第9話 呪いの値段
作戦は単純だ。
闇市を潰すには、元締めの氷室を止めればいい。氷室がいなくなれば、組織は瓦解する。
だが、A級ならともかくEランクの俺には氷室を力ずくで倒す手段がない。元B級とはいえ攻撃系の呪術師だ。正面からやり合えば負ける。
なら——氷室の商品を全部喰ってしまえばいい。
闇市の在庫、つまり呪具に込められた呪いを片端から喰い尽くす。商品がなくなれば闇市は成り立たない。氷室のビジネスモデルそのものを破壊する。
「……無茶ですね」
雫に計画を話したら、開口一番そう言われた。
「無茶だが、これしかない」
「闇市にある呪いを全部喰うって——体がもつんですか」
「分からない」
「分からないのに——」
「S級を喰ったときも分からなかった。でもやった。今回も同じだ」
雫が黙った。反論できないのではなく、反論しても無駄だと分かっているからだろう。
「でも——前回は私を助けるためでした。今回は、闇市を潰すためですよね。それって、灰原さんがやらなきゃいけないことなんですか」
鋭い質問だ。
管理局がやるべき仕事だ。本来なら。だが管理局は動かない。他の呪術師も関わりたがらない。闇市の存在を知っていて、目をつぶっている人間がほとんどだ。
「やらなきゃいけないかどうかは知らない。でも——放っておいたら、俺のところに来る被害者が増え続ける。その呪いを喰い続けるのは、結局俺だ」
「それは——」
「元を断った方が、長い目で見りゃ楽なんだよ。割に合う計算だ」
嘘だ。割に合う計算なんかしていない。ただ——あの地下で見た光景が、頭から離れない。
呪いが商品として並んでいた。人間の苦しみに値札がついていた。五万円で誰かを呪える世界。それが当たり前のように回っている。
あれを見て、何もしないまま呪い除去屋を続けることは——たぶん、俺にはできない。
「……分かりました」
雫が立ち上がった。
「手伝います。灰原さんが闇市の呪いを全部喰うなら、私は——別の方法で支援します」
「どうやって」
「闇市で呪いを買った一般人のリストがあれば、管理局も動かざるを得ないんじゃないですか? 被害者がD級やC級でも、組織的な販売の証拠があれば」
「……お前、頭いいな」
「普通です」
普通じゃない。この子は時々、驚くほど的確なことを言う。
「黒瀬マリに連絡する。取引記録を手に入れられるか聞いてみる」
*
マリは予想外に協力的だった。
「取引記録ね。——あるわよ。氷室は几帳面な男だから、全ての売買を記録してる。顧客名簿、取引日時、金額、商品の種類。全部データベース化されてる」
「それを手に入れられるか」
「私がハッキングするのは無理。でも——深夜市の最中なら、氷室のサーバーに物理的にアクセスできるかもしれない」
マリが地図を広げた。
「VIPルームの奥に管理室がある。サーバーはそこ。深夜市の開催中は警備が市場側に集中するから、管理室は手薄になる」
「つまり、俺が市場で派手に暴れて注意を引きつけてる間に、管理室からデータを抜く」
「そういうこと。——役割分担は?」
「俺が市場の呪いを喰う。白峰がデータを抜く」
「私は?」 マリが首を傾げた。
「あんたには案内を頼みたい。白峰を管理室まで導いて、回収したデータを外部に転送する」
マリが煙草をくるりと回した。
「報酬は」
「闇市が潰れれば、情報屋としてのあんたの商売は——」
「逆よ。闇市が潰れた後の混乱は、情報の宝庫。闇市壊滅の裏側を知ってるのが私だけなら、その情報は高く売れる」
商魂たくましい。
「それでいいなら」
「決まりね。——次の深夜市は五日後。準備しなさい」
*
五日間の準備期間。
俺は体のコンディションを整えることに集中した。鎮痛剤の量を調整し、睡眠時間を増やし、食事を摂る。普段おろそかにしている基本的なことだ。
S級の呪いを喰ってから一ヶ月近くが経ち、体はある程度は回復していた。だが「ある程度」だ。完全には程遠い。全身の呪痕は以前より増え、左腕に至っては指先まで隙間なく紋様が刻まれている。
大量の呪いを一度に喰えば、何が起こるか分からない。
それでもやる。
雫には別の準備を頼んだ。
「これ、USBメモリです。管理室のサーバーに挿したら自動的にデータをコピーするプログラムが入ってます」
「お前、いつの間にそんなもの——」
「学校の情報の授業で覚えました。——あと、ネットで調べました」
十七歳の行動力が怖い。
「サーバーの場所はマリさんが案内してくれるんですよね」
「ああ。だが——もし見つかったら、すぐに逃げろ。データより命だ」
「分かってます」
雫の目は真剣だった。覚悟がある。
この子はもう、ただ助けられるだけの存在じゃなくなっている。
*
決行の夜。
午後十一時。新大久保の別のビル。前回とは場所が変わっている。
ビルの手前で、三人が合流した。俺、雫、そしてマリ。
「段取りを確認するわよ」
マリが低い声で言った。
「まず灰原が客として入場。市場の中央まで進んだら——派手にやりなさい。呪いを喰い始めれば、警備は全部そっちに集中する」
「分かってる」
「その隙に、私と白峰ちゃんが裏口から管理室に向かう。データのコピーには最低三分。灰原が三分間、市場を混乱させてくれれば充分」
「三分でいいのか」
「三分で充分。——ただし」
マリが俺を見た。サングラスの奥の目が光った。
「氷室は甘い男じゃないわ。あなたが呪いを喰い始めたら、全力で止めにくる。元B級よ。正面からやり合って勝てるとは思わないで」
「勝つ必要はない。三分持てばいい」
「その三分が命取りにならないといいけど」
マリが肩をすくめた。
雫が俺の袖を引いた。
「灰原さん」
「何だ」
「——無事に帰ってきてください」
その声の切実さに、一瞬、言葉を失った。
「帰るよ。缶コーヒー飲みたいからな」
雫が少しだけ笑った。
俺は正面入口に向かい、雫とマリは裏手に回った。
門番に顔を見せる。前回と同じ男。
「また来たのか」
「いい商品があるって聞いてな」
階段を降りる。地下二階。扉を開ける。
闇市——深夜市が、今夜も開かれていた。
前回より客が多い。三十人はいる。売り手も増えている。ビジネスは拡大しているようだ。
市場の中央まで歩く。周囲を見回す。棚に並ぶ呪具の数——百以上。全部喰えるか?
