砂漠の王女の婚姻譚
広大な、黄色い砂の拡がる大地があった。数多くの砂丘や岩山を越えると、やがてオアシスにたどり着く。わずかな緑の点在する小さな湖のほとりに、その宮殿はあった。
宝石をちりばめた外壁は美しく、色とりどりの輝きで道行く人を魅了してやまない。外壁の周囲には警護の兵が立ち、歩哨が巡回している。
白磁の宮殿の奥には謁見のための広間が儲けられている。豪奢な絨毯とタペストリーに彩られた空間は静かで、一切の人の気配を感じさせない。中央に据えられた豪奢な椅子の主は、別の場所にいるのだ。
宮殿の玄関口のすぐ近くに、新たに建築されたと思しき大部屋があった。壁の継ぎ目などは綺麗に均されてはいたものの、埃の積もり具合などでそれとわかる。
大部屋には寝具が延べられており、まばらに人が横たわっている。手足に包帯を巻いた者、額に濡れた布を乗せた者。症状は多岐にわたるのだが、彼らは皆病人だった。
一人の病人の傍らで、少女が膝をついて診察をしていた。少女の側には、中年の男が立っている。男の眼つきには鋭い気配があり、ただならぬ者であることを感じさせた。
「手足が痺れるのね。あなた、サボテンの水、飲んだでしょう」
少女が咎めるような顔で、横たわる病人へと問いかける。少女が取った病人の手は、細かく震えていた。
「め、面目ねえ……サラサ様。賭けに負けたんで、仕方なく……」
衰弱しきった病人の手を、サラサは投げ出すように床へ置いた。
「自業自得だわ。苦い薬を出してあげるから、これに懲りたらもう賭け事はやめるか、穏当なものを賭けなさい、まったく……」
サラサは顔を上げて、傍らの男へ目を向けた。
「ゲンリュウ、整腸薬を、用意して。サボテンの水、大量に飲んでしまったみたいなの」
呼びかけられて、ゲンリュウは頭を掻いた。
「……悪いな、先生。まさか、本当に飲むとは思わなかった」
ゲンリュウの言葉に、サラサの眉がぴくんと吊り上がる。
「あなたが、飲ませたの?」
問い詰めるサラサに、ゲンリュウは誤魔化すような笑いを浮かべて両手を振った。
「い、いや、飲めないなら、想い人に告白するって約束をしたからよお、まさか、飲むほうを選ぶなんて……」
「……詳しく、聞かせてもらっていいかしら?」
じろり、とサラサはゲンリュウを睨み付ける。
「で、でもよ……先生には、わかりにくい話かもしれんぜ? たしか、先生もう、二十歳だよな?」
「そうよ。それが、どうしたのよ」
サラサは言って、胸を張る。色気も何も無い、医師の装束だ。身体つきも、少女と言っても差し支えは無いくらいで、さすが王家の姫君は年の取りかたが違う、などと揶揄される筒型体形にゲンリュウは肩をすくめて見せる。
「一途になった男の恋心とか、わかってやれんのか、先生?」
ゲンリュウの反撃に、サラサはぐっと押し黙る。
「わ、わかるわよ、私だって。結構、一途なんだからねっ!」
上目遣いに見上げる視線を、ゲンリュウは涼しい顔で受け流す。
「先生が言うのは、アレだろ? その、医学書をくれた神仙の鬼の話だろ? ぷく、わ、悪いが、そりゃ話にならねえ」
笑みを浮かべるゲンリュウの腰を、サラサは力いっぱい蹴りつける。
「何よ、人の思い出に、ケチをつけるんじゃないわよ!」
ぱし、と軽く蹴りを受け止めたゲンリュウの顔に、緊張が浮かんだ。
「何、どうしたの?」
様子を変えたゲンリュウに、サラサも訝しげな顔になる。たたた、と足音が近づいてきたのは、その時だった。
「第十八王女サラサ様、国王陛下より御言伝を賜り参上いたしました!」
跪いて声を張り上げるのは、サラサの父親、国王からの使者だった。サラサが眉を動かすと同時に、ゲンリュウが使者の口へ右手を当てて塞ぐ。
「ここは病室よ。大声、出さないで」
突然のことに目をきょろきょろと泳がせる使者の前で、腕組みをしたサラサが言った。
「場所、変えようぜ。俺もいつまでも、男の口を押えてる趣味はねえからな」
