第3話 呪いの根を辿れ
夜の東京は、二つの顔を持っている。
表の顔は誰でも知っている。ネオンと雑踏。居酒屋から漏れる笑い声。コンビニの蛍光灯。終電に駆け込むサラリーマン。
裏の顔を知っているのは、俺たちのような人間だけだ。
「灰原さん。あの角に何かいるって、さっきから二回目ですけど」
雫が小声で言った。歌舞伎町の大通りから一本裏に入った路地。居酒屋の換気扇が唸りを上げ、生ぬるい風が流れている。
「見えないか」
「見えません」
「路地の奥、ゴミ袋の山の上に黒い靄がわだかまってる。低級の呪霊だ。人間に害を与えるほどの力はないが、負の感情が溜まりやすい場所に自然発生する」
雫が目を凝らしたが、首を横に振った。見えないものは見えない。呪術の素質がなければ、呪いも呪霊も認識できない。
「普通はそれでいい。見えない方が幸せだ」
歩きながら、雫の首筋に目をやる。呪痕はゆっくりと、しかし確実に広がっている。耳の下から鎖骨にかけて、黒い蔦のような紋様。夜の闇の中で、それは昼間よりもはっきりと浮かび上がっていた。
そして——呪痕の中に、一本の糸が見えた。
髪の毛より細い、黒い糸。雫の首筋から伸び、夜の空気の中を漂って、どこかへと繋がっている。
呪糸。呪いと術者を結ぶ、目に見えない繋がり。
「見つけた」
「え?」
「お前の呪痕から糸が出てる。術者に繋がってる糸だ。これを辿る」
呪糸は北西の方角に伸びていた。細く、頼りない。だが確かにそこにある。
俺たちは糸を追って歩き始めた。
*
歌舞伎町を抜け、大久保を過ぎ、中野へ向かう。
電車は使わない。呪糸は直線的に伸びているわけじゃなく、街の呪的な地形——呪脈と呼ばれるものに沿って蛇行する。地下鉄に乗ったら見失う。
夜の街を歩きながら、雫が聞いてきた。
「呪術師って、全員こういうものが見えるんですか」
「程度の差はあるが、基本的にはな。呪いを感知する力は先天的なものだ。生まれ持った素質がなければ、どれだけ訓練しても見えない」
「灰原さんはいつから?」
「物心ついた頃にはもう見えてた。ガキの頃は意味が分からなくて、親に言っても信じてもらえなくて——まあ、よくある話だ」
雫が少し黙って、それから言った。
「私にはまだ見えません。でも——感じることはあります」
「感じる?」
「この呪いをかけられてから。時々、空気が重くなる場所があって。理由は分からないんですけど、嫌な感じがするというか……」
足が止まった。
「それ、いつから?」
「呪いをかけられた日からです。おととい」
呪いをかけられたことで、呪的な感覚が少し開いた——?
普通はあり得ない。S級の呪殺術式は対象を殺すために設計されている。感覚を開く副作用なんて聞いたことがない。
だが——もし雫に何らかの素質があるなら、呪いが刺激になって覚醒しかけている可能性は、ゼロじゃない。
「今、嫌な感じはあるか」
雫が周囲を見回し、ゆっくりと首を振った。
「ここは大丈夫です」
「分かった。もしそれを感じたら、すぐに教えろ」
歩みを再開する。呪糸は中野を過ぎ、さらに北西へ。
*
練馬区に入った頃、空気が変わった。
住宅街の中を歩いていたはずが、いつの間にか人通りが途絶えていた。街灯の明かりが妙に頼りない。風が止まり、空気が澱んでいる。
雫が俺の袖を掴んだ。
「灰原さん——嫌な感じがします」
やはりか。
俺の目にも見えている。空気中に漂う黒い粒子。呪いの濃度が急激に上がっている。この先に、何かある。
俺は雫の手を握り、身体を寄せる。
「離れるな。俺の近くにいろ」
呪糸は路地の奥、古い石段の先に伸びていた。石段を上がると、鬱蒼とした木々に囲まれた空き地が広がっている。
その奥に——鳥居があった。
朱色が剥げ落ち、灰色になった鳥居。その先に、半壊した社殿が見える。廃神社だ。
「ここに、呪いの元がある」
「あの神社の中に?」
「ああ。呪糸がここに——」
言い終わる前に、空気が裂けた。
横から何かが飛んできた。黒い塊。反射的に雫の腕を引いて後ろに跳ぶ。塊は俺たちがいた場所の地面を抉り、砂利を撒き散らした。
「何——」
「呪霊だ。しかも、でかい」
鳥居の陰から、それは這い出してきた。
