表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

いせこい

悪役令嬢らしく「オーホッホ!」と高笑いしていたら、顎が外れて戻らなくなりました。この状態で断罪シーンを乗り切るのは無理がありますわ

作者: 住処
掲載日:2026/07/06

 断罪される悪役令嬢には余裕が必要である。


 身に覚えのない罪を並べられても取り乱さず、扇の陰で微笑み、最後には証拠を突きつける。できれば高笑いの一つも添えたい。


 私は王宮の控室にある姿見へ向かい、背筋を伸ばした。


「オーホッホ! わたくしを陥れようなど、百年早くてよ!」


 悪くない。


 濃い紫の夜会服も、銀の髪飾りも、冷酷そうと評判の顔立ちによく似合っている。笑い声が少し震えていたのは仕方がない。これから婚約者のアルマン第二王子殿下が百人を超える招待客の前で私を断罪する予定なのだ。


 今朝、王宮に勤める父の友人から知らせを受けた。エリーズ・ベロー男爵令嬢を脅し、夜会服を切り裂いた罪を私へ着せるらしい。


 証拠なら集めてあるし、反論する順番も何度も練習した。それでも胸の奥が落ち着かないため、私はもう一度姿見の中の自分を睨んだ。


「オーホッホ!」


 ごきり、と嫌な音がした。


 口が閉じない。


「お、お嬢様?」


 背後にいた侍女のアデルが青ざめた。


 返事をしようとしたが、喉から出たのは、あが、という令嬢らしさに欠ける音だけだった。顎の付け根に熱い痛みが走り、目の奥までじんじんする。


 ――顎が外れた。


 悪役令嬢としての完成度を高めようとして、断罪より先に顎を失う者がいるだろうか。


 いる。姿見の前に。


 大広間から楽団の音が聞こえる。国王陛下の入場を告げる曲であり、断罪が始まるまで四半刻もない。


 今ここで姿を消せば、アルマン殿下は私が罪を認めて逃げたと言うだろう。欠席した私に反論の機会が与えられる保証もない。明朝には悪女セレスティーヌ・ラヴァール侯爵令嬢の名が王都中へ広まっている。


 私は両手で顎を支えた。外れたのなら元の位置へ戻せばいい。下へ落ちたものを上へ押すだけだ。


「お嬢様、お待ちください。素人が無理に動かしては――」


 最後まで聞かず、私は顎を力いっぱい押し上げた。


 ごきん、と先ほどより大きな音がした。


 上下の歯がぶつかり、口が閉じる。


 治った。


 そう思って息をつき、無実です、と言うために口を開こうとした。


 開かない。


 顎の付け根が固まり、歯を食いしばった形からまったく動かなくなっている。唇をわずかに動かしただけで両耳の下まで痛みが走った。喉から絞り出せたのは低くこもった音だけで、言葉にはならない。


「先ほどより悪くなっております!」


 少なくとも見た目は良くなった。反論しようにも言葉が出ないのが悲しい。


「すぐに医師を呼びます!」


 アデルが扉へ走ろうとしたため、私は腕を掴んだ。


 時間がない。私は机の上に置かれていた黒い羽根扇を取り、もう片方の手で大広間を指した。


「そのまま出るおつもりですか?」


 頷く。


「お話しになれませんよ?」


 分かっている。


「お口も開かないのでしょう?」


 それも分かっている。


 アデルは今にも泣きそうな顔をした。私は机の上に用意していた紺色の書類鞄を示し、それを持つよう身振りで伝えた。


 証拠は完璧だ。ただし証拠を読み上げることはできない。


 どうにかなる気はしなかったが、ここで留まるよりはましだった。


 大広間へ入ると、すでに招待客が左右へ分かれていた。


 中央にはアルマン殿下とエリーズ嬢が立っている。淡い金髪と青い目を持つ殿下は、物語の挿絵から抜け出したような王子だった。ただし、婚約していた五年間でその美しい口から私を気遣う言葉が出た回数は片手で足りる。


 エリーズ嬢は白百合を飾った夜会服の肩を押さえていた。左の袖が大きく裂け、白い腕が見えている。周囲の令嬢たちが外套をかけようとしているが、彼女は健気に首を振っていた。