ドスの効いた声で、ゲンリュウが使者の耳元で囁く。使者はこくこくとうなずき、サラサたちとともに病室を後にした。
「……はあ? 結婚しろ、ですって?」
宮殿の最奥にある自室で、サラサは素っ頓狂な声を上げた。そんなサラサの目の前で、使者はうなずく。
「はい。アーリ将軍のご子息の妻となれ、との御言葉です」
使者の言葉に、サラサは目を見開いて青ざめた。
「な、何でそんな事に? 大体、誰よそのご子息とやらは。私、顔どころか名前も知らないんだけれど?」
「はっ、サラサ様の医療活動に深く感じ入るところがあり、是非に、と申されたそうです。アーリ将軍は国防の要の御方でありまして、王も首を横へは振れず……」
「医師なんてやってる変わり者の王女を、嫁に欲しがるなんて……どんな変人かしら?」
眉を寄せるサラサに、使者は至極真面目な表情を崩さない。
「ナジム・アーリ様はサラサ様より四つ下の十六歳で、金髪碧眼、眉目秀麗の好青年と聞き及んでおります」
「あなたは、見たこと無いの?」
サラサの問いかけに、使者はうなずいた。
「はい。これまで酒宴や族長の集まりなどには、顔を出しておられなかったので、私も伝聞でしか知りません。ですが、父親の将軍閣下には、あまり似ておられぬ方と言われております」
使者の言葉に、サラサは視線を宙へと彷徨わせてアーリ将軍の顔を思い浮かべる。頬に刀傷があり、豪快なトラ髭をたくわえた筋骨隆々の大男だった。声も大きく、所作は大雑把。遠目から見た感じは、どうみても厳つい無頼漢だった。
「そっか。似てないのね……」
小さく呟くサラサの横で、ゲンリュウが首の前で立てた親指をスッと横に動かす。
「……やるか?」
ぼそり、と言うゲンリュウへ、サラサは首を横へ振る。
「ダメよ。もう、お父様が決定したことだもの。それに私は、誰の手も汚したくはないわ」
「じゃあ、結婚するってのか? その、見たことも無いドラ息子と」
ゲンリュウの言葉に、サラサは少しの間、俯いた。
「ここの患者はどうするんだ? 先生がいなくなりゃ、皆治療が出来なくなっちまうぞ?」
「あなたが継いでくれればいいのだけれど」
「馬鹿言うな。俺は先生の弟子だが、護衛でもある。将軍の息子がどの程度出来るかはわからねえが、俺が先生の側を離れるわけにはいかねえよ」
「それは……そうね。困ったわね。あなた以外に、ここを任せられそうな人間はいないし……」
腕組みをして、サラサはうんうんと唸る。その横で、ゲンリュウがぶつぶつと呟く。
「やっぱ、暗殺のほうが手っ取り早いか……だが、顔も知らねえし、行動パターンから調べなきゃだからな……」
物騒なゲンリュウの声に、サラサはぽんと手を打った。
「それよ、ゲンリュウ!」
「あん? やっぱり暗殺か?」
「どうしてそうなるのよ。ナジムっていう人の、顔も考え方も、何もわからないうちから悩んでも仕方ないことなのよ」
呆れたようにゲンリュウに言って、サラサは使者へと向き直る。
「言伝、ご苦労様。王都に戻って、委細承知しました、とお父様に伝えて頂戴。それから、婚儀の前にナジムに直に会いたい、と言っていたとアーリ将軍へ伝言を」
サラサの命に、使者は短い返事を残して部屋を出て行った。
「……それでいいのかよ、先生」
使者がいなくなってから、ゲンリュウが問う。サラサはゲンリュウに顔を向けて、うなずいた。
「王族である以上、いつまでも好き勝手できないことは解っていたわ。二十歳なんて、行き遅れもいいとこになるまで医師を続けさせてもらえたんだもの。それに」
にっ、とサラサは笑みを浮かべる。
「直に会って、説得すれば何とかなるかも知れない。この宮殿を、病室を見てもらって、ここには私が必要だと、解ってもらうことができるかも知れないんだから」
サラサの言葉に、ゲンリュウも微笑んだ。
「そうだな。何をするにしても、まずは相手を知ることだな」
「物騒な手段に出るのは、禁止だけれどね」
念を押すように、サラサが言う。
