第5話 呪い師の影
五日目の朝。
事務所に戻った俺を見た雫が、顔色を変えた。
「灰原さん、血——服に血がついてます」
「大した傷じゃない」
嘘だ。全身が軋む。御堂の呪力を直接喰った反動が、じわじわと体を蝕んでいる。左腕の呪痕が腫れ上がり、触ると熱い。
だが、雫の方がよほど深刻だった。
首筋の呪痕は左肩を越え、鎖骨の下まで広がっていた。顔色は土気色で、額にうっすらと汗が浮いている。目の焦点が時折ぼやける。五日目の症状——幻覚と高熱の始まり。
「灰原さん。犯人には会えたんですか」
ソファに座ったまま、雫がまっすぐこちらを見る。体は弱っているのに、目だけは死んでいない。
「会えた。管理局の第一課、A級呪術師の御堂司。——お前の呪いをかけたのは確かにこの男だ」
「解いてくれるんですか」
「解く気はないと言われた。命令だからだ、と」
「命令……」
「御堂の独断じゃない。管理局の上の誰かが、お前を殺すよう命じている」
雫が目を伏せた。長い沈黙。
「なんで、私なんかを……」
「お前の血筋だ。白峰という家系には、呪術に深い関わりがある。お前の母親が持っていた石がその証拠だ。管理局がお前を排除しようとしているのは、白峰の血に何かの価値——あるいは脅威があるからだ」
「でも、私には何の力もありません」
「今はな。だが——お前、呪いをかけられてから嫌な気配を感じるようになったと言っていただろう。あれは呪的な感覚の萌芽だ。お前の中に眠っている何かが、呪いの刺激で目覚めかけている」
雫が自分の手を見つめた。普通の手。何の変哲もない高校生の手。
「私の中に、何かが眠ってる……」
「推測だ。確証はない。だが、管理局がわざわざS級を使う理由としては筋が通る」
「それで——どうするんですか」
「方法は二つ。一つは御堂を倒して強制的に術式を解除させること。だが、A級にEランクがまともに勝てる見込みはほとんどない」
「もう一つは」
「お前の体から直接、S級の呪いを喰う」
雫の目が見開かれた。
「それは——昨日言ってた、灰原さんが死ぬかもしれないっていう——」
「可能性の話だ。確率の話をしたら、今まで喰ったどの呪いだって死ぬ可能性はあった」
「でも、S級ですよ。今まで喰ったことないんでしょう」
「ない」
「じゃあ——」
「ないけど、やる」
言い切った。
雫が何か言おうとした。俺はそれを手で制した。
「六日目の夜——明日の夜にやる。お前の体力が残っているうちに。七日目に入ったら手遅れだ」
「灰原さんが死んだら——」
「死なない」
根拠のない断言。だが、迷いを見せるわけにはいかない。
雫は何秒も俺の目を見つめて、それから目を逸らした。
「……分かりました」
小さな声だった。
*
準備がいる。
S級の呪いを喰うなんて前代未聞だ。ぶっつけ本番ではさすがに無謀すぎる。
まず、体のコンディション。鎮痛剤の量を調整し、呪痕の状態を確認する。今の体に蓄積している呪いの総量。これまで喰ったものの残滓が全身に沈殿している。新たにS級を受け入れる「余地」があるか。
正直、分からない。体は限界に近い。鎮痛剤なしでは立っていられない日もある。あとどれだけ喰えるかなんて、誰にも計算できない。
「志摩さん」
もう一度、電話をかけた。
「また? 今度は何」
「S級呪殺術式の解体手順について、管理局に過去の解呪記録はあるか」
「あるけど、閲覧制限がかかってる。B級以上の認可がないと——」
「見れるようにしてくれ」
「無茶言わないで。——いいけど、なんで?」
「明日、S級を喰う」
長い沈黙。
「……蓮くん」
志摩さんの声から、いつもの間延びした調子が消えていた。
「本気で言ってるの」
「本気だよ」
「死ぬかもしれないのに」
「死なないさ」
