第30話 呪いのない朝
一ヶ月が経った。
東京は元に戻った——おおむね。
影宮の東京呪蝕で刻まれた呪痕は、管理局の総力を挙げた除去作業で大半が消去された。一般市民の体調不良も回復し、街には日常が戻っている。
もちろん、呪いそのものがなくなったわけじゃない。
人が生きている限り、恨みは生まれる。恨みが生まれる限り、呪いは生まれる。
影宮が夢見た「呪いのない世界」は——まだ遠い。もしかしたら、永遠に来ないかもしれない。
だが——少しずつ、変わり始めてはいる。
管理局はD級以下の呪術事案にも対応する窓口を設置した。今まで「対象外」として切り捨てられていた低級の呪い。五歳の子供を殺すような、取るに足らない呪い。そういうものにも、手が届くようになった。
影宮が間違った方法で目指した世界に、正しい方法で一歩近づいた。
それで充分だと思う。
*
朝。六時半。
歌舞伎町の雑居ビル三階。六畳の事務所。
目覚ましの音で目を覚ました。
痛くない。
一ヶ月経っても、この感覚には慣れない。目を覚ますたびに、体のどこにも痛みがないことに驚く。三年間の習慣で枕元に手を伸ばしてしまうが——鎮痛剤はもう、そこにはない。
代わりにあるのは、缶コーヒーの空き缶と、雫が置いていった文庫本。
布団から這い出して、顔を洗った。鏡に映る顔。呪痕はない。隈はあるが——これは単なる寝不足だ。昨日の依頼が長引いた。
冷蔵庫を開けた。缶コーヒー(微糖)。プルタブを開けて、一口。
美味い。
毎朝こう思う。痛みなしで飲むコーヒーは——こんなに美味い。
事務所の窓を開けた。歌舞伎町の朝の空気が流れ込む。排気ガスと食べ物の匂い。いつもの歌舞伎町。
デスクに座った。
机の上には依頼書が三枚。カナタが持ち込んだ管理局経由の案件が一つ、マリから流れてきた裏ルートの案件が一つ、直接の飛び込みが一つ。
認可を回復してから——依頼が増えた。
東京呪蝕の後始末もあるし、影宮の逮捕で管理局の体制が変わったこともある。今まで管理局が対応しなかったD級、E級の呪いの除去依頼が、俺のところに回ってくるようになった。
E級の呪い除去業者に、E級の呪い。適材適所だ。
ただし——今の俺は、以前とは少し違う。
呪痕は消えた。三年分の蓄積はゼロになった。だが、喰呪の能力は残っている。
喰える量は大幅に減った。以前はS級の呪いすら喰い切れたが、今はB級が限界だろう。体内に蓄積できるキャパシティが格段に下がっている。
つまり——前より弱くなった。
E級がさらに弱くなった。
だが——隣には雫がいる。俺が喰って、雫が浄化する。蓄積がゼロの状態を維持しながら、呪いを処理し続ける。
一つずつ。少しずつ。
効率は悪い。世界を変えるには気の遠くなるほど遅い方法だ。
だが——誰も死なない。
それでいい。
*
九時。事務所のドアが開いた。
「おはようございます」
雫だった。学校の制服のまま。鞄を肩にかけている。
「今日、土曜だろ。学校は」
「午前授業です。午後から来ようと思ったんですけど——朝、寄りたくて」
雫が鞄からコンビニの袋を出した。中身は肉まん二つと缶コーヒー。
「差し入れです」
「助手に差し入れされる経営者ってどうなんだ」
「経営が成り立っていないからです」
「……返す言葉がない」
肉まんを受け取った。温かい。
雫が向かいの椅子に座った。一ヶ月前に買い足した折りたたみ椅子。雫専用の席。
「灰原さん。今日の依頼は」
「三件。午前中にD級が一つ。午後にC級が一つ。夕方にまたD級」
「全部低級ですね」
「低級が本業だからな」
雫が微笑んだ。
「行きましょう」
「お前は学校だろ。午後から来い」
「午前の一件だけ、一緒に行きます。——学校は間に合います」
「遅刻したら知らないぞ」
「しません。灰原さんのD級処理、早いですから」
立ち上がった。
鎮痛剤の瓶をポケットに——入れない。もう要らない。
缶コーヒーを飲み干して、事務所を出た。
雫が隣を歩く。歌舞伎町の朝の通りを、二人で。
*
午前の依頼は、中野のアパートだった。
依頼人は三十代の女性。離婚した元夫から恨みの呪いをかけられ、一週間ほど体調が悪いという。
典型的なD級案件。以前の管理局なら「対象外」で切り捨てられていた類の依頼だ。
アパートの一室。依頼人の左肩に、小さな呪痕があった。黒い染みのような紋様。D級。
