、3月の間は大変だったね。無理なお願いをしてしまってすまなかったよ」
「いえ、学ぶことも多くとても充実した1ヶ月でした」
春秋は爽やかな表情でそう答えるが、実際の所かなり疲弊していたことは否めない。
とはいえ、口に出した言葉も真実であるが。
「そうか、それは良かった。さて、今日は仕事初日だからね。まずは局内の部署を案内しようと思うんだ」
「局長自らですか?」
「いやいや、そうしたい所だけど私も仕事があるからね。他の人に頼むつもりなんだけど……っと、噂をすればいい所に。おーい、マキちゃーん!」
局長が部屋の奥から姿を現した人物を見るや、手を振るって呼びかける。
マキと呼ばれたその人物は局長に気付くと、こちらに近づいてきた。
「いかがいたしましたか、局長?」
「ああ、忙しい所悪いねマキちゃん。彼が今日から獣人局に配属になった稲葉君だ」
「そうだったのですね。……初めまして、局長の秘書を務めておりますマキと申します。本日は貴方の案内を局長から頼まれております。よろしくお願いします」
マキは春秋に向き直ると、そう言って綺麗な礼を見せた。
あまりに綺麗な動作に少しだけ反応が遅れた春秋は、慌てた様に礼を返すのであった。
局長の秘書だというマキと呼ばれた女性は眼鏡をかけた正に秘書、という出で立ちをしており、その上かなりの美人だ。
だがしかし、彼女が礼をした時にふと、普通の人間にはない、あるものがゆらゆらと揺れていたのを確認した。
それは彼女の丁度腰から垂れ下がるように伸びており、先端が少しだけ巻かれたふわふわとした細長いものが揺れていたのだ。
見慣れぬ異物に、春秋はしばし釘付けになっていると、局長が思い出したように口を開いた。
「そういえば言っていなかったね。マキちゃんはなんと、獣人なんだよ」
「えっ!?いや、でもそれなら……」
確かにそれならば、ゆらゆら揺れているそれは尻尾ということになる。
だが、獣人の大きな特徴である獣耳がマキには見当たらないのだ。
「ああ、私、フサオマキザルの獣人ですので」
「サル!?サルの獣人もいるんですか!?」
「ええ、いますよ。目の前に、ここに」
「え!?あっいや……はい」
獣人というからには犬や猫というイメージが先行していたが、どうやら獣に類するものなら何でもありなのかもしれない。
これならゴリラの獣人とかイルカの獣人がいるんじゃないかと思ってしまう。
いや、それよりも春秋が驚いた事がもう一つ。
「……というか、意外と細かい分類までされているんですね」
「ハッハッハッ、私も最初は犬とか猫とか熊とか、大まかな括りだと思っていたよ!」
そう言って快活に笑う局長と、その横でマキさんは静かに佇んでいる。
フサオマキザルはオマキザル科オマキザル属に分類するサルの仲間だ。
体は左程大きくないものの、その生態の興味深い点は、自然界で道具の使用を行うという珍しい習性にある。
好奇心も高く、その性質から介護猿として活躍することもある種類だ。
そのサルの獣人がサルとはとても思えない美人なのだから、固定概念は捨ててしまった方がいいだろうと、春秋は早々に判断することにした。
「それじゃあ稲葉君の案内を頼むよ」
「お任せください局長。局長にはその間済ませて欲しい仕事を机の方に積ませていただきましたので、あまりふらふらなさらないで下さい」
「うっ……相変わらず厳しいねぇ」
「当然のことを言ったまでです。では稲葉さん、ご案内いたしますよ」
そう言ってキビキビとした動きで歩き始めるマキの後を、春秋はついていく。
どうやら局長はマキに頭が上がらない様である。
彼女には逆らわない方が賢明だと心に刻む春秋であった。
「それにしても驚きました。獣人の方も働いているんですね」