「わかってる。ずいぶんと甘いやり方だが、そういうあんただから、俺は弟子になったんだしな」
ゲンリュウの答えにサラサは満足そうにうなずき、部屋を出る。
「そうと決まれば、さっさと治療に戻りましょ。早く、処置をしてあげないと」
小走りで宮殿を駆けるサラサに、ゲンリュウが影のように続いた。
三日が、何事もなく過ぎた。その日の活動を終えたサラサが、ベッドに倒れ込むように寝転がったそのとき、部屋の入口の布が勢いよく跳ね上げられた。
「先生、悪いが、緊急だ。起きてくれ」
顔を出したゲンリュウに、サラサはバネ仕掛けのように身を起こす。
「急患? 症状は」
さっと手櫛で髪を整えつつ、サラサは聞いた。
「いや、そうじゃねえ。気配が近づいてる。軍の気配だ。五百はいる」
ゲンリュウが、焦りを顔に浮かべて言った。
「軍? どこの兵かしら」
「そこまではわからねえ。だが、ここへ来るつもりなのは、確かだぜ」
ゲンリュウの目が、鋭く細められた。同時に、入り口のほうから喧騒が聞こえてくる。
「……争っている気配じゃねえが、どうする、先生?」
「入口へ向かうわ」
夜着の上から医療用の外套を羽織り、サラサは部屋を飛び出した。続いたゲンリュウが、サラサの先を歩く。
「ここまで近づかれるまで、気づかねえなんてな……先生、もし、五百の兵士を突っ切るようなことになったら、俺のことは気にせず王都へ走れ。逃げる時間くらいは、稼いでみせるから」
前を行くゲンリュウの顔は、サラサからは見えない。だが、その声には決然とした響きがあった。
「……わかった。でも、あんたも生きて王都へ来るのよ、ゲンリュウ。死んでさえいなければ、私がどうにかしてあげるから」
サラサの言葉に、ゲンリュウは黙したままだった。そうしているうちに、玄関口までたどり着く。サラサの姿を見つけた使用人が、すぐさま駆け寄ってきた。
「サラサ様! アーリ将軍のご子息、ナジム様がお見えになられました! 外に、兵を率いて!」
使用人の言葉にゲンリュウがサラサを振り返り、目を合わせた。
「用件は?」
「サラサ様に、面会をしたいとのことです!」
「……わかった。応接の間へ、通して頂戴」
サラサの言葉に一礼し、使用人が玄関口へと駆け去ってゆく。サラサとゲンリュウも、玄関口を後にして応接の間へと向かった。女官たちに衣装を整えさせ、応接の間の支度を整える。
「どうやら来たみたいだ。準備はいいか?」
部屋の外に立っていたゲンリュウが、声をかけてくる。
「ええ。通していいわ」
白い簡素なドレス姿となったサラサが言うと、ゲンリュウに続いて二人の男が応接の間に現れた。一人は軍人らしく、ゲンリュウに視線を向けつつ部屋の内部をさっと一瞥する。そしてもう一人の男、痩せた青年がサラサの前に跪き、首を垂れた。
「夜分の急な訪問、ご無礼いたしました。大将軍アーリが一子、ナジムと申します」
サラサの眼前で、金の髪が揺れる。ふわり、とナジムから漂う香りに、サラサの目元がぴくりと動いた。
「どこか、お怪我を……?」
問いかけると、ナジムが顔を上げた。褐色の、線の細い顔立ちだった。首も細く顎もスマートで、それは軍に関わる者の姿からは程遠いものだった。
「おわかりになられましたか、サラサ様」
生気の無い顔に気弱な笑みを浮かべ、ナジムが言う。
「ええ。あなたの身体から、薬湯が微かに匂いました。草の根を煮詰めて煎じる……熱が、おありなのですか?」
さっと、サラサがナジムに近づいて額に手を当てる。ナジムの護衛が身を動かそうとして、ゲンリュウが応じるように微動する。従者同士で起こった牽制を、サラサは気にも留めずにナジムを診た。
「すごい熱……! こんな身体で、どうしてここまで来たの? ゲンリュウ、手を貸して。私の部屋へ運ぶわ」
ゲンリュウがナジムの右肩を抱え、そして従者が左肩を抱え上げる。
「っ……すみません、サラサ、様……」
熱に浮かされた瞳で、ナジムがサラサを見つめて言う。
「話は、後よ。まずは薬を飲んでから」
