表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
30/30

第30話 呪いのない朝

 一ヶ月が経った。


 東京は元に戻った——おおむね。


 影宮の東京呪蝕で刻まれた呪痕は、管理局の総力を挙げた除去作業で大半が消去された。一般市民の体調不良も回復し、街には日常が戻っている。


 もちろん、呪いそのものがなくなったわけじゃない。


 人が生きている限り、恨みは生まれる。恨みが生まれる限り、呪いは生まれる。


 影宮が夢見た「呪いのない世界」は——まだ遠い。もしかしたら、永遠に来ないかもしれない。


 だが——少しずつ、変わり始めてはいる。


 管理局はD級以下の呪術事案にも対応する窓口を設置した。今まで「対象外」として切り捨てられていた低級の呪い。五歳の子供を殺すような、取るに足らない呪い。そういうものにも、手が届くようになった。


 影宮が間違った方法で目指した世界に、正しい方法で一歩近づいた。


 それで充分だと思う。


    *


 朝。六時半。


 歌舞伎町の雑居ビル三階。六畳の事務所。


 目覚ましの音で目を覚ました。


 痛くない。


 一ヶ月経っても、この感覚には慣れない。目を覚ますたびに、体のどこにも痛みがないことに驚く。三年間の習慣で枕元に手を伸ばしてしまうが——鎮痛剤はもう、そこにはない。


 代わりにあるのは、缶コーヒーの空き缶と、雫が置いていった文庫本。


 布団から這い出して、顔を洗った。鏡に映る顔。呪痕はない。隈はあるが——これは単なる寝不足だ。昨日の依頼が長引いた。


 冷蔵庫を開けた。缶コーヒー(微糖)。プルタブを開けて、一口。


 美味い。


 毎朝こう思う。痛みなしで飲むコーヒーは——こんなに美味い。


 事務所の窓を開けた。歌舞伎町の朝の空気が流れ込む。排気ガスと食べ物の匂い。いつもの歌舞伎町。


 デスクに座った。


 机の上には依頼書が三枚。カナタが持ち込んだ管理局経由の案件が一つ、マリから流れてきた裏ルートの案件が一つ、直接の飛び込みが一つ。


 認可を回復してから——依頼が増えた。


 東京呪蝕の後始末もあるし、影宮の逮捕で管理局の体制が変わったこともある。今まで管理局が対応しなかったD級、E級の呪いの除去依頼が、俺のところに回ってくるようになった。


