異世界に落ちる。風呂のために。
築三十年のアパートで、お風呂は共用、犬っぽい外国人とのシェアハウスに耐えられる方。
かなり怪しい物件紹介に釣られて、俺は例のボロアパートへとやってきた。
木造の二階建て。部屋は合計六部屋あるらしい。二階にあるその最も片隅の部屋が例の部屋らしい。
いきなり近づくのはさすがに怖いので敷地の外からのぞいてみたが、外国人が住んでいるという割にはどの部屋の外にも洗濯物一つ干されていない。
というよりも、アパートの中から物音一つしないので、人の住んでいる気配が全く無い。
屋根にとまっているカラスの鳴き声がうるさく思えるくらいだ。
道を間違えたのかと思ってスマホの地図を確認するが、寸分の狂いも無く目の前のアパートだ。
「ポストに鍵を入れておきました、ね」
メールの文章を読みながら、203号室のポストを開けると確かにそこには金属製の鍵が置いてあった。
その鍵を持って階段をあがり、いつでも逃げられるように身構えながら灰色の扉を開ける。
錠の回る音がして思ったよりも軽い扉がスッと手前に開いた。
鬼が出るか蛇が出るか。それとも犬顔の外国人が出てくるのか。
一瞬手が震えたが、すぐに身体全身から力が抜けた。
「あれ?」
誰もいない。
というか家具一つない。いや、靴一つすらもない。
生活感が無いどころか全くの《無》だ。
「部屋間違えた訳じゃないよな?」
表札を見ても手に持った鍵を見ても203号室に間違い無い。
恐る恐る靴を脱いで中に入ってみると、最初に目にしたのはボロアパートにしては不釣り合いだと思えるほど、キッチンがやけに新しかった。ガスコンロも大中小の三つもついている。
その先のリビングはフローリングの床で、床一面に薄く埃がたまっていた。掃除を長いことしていない上に、人が歩いた形跡もない。
意味が分からず家具一つ無い部屋を見回してみると、一枚の置き手紙を見つけた。
表には筆で書かれた随分と達筆な字で、《山城克也様へ》と書かれている。
「俺あて?」
犬っぽい外国人は既に退去した後なのだろうか。
もしかしたら、条件の変更についての書き置きかもしれない。
そう思って手紙を開封してみると、そこにはただ不可解な指示が書いてあった。
「風呂の扉をあけて、浴槽の中を見て下さい? 詳しくはそちらで」
全く持って意味が分からなかった。
死体でも転がっているのではないかと、思わず想像してしまう不気味さだ。
「ハハハ。まさか、犬っぽい顔の外国人の死体と暮らして下さいという訳でもないだろう」
笑って自分の不安を誤魔化しつつ、俺は浴室の扉を開いた。
しかし、そこには遺体なんて無かった。ただの青いプラスチックみたいなので出来た風呂があるだけ。
一気に緊張がとけて、思わず長いため息を吐いた。
「今度は浴槽の中ねぇ?」
気を取り直して足を風呂場の中に踏み入れた時、俺は緊張を解くべきでは無かったと心の底から思った。
目の前に広がるのは白い煙の立ち上る岩場。
そして、その岩場のくぼみに出来た湯気の立ち上る水たまりはどう見ても温泉で、その温泉にいた先客は――。
「耳に尻尾……?」
長い黒髪を頭の後ろでまとめるも、隠しきれないほど目立つピンと張った犬のような耳に、筆の先端についている毛のような黒い尻尾の生えた少女が一糸まとわぬ姿でいた。
風呂に入っているから裸なのは当然なのだろうが、それよりも耳と尻尾のインパクトが強すぎて、俺は意味が分からず彼女をガン見した。
「あら? 珍しい森からのお客様かしら?」
「すっ! すみませんしたああああ!」
少女の声で急に我に戻った俺は、とにもかくにもその場から走って逃げた。
痴漢で通報されればえん罪だろうと職がなくなるこの時代だ。事故とは言え覗きで通報されたら社会的に死ぬ。
ここはひとまず逃げるしかない。
岩場から全速力で離れようと足を踏み出すが、俺はここが温泉だと言うことを失念していた。
「あっ!」
足下の岩がぬめりで滑りやすくなっていたのだ。
声を出した頃には俺の視界は青い空が映り、すぐに強烈な衝撃が頭を揺らして目の前が真っ暗になった。
「大丈夫ですか!? って、あれ? この方は……。大変!」
少女の心配する声がわずかに聞こえて、俺の意識はここで一旦途絶えた。