幽霊の恋
川沿いの道を、風がひと撫でするごとに夕暮れは色を濃くしていくようでありました。
青灰色をした雲の、ふちをバターでかりかりに焼いたパンケーキのように透かした、やわらかなオレンジ色とピンクに空は染められています。秋の長雨、数日間降り続いた雨で水量を増した川は黒っぽく獰猛な顔で流れていましたが、それでも山に近いこちらの田舎では川といっても海に近いところの程ほど大きなものではなく、子供達が足をすべらせて危険なことになるような深いところも特にはないのでした。
市街地を外れた、少しずつ淋しくなっていく川沿いの道、その途中に帽子屋と出会った市民会館はありました。体育館と大中小のホールを持つ大きな施設で、先日、その中ホールで管弦楽団のコンサートがあったのです。
なにかの手違いだったのでしょう。わたしと夫の分とで二枚買っていたチケットの席に、帽子屋は座っていました。薄い、としか言いようのない身体つきをしていて、黒いシャツに黒いズボンを穿いていました。癖のつかなさそうなストレートの髪は後ろでひとつにくくられていて、黒尽くめのその人はまだ開演しない明るい場内で、パンフレットやらチラシやらを見るわけでもなく、まだ緞帳の下りているステージをじっと、姿勢よく見ていました。
「あの、」
恐る恐るかけたわたしの声は小さくかすれていましたが、それでも相手には届いたようでした。白い顔がこちらに向いて、はい、と短く答えました。低くもなく高くもない声でしたが、男の人だとばかり思っていたわたしはその人の真っ赤な薄い唇を見て、もしかしたら女性、と感じました。鋭い刃物で裂いたような細い目はつり上がり気味で、真っ白い肌をしていて、表情があまりなく、それはまるで人形のような顔でした。
「すみません、座席を間違えているのではないかと」
わたしは自分の分のチケットを取り出して、椅子の番号と照らし合わせます。同じ数字が書かれていることを確認してから、その人にそっと見せました。
相手は目をきゅっと細めるとズボンのお尻のポケットからチケットを取り出しました。きっちりと折られたそれを開いて、わたしに差し出します。
「……あら、」
そこにはわたしの持っているチケットとまったく同じ番号が書かれているのでした。日付も同じ。書いてあることはすべて同じ。まるで、カラーのコピーをしたようです。
「でも、でもわたしは、」
前売りのチケットを買ったのでした。買ったのはうちの母で、直接わたしが買いに行ったわけではありません、夫とふたりで行ってくるといいよと渡されたものです。夫は入り婿で、それはわたしがひとり娘だからなのですが、母はいつも夫のことを気にかけてくれていました。男の人が人様の家に入らなきゃならないのは、女の人が入るよりよほど気を使うことだからね、できるだけうちにではなく外に出してあげなさい、と言って。
そうして、お芝居だのコンサートだののチケットをくれるのでした。
「前売り」
「そうです、」
黒尽くめの人は自分のチケットを白い指ではさんで、ひらりと振って見せました。
「当日券」
「ああ、それは。当日券なのですか」
頷かれる。なにかの手違いでしょうか、とわたしが首を傾げると、相手はさっと立ち上がりました。
「あ、」
「あなた、が」
「帰られるんですか?」
向こうはわたしの顔をじっと見て、そして小さく頷きました。ダブルブッキングというものでしょうか、どちらにしろ会場の手違いなのでしょう。係の者に話せば、きっと違う席を用意してもらえます。そう言おうと思っていましたのに、わたしはなぜか手を伸ばしてしまっていました。相手の服の裾を、つい、とつまんでしまっていたのです。さすがに驚いた顔をされて、わたしもその表情に動揺してしまったようです。座って、と思わず命令のように言ってしまいました。
「座ってください、あの、夫が来られないのです、急な仕事の入った様子で、だから、その、もしよろしければ二席取ってあるんです、空席にしてしまうよりあの、よければ、よければ、」
慌てたせいで随分早口になりました。言ってる傍からどっと汗をかきます。なにを言っているのでしょう、わたしは、わたしは。
相手は驚いた顔をすぐに引っ込めて、人形に似たお顔に戻っていました。けれど、その唇の端は微かにですが確かに、笑っているようでした。
結局腰を下ろしてくれたその人と、開演までにぽつりぽつりと話をしました。それで彼女が帽子屋と呼ばれていること、その名の通り帽子を作ることを仕事としていること、けれど最近はなぜか彼女の仕立てた帽子をかぶって結婚式を挙げた者は子宝に恵まれ、けして離婚したりせず幸せに暮らせるという話が広まっているということを聞きました。それでドレスも作らされることがあると。
子宝、という言葉に反応したわたしを、彼女は静かに見ていましたが、やがて客席の照明が徐々に落とされ、開演のアナウンスが流れて話は打ち切られました。
音楽は素敵なものだったと思われます。