 被害を隠す気はないらしい。


「ようやく来たか、セレスティーヌ」


 アルマン殿下の声が広間へ響いた。


 私は開いた扇を口元へ添え、中央まで歩いた。


「その扇を下ろせ。エリーズへしたことを恥じる心があるなら、顔を隠さず謝罪しろ」


 私は扇を腰の高さまで下ろした。


 閉じた口元が人目にさらされる。顎が動かないため、唇は一文字に結ばれたままだ。冷酷そうと評判の目で殿下を見つめれば、怯えている令嬢には見えないだろう。


 顎が痛い。


 招待客の間から囁き声が聞こえた。


「謝罪するおつもりが少しもないわ」


「殿下に扇を下ろせと言われて、あのお顔を見せつけるなんて……」


「黙っていても罪は消えないぞ」


 殿下は得意げに一歩近づいた。


「皆も聞いてほしい。セレスティーヌは私の婚約者という立場を使い、エリーズを長く苦しめてきた。茶会から締め出し、贈り物を捨て、今夜は夜会服まで切り裂かせたのだ」


 初耳の罪が二つ増えている。


 驚いて目を見開いたところ、近くにいた婦人が小さく息を呑んだ。


「まったく動じていないわ」


「殿下を見下ろしていらっしゃる。あの目をご覧になって」


 見下ろしているつもりはない。私は殿下より指二本ほど背が高いだけである。


「セレスティーヌ。反論はないのか?」


 山ほどあるが?


