第7話 居座る助手
白峰雫が事務所に居座り始めて、二週間が経った。
最初は「恩返し」という名目だった。掃除します、お茶入れます、帳簿つけます。ありがたい申し出だが、そもそもこの事務所に帳簿をつけるほどの売上はない。
だが気づけば、雫は放課後になると必ず現れるようになっていた。制服のまま階段を上がってきて、「こんにちは」と当たり前のように事務所に入り、当たり前のように掃除を始める。
「……お前、友達いないのか」
「います。でも放課後は灰原さんの手伝いがあるので」
「手伝いっつっても、お前にできることは——」
「お茶入れます」
会話が成立していない。
とはいえ、正直に言えば——悪くはなかった。
三年間、一人で仕事をしてきた。クライアントが来て、呪いを喰って、金を受け取って、帰る。その繰り返し。事務所に誰かがいるという状況自体が久しぶりで、落ち着かないような、でもどこか温かいような。
認めたくはないが。
「灰原さん、依頼来てますよ」
雫が事務所のメールを確認しながら言った。いつの間にか事務メール対応まで引き受けている。
「読んでくれ」
「えっと——『最近、首の後ろに黒い痣のようなものが出来て、夜になると頭痛がする。病院では異常なしと言われた。呪いかもしれないので見て欲しい』。三十代男性」
「C級の寄生型だな。日時を決めて返信しとけ。料金は三万」
「分かりました」
雫がキーボードを叩く音を聞きながら、缶コーヒーを飲む。
平穏な日常。
——のはずだった。
*
異変に気づいたのは、その翌日だった。
依頼の男が来た。田中さん、三十四歳、会社員。首の後ろに確かに呪痕がある。予想通り、C級の寄生型。誰かの恨みが無意識のうちに固着したタイプだ。
いつも通り喰った。不味い。だが、三万円分の不味さには慣れている。
ところが——喰った瞬間、違和感があった。
呪いの「味」がおかしい。自然発生の寄生型なら、漠然とした不快感が主成分だ。方向性のない、もやもやとした負の感情。
この呪いには、方向性があった。明確な意図。設計図。
人工呪いだ。
誰かが意図的に作り、意図的にこの男にかけた呪い。
「田中さん。最近、見知らぬものを受け取ったり、知らない場所に行ったりしなかったか」
「いえ、特に……あ、でも——先週、道で拾ったんです。小さなお守りみたいなもの。綺麗だったので持って帰って——」
「それどこにある」
「家のカバンの中に——」
「帰ったらすぐ捨てろ。触るときはビニール手袋を使え。絶対に素手で触るな」
田中さんを送り出した後、デスクに座って考え込んだ。
呪具だ。呪いを込めた物品。拾った人間に呪いが移る仕組みの、使い捨て呪具。
問題は——こんなものを誰が、何のために作っているのか。
翌日、別の依頼が来た。二十代女性。腕に呪痕。これも人工の呪い。発生源は——職場のデスクに置かれていた小さな石。
その次の依頼も。その次も。
一週間で、人工呪いの依頼が四件。今まで月に一件あるかないかだったのが、急増している。
「灰原さん。これ、偶然じゃないですよね」
雫が依頼のリストを見ながら言った。
「偶然じゃない。誰かが大量に呪具をばら撒いてる」
「誰が、なんのために」
「分からない。だが——人工呪いを大量生産するには、それなりの設備と技術がいる。個人の仕業じゃない」
組織的な呪具の流通。それはつまり——
「闇市か」
呟いた。
雫が首を傾げた。
「闇市?」
「呪術の裏市場だ。呪具、呪術の技術、時には呪術師そのものが売買される場所。管理局が潰そうとしてるが、いたちごっこで根絶できていない」
「そんなものがあるんですか」