上の空で聴いていなかったのは、わたしのせいでした。隣に座る帽子屋が気になって仕方なかったのです。聞きたいことがたくさんありました。結婚式に帽子屋の帽子をかぶらなければ子宝には恵まれないのかですとか、ああ、たくさんある、なんていうのは間違いでした。聞きたいことは、帽子屋の帽子をかぶったのなら、今からでも子宝に恵まれることができるのか、そればかりが聞きたかったのでした。
子宝。
わたしが結婚をしたのは、二十二歳のときでした。女ばかりが生まれる家系で、長く続く会社をいくつか持っている家ですが代々婿を取ります。わたしも例に漏れず、夫は両親があらかじめ目星をつけていた『会社を任せられる』人間でした。七つ年上の彼はけれど頭が固すぎるわけでもなく、お見合いだからといってわたしのことも結婚も人生の道具扱いすることもなく、家族を含めてわたしのことを大切にしてくれていました。わたしの結婚生活は穏やかで、幸せなものでした。ただ。ただ、子供ができないというその一点を除けば。
結婚生活は静かに十三年目の流れの中にありました。
その間、ずっと。
いつ妊娠してもいい、むしろ、早く妊娠したい、と望み続けていたのに、コウノトリはわたし達の元へちっとも赤ん坊を届けてくれないのでした。この人の子供が欲しいと、夫の子を願っていた訳ではないことがコウノトリの機嫌を損ねているのではないかと、実はずっと後ろめたく思っていたのは確かです。夫のことは好きですが、それよりもずっと、もっと、強く、わたしは自分の家を続いていかせるために子供を産まなくては、と思っていたのです。
それは邪な心なのでしょうか。
だから、わたしには少しも妊娠の兆しが現れないのでしょうか。それにしても十何年も子供ができないというのはさすがに焦りが出てくるもので、いくつか病院を回ったりもしたのです。それでもすべて、診断の結果は特に問題があるのではない、というものでした。
問題があってくれた方が、どれだけ心が救われるでしょう。
解決できる問題なら、治療なり手術なりで問題を取り除けばいいのです。どうしようもないことなのなら、子供は作れないとはっきり結論を出されてしまうのでしたら、また別の考え方や方法があるのです。
問題がない、けれど子供ができない。
基礎体温をつけてみましょう、タイミングを見計らってみましょう、排卵誘発剤を試してみましょう、そんな言葉は聞き飽きていましたが、だからと言ってなにもしないでいられるほど強い自分ではないのでした。
それで、わたしは随分疲れてしまっていたのです。
子を授けてくれるというお寺などにもあちこちに足を運びました。あれが効く、これが効くと耳にすれば試してみて、けれどちっとも効果が出ずにいました。焦りは諦めに変わったり苛立ちに変わったり、日々揺れ動いてそれでも子供が欲しいという気持ちだけは消えずにずっと、心にいつでもあるものなのでした。
演奏が終わり、ホールの客電がついてお客さん達が立ち上がりはじめます。帽子屋も椅子から腰を浮かしかけましたが、不意に動きを止めてわたしを見ました。
「なにか」
「え、」
「言いたいこと、が」
「……はい」
あります、と答えると、帽子屋は目を細めました。なに、と聞いているようにも、すべて知っている、と言いたげなようにも見える、目の光をしていました。
家に帰って母と話しましたところ、帽子屋の名前が出てきて目をまん丸くされたのでわたしの方が驚きました。
知っているのと聞けば、大きく頷きます。
「お前達の結婚衣裳も頼むはずだったのよ、ただ……ただ、あちらもすべてひとりで作るということでね、そう多くは引き受けられないって言われてしまってねえ」
依頼注文を多く抱えている時期だったのでしょう。わたしは少しも知らなかったのですが、母の言うことには随分と有名な人のようでした。
「知っている人達は知っている、特別な人よ、ああそう……帽子屋さんに出会ったの、それは……それはきっと何かの縁ね、そう……そうなの、」
何人もの人が帽子屋にドレスを作ってもらい、それに合う帽子をベールの代わりにして、幸せな結婚生活を送っているらしいのでした。わたしも帽子屋と縁があったのかと思うと不思議な気がしましたが、依頼を断られていたというのはむしろ縁がなかったということなのでしょうか。
そう、そうなの、と微笑みながら母は花屋から届けられた花を水揚げしていました。パチンパチンと重たいハサミで茎は水に浸けられたまま切られます。白い百合と白いスプレー菊と。いつの頃からでしょう、我が家を飾る花は白いものばかりになっていました。昔はもっと、色とりどりの、それこそピンクや黄色、オレンジ色の可憐な花々を玄関ですとかお手洗いですとか、居間、客間ですとかに飾っていましたのに。わたしが年を取ったように、母も年を取ったから。落ち着いてきたのかもしれません、白い花は可憐で純情で汚れなく、ただしらしらとやわらかな香りだけを放って空間に溶け込むものでした。