ナジムに言って、サラサは身を翻す。そしてドレスの裾をまくり、腰のあたりで結んで駆け出した。
「……随分と、放埓な方なのだな」
「病人見ると、大抵あんな感じだよ。さ、俺らも行くぜ」
背後から聞こえてくる会話も、サラサは気に留めずに走った。
部屋にしつらえてある、病人用のベッドへナジムを寝かせてサラサは薬湯を煎じ始めた。先ほど漂ってきた香りから、服用した薬を分析しつつ効能を考える。植物の根と、木の皮などもすり潰し、手早く湯で煮詰める。側で、ゲンリュウも黙々と作業を手伝っていた。
「……なあ、先生。着替えたほうがいいんじゃねえか?」
ゲンリュウの言葉に、サラサは首を横へ振る。
「熱さましを飲んでいるのに、あの熱よ。一刻を争う状況なの。ゲンリュウ、布を濡らして、ナジムの頭を冷やしてくれる?」
「お安い御用だ。でもな、先生。いつまでも、太股丸出しだと、あいつらに悪いぜ」
そう言ってゲンリュウが、ナジムと従者を指した。二人とも、視線をサラサへ向けないよう懸命になっているように見えた。
「別に、そのうち夫になるひとなんだからいいでしょ? ああ、ドレスなんかに着替えるんじゃなかったわ。動きにくいったら」
薬湯の小鍋をかき混ぜながら、サラサは腕輪や飾り布を落としてゆく。ゲンリュウは息を吐き、慣れた様子でサラサの肩へ外套を掛けた。
「夫婦の間にも、イロイロ必要だと思うぜ、たぶん」
そう言いながら、ゲンリュウは水桶と布を手にナジムの枕もとへ行った。サラサは黙って、小鍋の中の薬湯をかき混ぜる。その顔には、どこか遠い何かを懐かしむような表情が浮かんでいた。
「お待たせ。これを飲んで。苦いけど、そこは我慢しなさい」
湯気の立つ椀を手に、サラサはナジムへと歩み寄った。薄く笑みを浮かべたナジムが、薬湯の椀に口をつける。
「お待ちを。その薬湯は……」
立ち上がり、言葉を出しかけた従者をゲンリュウが制する。
「毒なんかじゃねえ。安心しろ、ちゃんと薬だ」
ゲンリュウのひと睨みで、従者は渋々、といった様子で座り込んだ。
「……大丈夫。こんな身体だから、毒でも一向に構わないよ……ひどく苦いですね、これは」
ちらりと従者に視線を向けて言い、薬湯を舌先で舐めてナジムは顔をしかめる。
「単なる熱さましよ。全部飲んだら、少し休みなさい」
サラサは椀をナジムの口に当てて、傾ける。こくり、こくりとナジムの細い首に浮いた咽喉仏が動き、嚥下してゆく。空になった椀を、サラサはゲンリュウに渡してナジムの身体の観察を始めた。
「……軍人の、身体じゃないわね」
あばらが浮くほどに痩せた肉体には、筋肉がほとんどついていないように見えた。服を脱がせてみると、手足も棒のように細く、そして胸には奇妙な緑色の斑点が浮き出ている。
「これは……」
薬の効用で、寝息を立て始めたナジムから従者へと顔を向ける。従者は、重くうなずいた。
「お察しの、通りです。ナジム様は、死病に侵されているのです」
苦渋に満ちた声で、従者は言った。
「緑の、斑点……まるで、鱗みたいに見える……」
「その斑点が胸全体へと回ったとき、死を迎えるそうです。かつて、ナジム様の母君も同じ病でした。そして、命を落とされたのです」
従者が顔を俯けて呻くのを見やりつつ、サラサは机の上から一冊の本を持ってきて開いた。
「それは……サラサ様が神仙から授かったという、秘伝の書物ですか?」
ぱらぱらとページを繰るサラサに、従者が眼を見開く。
「神仙っていうか、鬼、なんだけれど……」
「優しい優しい、鬼だそうだ。先生が、ご執心の相手だぜ」
にやり、と笑ったゲンリュウが、従者に向かって言った。
「……確か、サラサ様は御幼少の頃、御命を縮めんとする者たちによって……その時に、鬼に助けられた、と聞き及びましたが……」
「ええ。その鬼から、貰ったのよ。この本を、役に立てろって。だから私は、医師をしているの」
サラサのページを繰る手が、止まる。開かれた本には、挿絵と短い文章が綴られていた。