 口を開こうと力を込めると顎に鋭い痛みが走った。涙がにじみ、私は扇の柄を強く握った。


「泣いているのか?」


 アルマン殿下が鼻で笑う。


「今さら可哀想な女を演じても遅い」


 私の右後ろで別の声がした。


「あれは怒りの涙ですわ。声を荒らげぬよう、怒りを抑えていらっしゃるのよ」


「ラヴァール侯爵令嬢ほどの方が、本気で怒ると声も出さなくなるのですね」


 ずいぶん都合よく解釈してくださる。


 私は泣いている目を細め、食いしばった顎の力を少しだけ抜こうとした。


 その動作を見た殿下の頬が引きつった。


「私を威圧するな。王子への不敬も罪へ加えるぞ」


 何もしていないのに立っているだけで罪が増えていく。やはり私は悪役令嬢の才能にあふれすぎているのではないだろうか。


 エリーズ嬢が殿下の腕へ触れた。


「アルマン様、わたくしは大丈夫です。セレスティーヌ様もきっと寂しかったのでしょう。殿下のお心がわたくしへ移ったと知り、少し困らせたくなっただけですわ」


 慈悲深い言葉を選んだつもりなのだろう。声が広間の隅まで届くよう、きれいに腹から出ている。


 私も腹から声を出そうとして顎が外れた。発声の基礎は時として人を裏切る。


「君は優しすぎる。だが私は……この女の悪行をもう許さない」


 アルマン殿下は懐から封書を取り出した。


「エリーズへ届いた脅迫状だ。ラヴァール侯爵家の封蝋が押されている。白百合の夜会服を着れば、次は顔を裂くと書かれていた」


 広間にざわめきが走った。


 私は封蝋を見て眉を上げた。


 ラヴァール家が昨年まで使っていた古い印章である。鷲の尾羽が一本欠けているため、父が新しい物へ替えた。偽物を作った者は最近の手紙を見ていない。


 その事実を言いたい。


 とても言いたい。


 私はアデルへ視線を向け、紺色の書類鞄を開くよう指で示した。


「お嬢様が証拠を出せとおっしゃっています」


 アデルが声を上げた。


 室内の空気が変わった。


 アルマン殿下は封書を持ったまま固まり、エリーズ嬢の指が殿下の袖へ食い込んだ。周囲の貴族たちは私と紺色の鞄を交互に見ている。


「最初からご存じだったのね」


「あえて最後まで言わせてから、逃げ道を塞ぐおつもりだわ」


 いや、最初から反論する予定だった。普通に喋れる前提で。


 しかしこの空気は使える。


 私はゆっくり扇を傾け、アルマン殿下へ続きを促した。


「証拠だと? お前は父侯爵に言われた書類を持ってきただけだろう。今も侍女に代弁させ、自分では一言も話せないではないか」


 私は何も言わず殿下を見つめ続けた。


 実際には顎へ少しでも力を入れると痛むため、口元の表情を変えられないだけである。


「セレスティーヌ様は、大勢の前でご自分の意見を述べたことがないと伺っております。今夜に限って反論のご準備があるとは思えませんわ」


 エリーズ嬢も殿下の隣で微笑んだ。


 ようやく二人の余裕の理由が分かった。社交の場で積極的に発言しなかった私を、何も考えられず、父の後ろへ隠れるだけの女だと思っていたらしい。


 私は扇の柄で自分の掌を一度叩いた。


 合図を受けたアデルが鞄から書類を取り出す。王室記録、仕立屋の注文控え、王宮門の出入りの記録が順に重なっていた。


「読み上げてみろ。侯爵家が集めた紙切れで、エリーズの受けた苦しみは消えない」


 殿下は私が自分の言葉へ逆らえないと、まだ信じている。


「そこまでにしていただこう」


 落ち着いた男性の声が人垣の奥から届いた。


 左右の貴族が一斉に道を開ける。


 王国監察院長ルシアン・ヴォークレール公爵が、国王陛下の傍らから歩み出た。濡れた黒曜石を思わせる髪を後ろへ流し、灰色の目をまっすぐ私へ向けている。肩幅の広い長身に黒い正装をまとい、銀糸で縫われた監察官章だけを飾っていた。


 王都で彼を知らない者はいない。北部三州の徴税不正を半年で洗い出し、古い公爵家の当主を法廷へ立たせた人物である。端整な顔立ちは彫像のように隙がなく、アルマン殿下の甘い美貌が少年のものに見えた。


 何より、周囲を黙らせるために声を張る必要がない。


 私とは大違いである。


「公爵、これは私と婚約者の問題だ」


 アルマン殿下が言った。


「王宮の大広間で貴族を告発し、拘束まで求めた時点で監察院の管轄へ入ります。王子殿下であっても、証明の責任を告発された方へ押しつけることはできません」


 ルシアン公爵は殿下の前を通り過ぎ、私の正面で足を止めた。


 近くで見ると、灰色の目には思っていたより柔らかな光があった。彼は私の扇、固まった口元、顎へ落とした視線を順に動かす。


 気づかれた。


 私は冷徹な顔を保った。


 保つほかなかった。


 公爵は何も指摘せずアデルから紺色の鞄を受け取った。


「こちらを拝見しても?」


 私は威厳を込めて一度頷いた。


 痛い。


 ルシアン公爵は一番上の書類を取り出した。


「ラヴァール侯爵家の印章変更を告知した王室記録です。新しい印章は昨年の春から使用され、古い印章は同年夏に紛失届が出ている。脅迫状の封蝋は紛失した印章によるものです」


 招待客の視線がアルマン殿下へ集まった。


「古い物でも侯爵家の印章には違いない。管理できなかった責任は侯爵家にある」


 殿下はすぐに言い返した。ルシアン公爵は応じず、次の書類へ目を通す。


「仕立屋グロリエの注文控え。エリーズ・ベロー男爵令嬢の署名で、左袖を引けば外れるよう縫製するとの指示が残っています。追加料金はアルマン殿下の私室費から支払われている」


「注文書をよく読まずに署名したのです。わたくしは仕立屋を信用しておりましたから」


 エリーズ嬢の微笑みが消えた。


「私は夜会服を贈っただけだ。縫い方までは知らない」


 アルマン殿下がすぐに続けた。


 エリーズ嬢が隣を見上げる。殿下は彼女と目を合わせなかった。


「そして三点目」


 ルシアン公爵の低い声に、広間中が聞き入る。


「セレスティーヌ嬢が昨日の日暮れに冬庭でエリーズ嬢を脅したという証言について。当該時刻、彼女は救貧院へ納める冬用毛布の契約確認のため監察院にいました。私と書記官四名が同席しています」