室内管弦楽団のコンサートで知り合った帽子屋のところに、わたしはちょくちょくと顔を出すようになりました。彼女のアトリエはタクシーに乗って一時間近くの山の奥にありまして、古びた一軒家の梁だけを残して内壁はすべて取り払い、床を板張りにした面白い作りのものでした。そこにミシンや手脚のない胴体部分だけの濃い灰色をしたトルソーなどが置かれていて、何気ない顔で冷蔵庫や積まれた衣裳箱が知らん顔をしながら隙間に並びます。
帽子屋は女性のようでした。聞いたのです、気になりましたから。そうすると彼女は不思議そうに首を傾げて、室内に干してある洗濯物を指差しました。小学生のためのような小さなブラジャーが引っかかっているのが見えました。だから多分、女性なのです。
彼女の家には椅子が置いてありませんでした。
テーブルもないのです、ミシンが乗せられているのは学校にあるようなひとり使いの木の机でしたが、それはミシンだけが使えるもので他の用途には使用されません。
わたしはいつも、フレアのスカートを広げて床の上にぺたんと座っていました。数体立てられたトルソーには様々な帽子が引っ掛けられています。つばの大きく広がった帽子には色とりどりの花が咲き乱れています。赤いワインの色の帽子に、白やピンクや黄色、うすみどりに淡い紫、こぼれそうに盛られた花のあでやかな帽子。盛られているのは花ばかりでなく、フルーツが山になっている帽子もあります。そうかと思えばこげ茶の渋いテンガロンハットがあったり、中折れ帽があったり。
そしていくつかのトルソーはドレスを着ていました。
ノースリーブの、腰までは身体のラインがぴったりと出てしまうストレッチの素材なのに、切り替えでいきなりふわりとしたレースのロングスカートに変わってしまうものですとか、オーソドックスなマーメイドラインのドレスですとか。
「全部、帽子屋が作ったの?」
当たり前だというように、わたしの言葉がいかにも心外だという目を送ってくるので思わず肩をすくめ、けれどもつい笑ってしまいました。
「触ってもいい?」
「いいけど」
「いいけど?」
「人のだ」
「汚したりしないわよ」
「そうでなく、人のなのに?」
「ああ、自分のものでなくても気になるじゃない。綺麗ね、帽子屋は指先が器用なのね」
冷蔵庫から取り出されたのはオレンジジュースと缶ビールで、オレンジジュースはグラスに入れてくれました。すとんとしたシンプルな、微かに青いガラスです。それはオレンジジュースの濃いオレンジ色をとても綺麗に見せました。
「作ろうか」
ジュースのグラスを手渡してくれながら、帽子屋が言います。
なにを、とわたしは聞き返しましたが、彼女はビールのプルタブを引き終わるまで次の言葉を発しませんでした。
「……ドレス」
銀色の缶の中身をあおってから、彼女は口を開きます。
「ドレス? ドレス、って、着ていくところが、」
「ウエディングドレス」
「……それを着たら、子供が産める?」
「子供が」
「欲しいのよ」
「どうして」
どうして。
言葉が詰まったのは、子供っぽい答えしか思い浮かばなかったからかもしれません。欲しいの、ただ欲しいの、女として生まれたのだから子供を産めることに何の疑問も抱いたことがなかったの、小さな女の子が大きくなったらお嫁さんになりたいという夢を持つのと同じくらい自然に、ただ、ただ子供が欲しいの。
聞かれてすぐに答えられなくて、けれど結局わたしは小さな声で、欲しいの、とだけつぶやきました。
床に座り込むわたしを、帽子屋はビールを持ったまま腕組みして見下ろしていました。細い脚です。いつものように黒い服しか身に着けないので、彼女はまるで影のように見えます。
「……産む?」
「……え、」
オレンジジュースのグラスは口をつけることができないまま、両手で包むようにしてただあたためていました。動揺が指先に灯って、白っぽく筋張ります。
「ドレス」
「ドレスを、産むの?」
帽子屋は小さく笑って首を横に振りました。
それからの彼女はくるりくるりとよく動きました。缶のビールを飲み干してしまうと、それを床に置き、なにやらいろいろが詰まっている箱に手を入れてごそりとかき混ぜ、束になった紐を取り出しました。紐かと思っていたそれはよく見るとメモリが書いてあり、巻尺のようでしたが、巻かなくても巻尺というのでしょうか。そんなことばかりに気を取られていたので、帽子屋がわたしの手からオレンジジュースのグラスを取り上げ、腕を取って立たせるのをそのまま受け入れ、そのままスカートのホックを外されたのもなんとなしに見ていましたけれど、はっ、と気付いて思わず叫びました。
「なっ、なにをっ、」
帽子屋は気にもしない様子でわたしの着ているブラウスにも手を伸ばします。ボタンに手がかけられて、それがとても白い指なのです。
きゃああ、と叫んだ気がします。
自分の声が頭の中でわんわんと響きましたから。耳が遠くなった感じもしましたから、それなのに帽子屋はひとつも顔色を変えず、採寸、とだけ言いました。
「なっ、なにを、なにをっ、なっ、なに、を、」
「採寸」
「なっ、」
「裸の方がいい、でも、下着の上でも構わない」