「ある。そして今、そこから大量の呪具が一般社会に流出してる。放置すれば被害者が増える一方だ」
雫の目が真剣になった。
「調べましょう」
「お前は関係ない。危険だ」
「もう関係あります。私はここの助手です」
「助手じゃない。勝手に居座ってるだけだ」
「助手です」
こいつ、頑固さだけは一人前だ。
溜息をついた。
「……情報がいる。闇市の場所と取引の実態。管理局のデータベースには載ってない類の情報だ」
「どうやって手に入れるんですか」
「裏の情報屋に当たる。——金がかかるぞ」
貯金残高を思い浮かべて、胃が痛くなった。
*
三日後の夜。新宿二丁目、老朽化したビルの三階。
看板はない。ドアにはインターフォンだけ。ボタンを押すと、ノイズ混じりの声が返ってきた。
「あー、はいはい。どちら様」
「灰原蓮。呪術師。情報を買いに来た」
沈黙。ドアのロックが外れる音。
中に入ると、雑然とした部屋だった。壁一面に液晶モニターが並び、新聞の切り抜きや写真がピンで留められている。部屋の中央にはデスクが二つ。その奥に——黒いコートを羽織った女が座っていた。
黒瀬マリ。
年齢不詳。たぶん三十前後。サングラスの奥の目は見えない。煙草を指に挟んでいるが、火はついていない。
「Eランクの灰原くんじゃないの。珍しいお客さんね」
「知ってるのか」
「情報屋だもの。この界隈の呪術師は大体把握してるわよ。——で、何が知りたいの」
「呪具の闇市場。最近、大量の人工呪いが一般社会に流出してる。出所と流通ルートが知りたい」
マリが火のついていない煙草をくるりと回した。
「いい質問ね。その情報、五十万」
「……三十万」
「四十五万」
「三十五万」
「四十万。これ以上は下げない」
四十万。痛い出費だ。だが、この女の情報は正確だと聞いている。
「払う」
マリがにやりと笑った。
「話が早い男は好きよ。——いい、聞いて」
モニターの一つに地図を表示した。新宿区の地下構造図。
「今、この界隈で動いてる闇市は一つ。通称『深夜市』。場所は毎回変わるけど、次の開催は三日後、場所は新大久保の地下。廃棄されたビルの地下二階」
「運営は」
「元締めの名前は氷室誠一。元B級呪術師で、管理局を除名された男。今は闇市場で呪具の製造と販売を仕切ってる。——人工呪いの大量生産、全部こいつの仕業よ」
「管理局を除名された理由は」
「禁術の使用。一般人への呪術攻撃。要するに、呪いを金に変える方法を見つけた男」
マリの声に、微かな嫌悪が混じった。
「最近は一般人にまで販路を広げてる。恨みのある相手に呪いをかけたい——そういう需要は、思ってるより多いのよ。五万から三十万で呪いが買える。手軽な復讐ツール」
胃の奥が冷たくなった。
呪いが——商品。
人間の恨みが、金で売買される。
「三日後の深夜市の場所と時間、詳細をくれ」
「はいはい。——あと一つ、忠告」
マリがサングラスを少しだけ下げた。奥に見えた目は、鋭く、冷たかった。
「氷室は用心深い男よ。潜入するなら覚悟しなさい。見つかったら——Eランクじゃ帰ってこれないわ」
「分かってる」
「分かってないと思うけど。——ま、いいわ。頑張って」
事務所を後にした。夜風が冷たい。
ポケットのスマホが震えた。雫からのメッセージ。
『どうでしたか?』
『情報は手に入った。三日後に動く』
返信を打ちながら、考える。
闇市。人工呪い。氷室。
そして——管理局を除名された人間が、なぜここまで大規模に動けるのか。後ろ盾がなければ不可能だ。
後ろ盾。
影宮の顔が、ちらりと頭をよぎった。
「……考えすぎか」
夜の新宿を歩きながら、缶コーヒーを開けた。
微糖。いつもの味。
だが、なぜか今日は——少しだけ苦く感じた。