 E級の呪い除去業者に、E級の呪い。適材適所だ。


 ただし——今の俺は、以前とは少し違う。


 呪痕は消えた。三年分の蓄積はゼロになった。だが、喰呪の能力は残っている。


 喰える量は大幅に減った。以前はS級の呪いすら喰い切れたが、今はB級が限界だろう。体内に蓄積できるキャパシティが格段に下がっている。


 つまり——前より弱くなった。


 E級がさらに弱くなった。


 だが——隣には雫がいる。俺が喰って、雫が浄化する。蓄積がゼロの状態を維持しながら、呪いを処理し続ける。


 一つずつ。少しずつ。


 効率は悪い。世界を変えるには気の遠くなるほど遅い方法だ。


 だが——誰も死なない。


 それでいい。


    *


 九時。事務所のドアが開いた。


 「おはようございます」


 雫だった。学校の制服のまま。鞄を肩にかけている。


 「今日、土曜だろ。学校は」


 「午前授業です。午後から来ようと思ったんですけど——朝、寄りたくて」


 雫が鞄からコンビニの袋を出した。中身は肉まん二つと缶コーヒー。


 「差し入れです」


 「助手に差し入れされる経営者ってどうなんだ」


 「経営が成り立っていないからです」


 「……返す言葉がない」


 肉まんを受け取った。温かい。


 雫が向かいの椅子に座った。一ヶ月前に買い足した折りたたみ椅子。雫専用の席。


 「灰原さん。今日の依頼は」


 「三件。午前中にD級が一つ。午後にC級が一つ。夕方にまたD級」


 「全部低級ですね」


 「低級が本業だからな」


 雫が微笑んだ。


 「行きましょう」


 「お前は学校だろ。午後から来い」


 「午前の一件だけ、一緒に行きます。——学校は間に合います」


 「遅刻したら知らないぞ」


 「しません。灰原さんのD級処理、早いですから」


 立ち上がった。


 鎮痛剤の瓶をポケットに——入れない。もう要らない。


 缶コーヒーを飲み干して、事務所を出た。


 雫が隣を歩く。歌舞伎町の朝の通りを、二人で。


    *


 午前の依頼は、中野のアパートだった。


 依頼人は三十代の女性。離婚した元夫から恨みの呪いをかけられ、一週間ほど体調が悪いという。


 典型的なD級案件。以前の管理局なら「対象外」で切り捨てられていた類の依頼だ。


 アパートの一室。依頼人の左肩に、小さな呪痕があった。黒い染みのような紋様。D級。


 「喰います。少し冷たく感じるかもしれませんが、すぐ終わります」


 依頼人の肩に手を当てた。


 呪いの味が——舌の奥に広がる。


 苦い。恨みの味。だが薄い。D級。


 三秒で喰い終えた。


 依頼人の肩から呪痕が消えた。


 「終わりました」


 「え——もう?」


 依頼人が目を丸くした。


 「D級ですから。——しばらくは体が冷えるかもしれません。温かいものを飲んで、今日は早めに休んでください」


 「あの——ありがとうございます。管理局に相談したら対応できないと言われて、途方に暮れていたんです」


 「今は管理局にもD級対応の窓口がありますよ。次に何かあったら、そちらに相談してください」


 依頼人が深々と頭を下げた。


 アパートを出た。


 雫が待っていた。


 「終わりました?」


 「ああ。D級、三秒」


 「すごいですね。相変わらず」


 「D級なんて、コーヒー飲むより簡単だよ」


 体内に取り込んだD級の呪力。微量だ。


 雫が俺の手に触れた。白い光が微かに灯る。取り込んだ呪力が浄化され、消えた。


 蓄積ゼロ。


 「これで残留なしです」


 「ありがとう」


 「どういたしまして。——じゃあ私、学校に行きます」


 「ああ。午後また来い。C級だから、浄化も頼む」


 「はい。——灰原さん」


 「何だ」


 雫が少し照れたように目を逸らした。


 「その——昼ごはん、一緒に食べませんか。学校が終わってから。事務所で」


 「……いつも食べてるだろ」


 「そうですけど。——改めて、誘いたくて」


 「……ああ。いいよ」


 雫が嬉しそうに笑って、駆けていった。制服の背中が朝の光に照らされている。


 一人になった。


 中野の住宅街。平凡な朝の風景。


 スマホが鳴った。


 カナタだった。


 「灰原。午後のC級案件だが、場所が変わった。新宿三丁目のビルの地下。——俺も現場に行く」


 「了解。雫も午後から合流する」


 「分かった。——あと、志摩さんから伝言。『報告書を出してください。先月分が三件たまっています』だそうだ」


 「……聞かなかったことにしていいか」


 「俺は伝えた。以上だ」


 電話が切れた。


 歩き出した。


 歌舞伎町に戻る道すがら、ポケットのスマホがまた震えた。今度はマリだ。


 メッセージが一件。


 『面白い話がある。——情報料は缶コーヒー十本。安くしといたわ』


 笑った。


 相変わらずだ。全員。


 事務所に戻った。六畳一間の、ボロい事務所。


 デスクに座った。缶コーヒーを開けた。


 窓の外を見た。歌舞伎町のネオンは朝日の中では色褪せて見えるが——この景色が好きだ。


 三年前、一人きりでこの事務所を開いた。


 仲間を失い、体中に呪痕を抱え、痛みと罪悪感を鎮痛剤で流し込みながら。


 今は——隣に雫がいる。カナタが依頼を持ち込んでくる。志摩さんが報告書を催促する。マリが情報を売りに来る。


 騒がしくなった。


 悪くない。


 缶コーヒーを飲んでいると——事務所の扉がノックされた。


 飛び込みの客だ。


 「どうぞ」


 扉が開いた。二十代くらいの男が立っていた。不安そうな顔。左手で右腕を押さえている。袖の下に——黒い紋様が覗いている。


 呪痕だ。


 「あの——ここ、呪い除去の……」


 「はい。呪い除去業、灰原です」


 立ち上がった。


 男の目に——安堵が浮かんだ。ここに来るまで、どれだけ不安だっただろう。誰に相談すればいいか分からず、管理局にも頼れず、一人で苦しんでいたのだろう。


 三年前の俺と同じだ。


 いや——影宮の娘と、同じだ。


 「座ってください。見せてもらいますね」


 男が椅子に座り、袖をまくった。右腕に小さな呪痕。D級。


 「大したことないですよ。すぐ終わります」


 男の腕に手を当てた。


 呪いの味が広がる。苦い。でも——薄い。


 喰った。


 呪痕が消えた。


 「終わりました」


 「え——これだけ?」


 「D級ですから。——今日一日は安静にしてくださいね」


 男が何度も頭を下げて、事務所を出て行った。


 一人になった。


 体内のD級呪力——微量。午後、雫が来たら浄化してもらおう。


 缶コーヒーの残りを飲み干した。


 窓の外。東京の空。


 青い。


 呪いは——なくならない。人が人である限り。


 だから俺は、呪いを喰い続ける。一つずつ。


 最弱の呪術師は——今日も誰かの呪いを喰う。


         * * *


 (第一部 了)

ここまで読んでいただきありがとうございます。

評価・感想などいただけると作者が喜びます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