「じっ、自分で! 脱げるから!」
帽子屋の指がはたと止まりました。咄嗟のことでも彼女を突き飛ばしてしまわなくて良かった、と思いながらも、心臓はばくばくと拍を荒くしていました。帽子屋はわたしよりも随分背が高くて、そこらの男の人とそう変わらないくらいの身長をしていましたから、それに胸もお尻もないようなすとんとした体型です。女性だと分かっていながら、わたしはときめたいように感じてしまった自分を恥ました。頬がかっかと、燃えるように熱かったのでした。
同じ性の持ち主の前、と、心をしゃんとさせてわたしがブラウスを脱いで下着姿になるまでに少し時間がかかりましたが、帽子屋は静かに待っていました。
バストにウエスト、二の腕やら手首やら首周りまでも細かく計り、肩幅はもちろん背中もそれから肘から手首までの長さだのも細かく見て、帽子屋はぶつぶつとつぶやきながらそれぞれの数字を頭にでも刻んでいるようでした。
それからふと周りを見回し、紙とペンを持ってくると、床にしゃがみ込んでなにやらものすごい勢いで描きはじめたのです。
放っておかれたわたしは服を着てもいいかとそっと聞いてみましたが、彼女の耳にはなにも届いていないようでした。
やがて、どれほどが経ったでしょう。
窓から差し込む光がやわらかくトーンを落としてきました。
何枚も何枚ものスケッチを描き散らかして、手首だけですとか腰回りだけですとか、身体のパーツをバラバラにしたようなものから全身像のようなものも何枚も描いて、帽子屋はその間ずっと数字をつぶやき続けていました。わたしの、身体のサイズです。
声をかけても取りこぼされるので、わたしは勝手に服を身につけていました。オレンジジュースも、すっかりぬるくなっていたそれですがちびりちびりとすべて飲み干しました。そして、帽子屋の近くにぺたりと座り、彼女の描くものを覗き込んでおりました。
「……ああ」
帽子屋がつぶやきました。
「無理」
「え、なにが?」
聞きたいことはたくさんあったのに黙っていたせいで、わたしの声は喉の中で縮こまっていたようです。かすれて上ずった声になってしまいました。けれど、無理、という言葉が胸に引っ掛かったからなのも、また確かなのでした。
「無理だ」
「無理、って」
「子供が」
「……ええ?」
でもわたしの身体のどこも悪くないのだと、夫も検査に付き合ってくれて共に調べてもらったけれどもどこも悪いところなどないと言われたのでした。子供かできない方が不思議なのだと。そのうちできるでしょうと言われて。でも、実際はできないままでここまで来てしまったのです。
「わたし……子供が産めないの?」
お医者さんでもなく、どうしてそんなことを帽子屋が言ってしまえるのでしょう、けれどわたしは怒りよりも絶望を感じていました。哀しくなってしまいました。
「……どうして、」
「幽霊」
「……幽霊? なあに、悪霊でも取りついているっていうの、そういう話なの?」
わたしが勢いよく聞くと、帽子屋はきょとんとした顔をしました。それから静かに唇を持ち上げて、違う、と言いました。
「幽霊の子、を」
「……幽霊の子?」
「産む?」
「……幽霊の子、って、なんの話?」
子が産めれば誰の子でもいいのなら、幽霊の子を産まないかと帽子屋は聞いてくるのでした。わたしは虚を突かれて、ただまばたきを繰り返しながら唇をぽかんと開いているしかできませんでした。
幽霊。
幽霊とはなんでしょう。
死んでしまった人の魂でしょうか、それはこの世に未練を残しているための想いの塊なのではなかったでしょうか。は、とわたしは自分でも意図せず息を吐いていました。
「からかって、いるの?」
幽霊なんて言われて、すぐに飲み込める人がいるでしょうか。
帽子屋は首を横に振りました。
彼女の言うには、このままだとわたし達夫婦の間には子供ができる縁がないのだそうです。それどころか、わたしは生きている人間の子を孕むことができないのだとのことでした。生きている人間の子を宿すことができないとはどういうことでしょう、まるでわたしが死んでいる人間のような言われ方です。そう言うと、彼女はおかしそうに笑いました。
「産む?」
「幽霊の子を産むって、意味が分からないわよ」
「子を、欲しがっていた幽霊がいる、から」
「……その人の代わりに、幽霊の子を産めっていうの?」
「子供が欲しい、なら」
「子供は欲しいけれど、……夫の子でないと意味は、」
意味はない、でしょうか。
いいえ。
意味がないことはないと、気付きました。わたしが産めば、家の血は引き継がれます。わたしが産んだのなら、相手は誰であれ、家の子なのです。続いてきた血を、引き継ぐことができるのです。
帽子屋はわたしの答えを待たずに、ドレスを作ると言いました。
彼女は聞かなくても、わたしの答えを知っているのでしょう。そして帽子屋の中のわたしの答えも、本当のわたしが持っている答えも、ほんの少しだってずれて違ってしまっていることはなかったのです。
なんでも買ってきた方が早いし安いわよ。