『緑の鱗状斑点の病 治療法 未発見』
文を見て、従者は頭を押さえてうずくまる。
「そ、そんな……神仙にすら、治せない病なんて……!」
うなだれる従者をよそに、サラサはページをじっと見つめる。
「治せないんじゃなくて、治療法が未発見っていうだけよ」
本とナジムの胸を見比べ、サラサはうなずく。
「……この病気で、間違い無いみたいね。鱗状に斑点が拡がって……この進度なら、大体ひと月で死んでしまうのね。恐ろしい病気だわ」
「余命……一か月」
呆然と、従者が呟く。その眼から、とめどなく涙が零れ落ちてゆく。
「泣くことは、ないわ。まだ、一か月はあるんだから」
サラサの言葉に、従者がキッと鋭い視線を向けてくる。
「一か月、たった一か月です! ああ、ナジム様!」
「静かにしなさい。ナジムが起きてしまうわ」
「……もう、起きています。サラサ様……僕は、死ぬのですね?」
サラサの下から、微かな声が上がる。見上げてくるナジムの瞳は、澄んだ綺麗な碧色をしていた。
「放っておけば、間違いなく死ぬわ、ナジム」
サラサの静かな口調の宣言に、従者の口が大きく開く。直後、従者の背後に回ったゲンリュウが首筋に手刀を落とし、気絶させた。
「……すみません。僕は、死ぬことは解っていました。母も同じ病気で、だから、助からないのは解っていました。なのに、サラサ様、あなたを、妻にしたい、などと……僕の言ったわがままを、父は叶えてくれたのです」
「どうして、私を? あなたと会った覚えは、無いのだけれど?」
サラサの問いかけに、ナジムは首をかすかにうなずかせる。
「はい……始めは、誰でも良かったんです。死にゆく前に、子孫を残すことができれば……なので、僕が死んでも、傷の残らなそうな人を……」
「なんだか、随分失礼なお話じゃない?」
サラサは声を上げて、ゲンリュウを見やる。
「まあ、もっともだな。先生なら、夫と死に別れても、医師ができりゃそれでいいだろ? 新しい結婚相手とか、探す手間もねえ」
「ぐ……まあ、それはそうだけれど……」
言い合いに、くすくすとナジムが笑う。
「それに、医師ならば、もしかして、という思いもありました……僕の、患った死病を、治してくれるのでは、と……」
「治すわよ。あなたの病は」
サラサの言葉に、ナジムは力なく微笑む。
「神仙にも、治せないのでしょう?」
その問いかけに、サラサは首を横へ振る。
「治す方法が、見つかっていないだけよ。一か月もあるんですもの。それくらい、すぐに見つけてみせるわ。だけど……」
決然と言ったサラサが、言葉を切って顔を曇らせる。
「……もしも治らなくて、僕が死ぬことになっても……僕は恨んだりはしませんよ、サラサ様」
「そういうことじゃないの。治ったら、結婚生活とか、イロイロあるでしょう? その時になって拗れたりするのも嫌だから、先に言っておかないといけないことがあるのよ」
首を傾げるナジムの前で、サラサは一度大きく息を吸って、吐いた。
「私には、好きな人がいるの。正確には、人じゃなくて鬼なんだけれど……小さい頃、私を助けてくれて、生きる道を教えてくれた鬼よ。私は今でも、その鬼を想ってる。だから、心全部を、あなたに捧げることはできないわ。もしそれが嫌なら、さっさと結婚相手を変えた方がいいわ。それと……」
頬を赤く染めていたサラサが、真剣な眼差しでナジムの瞳を見つめる。ナジムの碧眼は、穏やかな光を湛えていた。
「それと?」
「医師は、続ける。この宮殿でも、王都のあなたの館でも、どっちでもいいけれど、私は、妻になろうが未亡人になろうが、死ぬまで医師をやめない。もしも私と結婚するというなら、それだけは解って頂戴」
じっと、サラサとナジムの見つめ合う時が過ぎてゆく。
「……わかりました」
小さく、ナジムが言った。全身に汗を浮かべながら、爽やかな笑顔をサラサへと向ける。
「もし僕の病が治ったら、父に言ってサラサ様との婚約は破棄していただきます」
「そう」
汗を拭いてやりながら、サラサは言った。
