1.はじまり
如月も半ばを過ぎた頃、立春を越えたとはいえ、まだまだマフラーに手袋が欠かせないこの季節。
ここに一人の男が屈んだ姿勢で嘆息していた。
黒髪黒目の標準的な日本人男性の体型をしたこの男、名前を稲葉春秋という。
齢二十四の彼はつい最近修士課程の論文発表を終え、後は卒業を待つばかりの院生であった。
論文発表は教授も太鼓判を押すほど好評で、彼の学位取得は確実。
何の憂いもなく次なる社会人に向けて、ステップを進められるのだ。
であるのに何故、彼が先程の様なため息をついていたのかというと
「結局やりたい仕事、見つからなかったなぁ……」
現代の日本の若者たちに立ちはだかる壁、就活であった。
しかし彼については、一般的な学生達と少しばかり事情が違う。
ここで一つ断っておくと、彼は無類の動物好きである。
動物オタクといってもいい。
暇さえあれば理学書や動物図鑑を読み漁り、動物園や水族館巡りを行い、時には自然に足を踏み入れ観察する事さえある。
故に彼の修士論文も動物行動学に類するもので、そのあまりの熱の入れ方に友人たちも苦笑いを浮かべるほどだ。
また、そんな彼の趣向からか、友人としての付き合いは多いものの、異性との恋愛沙汰は皆無に等しい。
彼の友人たち曰く「顔は整っているし、社交的なんだけど、あの趣味が全てを無駄にしている」と言わしめている。
無論、当の本人はそんな事を一切気にするとはなく、それどころか就活となった段階で、「折角だから動物学の知識が活かせる仕事に就こう」と考える始末であった。
だが現実はそう甘くない。
彼は動物の事に関する知識は確かなものだが、彼の目標はあまりに漠然とし過ぎていた。
それ故、どの仕事が自分にとって一番知識を活かせるのか、そればかりを考えてしまい、結局決め切る事が出来ず、また、会社側からもその曖昧な熱意を感じ取られたせいか、悉く失敗に終わってしまったのだ。
このまま春を迎えて、定職に就かないまま自分の望む仕事を探すという手もあるが、彼もそこまで考え無しではなかった。
いくら夢があるといっても流石に限度はある。
春秋は、夢は漠然としていたが、堅実であった。
就活の際、万が一就きたい仕事が見つからなかった時に備え、安定して生活できるようにと、公務員試験を受け、見事春秋が住まう橋渡区の区役所に合格していたのである。
日々の勉強はコツコツと、万が一の備えをしていた事が功を奏したといえる。
だが、彼にとっては出来ればこの選択肢を選ぶような事態にはなりたくなかった。
公務員となれば、ほぼ動物に関わる知識を使う事がなくなるからだ。
いや、地域によってはイノシシやサルによる農作物の被害の対策などに携わる事もあるだろうが、あまり期待はできないだろう。
結局何だかんだ最後まで気持ちが定まらず、優柔不断であった自分が悪いのだ。
そもそも公務員なんて昨今簡単になれるものではない。贅沢だと罵られてしまう。
春秋はそう気持ちに整理をつけると、掌に乗せていた小さなものを撫で始めた。
ちなみに補足をしておくと、彼がいる所の入り口には“ふれあい広場”とポップな字体の看板がぶら下がっていた。
動物園でよく見られる、所謂“小さな子供を連れた家族連れ向け”のコーナーである。
彼はそこにいる、所狭しと詰められたモルモットを一匹掬い上げて、先程までにらめっこをしていたのだ。
言うまでもないが、周りの家族連れの視線は痛く、冷たい。
それでも彼はひとしきり撫でて満足すると、慣れた様に飄々とその場を後にするのであった。
そうして月日は流れ、新社会人となるまであと三週間となった頃だ。
「稲葉君、突然呼び立ててしまってすまない」
「いえ、大丈夫ですが……いったいどういった御用件でしょうか?」
公務員試験に受かり、その後目出度く役所勤めになる彼は、新社会人のための新人研修の場にて研修担当官に呼ばれ、別室へと案内されていた。
言葉の節々がぎこちないのは、社会人としての言葉遣いに慣れていないためなので、ご容赦願いたい。
しかし新人研修も終わり、同期はこれから飲みに行こうだとか親睦を深めようとする声が聞こえるというのに、何故自分だけ別室に案内されているのだろうか。
何かまずい事でもしたかと考えるが、春明に思い当たる節は無い。
春秋は担当官に促されるまま席に着き、用件を尋ねた。
「なに、君と話がしたいという人がいるものだからね。私は君をここに連れてくるように頼まれただけさ。今お連れするから少しだけ待っていてくれないかい?」
「はあ……分かりました」
そう言って部屋を後にする担当官を、得心いかないまま頷いて見送る。
数分の後再びドアが開かれると、ドアの向こうから物陰が一つ入ってきた。
