とある公爵令嬢の場合 後編
あんなに衝撃的な出来事であったにもかかわらず、私は日々に忙殺されるうちに記憶の片隅にあの少年のことを押しやった。
そうして、また時がながれた。
学園で唯一にして最大の夜会は年の最後に行われる舞踏会である。全校生徒が集まる華やかなその夜会は、王家、貴族、豪商の子息令嬢が集まる、いわば大国の縮図といわれ、その夜会で失敗した人間は、学園内はおろか成人後の社会的地位も失墜するほどだ。
その夜会では、私は毎年婚約者として王太子のパートナーをしていて、今年も当然のごとくその役を担った。王太子としての仮面を被った彼は微笑みを浮かべつつもいつものように眼差しは冷たい。
だけど、どこか、私を見る瞳が違う気がする。理由はすぐに分かった。
「シュルディシュラ」
私たちのもとに来る挨拶の波がひと段落したときだった。浮かべていた微笑みを消して、彼が私と向かい合うように立った。
「俺と婚約を解消してほしい」
会場の全ての音が、一瞬消えた。次いで、ざわめきが広がる。
「身勝手なことを言っていることは自覚している。だが、俺とお前とのこの婚約は俺たちに拒否権がない政略だったし、駒の一つにされたことにお前だって怒りを感じていたはずだ。」
いいえ。私は怒りを感じたことなんてなかった。むしろ、正式に公の場に貴方の隣に立てることに感謝したくらいだ。
「優秀な君に相応しくあるよう努力する日々は少なからず俺の心をすり減らしていったんだ。だが、学園に入ってから彼女に会って、心が癒された。俺はありのままの自分を見てくれる彼女に惹かれていった」
おいで、リーナ。
甘いその声に促されて、1人の少女が彼の隣に立つ。
いつか見た、薄桃色の髪の少女が幸せそうに彼を見上げて微笑む。
リシュリーナ伯爵令嬢はその不思議な髪もさることながら、その出自も人々の関心に上がる。学園にはいるまで平民だった彼女の思想は、生まれたときから貴族として育てられてきた人間と全く違った。今までにない春の風のような彼女に惹かれる者もいれば、厭う者もいた。
きっと王太子は、前者で。
「... ... !!」
息を呑み嫌悪感に眉をひそめる幾人かの子息令嬢は、後者で。
「... 」
何も言えず、動けない私は、
−−−−−−シュッ
風を切り裂く音が耳の近くで感じたと同時に、リシュリーナ伯爵令嬢の叫び声が辺りに響いた。
大理石の床にゆっくりと傾いで倒れていく彼の白い礼服の右腕には一本の矢が、刺さっている。
暗殺という言葉が脳裏に浮かんだ。だが、王太子と、私と、リシュリーナ嬢のどれを狙ったのかはこの場ではわからない。
この場で指示を与える立場にいる私はぼんやりと考えていることもできず、幾つかの指示を何も考えずに下し、足早に彼に近づいた。
たった一本しか刺されていないのに、王太子の顔色は土色で脂汗が浮かんでいる。
−−−毒が塗られていたのだ。それも、毒の耐性がある王太子にも効くほどの、強い毒が。
騒然とした夜会で、倒れた彼に縋り付いて声を上げる彼女と、涙も流さず立ち竦む私。
たくさんの人間がリシュリーナ嬢、貴女になにかしらの感情を抱いたわ。
私は、
たぶん私は、彼女が羨ましかったのだ。自分の気持ちをさらけ出してのびのびと生きていける彼女が。そして、あの人から愛される彼女が。
わたしは、貴方に多くの点で負けている。
けれど、この気持ちは、貴女にも誰にも負けはしない。
「... ... バク」
「呼んだかい?」
緊迫したこの場で場違いなほど、底抜けに明るい声が頭上からした。見上げると、以前出会ったあの不思議な少年が愉快げに宙に浮かんでいる。何故か、この少年ならおかしい話ではないと思った。
「貴方が以前私に言ったことを覚えているかしら?」
「もちろん。さて、君の望みは?」
にんまりと嗤うこの少年が、天使でも悪魔でも構わない。私の願いを叶えてくれるのなら。
「ライレック殿下を、治して」
「お安い御用」
目の前が暗くなるような眩い光が突き刺さり、私は意識を手放した。
またもや響く周囲の悲鳴と、
お代は君の“想い”でいいよ
心から愉しげな少年の声が最後に聞こえた。