「はい。獣人局と銘打っている以上、その職員も共存せねば軋轢が生じると局長がお考えになっていましたからね。ここには獣人の職員が三割を占めていますよ」
局内の部署を案内してくれることになり、その道を進む中、春秋は少しでも情報を得ようとマキと会話を弾ませる。
冷静沈着で冷たい印象のある彼女であるが、振られた会話にはしっかり答え、親切且つ丁寧だ。
「へぇ、そんなにいるんですか。でもどうやってここの職員になるんですか?」
「あなた方と原則変わりありませんよ。試験を受けて、面接をして、それで合格した者がここに務めることになります。ただ始まりは少し違うかもしれませんね」
「と、いうと?」
「丁度今向かっている所に関連する場所ですので、ご説明します」
マキは歩みを少しだけ緩め、春秋の隣に来る。
局内は大きな建物といっても廊下までは広い訳では無い。二人横に並べば、後一人通れるくらいのものだ。
とはいえ、歩行スピードを緩めたということは少しだけ話が長いのだろう。
「我々はそもそも貴方達と住む国……いえ、世界が違います。ですので、この計画が立案された際、我々の国“ベスティア国”では国王政府が初めに選抜基準を設け、その基準を満たした者達を日本に送る事にしたのです」
ベスティア国、初めて聞く名であるが、それが獣人達の国であるらしい。
国王政府ということは、王権制度を取っているのだろう。
政治体制も含め、今の日本とは大きく異なる事が窺える。
「無論、それはあくまで我々の国での基準の話。そうして日本にやってきた獣人達は、次にこの局内でこの国の常識を学ぶ必要がございます。流石に常識のないまま放り出すわけにはいきませんからね」
マキは視線を一つの扉に向け、立ち止まる。
春秋もそれにつられて立ち止まると、それを確認したマキはゆっくりと目の前の扉を開いた。
そこにはズラリと整然と並べられたパイプの机に椅子、そして机の正面には教壇と黒板が置かれていた。
椅子には、頭にピンと立った獣耳と背もたれの間にぶらりと垂れ下がる尻尾を有した人たちが座っていた。
それが獣人であるという事はすぐに理解した。
そしてその獣人達は皆、教壇に立つ人間の男に視線を集中させていた。
「そういう訳で、ここは獣人専門の教育委員会が行う講義室になります。ここでのカリキュラム課程を修了することで、はれて獣人町の住民として生活することを許されるのです。この施設はまだ局内に設置されていますが、ゆくゆくは専門の学校の建設も視野に入れています」
「思っていたよりも大変なんですね。てっきり獣人の人なら誰でも受け入れると思っていましたから」
「それはリスクが大きすぎます。非合理的です。獣人と言っても我々から見ても様々ですからね。気性の荒い方もいますし、悪気がなくとも害を成してしまう者もいます。予め基準を設けなければ、何かあってからでは遅いのですよ」
如何なる事も規則や基準があるからこそ。
国がそれを崩すなど、もっての外だ。
話を聞くだけでも簡単な基準ではないというのに、それでも獣人達からの希望の声は絶えないのだという。
それだけ彼等も新しい世界に何か期待をしているのかもしれない。
そんな事を春秋が考えていると、講義が終わったのか、教壇に立っていた男がこちらに向かってきた。
「おーマキちゃん、珍しいねこんな所に。……ん?誰だその男?……まさか遂にマキちゃんにも春が……グホオォッ!?」
鳩尾にマキの拳がめり込んだ。
不意の急所をもらい、ガクリと膝から崩れ落ちる男を、マキはゴミを見るかのような目で見下ろしている。
「雅也さん、次は無いと思ってください」
「かっ……は、はい……すみません、でした……」
「すみません稲葉さん。彼はここで獣人達に教鞭をとっております橋本雅也という者です。存在だけ認知していれば問題ありませんのでお願いいたします」
