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第8話 裏新宿の入り口

 三日間、準備に費やした。


 闇市に潜入するにあたって、まず必要なのは偽装だ。呪術師として乗り込めば即座に排除される。管理局認可の人間が闇市に来る理由は一つ——摘発だ。歓迎されるはずがない。


 だから、客として入る。


 「灰原さん。それ似合ってないですね」


 雫が遠慮なく言った。


 鏡の中の俺は、襟を立てた黒いコートに濃い色のサングラス。いかにも怪しい。


 「似合う似合わないの話じゃない。管理局の呪術師だと悟られなければいい」


 「十分怪しいと思いますけど」


 うるさい。


 「それより白峰、お前は留守番だ」


 「え」


 「闇市は危険だ。一般人が足を踏み入れていい場所じゃない」


 「でも——」


 「これは譲れない。前回は一緒に動いたが、今回は相手が組織だ。何が起こるか分からない」


 雫が唇を結んだ。不満そうだが、反論はしなかった。前回の件で、危険がどういうものかは身をもって知ったはずだ。


 「事務所で待ってろ。何かあったら連絡する」


 「……分かりました。でも、朝までに連絡がなかったら志摩さんに電話します」


 「好きにしろ」


 夜の十一時。事務所を出た。


    *


 新大久保。


 大久保通りから一本裏に入った路地。飲食店の看板が並ぶ雑居ビル街。週末の夜で人通りはまだ多い。


 マリに教えられた住所に向かう。古いビルの入口に、一人の男が立っていた。坊主頭に黒いスーツ。門番だ。


 「予約は」


 「ある。——紹介者は黒瀬マリ」


 男がスマホで確認し、顎でビルの中を示した。


 「地下二階。エレベーターは使えない。階段で」


 薄暗い階段を降りる。一階、地下一階、地下二階。


 階段を降りるごとに、空気が変わった。呪いの濃度が上がっていく。地下二階に着いたとき、そこはもう普通の場所ではなかった。


 扉を開ける。


 目の前に広がっていたのは、異様な光景だった。


 地下フロア全体が市場になっていた。仮設の棚やテーブルが並び、その上に——呪具が陳列されている。黒い石、骨細工のアクセサリー、札束のように重ねられた呪符、瓶に入った黒い液体。