現れたのは担当官とは違った人物だった。
白髪交じりの柔らかな雰囲気を持った初老の男性で、彼は春秋の向かいにゆっくり腰を掛けると、朗らかに笑って見せた。
「やあ、お待たせしてすまないね」
「いえ、そんなことは」
「ああ、そんなにかしこまらなくていいよ。リラックス、リラックス」
担当官を使ってわざわざ呼び寄せてきたということから、それなりに役職は上なのだろう。
そう感じ取って姿勢をきっちり正し、お辞儀をしようとする春秋に、初老の男性は変わらぬ態度でそれを制した。
そう言われてしまったなら、これ以上かしこまるのも失礼にあたるだろう。
春秋は肩の力を落とし、楽な姿勢を取ることにした。
「さて、と……ああ、自己紹介がまだだったね。私はこういう者です」
春秋は差し出された名刺を受け取ると、そこに書かれている文字に目をやった。
『橋渡区役所特別局局長 梶谷 平蔵』
橋渡区役所局長ということは、直接にしろ何にしろ、春秋の上司に当たる事になる。
果たしてそんな人が自分に何の用なのか、春秋は名刺と平蔵を交互に眺め、困惑するのであった。
それに気になる事もある。
名刺に印字されている“特別局”という文字。
就活の時も、先程の研修の時も聞くことの無かった名前だ。
「ああ、そんなに怖がらなくても、決して怪しいものじゃないよ」
警戒している事が顔にも出てしまったのか、慌てた様に付け加える平蔵を見て、春秋は少しだけ申し訳なく思った。
「さて、色々聞きたいこともあるだろうが、まずはこちらから話をさせてもらうよ。簡潔に言うとね、来月からの君の配属先を私の管轄である特別局にしたいと思っているんだ。無論正式な勤務は4月からではあるけどね」
平蔵は柔らかな雰囲気は変わらずに、それでもハッキリとした口調でそう告げた。
「それはいったいどういう理由で?……というか、早くないですか?」
「そうだね。勿論決まったのなら3月中にみっちり研修をしておくつもりだから、その点は心配しないで大丈夫」
普通配属先については何度かの研修を重ねた上で決まっていく。
それを春秋は4月に入る前の段階で、配属先が決定するというのだ。
研修を前倒しにしてまで配属先を決定させ、4月から働かせるというのだから、大体の理由は察せられる。
「差し出がましい事を言うかもしれませんが……もしかして、人手不足、でしょうか?」
「そうそう、そんなところだね!今の職員達では適任がいなくてね、困っていた所なんだよ」
恐る恐る、といった風に問うた春秋とは対照的に、平蔵は実に緊張感のない雰囲気で応えた。
適任が自分以外いなかったということは、自分がいなかったらどうするつもりだったのか、と春秋はそう思わずにはいられない。
「事情は分かりましたが……結局その特別局というのはどういった業務内容なんですか?」
「おっと、そうだった。一番大切な事なのにすっかり説明するのを忘れていたね。まず特別局というのはね、表向きの名前で我々の間では別の呼び名があるんだ、その名も」
声のトーンを落とし、これが極秘の機密事項とでもいうように、平蔵は一言、その続きに言葉を繋げる。
「――――獣人局」
「獣人局……?」
「そう、君は獣人を知っているかな?」
突然予想もしていなかった単語に虚を突かれたが、春秋はすぐに記憶の底を掬い上げる。
忘れる訳もない、日本中……いや、世界中が注目した出来事なのだから知らない者はいないだろう。
「確か、一年ほど前から日本と親交を深める事になった異界の人たちの事、ですよね?」
そう、一年ほど前から日本のある場所と、異界との扉が繋がったのだ。
世界の向こうには獣人と呼ばれる人たちが暮らしており、世界が繋がった事をきっかけに、日本と獣人の外交が始まったのである。
「その通り、彼等の世界は未だ手付かずの資源が豊富にあり、獣人達はこちらの文化・技術に強い関心を抱いている。向こうは資源を、こちらは技術を提供することで協定を結ぶことになったんだ。そしてその当時から兼ねて進められていた計画があってね、それが“人と獣人が共存できる社会の実現”なのさ」
「共存できる社会……ですか?」
「そう、獣人は獣の耳と尻尾を生やしている以外は人と同じでね。加えて、個人差はあるようだけれど、その動物に近い性質をいくつか併せ持っているんだ。例えば犬のように嗅覚が良い、だとか猫のように自由気まま、とかね」
獣人については写真やテレビで見たことはあるが、確かに獣耳と尻尾以外は普通の人間と変わりない、という印象を受けた。
しかし彼らがどんな生活をして、それ以外にどんな特徴を有するのか、日本政府がそれをほとんど公表してこなかったのだ。