そこらに置いてある備品と同じような扱いをしながら、マキは雅也と呼ばれた男を指差す。
雅也は鳩尾を摩りながら春秋に向かって軽く手を振って挨拶をする。
くたびれた衣類に、乱れた頭髪、顔立ちは悪くないのだが、正直社会人……ましてや公務員としてはらしくない姿だ。
「見ての通り、社会人としては反面教師の塊のような男ですが、誰よりもベスティア国の言葉に長けた日本人であることと、教鞭に立つことにかけては腹ただしい事ですが腕が立つので、この様に職員として採用している次第です」
「は、はあ……」
マキの言葉の節々から毒が含まれており、隠す様子もない。
そしてそんな彼女の言葉に対し雅也の方も「いやー手厳しい事を言うなー、マキちゃんは」などと宣っているので強者である。
とりあえず、あまり関わらない方がいい奴だという事だけは理解した。
「そうでした、一つお伝えし忘れていたことがありました」
「なんですか?」
次の部署へと進む途中、マキは思い出したように言葉を続ける。
「稲葉さんの所属部署なのですが、住民課所属という形になります。獣人の特徴をしっかり把握してもらうにはそこが一番と思いますので」
住民課は主に戸籍や住民票に関わる部署だ。
曰く獣人達の戸籍に関してはその動物に関する特徴も記載されているらしい。
「正確には住民課に新設される所の所属ではありますが、同じようなものです」
「なるほど。……それで?」
「新設される所の所長が未だ準備が整っていないということなので、稲葉さんの所属部署は最後にしようということです」
「ああ、そういうことですか。それは大丈夫ですよ。途中に寄るよりも楽ですし」
「助かります」
「……それよりも、その所長っていうのはどんな人なんですか?」
「それはお会いしてからのお楽しみです。ただ強いて申し上げるなら、良い人ですよ」
マキは簡潔にそれだけ答えると、再び次の部署へと歩を進ませる。
これから自分が一緒に働くことになる人なのだ。
良い人と聞けただけでも春秋は心が軽くなるのを感じた。
しばらく廊下を進んだ先に見えた所は廊下の隅、所謂角部屋だ。
照明が少ないのか、他と比べて薄暗く、近寄りがたい雰囲気を纏っていた。
そんな場所でもマキは躊躇することなく扉を開け、中へと入っていく。
春秋も遅れまいと彼女の後をついていった。
その際にふと、扉の入り口に掛かれている立て札を見やると「技術課」と書かれているのが見て取れた。
中は入り口よりも少しばかり明るいものの、やはりどこか陰鬱な雰囲気がした。
雑多に積み上げられた書類があり、果たして手を付けているのかどうかも分からない有様だ。
そんな中に一人、机に向かい仕事に没頭している男がいた。
「平賀さん、仕事は明るくして行うように、と申し付けたはずですが?また泊まり込みで仕事していたのでしょうか?」
「……ん?ああ、マキさんか。すまない、つい作業となると没頭してしまってね、灯りの事など気にするのも忘れていたよ」
平賀と呼ばれた男はマキの一言に素直に従うと、リモコンを一つ押し、部屋の明るさを調整し、こちらに体を向ける。
男の見た目は四十を越える位で、白衣姿に片手にはコーヒーカップが握られていた。
「わざわざここに来たという事は、何か新しい設備の依頼かな?欲しいものがあればいつでも任せてくれ」
「いえ、今日はそちらではなく、獣人局に本日付けで配属になった新人に部署を案内している所です」
マキに紹介されると、平賀はずれた眼鏡を持ち上げ、春秋の姿をマジマジと眺める。
「あ、えっと……稲葉春秋です。本日からお世話になります」
「ああ、こちらこそ。私は平賀敏夫。そうか、もうそんな季節か……。君の事は話に聞いているよ、部署は違うが、必要とあらばいつでもここを訪れると良い。獣人達の生活に必要なものがあれば力を貸そう」