考えるな。やるしかない。
深呼吸。一度。二度。
手近な棚に手を伸ばし、呪具を掴んだ。黒い石。中にD級の呪いが込められている。
石を握りしめる。呪いが掌から流れ込んできた。
不味い。だが軽い。D級なんてこんなものだ。
石が砂のように崩れた。呪いを抜かれた呪具は、ただの残骸に変わる。
隣の石にも手を伸ばす。また喰う。もう一つ。もう一つ。
五つ、十、十五——
「おい、何やってる!」
売り手が叫んだ。
遅い。
棚の呪具を片端から掴み、呪いを吸い出していく。両手を使う。右手で掴み、左手で次を取る。流れ作業だ。
胃が重くなっていく。全身の呪痕が熱を帯びる。だが止まらない。
二十個。三十個。四十個。
市場に悲鳴が上がった。客が逃げ始め、売り手たちが俺に向かって駆け寄ってくる。
「止まれ! 何者だ!」
呪縛が飛んできた。D級の稚拙な拘束呪術。喰う。体が吸い込む。
まだだ。まだ足りない。
棚を一つ丸ごと倒した。散らばった呪具の上に手を置く。まとめて吸い出す。
五十個。六十個。
体が悲鳴を上げ始めた。胃が痙攣し、視界の端が暗くなる。口の中に血の味。
それでも——手は止めない。
「灰原蓮か」
冷たい声。
振り返ると、氷室が立っていた。白いシャツの袖をまくり、両手に黒い光を纏わせている。B級攻撃型の呪術。
「私の商品を——何をしてくれている」
「喰ってる。全部」
「馬鹿な真似を」
氷室の右手から黒い光弾が放たれた。
避ける——間に合わない。肩に直撃。体が吹き飛ばされ、棚に叩きつけられた。棚が崩れ、呪具が散乱する。
肩が焼けるように痛い。B級の攻撃は重い。
だが——散乱した呪具から呪いが漏れ出ている。
体を起こし、散らばった呪具に手を伸ばす。
「まだ喰うか」
氷室が呆れたように言った。
「全部喰ってやる。——あんたの『商品』は、今夜で最後だ」
七十個。八十個。
体の限界が近い。意識が遠くなりかける。鎮痛剤はもう効いていない。
あと——何分だ。マリと雫は間に合ったか。
氷室が再び光弾を構えた。
もう避けられない。
そのとき——
ポケットのスマホが一度だけ震えた。
雫からの合図。データ取得完了。
三分。間に合った。
氷室の光弾が迫る。
俺は笑って——喰った。
B級の攻撃呪術を、正面から。
不味い。猛烈に不味い。だが——喰えた。
氷室の顔が歪んだ。
「お前——何者だ」
「Eランクの呪い除去屋だよ。ただ、ちょっとだけ——大喰いでな」
膝が震えている。もう立っているのがやっとだ。
だが——もう用は済んだ。
「また会おう、氷室。——次はないといいな」
踵を返し、出口に向かって走った。走った、というより、よろめきながら進んだ。
階段を上がり、地上に出る。冷たい夜風が顔に当たった。
路地の先で、雫とマリが待っていた。
雫が駆け寄ってくる。
「灰原さん! 大丈夫ですか——血が」
「平気だ。データは」
「取れました。全部」
「……よくやった」
その言葉を最後に、意識が薄れた。膝が折れる前に、雫が体を支えた。
「灰原さん——!」
「……少し、休ませろ」
路地裏の壁に背を預けて座り込んだ。
体中が痛い。呪痕が暴れている。八十個以上の呪いを一度に喰った代償。
だが——成功した。
闇市の在庫の大半を喰い尽くし、取引データも手に入れた。
あとは——このデータを、どう使うか。
マリが煙草に火をつけた。
「お疲れさま。——思ったより派手にやるのね、Eランク」
「褒め言葉と受け取っとく」
「褒めてないわよ。——それより、これからどうするの。データは手に入ったけど、氷室はまだ生きてるわ」
「管理局に持ち込む。志摩さん経由で」
「管理局が動くと思う?」
「取引記録に一般人の被害者リストがある。組織的な呪術犯罪の証拠だ。さすがに無視はできない」
マリが煙を吐いた。
「甘いわね。——でも、面白いから黙って見てるわ」
甘いかもしれない。だが、やれることはやった。
雫が隣に座った。何も言わず、ただ黙って隣にいた。
それが——思ったより、温かかった。