 そこで初めて公爵と目が合った。


 昨日の私は彼と同じ長机へ座り、不当に高い運送料を請求した商人の帳簿を二刻ほど調べていた。公爵は私の指摘した数字を一つも聞き流さず、その場で再調査を命じた。


 アルマン殿下は私が救貧院の仕事をしていることさえ知らない。


「セレスティーヌ嬢は、エリーズ嬢を脅せる場所にいなかった。こちらは王宮門の出入りの記録と、冬庭の当番表です。エリーズ嬢が冬庭へ入った記録もない」


 エリーズ嬢の顔から色が消えた。


「場所か時刻を取り違えたのです。恐ろしい目に遭った直後でしたから、記憶が乱れていてもおかしくありません」


「冬庭で昨日の日暮れに脅されたと、あなたは二度の聞き取りで答え、署名もしています」


 ルシアン公爵が注文控えの隣へ証言書を置いた。


「エリーズ、君は間違いないと言ったな。私は君を信じて告発したのだ」


 アルマン殿下が一歩だけエリーズ嬢から離れた。


「殿下はセレスティーヌ様には人前で殿下へ逆らう度胸などなく、ラヴァール侯爵も今夜は領地にいるから、細かなことまで確かめる者はいないとおっしゃったではありませんか!」


「余計なことを言うな!」


「古い印章を用意したのも、仕立屋へ代金を払ったのも殿下です。最後まで守ってくださるというから、わたくしは言われた通りにしたのです!」


「君が早く王子妃になりたいと望んだから手を貸したのだろう!」


 互いを庇う約束が切れた途端、二人の言葉は私へ向かわなくなった。


 二人は完璧な嘘を作る必要がないと思っていた。私を黙らせたまま王子である殿下が罪を断じれば、それで終わると考えていたのだ。


 私は鼻から長くため息を漏らした。


 喉の奥で、んん、と低い音が鳴った。


 アルマン殿下が後ずさる。


「まだ何かあるのか……?」


 顎の痛みしかないけども……。


 私は答えず左手の手袋を外した。薬指から婚約指輪を抜き、近くの卓上へ置く。


 誰かが息を呑んだ。


「言葉すらお与えにならないのね」


「殿下の弁明を聞く価値もないと……」


 そこまで考えてはいなかったが、なにやらいい感じに解釈されているので概ね同意しておこう。


 国王陛下が玉座から立ち上がった。


「アルマン。公の場で偽りの告発を行い、王家とラヴァール侯爵家の婚約を不正に破棄しようとした責任は重い。お前の公務を停止し、王族会議の裁定が下るまで東塔で謹慎を命じる」