寝不足なのか目にクマが出来ているため、言い知れぬ威圧感を覚えるものの、平賀の対応は実に丁寧だ。
「技術課は主に獣人達にとって必要な設備の設計、開発、生産依頼を行っています。設計開発まで携わる分、少々癖の強い方々が所属しておりますが、仕事は熱心ですよ」
「あはは、なんか大学時代の教授の研究室を思い出しますよ」
「まったくもって否定できない所が痛いもんだよ。しかし、タイミングが良かった」
「はい?」
平賀は安堵した様子でこちらを見る。
いったいどういう事かと考えていると、突如春秋の背後から大きな物音が轟いた。
「おおい、平賀ぁ!!!こりゃいったいどういうことだ!!ああぁん!!?」
先程の轟音が扉を勢いよく開けた音だと気が付いた頃には、第二陣とでもいわんばかりの怒声が響き渡った。
あまりの大声に春秋は思わず耳を塞いでしまうが、当の平賀は慣れた様子で呆れた様な視線を声の主に送っていた。
声の主はこちらのことなど気にせずにズカズカと平賀の前まで歩み寄ると、顔を近づけ、すごんできた。
「俺が考えた図案が却下たあどういうことだ!!?」
「どうも何もない。却下に決まっているだろう。獣人用の信号機の開発で何故火薬を使う必要がある」
「あ?そりゃ色盲の奴とか視力の弱い奴だっているからよ、派手な音ぶっ放せばわかりやすいだろ?後派手な方が面白れぇじゃねぇか!」
「……お前な」
平賀は思わず眉間に手を当て、どうしたものかと悩み始める。
春秋はいきなり現れては随分ぶっ飛んだ考え方をする奴がいたものだと思ったが、男の姿をよく見ると、頭のてっぺんと腰に、人間には見慣れぬものがついていた。
「マキさん……彼も獣人ですか?」
「ええ、彼の名はロト・ラクーン。アライグマの獣人ですよ」
「アライグマって……ああ、なるほど……」
アライグマはアライグマ科アライグマ属に属する哺乳動物だ。
名前からクマの仲間と思う人も多いが、実際はまったく違うし、見た目もタヌキ近いが違う仲間だ。
手先が器用で、食べ物を洗うような仕草をすることからその名がついた動物で、日本では一昔前にアライグマを主人公にしたアニメが流行っていた。
愛らしい見た目も相まってペットとして人気を博したが、持ち前の手先の器用さから脱走する個体が多数出て、その上気性の荒い性格が仇となり、無責任な飼い主が苦し、多くが野生化。
今では日本を代表する外来種として問題視されている。
そして目の前にいるロトと呼ばれた青年は正にそのアライグマの気性の荒さを体現しているかのようだった。
「えっと……あれ大丈夫なんですか?」
「いつも通りなので気になさらないでください。ロトはあのように気性は荒く、喧嘩っ早い上によく職場を脱走しますが、物作りに対する情熱だけは一級品ですよ」
「それは公務員としてどうなんでしょう?」
「最悪ですね。まぁあの性格なので下手に町工場にも雇えないものですから、仕方ないんですよ。さあ、挨拶は済んでいますから、さっさと次へ行きましょう。」
「えっ、あ、ちょっ……マキさん!?いいんですか、放っておいて!!」
「あの二人なら日常茶飯事なので大丈夫です。さあ、時間も勿体ないですので次行きますよ」
そう言うと、マキさんはスタスタと次の部署へと歩き出していった。
それからいくつか部署を巡り、ようやく春秋が所属する住民課に到着した。
部署も部署なだけあり、ここばかりは町民の往来も多く、幾ばくか賑わいを見せていた。
「あ、マキさーん。もしかしてその人が新人さんですか?」
そんな中、春秋とマキに声をかけてくる者が一人。
そこには春秋と同じくらいの歳の女性が一人立っていた。
「ええ、本日付けで住民課の相談所配属になります、稲葉さんです」
「稲葉春秋です。よろしくお願いします」
