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第6話 最弱の逆転

 六日目。


 雫の容態は、朝から急激に悪化した。


 高熱。三十九度を超えている。額に手を当てると火のように熱い。呪痕は背中にまで広がり、体の半分を黒い紋様が覆っていた。目を開けているのがやっとで、時折、虚空に向かって手を伸ばす。幻覚が始まっている。


 「お母さん……」


 うわ言。二年前に亡くなった母親の名を呼んでいる。


 「白峰。聞こえるか」


 「……灰原、さん」


 焦点の合わない目が、かろうじて俺を捉えた。


 「今夜やる。それまで持ちこたえろ」


 「……はい」


 弱い声。だが、頷いた。


 俺はデスクに戻り、昨夜のノートを見直した。術式の構造は把握した。核の位置も特定した。あとは実行するだけだ。


 実行。


 つまり——雫の体に手を当て、S級呪殺術式を直接喰うということだ。外殻から核まで、一気に喰い進む。途中で止まれば呪いが暴走する。喰い始めたら、最後まで止まれない。


 自分の体を見下ろした。両腕の呪痕がびっしりと刻まれている。昨夜から、左胸の呪痕が特に疼く。心臓に近い位置。良い兆候じゃない。


 鎮痛剤のシートを数えた。残り八錠。


 全部飲んでおくか。


 いや——施術中に痛みで意識を失ったら終わりだ。四錠を今飲んで、四錠を施術直前に飲む。


 四錠を口に放り込み、噛み砕く。苦味がもう気にならない。


    *


 夕方。志摩さんから電話があった。


 「蓮くん。一つ気になることが分かった」


 「何だ」


 「御堂に任務を出したの、第九課の上席監査官よ。影宮(かげみや)総一郎(そういちろう)って人。知ってる?」


 影宮総一郎。名前だけは知っている。管理局の上層部にいる男で、呪術師の監査——つまり、呪術師を監視する側の人間。


 「知らないな。どんな人だ」


 「温厚で紳士的って評判。でもね、私はこの人が少し怖い。笑顔の奥が全然読めないの。——それと、三年前の新宿汚染事件の調査報告書、この人が書いてる」


 体が固まった。


 「新宿汚染事件?」


 「うん。三年前、蓮くんが巻き込まれた事件。あの事件の公式報告書を取りまとめたのが影宮上席監査官。——変だと思わない? 監査官が事故調査報告を書くなんて」


 三年前の事件と、今回の事件。繋がっているのか。


 だが、今は考えている余裕がない。


 「ありがとう、志摩さん。——これ以上は巻き込めない。しばらく連絡を控える」


 「蓮くん」


 「何だ」


 「死なないでね」


 軽い口調だった。だが、声が少しだけ震えていた。


 「死なないよ」


 電話を切った。


    *


 午後十時。


 雫の熱は四十度に達していた。意識は朦朧としているが、俺が名前を呼べば反応する。ぎりぎりのライン。


 「始めるぞ」


 事務所の真ん中にソファを移動させた。雫を仰向けに寝かせる。呪痕は体の六割を覆っている。黒い紋様がうねり、脈動し、まるで雫の体を内側から突き破ろうとしているように蠢いている。


 残りの鎮痛剤四錠を一気に飲んだ。


 最後のノートを確認する。


 外殻は七層。それぞれの層を喰い破って核に到達する。核を喰えば術式は崩壊する。時間にして——推定十五分。それまで意識を保てるかが勝負だ。


 深呼吸。一度。二度。三度。


 両手を雫の首筋——呪痕の最も濃い部分に当てた。


 「白峰。聞こえるか」


 「……聞こえます」


 「今から、お前の呪いを喰う。痛みがあるかもしれない。だが、絶対に終わらせる」


 「……信じてます」


 その言葉が、胸の奥に刺さった。


 喰い始めた。


    *


 第一層。


 呪いが指先から流れ込んできた。


 ——不味い。


 今までの比じゃない。C級の呪いが腐った魚なら、これは溶鉱炉だ。全身の血管が沸騰するような熱さ。皮膚の内側を無数の虫が這い回るような不快感。視界が一瞬、白く飛んだ。


 歯を食いしばる。止まるな。


 第一層を喰い破った。呪痕の外側の輪郭が薄くなる。


 第二層。さらに深く。


 呪いの密度が上がる。喉の奥に酸っぱい液体がこみ上げてくる。胃が痙攣している。全身の呪痕が一斉に疼き、左胸の——心臓の近くが特に痛い。


 視界の端で、雫が顔を歪めているのが見えた。彼女にも痛みが伝わっているのか。


 「灰原さん——」


 「喋るな。力を抜いて、任せろ」


 第二層突破。第三層に入る。


 ここから急激に重くなった。呪いの「味」が変わる。苦味と酸味と、そして——悲しみの味。


 この呪いをかけた人間——御堂の感情が、術式に染みついている。命令に従いながらも、少女を殺すことへの何かが。あるいはそれは、俺の幻覚かもしれない。


 第三層。第四層。第五層。


 時間の感覚がなくなっていく。体の痛みが一定のレベルを超えて、逆に鈍くなった。いいことじゃない。感覚が麻痺し始めている。


 口から血が垂れた。赤い雫がノートの上に落ちて、紋様のスケッチを汚した。


 第六層。核が近い。


 だが——体が限界を叫んでいた。左腕の呪痕が弾けるように膨張し、皮膚の下で何かが蠢いている。蓄積してきた呪いが、新しいS級の呪いに反応して暴れ始めている。


 暴走の兆候。


 これ以上喰えば、体に溜まった呪いが制御を離れる。そうなれば俺だけじゃなく、雫も巻き添えだ。


 止まるか?