「喰います。少し冷たく感じるかもしれませんが、すぐ終わります」
依頼人の肩に手を当てた。
呪いの味が——舌の奥に広がる。
苦い。恨みの味。だが薄い。D級。
三秒で喰い終えた。
依頼人の肩から呪痕が消えた。
「終わりました」
「え——もう?」
依頼人が目を丸くした。
「D級ですから。——しばらくは体が冷えるかもしれません。温かいものを飲んで、今日は早めに休んでください」
「あの——ありがとうございます。管理局に相談したら対応できないと言われて、途方に暮れていたんです」
「今は管理局にもD級対応の窓口がありますよ。次に何かあったら、そちらに相談してください」
依頼人が深々と頭を下げた。
アパートを出た。
雫が待っていた。
「終わりました?」
「ああ。D級、三秒」
「すごいですね。相変わらず」
「D級なんて、コーヒー飲むより簡単だよ」
体内に取り込んだD級の呪力。微量だ。
雫が俺の手に触れた。白い光が微かに灯る。取り込んだ呪力が浄化され、消えた。
蓄積ゼロ。
「これで残留なしです」
「ありがとう」
「どういたしまして。——じゃあ私、学校に行きます」
「ああ。午後また来い。C級だから、浄化も頼む」
「はい。——灰原さん」
「何だ」
雫が少し照れたように目を逸らした。
「その——昼ごはん、一緒に食べませんか。学校が終わってから。事務所で」
「……いつも食べてるだろ」
「そうですけど。——改めて、誘いたくて」
「……ああ。いいよ」
雫が嬉しそうに笑って、駆けていった。制服の背中が朝の光に照らされている。
一人になった。
中野の住宅街。平凡な朝の風景。
スマホが鳴った。
カナタだった。
「灰原。午後のC級案件だが、場所が変わった。新宿三丁目のビルの地下。——俺も現場に行く」
「了解。雫も午後から合流する」
「分かった。——あと、志摩さんから伝言。『報告書を出してください。先月分が三件たまっています』だそうだ」
「……聞かなかったことにしていいか」
「俺は伝えた。以上だ」
電話が切れた。
歩き出した。
歌舞伎町に戻る道すがら、ポケットのスマホがまた震えた。今度はマリだ。
メッセージが一件。
『面白い話がある。——情報料は缶コーヒー十本。安くしといたわ』
笑った。
相変わらずだ。全員。
事務所に戻った。六畳一間の、ボロい事務所。
デスクに座った。缶コーヒーを開けた。
窓の外を見た。歌舞伎町のネオンは朝日の中では色褪せて見えるが——この景色が好きだ。
三年前、一人きりでこの事務所を開いた。
仲間を失い、体中に呪痕を抱え、痛みと罪悪感を鎮痛剤で流し込みながら。
今は——隣に雫がいる。カナタが依頼を持ち込んでくる。志摩さんが報告書を催促する。マリが情報を売りに来る。
騒がしくなった。
悪くない。
缶コーヒーを飲んでいると——事務所の扉がノックされた。
飛び込みの客だ。
「どうぞ」
扉が開いた。二十代くらいの男が立っていた。不安そうな顔。左手で右腕を押さえている。袖の下に——黒い紋様が覗いている。
呪痕だ。
「あの——ここ、呪い除去の……」
「はい。呪い除去業、灰原です」
立ち上がった。
男の目に——安堵が浮かんだ。ここに来るまで、どれだけ不安だっただろう。誰に相談すればいいか分からず、管理局にも頼れず、一人で苦しんでいたのだろう。
三年前の俺と同じだ。
いや——影宮の娘と、同じだ。
「座ってください。見せてもらいますね」
男が椅子に座り、袖をまくった。右腕に小さな呪痕。D級。
「大したことないですよ。すぐ終わります」
男の腕に手を当てた。
呪いの味が広がる。苦い。でも——薄い。
喰った。
呪痕が消えた。
「終わりました」
「え——これだけ?」
「D級ですから。——今日一日は安静にしてくださいね」
男が何度も頭を下げて、事務所を出て行った。
一人になった。
体内のD級呪力——微量。午後、雫が来たら浄化してもらおう。
缶コーヒーの残りを飲み干した。
窓の外。東京の空。
青い。
呪いは——なくならない。人が人である限り。
だから俺は、呪いを喰い続ける。一つずつ。
最弱の呪術師は——今日も誰かの呪いを喰う。
* * *
(第一部 了)
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