どうせすぐに大きくなってしまうのよ。
そんなことばかりにせっせと根を詰めているくらいなら、もっと旦那様のお世話に精を出しなさいな。
母にそう小言を言われながら、赤ちゃんのよだれかけを縫い、小さな小さな靴下を編むのが、わたしの夢でした。この血を受け継ぐなら、生まれてくる子は女の子でしょう。淡いピンクややわらかなクリーム色、ふわりほわりとした毛糸玉を転がしながらわたしはせっせと小さな人のために小さなものを作るでしょう。
ずっと、それが夢でした。
ずっと。
時々ふと、それは夢のままで終わってしまうのではないかと思ってしまう瞬間がありましたが、わたしは気付かない振りをしました。
赤ちゃんが欲しい。
望めばちゃんとそれは叶うのだと、信じていれば手に入るのだと、わたしはずっと思っていました。思うことしか、できなかったのです。
だってわたしが産まなければ、この家を続いていかせることができません。
わたしが産まなくちゃ。
その気持ちが焦りとなっていたのでしょうか。いっそ夫の子でなくても、わたしの血さえ流れていたのなら。そんなことを考えてもしまったわたしに、神様が罰を与えたのでしょうか。
ただただ、望んでいたのは子供が欲しいと。そればかりなのでしたけれども。
ひょろりと背の高い幽霊は、フードのついた黒いパーカーの下に白いTシャツを着ているようでした。肩幅はありますが、薄い身体をしています。けれど貧弱という訳ではありません。彼はわたしを見て、元からたれさがっている目尻をますます緩めて目を細めました。
帽子屋のアトリエは相変わらず青いような色の空気で満ちていて、幽霊の白い顔を青白く見せているのでした。
「……幽霊、」
「そうだよ」
「死んでるんです、か」
「死んでるよ」
わはははは、と幽霊は大きな声で笑いましたので、わたしはひどく驚きました。目をまん丸くしたかもしれません。
「死んでない幽霊って俺、知らないよ」
「……本当にあなた、死んでるの?」
死んでるんだよそれが、と幽霊は腕を伸ばしてわたしの手首を掴みました。ぞっとするような冷たさに、ぞわぞわと背中が粟立ちます。そのまま彼はわたしの手を自分の左の胸にぺたりとつけました。鼓動が、そこにはありませんでした。
帽子屋はわたし達を腕組みしながら見ていましたが、好きに使え、とだけ言ってやがて背中を向けました。
「出てくる」
「悪いな」
「冷蔵庫」
「うん?」
「中、好きに飲めばいい」
「どうせビールしか入ってないんだろう」
失礼な、と帽子屋は振り返って顔をしかめました。わたしは彼女の表情がそう変わるところを見たことがなかったので、思わず見つめてしまいました。
「なにが入ってるんだよ、じゃあ。せいぜいケチャップにマヨネーズだろ」
「ジュース」
「ジュースだあ? 珍しい、お前そんなもん飲まないじゃんか」
帽子屋はちらりとわたしに視線を移しました。それを見ていた幽霊が、ああ、と納得した顔になります。ぽってりとした厚い唇が横に広げられて、機嫌のいい動物の顔になりました。幽霊にしては随分、表情豊かな人です。他に知っている幽霊がいるわけではないのですが。
「ああ、そっか酒飲めないもんね?」
幽霊はわたしに視線を戻して言いました。背は高いのですが、そう低くないやわらかな声です。
「どうして、知ってるの……」
「そういう顔してるから」
わたしの手首は解放されて、幽霊の冷たい温度が移ってしまったのでしょう、そこはすうすうと冷えていました。
帽子屋がドアを開けて出て行ってしまったときも、わたしは自分の手首をさすっていました。
「邪魔者、行っちゃったねえ」
「邪魔者って、」
「3Pするわけにもいかないでしょ」
「なっ、」
「あ、怖い顔した。ははははは、冗談だって、冗談。ね、でもさ、これから俺らがなにするのか知ってる? ちゃんと分かってる? セックスすんだよ?」
セックス、とオウム返しにしてしまってから、わたしは慌てて口を押さえました。そんな単語を直接口にしたことなんて、あったでしょうか。
耳の後ろ側がかっと熱くなって、きっと顔が真っ赤になったのでしょう。幽霊がおかしそうに笑いました。
「純情だなあ、どうやって子供作るかちゃんと知ってる?」
「しっ、知ってます、」
彼は笑ったまま冷蔵庫を開けに行きました。ビールの缶と、オレンジジュースの缶を取り出します。なにかきょろきょろしていると思ったら、どこからか青味がかったコップを持ってきました。流しで洗って軽く払い、水滴のついたままのそれにジュースを注いで渡してくれます。
ありがとう、と言うと、どういたしまして、と微笑みました。
長い脚にぴったりとした黒いジーンズを穿いている幽霊は、どっかりとあぐらをかいて床に座り込みます。わたしにも座れというので、言われたとおりにしました。足首までのスカートでしたので、膝の裏をそっと押さえてしゃがんだのです。
幽霊はわたしに、どこか夫を思い出させました。こんなにもラフな格好をしている彼と、スーツ姿ばかりが記憶に残る夫とではまったくも違うのに。夫はわたしにとてもやさしい人ですが、そういえばなぜだかその顔が今は思い出せませんでした。