「そして、改めてあなたに求婚します。そのときは、受けていただけますか?」
続いたナジムの言葉に、サラサの目が丸くなった。
「え?」
胸の汗を拭いていたサラサの手が止まり、その上にナジムの熱い手のひらが置かれる。
「あなたに会って、話を聞いて、好きになりました。第十八王女のあなたではなく、医師のあなたが……もちろん、結婚した後も医師を続けても大丈夫です。ここよりも、王都のほうが人は多いですから、引く手あまたになると思いますよ」
繊細な顔ににこにこと笑みを浮かべ、ナジムが言う。サラサは再び、少し力を込めて布を動かした。
「……いいの? 私は、他に好きなひとがいるって……」
「構いません。病が治ったら、僕はその鬼に近づけるよう、努力します。そうして、僕のことをその鬼よりも好きになってもらいますから」
その言葉に、サラサは頬が熱くなるのを感じた。
「……治ったら、考えてあげる」
視線を俯かせ、サラサは言った。
「おや、先生にも、熱さましが必要か?」
からかうように、ゲンリュウが声をかけてくる。
「ゲンリュウ!」
手を挙げて怒って見せても、ゲンリュウは笑顔を浮かべていた。
「俺は、あんたを応援するぜ、ナジム様。早いとこ身体治して、先生にもっと迫ってやってくれ。そのほうが、おもしれえ」
「うん。ありがとう……そのためにも、僕の病気を、何としても治してください、サラサ様」
ゲンリュウにうなずいたナジムが、サラサを見上げて言う。
「病気は治すけれど、結婚は、考えるだけだから! ああもう、ナジムはさっさと寝なさい! それからゲンリュウ、明日からは動いてもらうから、覚悟してなさい!」
宮殿の最奥に、サラサの声が響いてゆく。宮殿の周囲に、所在無さげに立つ五百人の兵たちが見上げるのは、白い光を放つ月だった。優しい光に照らされて、宮殿はきらきらと輝いていた。
五年の、月日が流れた。宮殿の前には、多くの人々が列をなして道を作っている。宮殿の入口から姿を見せた人影に、歓声が沸き起こる。
「サラサ様、万歳!」
「ご結婚、おめでとうございます!」
口々に叫ぶ群衆の間を、サラサは手を振りながら歩いてゆく。白のヴェールを被り、そしてドレスではなく医師服で歩くその姿は往診に赴く医師のようにも見えた。
「いいのかよ、その恰好で」
ぶらぶらと、サラサの後ろを歩きながらゲンリュウが言った。
「いいのよ、別に。王都までラクダで行くんだから、いちいちヒラヒラしたのとか、着ていられないもの」
サラサの行く手には、一頭のラクダとものものしい歩兵たちの姿があった。
「あそこまでで、俺の役目は終わりだな。達者でいろよ、先生」
「あなたもね、ゲンリュウ……今までありがと」
「どういたしまして、だ。先生に教えられた医術は、郷里で役立てる。遠い遠い、東の国でな。もう、会うこともねえだろう」
「……ゲンリュウ」
サラサが振り返り、ゲンリュウの胴へと飛びついた。不意をつかれてぐらりと揺れたものの、ゲンリュウはサラサをしっかりと受け止める。
「おいおい、花嫁さんがいきなりコレじゃ、締まらねえだろうが」
言いながら、ゲンリュウがサラサの背を優しく叩く。
「あなたも、好きよ、ゲンリュウ……鬼と、ナジムの次くらいに」
涙で濡れた頬に笑みを浮かべながら、サラサは言った。
「そりゃ、光栄だ。旦那に、よろしくな、先生」
大きな手で横抱きにされ、サラサはますます強くなる歓声の中を進んでゆく。照り付ける太陽と乾いた風に乗って、どこまでも熱狂は続いてゆく。
「私、幸せになるわ。だから、どれだけ遠くからでもいいから、見守っていてね」
サラサの小さな声は、群衆の声によって消えてゆく。
こうして、砂漠の王女は大将軍の息子の妻となり、医師として永く病と戦い、多くの人を救ったのであった。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
楽しんでいただけましたら、幸いです。