月三万円の条件
頭の後ろがずきずきと痛む。
その痛みで目を覚ますと知らない天井が眼に映った。木で組まれた天井、目を横に移せば和室でお馴染みの黄色がかった砂壁、そして、自分が横になっているのは布団のようだ。
「どこだここ……?」
身体を起こしてみると床は畳が敷かれているし、随分と和風な部屋だ。
少なくともあのボロアパートでも、俺の住んでいる家でもない。
意味が分からずに辺りをキョロキョロ見渡していると、ふすまが開いて、お盆を抱えた黒髪の浴衣少女が部屋に入ってきた。
ピンク色の生地に赤い花の絵があしらわれて、なんというか女の子という感じの風合いだ。
「あ、目を覚まされましたか。身体の調子はどうですか?」
「君はさっきの……?」
黒い髪の毛の中から見えるピンとした耳、そして、黒い尻尾。一度見たら忘れられない姿は、俺の見間違いではなさそうだ。
「私、この華狼館の女将をやっています。クスハと申します」
「華狼館? 旅館か何か?」
「はい。とは言え、先代のお婆さまが突然姿を消して押しつけられた形となるので、勝手が分からないのですけど。……全くそんな所は似なくて良いのに」
「あぁ、道理で旅館と言われればそれっぽい部屋かも。あ、俺は山城克也と言います。旅行代理店で働いてて、悠々社って聞いたことないですか?」
「旅行代理店とはなんでしょう?」
突然の代替わりで何も教わっていないのは本当らしい。でも俺の方も華狼館なんて旅館は聞いたことがない。
もしかして民宿か何かだろうか? だが、それでも旅行代理店を知らないというのは世間知らずにも程があるだろう。
そう普通なら思うところなのだが、今目の前にいるこの子にはふさふさな耳と尻尾が生えている。
段々と意識もはっきりしていく中で、俺は嫌な予感がふつふつと沸いてきた。
「ここの地名を教えて貰っていいか? 国名とか地名とか街の名前とかなんでもいいから」
「えっと、ラサーユ連合西方区東方人街の外れにあるフューイン山の麓です」
「マジか……」
「どうなされました?」
「知ってる地名が一つもない……」
耳と尻尾が生えている人間がいる時点で分かっていたけど、やっぱりそうだ。
これ異世界ってやつだ。
犬っぽい外国人はこの犬耳少女のことだったんだ!
外国人ってレベルじゃねぇぞ! 住んでいる世界が違うんだから、外界人じゃねぇか! いや、素直に異世界人で良いのか!?
「その……こちらがお役に立つかもしれません。どうぞ」
俺の狼狽に気付いたのか、少し慌て気味にクスハは手紙を俺に差し出してきた。
見覚えのある筆による筆跡。
その中身を見て、俺は確信した。最初から全てここに来るために仕組まれたことだったらしい。
《今はたいそう驚いている頃かと思います。お気づきかと思いますが、この地はあなたの知る地球とは別の世界でございます。
ですが、ご安心下さい。世界の扉はあなたの持つ鍵によって開けられますので、好きな時にお戻り頂けます。
さて、家賃三万円というのも私に振り込む必要はございません。代わりに孫娘達に勉強のために異界の食事を与えて頂ければと思います。
また、華狼館に滞在中のお世話に関しては孫娘達に色々おっしゃってください。いまだ修行中の身ですので、ご迷惑をおかけすることが多いかと思いますが、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い致します。
追伸、当館の温泉は山城様の入ってきたどの温泉よりも効果がありますよ》
要約すれば、三万円で温泉宿に好きなだけ泊まって良いから、孫娘のクスハの面倒をみてくれということか。
確かに女の子だけで暮らすというのは危ないのだろうが、それを俺みたいな男に任せるというのも大丈夫なのだろうか。
大体なんで一人なんだ?
「ご両親はいないのか?」
「はい。一番下の子を生んでから行方不明です」
さっきおばあさんがいなくなって、似なくて良いのにと言ったのはそういうことだったのか。
「ごめん。悪いことを聞いたな」
「いえ、いつまでも落ち込んでいられませんから、お気になさらず。ところで、頭以外にも痛む所はありますか?」
「……言われてみれば背中も腰も肩も痛いな」
「ならば、温泉に浸かってきてはいかがでしょうか? うちのお風呂は打撲にも効きますから」
普段の肩こりなどに追加して、打撲の痛みもある。
温泉の効能に良く打撲や肩こりなどが書いてあるし、せっかく温泉旅館にいるんだ。温泉に入らなくてどうする。
それに手紙に書いてあった挑戦的な一文も気になる。どれだけの効果があるのか、気にならないと言ったら嘘だ。
「なら、案内お願い出来るかな?」
「はい。喜んで。私達にとって初めてのお客さんですから」
若干の引っかかりを覚えながらも、俺はクスハに案内されて旅館の廊下を連れて行かれた。
そして、青いのれんの前に立つと、クスハは俺に手ぬぐいを渡してくれた。
「カゴは中のものを自由に使って下さい。私はその間にお部屋の準備をしてまいりますので」
「分かった」
そういう場所でもあるまいし。さすがに一緒に入ったり、背中を流したり、とかはしないよな。
少しホッとした俺は木の棚とカゴだけが並べられた簡素な脱衣所で服を脱ぎ、木で出来た浴室の引き戸に手をかけた。
「いざ温泉!」
扉を開けた瞬間、中の蒸気が顔にかかった。
ヒノキのような香りが鼻腔をすりぬけると同時にモヤが晴れると、木で出来た大きな浴槽が現れる。
十五人くらい同時に入れる大きさだろうか。湯はわずかに白く濁っていて、硫黄の香りも漂っていた。
部屋に目を向けてみれば、壁も木で出来ていて天井は高い。窓は天井近くにある隙間くらいで、景色は残念ながら楽しめない。
だが、純粋に湯を楽しむには十分な作りだ。
置かれていた桶でかけ湯を済まし、身体を湯船へと沈めていく。
「あったけぇ……。異世界でも温泉は気持ちいいなぁ……」
熱すぎず、ぬるくもない。
思わず長い息を吐いてしまうくらいに気持ちが良い。
「あれ? 身体が随分軽いな」
一瞬眠りそうになったが、身体の違和感で目が覚めた。
ジワジワと来るような痛みが身体のどこからも感じない。
肩も驚くほどスムーズに上がるし、頭の重さもなくなっている。
むしろ、身体の中から力が湧いてくるような不思議な感覚がする。
「はぁー、本当にこれは効くなぁ……仕事の疲れが抜けてく……」
手紙に書いてあった通り、この湯は身体の痛みに本当に良く効いた。
異世界なんだし、癒しの魔法があって、その魔法がお湯に溶けて発動していると言われたら普通に信じるほどに、身体が軽くなる。
「月三万円で温泉入り放題かぁ……」
悪くないなぁ。むしろ安いくらいなんじゃなかろうか。
クスハも良い子だったし、ご飯を一緒に食べるくらいなら、別にいいよなぁ。
「異世界だけど……引っ越そう……かなぁ」
俺はもう一度目を閉じると、今度こそ気持ちの良いまどろみに身を任せ続けた。