「……どうして、死んだの?」
「俺? 車の事故ですよ」
「事故、」
「そう。聞きたい?」
聞きたい。わたしは頷きます。へえ、と幽霊はやわらかな表情になって、ビールのプルタブを引きました。かしゅり、と金属のこすれる音がします。
「新婚旅行に行くとこだったの。っつっても結婚式まだだったんだけど。俺と奥さんって、意外といいとこの家を出ててさ。結婚式するっていっても、自分達のためってより親のためだったんだよね。招待客の半分以上が親の関係って感じでさ。でっかい結婚式。どっかの議員さんとか、大学の先生とか、仕事関係のお偉いさんとか、そういうのがどかっと来て、まああれだよね、息子、娘の結婚式だけど顔合わせるのに使わしてよ、みたいな。別に文句はなかったんだよ、文句っていうか、そういうもんだと思ってたし。うちら、長男長女だったし。親が金出してくれるって言うし。それって一種の親孝行じゃん、本当に祝って欲しい人達はさ、後でまた他に集まってもらえばいいんだからさ。……すごかったよ、結局やんなかったから実際はどうなったんだか分かんないけど。会場に桜の木を搬入するとかって話だったもん」
わたしは幽霊の顔を見ながら、呆けたみたいに聞いているだけでした。
うん、うん、と頷くだけの相槌を打ちます。幽霊は喉の奥でくつくつと笑いました。
「しかしあれな、いっくら親掛かりって言ってもさ、本人達のこまごました雑用って言うか決めなきゃなんないこと多いのな。席順とか、親の意見も聞かなきゃなんなくて、あの人とあの人は仲が悪いとかあの人は立場がどうこうだから挨拶の順番がどうとかって、そんなの知らねえっての。って言ってられるわけもないから細かい打ち合わせ何回もしてさ。ブライダルコーディネーターさんだっけ。花のセッティングだけでもアホみたいに話し合いしたなあ。テーブルクロスの色とか、料理のランクとか、ランクを決めた上で追加とか変更とかって、俺よくあんなの一所懸命やったと思うもん」
わたし達の結婚式は、と、なんだか大昔のような記憶を呼び起こそうとしましたが、上手く思い出せませんでした。緊張していたのかもしません、自分が主役になる場所は慣れていなかったからです。
なんにも思い出せないわ、と恥ずかしいような気持ちで笑って、わたしは幽霊に渡されたオレンジジュースに口をつけました。青い色のグラスの中で、濃い色のジュースがとろりと揺れました。
「新婚旅行も決まってたんだよ。ギリシャ。それも親の関係で、あれは旅行代理店のお偉いさんとかが知り合いにいたりしたんだろうな。金も出してくれるって言うしさ、誰かの顔潰しても得があるわけじゃないし、それはそれでちゃんと行くって話だったんだけど。なんかひとつだけ、ひとつだけでいいから自分達だけでなんかしたいね、って、なんでだろうな、やっぱ思ったんだよ。で、本物の新婚旅行しようってふたりで話してさ」
「本物の、新婚旅行?」
「そう。ふたりだけでさ。……海が見たい、って言ったんだ。あの子。海が見たいって、それだけ。後はふたりでいればいいね、って笑ったんだ。海外なんかじゃない、一泊二日で予定もなしに、ぶらっと出かけて予約もなしでホテルでもなんでも飛び込めばいいって思ってた。奥さんはさ、そういう旅行したことがないもんだから、心配しておろおろしてたんだけど、最終的には俺についていけばいいのかって思ってたみたいだよ。……高速道路で、中央分離帯ぶっ千切ったダンプが突っ込んできてさ。どんだけスピード出してたんだよって感じだよね、タイミング悪くモロにぶつかって、吹っ飛ばされて。壁に激突。即死だったから痛いこととかなかった、もうすぐにこっちの世界からあっちの世界へ、って感じで」
口調こそ明るいものの、思い出したくないことだったのでしょう。幽霊は遠くを見るような目になりました。淋しい色の光が浮かびます。あれは涙をにじませた色だったのでしょうか。
「……死んだことを覚えているの?」
「うん?」
「死んだことに気付けないでいる人達が、幽霊になるんだと思ってた」
「未練が残ってるって方が幽霊になるんじゃないかな」
「未練?」
あなたも残ってるの、と聞けば、ああ、と返事がきました。
「子供」
「……子供?」
「俺の奥さん、子供欲しがってたからさ。すっごく欲しがってた。妊娠させてやれなかったんだよな、それがすんごく心残りで」
だから子供を作ってやれなかった俺と、子供が欲しくてたまんないあんたの間で、利害が一致すんじゃん、と幽霊が言いました。やさしい顔をしていました。
まばたきをひとつして、言葉を捜している前に、幽霊は腕を伸ばしてきました。わたしの手から、ジュースのグラスを取り上げます。そうしておいてから、肩に手を置いたと思うと手品みたいに引き寄せて、冷たい胸の中にわたしをすっぽりと抱き締めたのでした。
色とりどりの花が撒き散らされます。