そしてそれは獣人達の世界を繋ぐ扉も然りだ。どこにあるのか、そして獣人達との交易がどう進んでいるのか、ほとんどの人が何も知らないと言ってもいい。
まさか自分の住んでいる街にそれがあるとは夢にも思わなかった。
「交易自体は順調なんだが、それが続けばやはり獣人達の中からこちらに世界に移住したいと考える者達も出てくるんだよ。勿論それは新たな経済を回すことになるだろうし、大歓迎ではあるんだけどね。ただ先程話した獣人達の特有の性質が、日常生活で不便を強いる事もあり得るんだよ。故に、彼等獣人達も住みやすい町づくりを目指し、一つのモデルスケール“獣人町”を完成させる、それこそが我々獣人局の仕事になるのだよ」
「モデルスケール……獣人町、ですか」
「分かってくれたかい?」
「はい、大まかには。ですが、どうしてそこに俺が選ばれたんですか?」
話を聞く限りこの仕事は日本政府も関わっているのだろう。そんな大仕事に社会人1年生の自分が何故選ばれたのか。
「そうだねぇ……それに関しては、国は中々この事ばかりに力を注いではいられない、というのが一番だろうねぇ」
途端に遠い目をしだす平蔵の顔からは「予算がない」という切実な問題が滲み出ていた。
要は他から引っ張っていける程の余裕が無いのだ。
ならば新人から引っ張ってきた方が安く済む、ということなのだろう。
お上の考えは分からないので、それ以上はよしておくことにした。
しかし、ならば何故多くいる同期の中で春秋が選ばれたのか。
「稲葉君。君、数日前にテストを受けただろう?」
「はい、確かに受けましたが……あ」
そう、研修があった今日よりも前、わざわざここに呼びだされ、筆記試験が行われたのだ。
そういえば妙に動物学関連の問題が多かった気がするが、その当時、彼はあまり気にしていなかったのだ。
「そう、あのテストこそ獣人局に入れるかどうかを確かめる試験だったんだよ。そして見事君がその合格を勝ち取ったんだ」
「そうだったんですね……いつの間に……」
「さて、ここまで話を聞いてくれてありがとう。それでは君の返答を聞きたいと思うんだけれど、どうかな?」
「どう、と言われましてもすぐには判断できないんですが……」
「そうだよねぇ。突拍子もない話だから色々気持ちの整理をつけたい所だよね。でも困ったなぁ」
「?」
「これ、曲がりなりにも“国家機密”なんだよねぇ……」
その単語を耳にした途端、春秋はグッと喉を詰まらせた。
そして変わらぬ朗らかな笑みを浮かべる平蔵を見て、理解する。
要は春秋に選択肢はないらしい。
そもそも話を聞いた時点で相手の掌の上だったのだ。
仮にも国家機密の情報を知られたとあっては、逃げる事も許されない。
誘導尋問どころか最早ただの脅しである。
「……嵌めましたね?」
「人聞きが悪いなぁ。単に君の長所を最大限に活かせる場所をと思って勧めているだけだよ。もし断ったら、何が起こるか保障は出来ないけれどね」
「完全に脅しじゃないですかっ!!?」
「ハッハッハ、まあまあ落ち着いて。それで、どうするんだい?」
答えなど春秋がなんと言おうとも変わらないくせに、そんな質問を投げかけてきた。
体裁というのもあるだろう。
だが、獣人達と関わる上でいやいやと行うような者がいては、それこそ迷惑がかかる。
だからこれは春秋が嫌ではないかどうか、という確認なのだろう。
春秋は一度気持ちを落ち着けて考える。
退路を断たれたとはいえ、よくよく考えれば悪い話ではない。
少し思い描いていたものと違う形とはいえ、春秋の持つ知識が活かせるのであれば、それは理想と言っていいだろう。
どこか乗せられてしまった感が否めないが、この好機を逃す手はない。
「……分かりました。それで、俺がもしそこに配属されたときはどんな仕事を任されるんでしょうか?」
だから最後に、一つだけ確認を取る。
「町もようやく獣人達が住めるようになってきたところでね。ここからが本格化するところなんだ。それ故不測の事態、トラブルに見舞われることになるだろう。君には人と獣人達の悩みや相談事の窓口になってもらいたい。恐らく最も獣人達と関わる事になる仕事だからね、是非君のその持ち前の知識を活かしてもらいたいと思っているよ」
「分かりました。俺にどこまで出来るかは分かりませんが、よろしくお願いします」
春秋は立ち上がり、深々とお辞儀をすると、平蔵も立ち上がり、手を差し伸べた。
「そうか、それではこちらこそよろしく頼むよ。ようこそ、獣人局へ」
この日、稲葉春秋の獣人局の配属が決まった。
予約投稿で三話分、一時間おきに投稿いたしますのでよろしくお願いします。