「父上、私は真実の愛を選ぼうとしただけです!」


「真実を得るために偽造と虚偽が必要なら、その愛は王家へ持ち込むな」


 陛下は近衛騎士へ合図した。


 アルマン殿下が両側から腕を取られる。エリーズ嬢も別の衛兵に付き添われ、広間を出ていくことになった。


「セレスティーヌ、私たちは五年も共に過ごしただろう! 何か言ってくれ!」


 殿下が振り返った。


 私も言いたかった。


 婚約解消を喜んでお受けします。侯爵家への賠償は書面でお願いします。古い印章も返してください。


 どれも今の口では、んんん、で終わる。


 私は羽根扇を胸元で閉じた。固く結ばれた口元のまま灰色の目で殿下を見つめ、静かに背を向ける。


 広間のあちこちから感嘆の吐息が聞こえた。


 背を向けた先に、ルシアン公爵が立っていた。


「侍医が隣の控室で待っています」


 誰にも聞こえない声で告げられる。


 私は公爵を見上げた。


「顎は早く侍医へ診せた方がよい。無理に閉じたのでしょう。痛みも強いはずです」


 やはり気づいていた。


 公爵の口元がほんの少し緩んでいる。笑ってはいない。私の名誉を守るため耐えてくださっているらしい。


 私は何事もなかった顔で頷き、痛みに涙を浮かべた。


 その涙を見た周囲が、さらに道を広く空けた。


 隣の控室で侍医が顎の関節を正しい位置へ戻し、強張った筋肉をほぐす間、アデルはずっと私の手を握っていた。


 布を当てられ、口を大きく開かないよう注意される。しばらく固い物も食べない方がよいらしい。


「お嬢様、今からでも事情を説明なさいますか?」


 アデルが尋ねた。


「なぜ?」


 声が出た。


 多少こもっているが、意味のある言葉である。これほど声をありがたいと思ったことはない。


「皆様、お嬢様がすべて見抜いた上で黙っていたと思っていらっしゃいます」


「途中からは見抜いておりましたわ」


「顎のことです」


「何のお話かしら」


 私は立ち上がり侍医へ礼を述べた。


 顎が外れていたと知られたら、今夜の威厳がすべて消える。断罪の直前に高笑いを練習して負傷した事情まで広まれば、悪女より恥ずかしい呼び名がつくだろう。


 高笑い令嬢。


 顎外れ令嬢。


 どちらも嫌である。まだ悪役令嬢の方がいい。


 大広間へ戻ると、国王陛下と王妃陛下が私を待っていた。招待客たちも帰らず、私の一言を聞こうとしている。


 ルシアン公爵だけが少し離れた柱の前で腕を組んでいた。


「セレスティーヌ嬢」


 陛下が私へ頭を下げた。


「息子の軽率な振る舞いにより、そなたとラヴァール侯爵家の名誉を傷つけた。王家として謝罪する。婚約は侯爵家からの申し出として解消し、契約に定めた賠償も支払おう。明朝、そなたの無実を正式に布告する」


「ご裁定に感謝いたします」


 私が答えた途端、広間がざわめいた。


「お声を聞いたのは今夜初めてだわ」


「ようやくお話しになった」


 国王陛下も気になっていたらしい。


「そなたは、なぜ初めから反論しなかったのだ?」


 百を超える視線が私へ集まった。


 アデルが後ろで息を止める。侍医はすでに別の扉から帰した。私が真実を言わなければならない理由はどこにもない。


 私は閉じた扇を胸の前へ下ろした。


「わたくしを侮る方へ、こちらから手の内を明かす必要はございません」


 ゆっくりと広間を見渡す。


「お二人が言いたいことをすべて言い終えるまで、待っていただけですわ」


 自信だけはたっぷり込めた。


 どよめきが起きる。


 王妃陛下は感心したように扇を傾け、年配の公爵は怖い方だと呟いた。若い令嬢たちの目には憧れまで浮かんでいる。


 アデルが背後で小さく咳き込んだ。笑うな。


 私は振り返らない。


 顎が外れていただけですわ、などと今さら言えるものか。


「見事だった」


 ルシアン公爵が私の前へ来た。


 長身の彼が近づくと、周囲の話し声が自然に小さくなる。冷静な灰色の目も、鍛えられた立ち姿も、最後まで私の事情を言い触らさなかった気遣いも、元婚約者とは比べる気になれないほど魅力的だった。


「監察院は沈黙だけで容疑者を自白させられる方を求めています。救貧院の契約監査も含め、正式に補佐官をお願いしたい。爵位に付随する奉仕として扱わず、監察官と同じ俸給をお支払いします」


「仕事のお誘いですの?」


「まずは」


 短い一言へ招待客がまたざわめいた。


 公爵は周囲を一瞥し私へ手を差し出した。


「今夜はお疲れでしょう。柔らかい料理を出す店へご案内したいのですが、いかがですか?」


 顎に優しい店を選ぶ時点で彼はすべて知っている。


「お気遣いには及びません。わたくしの沈黙は最初から計算していたことですもの」


 私は公爵に堂々と言い切った。


「もちろん」


 ルシアン公爵の灰色の目が笑った。


「では、そういうことにしておきましょう」


 言葉の端から信じていないことが伝わってくる。


 腹は立たなかった。百人が私を恐ろしい女だと信じ込んだ夜にたった一人くらい、本当の事情を察した方がいてもよい。


 大広間を出る直前、私は元婚約者が連れていかれた東塔の方角を振り返った。


 胸に溜まった重いものが消え、笑いが込み上げてくる。


 ここは高らかに勝ち誇る場面だろう。


 私は口を開きかけ顎の奥に残る鈍い痛みを感じて、結局閉じた。


 今夜のところは微笑むだけにしておこう。


お読みいただきありがとうございます!

面白かった、続きが気になる、と思っていただけましたら、評価・ブックマークで応援していただけると嬉しいです。

次回も楽しんでいただけるよう頑張ります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