くすくすと笑いながら、幽霊は帽子屋の帽子を作るために集められているであろう造花を、箱ごとひっくり返して床を埋めました。つくりものの果物もです。そして鳥の羽も。ふわふわと飛び散って、おもちゃ箱をひっくり返したようというのはこのことなのでしょう。綺麗な色の生地もたくさん。
勝手にそんなことを、と慌てるわたしに微笑んで、彼はわたしの手首を掴みます。そうして黙らせておいて、それでもまだ困った顔のままでいるわたしの頬を両手で包み込みました。
幽霊のてのひらは冷たくて、それでもやさしく感じられました。
笑ったまま彼はわたしの髪にどんどんと花を挿していきます。お花畑で遊ぶように。やがてつられて結局はわたしも笑い出してしまい、彼にガーベラの花を差し出しました。淡いピンク色、オレンジ色、そんな造花を数本持って。
彼はトルソーからドレスを引き剥がすと、それを床に敷きました。ふわりとしたスカートの大きなドレスです。さすがにそれは、と咎めても、だってこの家座布団の一枚もないんだぜ、といたずらっ子のような顔をするばかりでした。
自分のパーカーも脱いでドレスの上に広げたかと思うと、幽霊はわたしのことを押し倒しました。
いいえ、乱暴にではありません。頭の後ろを支えてくれながら、ひどく丁寧にです。唇が重ねられました。驚いている間もなく舌が忍び込んできて、わたしの舌を吸いました。口の中を静かに確かめるみたいにして、わたしは流されるままに彼のくちづけを受け入れていました。
「観念した?」
「観念、とか」
「俺の子供を産むといいよ」
「幽霊の子?」
「いや?」
「いやとか、そういうことより産まれてくる子は人間なの?」
「人間だよ、俺だって昔は生きてたんだから」
そうですけれど。
それでも人間と幽霊のハーフなんて聞いたことがありません。その子はちゃんと心臓を動かして産まれてきてくる子なのでしょうか。
彼がわたしの髪を撫でました。
「大丈夫、願いどおりになるよ」
「……わたしの?」
赤ちゃんが欲しい。ひとり娘のわたしが子供を産まなければ、家は続いていかなくなってしまうから。わたしの血さえ流れていたのなら、それは家の子になります。幽霊の子であろうと、夫の子であろうと。
そういえば幽霊の奥さんはどうしているのでしょう。聞こうとしたけれど、彼がわたしのブラウスのボタンに指をかけていたので、それどころではなくなってしまいました。
「なっ、なにをっ、」
「なに、って。服脱がせんの」
「じ、自分でできますっ」
「いいよ、脱がせるのも楽しいから」
「楽しいとかっ、」
「脱がされるの、嫌い?」
「そ、そんなこと、そ、……恥ずかしいじゃない、の、」
顔真っ赤だよ、と幽霊が笑いました。そうでしょう、わたしは自分でも頬が燃えるように熱いのをちゃんと感じていましたから。
恥ずかしがるなよ、と彼は言って、やさしい口調とは裏腹にボタンをすべてはずしてしまいました。わたしは思わず胸元を手で覆います。ただでさえささやかな胸は、横になっていると背中のほうへ流れてしまってますます微かになってしまうのです。
「手、邪魔」
「邪魔とか言わないで、もう、もう、もう、バカ」
「バカって言われたよ」
幽霊はどことなく嬉しそうに、わたしの額へ唇を落としました。まぶたに、鼻の頭に、頬に、冷たい唇は押し当てられます。頭を振っていやいやをすると、花が髪からこぼれました。
指を絡めて。
肌を重ねると、幽霊の冷たさが勝ってしまいます。わたしの肌までもが冷たく染まります。青白い、清潔な温度でした。
不意に真顔になった幽霊が、再び唇を重ねてきます。覆いかぶさるようにしてわたしを抱き締めて、わたしは彼のシャツのさらさらとした感触を肌で感じました。
輪郭を確かめるように、幽霊の手はわたしの身体をなぞります。
唇があちこちに押し当てられて、わたしも必死で腕を伸ばしました。幽霊の身体にしがみついて、抱き締めて、強く強く力を込めました。
気がつけばふたりとも服を取り去って、静かに抱き合っていました。抱き合っても抱き合ってもそこに熱は生まれません。それが不思議で、わたしはするりとした幽霊の肌を何度も何度も撫でました。彼はそれがくすぐったいと言って笑いました。幽霊もくすぐったがるのです、そんなことははじめて知りました。
それがなんだか愛しくて、わたしは彼の肌を撫で続けました。愛しさが、伝わるように。
やがて彼がわたしに入ってくるとき、わたしは受け入れる痛みを感じました。蜜をこぼすほど準備が整っていたとしても、相手の動きで徐々にほぐされて快感を覚えるとしても、それはきちんと感じるのです。ひきつれたような小さな痛みを。
大丈夫かと、幽霊は聞いてくれました。
わたしは返事をする代わりに、強く強く彼を抱き締めました。
懐かしい友人の夢を明け方の薄ぼんやりとした光の中で見た。そうしたら仕事の依頼はきたのだった。