「おおー、君が相談所配属の。話は聞いてるよ、分からない事があったら私にいつでも相談しなさいね!」
「ありがとうございます。えっと……」
「藤村。藤村明里よ。よろしくね、稲葉君」
そう言うと藤村はニコリと屈託のない笑顔を春秋に向けた。
先程までの色の濃いメンツに比べると、実に快活で親しみやすい相手である。
同じ課の職員がまともな人間で良かったと、春秋は心の中で安堵した。
「……って、ところでマキさん。相談所って?」
一つだけ聞き慣れない単語が出てきたので、思わず時間遅れで問う。
「局長から話は聞いていると思いますが、稲葉さんには獣人と、獣人に関わる人達の悩み、トラブルの窓口を請け負ってもらいます。要はその窓口の名前が相談所です。正式名は“獣人町トラブル解決☆お悩み相談所”なのですが、面倒なので職員間では相談所と呼ばせていただいております」
「なるほど、よく分かりましたが、そのネーミングセンスはいったい誰の仕業ですか?」
「そのネーミングセンスの張本人にこれから会いに行きます。相談所になる部屋に案内しますよ」
要は相談所の所長のネーミングセンスということらしい。
独特のセンスについていけるか一瞬不安になったが、今更それを考えても遅い。
春秋は藤村と別れると、意を決して相談所へと足を運ぶ事にした。
住民課から相談所までの距離は歩数にして十数歩、ものの一分も経たずに到着した。
目の前には簡素な扉と、その脇に「獣人町トラブル解決☆お悩み相談所(準備中)」と書かれた看板が立てられていた。
「さあ、稲葉さん。ここが貴方の主な仕事場になります。中には所長が待っていますので、残りの事は所長に聞いてください」
「はい。マキさん、お忙しい中なのに付き合ってくれて、ありがとうございました」
「いえ、これからもよく仕事で関わる事になりますから。貴方の人となりをある程度知る事が出来ましたので、こちらも悪い事はありませんよ」
冷静沈着な態度は崩さず、綺麗な礼を見せると、マキはさっさと仕事に戻っていった。
春秋はそれを見届けると、再び扉の方へ体を向ける。
この先に自分の上司となる人物が待っている。
良い人だとは聞いているが、先程の看板のネーミングセンスのせいで一抹の不安を覚えてしまう。
だがいつまで悩んでいても仕方がない。
春秋はドアを数回ノックすると、扉を開け、いの一番に礼をした。
「おはようございます!本日から相談所配属となりました、稲葉春秋です!よろしくお願いいたします!!」
新人らしく元気よく、少しばかり柄にも無く大きな声で挨拶をし、下げた頭をゆっくりと上げた。
部屋は八畳ほどの一部屋で、床はマットが敷かれ、入り口手前にはガラス製の小机と脇を挟む様にソファが置かれている。
部屋の隅には書類がズラリと収まった棚が並び、順を追って部屋の奥へと視線を送ると、奥には簡素な事務机とパソコンが二台置かれていた。
まだ整頓が終わっていないのだろう、棚の上や床に山積みされた段ボールが散在している。
そしてその事務机のすぐ奥に立つ人物を視界に収めた時だろう。
一瞬、自分の時間が止まったのではないかと春秋は錯覚した。
春秋の向かい側には、目を疑うような美女が佇んでいたのだ。
スラリと伸びた金の髪、宝石のような碧の瞳。
独特の模様をあしらったドレスの様な衣装は彼女の国の伝統の衣装だろうか。
そして頭の上にピンと立つ三角形の獣耳に、背後に揺らめくふわふわとした稲穂の様な尻尾。
春秋は一目見て彼女が狐の獣人であることを理解した。
美女は春秋とは対照的に落ち着いた様子で春秋をジッと眺めると、しばらくして口を開いた。
「初めまして、私は相談所の所長を務めさせていただいております、ルティナ・ルナールと申します。よろしくお願いしますね、稲葉春秋さん」