 客がいる。二十人ほど。スーツ姿のビジネスマンもいれば、フード付きのパーカーで顔を隠した若者もいる。共通しているのは、全員が「呪い」を買いに来たということだ。


 売り手は五、六人。全員が呪術師か、元呪術師。それぞれの「商品」の前に立ち、客を呼び込んでいる。


 「恨みのある上司に。C級呪縛術式入り。効果は三日間の激しい偏頭痛。五万円」


 「元彼への復讐に最適。D級の悪夢呪い。一ヶ月間、毎晩悪夢を見せます。八万円」


 「ライバル企業の社員を狙い撃ち。B級集中力低下呪い。仕事のミスが増えます。二十万円」


 呪いが——こんなに気軽に。


 客たちは普通に財布を出し、カードで支払い、呪具を受け取って帰っていく。スーパーで買い物でもするように。人一人の苦しみが、クレジットカードで決済されている。


 腹の底が煮えた。


 だが今は堪える。目的は情報収集だ。闇市の規模と構造を把握し、元締めの氷室に繋がるルートを見つける。


 市場の中を歩く。サングラスの奥から、商品と客を観察する。


 呪具のほとんどは量産品だ。工場のラインで作るように、同じ規格の呪具が大量に並んでいる。一つ一つの質は低い——D級からC級。だが数が多い。


 一角に、他とは明らかに格が違うコーナーがあった。ガラスケースの中に並ぶ呪具。黒い絹の上に一つずつ展示された、精巧な細工の品々。


 「B級特注品。ご要望に応じたカスタムメイドの呪い。お値段は相談」


 売り手は四十代の女性。目つきが鋭い。こちらを品定めするように見ている。


 「何かお探しで」


 「見てるだけだ」


 「そう。——でもあなた、ちょっと変わったお客さんね」


 「何がだ」


 「ここに来る人は皆、恨みや怒りを顔に貼り付けてる。あなたにはそれがない。代わりに——別のものがある」


 サングラスの奥をじっと見つめられた。居心地が悪い。


 「買うかどうか分からないが、一つ聞いていいか」


 「どうぞ」


 「この市場の元締め——氷室誠一。会えるか」


 女の目が一瞬だけ細くなった。


 「VIPルームにいらっしゃるわ。でも、紹介がなければ会えない」


 「紹介してくれないか」


 「あなた何者?」


 「ただの客だ。——高い買い物がしたい」


 女が数秒考え、手元のスマホで誰かにメッセージを送った。


 「少し待って」


    *


 五分後、市場の奥から男が現れた。


 長身。オールバックの黒髪。白いシャツに黒いベスト。バーテンダーのような出で立ちだが、目は笑っていない。


 「氷室さんがお会いになるそうです。——こちらへ」


 案内されたのは、市場の奥にある鉄扉の先。防音が施された小さな部屋。革張りのソファと、ガラスのテーブル。壁には何の飾りもない。


 ソファに一人の男が座っていた。


 五十代前半。白髪交じりの短髪。痩せた体。だが、纏う気配が重い。この男の周囲だけ、空気の密度が違う。


 元B級呪術師。今は——闇の商人。


 「初めまして。氷室誠一です」


 穏やかな声。だが目は冷たい。


 「灰原だ」


 「何をお求めですか、灰原さん」


 「高い買い物がしたいと言ったが——実は、買いに来たんじゃない」


 サングラスを外した。


 氷室の目が微かに動いた。


 「話を聞きに来た。あんたが大量に流してる人工呪い——あれで、俺のところに被害者が押し寄せてる」


 「ほう」


 「呪い除去屋にとっちゃ、商売繁盛で喜ぶべきかもしれないが——俺はそうは思わない」


 「正義感ですか」


 「違う。面倒くさいんだ。喰わなきゃいけない呪いが増えて、体が持たない」


 本音だった。正義感なんて大層なものじゃない。ただ——被害者が増えれば、その分だけ俺の体に呪いが溜まる。


 氷室が静かに笑った。


 「面白い方ですね。管理局の犬かと思いましたが——そうではなさそうだ」


 「管理局は俺のことなんか気にしちゃいない。Eランクだからな」


 「Eランク。——なるほど」


 氷室が立ち上がった。


 「灰原さん。一つ教えて差し上げましょう。私のビジネスは、需要があるから成り立っている。人間は呪いたい生き物なんです。恨みは消えない。怒りは収まらない。その捌け口を、私は提供しているに過ぎない」


 「捌け口。人を呪い殺す道具を売ることがか」


 「殺すつもりはありませんよ。うちの商品は大半がD級からC級。不快な症状を与える程度のものです。本気で殺したい人は——もっと別のルートを使う」


 「それでも、被害者にとっちゃ地獄だ」


 「それは私の問題ではない」


 氷室の声に温度がなかった。この男にとって、呪いは文字通りの「商品」でしかない。


 「灰原さん。これ以上は生産的な会話にならないようだ。お引き取りを」


 氷室が合図すると、さっきの長身の男が部屋に入ってきた。


 「ああ、一つだけ」


 氷室が足を止めた。


 「あなたの能力——呪喰い。興味深い。もし気が変わったら、うちで働きませんか。呪い除去の需要は高い。今の十倍は稼げますよ」


 「断る」


 「そうですか。残念」


 部屋を出された。市場を横切り、階段を上がり、地上に出る。


 夜風を吸い込んだ。地下の淀んだ空気とは違う、冷たくて清潔な空気。


 スマホを取り出し、雫にメッセージを送った。


 『無事。闇市の内部を確認した。元締めとも接触した。明日、詳しく話す』


 すぐに返信が来た。


 『よかったです。肉まん温めて待ってます』


 ……あいつ、まだ事務所にいるのか。


 深夜一時の歌舞伎町を歩きながら、思考を整理する。


 氷室は思ったより冷静で頭の切れる男だった。力ずくで闇市を潰すのは難しい。証拠を集めて管理局に突き出すか——いや、管理局は動かない。C級程度の被害じゃ、奴らの腰は上がらない。


 なら、自分でやるしかない。


 問題は——どうやって。


 Eランクの呪術師一人で、組織を壊滅させる方法。


 頭の中で計画が形を成し始めていた。


 危険で、無茶で、割に合わない計画。


 いつも通りだ。


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