 止まれば雫は死ぬ。


 進めば俺が壊れるかもしれない。


 選択肢なんて、最初からなかった。


 第七層——最後の外殻を喰い破る。


 核が見えた。


 黒い光の球。術式の心臓。ここに全てのエネルギーが集約されている。触れた瞬間に分かった。この呪いの本質は「死の命令」だ。対象の生命活動を強制的に停止させるための、一方的な命令。


 こんなものに、十七歳の少女が殺されてたまるか。


 核に噛みついた。


 比喩じゃない。文字通り、両手で掴んで、全身の力で呪力を引きずり込んだ。


 世界が反転した。


 視界が黒く塗りつぶされ、音が消え、体の感覚が遠くなる。口の中に広がるのは呪いの味じゃなく、自分の血の味だった。


 遠くで声が聞こえた。


 「灰原さん——灰原さん!」


 雫の声。


 意識を引きずり戻す。核を喰い切れ。あと少し。あと一口。


 ——喰った。


 核が砕けた。


 雫の体を覆っていた呪痕が、一斉に煙のように散った。黒い紋様が空気に溶け、消えていく。雫の首筋が、肩が、胸元が——元の白い肌に戻っていく。


 成功した。


 それを確認した瞬間、体の糸が切れた。


 膝が折れ、床に崩れ落ちる。視界が暗転する。雫が何か叫んでいる。


 でも、もう聞こえない。


 最後に見えたのは、呪痕が消えた雫の首筋だった。


 ——ああ、良かった。


 意識が、落ちた。


    *


 目を開けた。


 天井が見える。見慣れた天井。事務所のひび割れたコンクリート。


 体が重い。全身が鉛になったみたいだ。指を動かすのにも力がいる。だが——痛みは、ある。痛みがあるということは、まだ生きているということだ。


 「——灰原さん」


 声が降ってきた。


 顔を横に向けると、雫がいた。ソファの横の床に座り込んで、俺の顔を覗き込んでいる。


 目が赤い。泣いていたのだ。


 「何時間寝てた」


 「十六時間です。——もう七日目の夕方です」


 「そんなに。……体は」


 「呪いは消えました。全部。熱もないし、頭痛もない。呪痕も——見てください」


 雫が首筋を見せた。白い肌。紋様は一つもない。完全に消えている。


 「……成功、したんだな」


 「はい。灰原さんが、助けてくれました」


 声が震えている。


 「意識が戻らなかったらどうしようって——十六時間ずっと——」


 ぽたり、と。雫の涙が俺の頬に落ちた。


 「泣くなよ」


 「泣いてません」


 泣いてるだろ。


 「割に合わないだろ、泣いたって」


 雫が鼻をすすった。


 「割に合います。全然合います。——ありがとうございます、灰原さん」


 俺は天井を見た。


 体は最悪だ。S級の呪いを喰った代償で、全身の呪痕が今まで以上に疼いている。左腕の紋様は数が倍に増え、手首から指先まで隙間なく埋まっていた。


 だが——生きている。


 雫も生きている。


 「……まあ、今回はな」


 「え?」


 「今回は、間に合った」


 三年前は間に合わなかった。仲間を救えなかった。喰えたのは、死んだ後の呪いだけだった。


 今度は——生きている人間を、救えた。


 それだけで充分だ。


 「白峰」


 「はい」


 「腹、減ったな」


 雫が目を瞬かせて、それから泣き笑いの顔になった。


 「コンビニ行ってきます。肉まんでいいですか」


 「ああ。あと缶コーヒー。微糖」


 雫が立ち上がり、上着を羽織って出ていった。ドアが閉まる。


 静かな事務所に一人。


 体は動かない。鎮痛剤は切れている。全身の呪痕が脈打っている。


 だけど——悪くない。


 悪くない気分だ。


    *


 雫が肉まんと缶コーヒーを持って戻ってきた三十分後。


 スマホに志摩さんからメッセージが入った。


 『解呪成功おめでとう。——でも気をつけて。影宮上席監査官が、蓮くんのファイルを閲覧した記録がある。あなたに興味を持ったみたい』


 影宮総一郎。


 三年前の新宿汚染事件の報告書を書いた男。御堂に雫の呪殺を命じた男。


 そいつが、俺に目をつけた。


 スマホをポケットに戻す。


 雫が差し出した肉まんを受け取り、一口かじった。温かい。呪いの味よりずっといい。


 「灰原さん。私——」


 「何だ」


 「しばらく、ここに通ってもいいですか。恩返しがしたいんです。掃除とか、お茶入れとか——」


 「お前、学校は」


 「呪いが解けたんで、来週から復帰します。放課後と休日だけ」


 面倒くさい。厄介事の種だ。断るべきだ。


 「……好きにしろ」


 雫が少しだけ笑った。この一週間で初めて見る、年相応の笑顔だった。


 窓の外では、歌舞伎町のネオンがいつも通りに瞬いている。


 七日間の戦いが終わった。


 だが——物語は、まだ始まったばかりだ。


    *


 千代田区。管理局本部、第九課執務室。


 影宮総一郎は、デスクの端末に表示された報告書を読み終え、銀縁眼鏡の位置を直した。


 「灰原蓮。Eランク。能力——呪喰い」


 穏やかな声で呟き、口元に笑みを浮かべた。


 「S級呪殺術式を単独で解呪。いや——単独で喰い切った。面白い」


 報告書を閉じ、別のファイルを開く。


 ファイル名:【白峰家系譜調査】


 「白峰の末裔と、呪喰いの青年か。これは——予定より面白いことになりそうだ」


 微笑を浮かべたまま、影宮は次の駒を動かし始めた。

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