帽子を作る仕事をすることにしたのは大好きだった祖父の影響で、結婚式で使うベール代わりの変わった帽子の注文を一度受けたところ、急に仕事が増えて、なぜかドレスまで作って欲しいと頼まれるようになった。もともと手先は器用だったし縫製を習ったこともある。しかし作りたいのは帽子であってその他は、と悩んでいたけれど、祖父に望まれるならやりなさいと言われて、特に宣伝をするわけではないけれどドレスの仕事をすることもあった。
『……亡くなった娘が最近になって、当たり前のような顔をして一緒に暮らし始めたんです。年してからのひとり娘で、結婚も決まって、これで跡継ぎさえ産めばひと安心と言っていた矢先に事故で亡くなってしまって。結婚式も挙げてやれませんでした。うちの人が先月亡くなりましてね、そうしたら本当に、今までもいたかのように当たり前の顔をして……。お母さんごめんね、なんかまだ赤ちゃんできないの、早く赤ちゃん欲しいんだけどね、って言うんです、あの子。帽子屋さんのことは人から聞きました、そちらでドレスを作っていただいて結婚すると子宝に恵まれるって。ええ、今更ですけど、死んだ娘のためにお願いをしても……ええ、ええ、無理でしたら本当に、ええ、……うちはいくつか会社をやっています、それで跡継ぎが産めなかったとあの子、心配で成仏もできていないのかと思うと……うちなんて分家筋から養子をもらったってなにをしたっていいですのに、あの子……』
そんな泣き声の電話を受けて、ふと思って名前を出した。明け方の夢に出た友人の名だった。
すると電話の向こうで驚きの声が上がって、それは婿です、と言った。娘と共に事故で亡くなった、婿さんの名前だと。
死んだ人間への注文など受けたことはなかったが、あいつには若い頃世話になったこともある。いい奴だった、面倒見が良くて明るくて、ただでさえ垂れた目を細めていつでも笑っていた。
そういえば夢に出てきたときも、「相変わらず男みたいな格好して、だからまだ嫁にいけないんじゃねえの」と笑っていた。
余計なお世話だ。
本当に。
余計な世話ばかり焼いて、今回だってきっとそうだ。家のことが心配で戻ってしまった嫁さんを気にして、わざわざ夢に出てきて頼んだのだろう。
「相変わらずな、奴だ」
帽子屋は薄く笑った。昔の友人のよしみで引き受けようと思った、次にあいつが夢に出てきたら、奥さんのスリーサイズを聞いて慌てふためかせてやろう。
そう考えてから、笑ったはずなのに帽子屋は少しだけ淋しくなった。
すらりと背の高い、いつでもやわらかな表情をしている男だった、恋をしていたわけではないけれど好きだった。好きな人間の、ひとりだった。
突き上げられて揺さぶられて、それでもどこか甘い想いを胸に満たしながら、わたしは浅い息を繰り返しました。
最後の瞬間に幽霊は、もう、とだけ言って、それだけで理解はしたのでわたしは何度も小さく頷きました。薄い背中に手を回して、ぎゅっと抱き締めます。ぎゅうっ、と。
「……なんだか、すごく」
「……ん?」
「あなたのことが、愛しくなった気がする」
「ははは、そりゃあれだ。肌合わせたからだよ」
「……そんな単純な」
「単純だよ、セックスすると情が移るんだよ」
「でも、なんだか懐かしい気がするの」
幽霊はわたしの中で放った後、脱力して身体を預けてきていました。預けるといっても手脚に体重を分散させて、重さがすべてわたしにかからないようにしてくれていたのでしょう。それでも、重くないかと聞いてくれます。重くない、と、わたしは答えました。静かに汗をかいた額で、張り付いた前髪をそっと払いながら。
「あー、良かった、一応ちゃんとできて」
「なにそれ」
「笑うなよ、死んでからしてないんだからさ。覚えてるもんだな、良かった」
「変なの」
「変じゃないって、男のプライドかけた重要なことよ?」
「バカみたい」
言ってくれんじゃん、と幽霊は腕を伸ばして、わたしの髪をぐしゃぐしゃにかきまぜました。そして背中に手を回してきて、ぎゅっと抱き締めてきます。苦しいよ、と笑い声を上げました。抱き締められて苦しいのは本当で、でもなぜだかずっとそうしていて欲しい気もしました。
「……妊娠したよ」
「なんで分かるの?」
「分かるよ、そりゃ」
「あなた、もしかして幽霊じゃなくて、妊娠の神様とかじゃないの?」
「なんだよそれ、妊娠の神様ってなんか卑猥だな。俺、そこら中の女孕ましてるみたいに見える?」
わたしは首を横に振りました。
赤ちゃん。わたしがずっと欲しかったもの。幽霊が言うのなら、きっとわたしは本当に妊娠したのでしょう。そう信じることにしました。ひどく安心した気持ちになっていました。安らかな気持ちに。
それで、ついうっかり、幽霊のことを夫の名で呼んでしまったのでした。
弾かれたように彼はわたしから飛びのいて、顔をまじまじと覗き込んできました。
「なあに?」
「今、」
いや、と幽霊は首を横に振ります。静かに微笑みました。
わたしは腕を伸ばします。
「……ぎゅう、って」
抱き締めていて、もっともっと、あなたの冷たい肌がなぜだかうんと気持ちがいいから。そう言うと、幽霊は目をますます細めてわたしを見ました。
そしてとても静かに、わたしの額へと彼は唇を落としたのでした。