犬の形をしていた。いや、犬だったものと言うべきか。体長二メートルはある黒い獣。体表に紋様が蠢き、口の中から黒い煙が漏れている。目はない。代わりに頭部全体に呪痕が刻まれ、脈打っている。
番犬——いや、番呪霊か。誰かがこの場所を守らせるために配置したものだ。
「白峰、下がれ」
雫を石段の下まで押しやる。呪霊の「顔」がゆっくりとこちらに向いた。見えない目で、こちらを見ている。
そして——跳んできた。
速い。
身を沈めて避ける。黒い体が頭上を通過し、着地した衝撃で地面が揺れた。振り返りざまに爪を振るう。風圧だけで頬が裂けた。
C級——いや、B級か。かなり強い。
普通の呪術師なら、攻撃系の呪術で対抗する。呪刃で斬る。呪弾で撃つ。呪縛で動きを封じる。
俺にはそのどれもできない。
できるのは一つだけだ。
呪霊が再び突進してきた。今度は避けない。正面から、両手を広げて受け止める。
衝撃が両腕を貫いた。足が地面を削る。歯を食いしばる。呪霊の体が俺の手の中で暴れる。黒い煙が顔にかかり、腐臭が鼻を突いた。
「喰ってやるよ」
左手を呪霊の体に押し当てた。指先から、呪いが流れ込んでくる。
不味い。今までで最悪の味だ。腐った肉と泥と鉄錆を混ぜて、さらに焦がしたような。胃が暴れ、全身の呪痕が一斉に疼いた。
だが——止まるな。
呪霊の体が小さくなっていく。俺が喰っているからだ。呪霊の存在そのものを、俺の体内に引きずり込んでいる。
獣が絶叫した。声はない。だが空気が震えた。
十秒。二十秒。三十秒——。
呪霊が消えた。
後には何も残らない。俺が全部喰った。
膝をついた。左腕の紋様が激しく脈打っている。吐き気がこみ上げ、口を押さえた。胃の中で喰ったばかりの呪いが暴れている。
鎮痛剤。ポケットに手を突っ込んで、シートから二錠。いや、三錠。噛み砕いて飲み込む。
「灰原さんっ!」
雫が駆け寄ってきた。俺の背中に手を当てる。
「大丈夫ですか。すごい汗——」
「平気だ。いつものことだ」
嘘だ。B級の呪霊を丸ごと喰ったのは初めてだ。体の芯が熱い。内側から焼かれているような感覚。
顔を上げたとき、雫が俺の左腕を見ていた。
袖がまくれて、腕の呪痕が露出していた。手首から肘まで、隙間なく刻まれた黒い紋様。月明かりの下で、それはくっきりと浮かび上がっている。
雫が息を呑んだ。
「それ、全部——」
「今まで喰った呪いの痕だよ。右腕も、胸も、背中も同じだ」
雫の目が大きく見開かれた。一瞬、何か言いかけて——飲み込んだ。
代わりに、静かに言った。
「痛いですか」
「……慣れた」
「嘘ですね」
鋭い。
反論する気力もなくて、黙って立ち上がった。
「行くぞ。本題はここからだ」
廃神社の石段を上がる。鳥居をくぐると、空気の質がまた変わった。呪いの濃度がさらに上がっている。番犬がいたということは、誰かがこの場所を意図的に守っていたということだ。
社殿の中に足を踏み入れる。板張りの床は腐りかけていて、歩くたびに軋んだ。
奥の祭壇——神体があるべき場所に、それはあった。
黒い石。拳ほどの大きさの、磨かれた黒曜石に似た何か。表面に細かい紋様が刻まれ、微かに脈動している。
そこから、雫の首筋に繋がる呪糸が伸びていた。
「これが起点だ。お前の呪いは、ここから供給されている」
「壊せば——」
「壊しても呪いは消えない。もう体に根を張ってる。ただ、これを調べれば術者の手がかりが掴める」
石に手をかざす。紋様を読む。呪術師はそれぞれ癖がある。術式の組み方、紋様の描き方、呪力の流し方。指紋のようなものだ。
紋様を一つずつ解読していく。複雑で、緻密で、美しいとすら言える構成。これを組み上げた人間は相当な実力者だ。
そして——紋様の奥に、刻印があった。
管理局の登録番号。
「嘘だろ」
声が出た。
「どうしたんですか」
「この術式を組んだ奴——管理局の呪術師だ。登録番号が刻まれてる」
管理局に所属する呪術師が、一般人の少女にS級呪殺術式をかけた。
あり得ない。あってはならない。
だが、目の前の証拠は嘘をつかない。
「白峰。お前は——誰かに狙われてる。それも、国のお墨付きを持った人間に」
雫の顔から血の気が引いた。
俺は黒い石の紋様を脳裏に焼き付け、社殿を後にした。
空には雲がかかり、月を隠していた。
二日目の夜が、終わろうとしている。