「根拠は」
「ない」
また沈黙。そして溜息。今までで一番深い溜息だった。
「……三十分だけ時間をちょうだい」
電話が切れた。
三十分後、メールが届いた。添付ファイル付き。管理局内部のデータベースから抽出された、S級呪殺術式の解体記録。過去三件分。
志摩さんがどうやってこれを持ち出したのか、聞かない方がいいだろう。
記録を読み込む。三件とも、S級複数名のチームで解呪にあたっている。単独での解呪記録はゼロ。そして三件のうち一件は失敗——術者側に死者が出ている。
成功した二件の共通点。術式の「核」——術式全体を支えている中心部分を特定し、そこを一点集中で破壊する。核を壊せば術式全体が崩壊し、呪いは霧散する。
俺の場合、「破壊」ではなく「喰う」。核を特定して、そこだけを集中的に喰えばいい。全体を丸ごと喰う必要はない。
——理論上は。
だが、核の特定には術式の構造を完全に把握する必要がある。それには時間がかかる。解呪チームは何日もかけて分析してから施術に臨んでいる。
俺に残された時間は、一日。
ノートを広げた。廃神社で見た紋様を書き起こす。術式の構造を一つずつ解読していく。
「灰原さん」
背後から声がした。振り返ると、雫が立っていた。
「何か手伝えることはありませんか」
「ない。寝てろ」
「寝てたんです、ずっと。でも——じっとしてると怖くなるので」
雫がデスクの隣の椅子に座った。
「何をしてるんですか」
「術式の解読。お前の呪いの設計図を読み解いてる。どこに弱点があるかを探してる」
「見ててもいいですか」
「好きにしろ」
雫は黙って、俺がノートに紋様を書き写す作業を見ていた。時折、質問してくる。この記号は何ですか。この線は何を意味するんですか。説明してやると、真剣な顔でメモを取った。
「灰原さん」
「何だ」
「呪いって、嫌なものだと思ってました。怖いだけのものだって。でも——こうして見ると、複雑で、精密で、ちょっとだけ綺麗にも見えます」
手が止まった。
雫が慌てた。
「あ、私の呪いが綺麗って意味じゃなくて——」
「いや。分かるよ」
そう思ったことは、俺にもある。呪いの紋様を見つめ続けてきた三年間。恐ろしいものだ。人を殺すものだ。だが、その構造の中に、ある種の美しさがあることを否定はできない。
それは人間の感情の結晶だからかもしれない。どれほど醜い感情であっても、それが極限まで凝縮され、形を得たとき、不思議な美しさを帯びる。
「お前、呪術師に向いてるかもな」
「え?」
「冗談だよ。——少し休め。明日が本番だ」
雫が頷いて、ソファに戻った。毛布をかぶって目を閉じる。
しばらくして、規則的な寝息が聞こえてきた。
*
午前三時。
ノートのページが埋まっていく。術式の全体像が少しずつ見えてきた。
核は一つ。術式の中心に、全てのエネルギーが集約するポイントがある。そこさえ喰えば——。
だが、核に到達するまでの道のりが問題だ。術式は何重にも防壁で守られている。外殻から順に喰い進まなければ核に辿り着けない。その過程で体にかかる負担は——計算したくない。
鎮痛剤のシートを見る。残り十二錠。足りるか? 足りないだろうな。
ペンを置いて、眠る雫を見た。
首筋の呪痕が、暗闇の中でかすかに脈動している。あと二日。いや、実質的にはあと一日。明日の夜を過ぎたら、もう間に合わない。
三年前を思い出す。
あの日、俺は間に合わなかった。仲間が一人ずつ倒れていくのを止められなかった。できたのは、死んだ仲間たちにかかった呪いを喰うことだけだった。生きている人間を救う力が、俺にはなかった。
今度は——間に合わせる。
「……死ぬなよ、白峰」
聞こえない声で呟いた。
ノートに向き直る。ペンを持つ手が、少し震えていた。




