第29話 痛くない
目を覚ましたのは、朝だった。
白い天井。管理局の医療区画。窓から朝日が差し込んでいる。
体を起こした。
痛くない。
どこも——痛くない。
三年間、毎朝目を覚ますたびに全身を蝕んでいた鈍痛がない。呪痕が脈動する不快感がない。鎮痛剤を探して枕元を手探りする必要がない。
ただ——朝だった。
普通の、朝だった。
「……痛くない」
声に出して、自分の耳で確かめた。
「生まれて初めて——どこも、痛くない」
涙が出た。
止められなかった。声を殺して、泣いた。
二十五年間——いや、呪術師になってからの六年間。痛みのない朝は一度もなかった。呪いを喰うたびに蓄積される痛み。鎮痛剤で誤魔化して、慣れたふりをして、「割に合わない」と笑って過ごしてきた。
それが——ない。
世界がこんなに静かだったのかと思った。体の内側から呪力がざわめく音がしない。心臓が普通に、静かに動いている。
しばらく泣いて——顔を上げた。
隣のベッドに、雫がいた。
まだ眠っている。穏やかな寝顔。呪力の消耗で倒れてから——何時間経っただろう。
ベッドから降りた。足が床に着く感触が新鮮だった。体が軽い。
雫のベッドの横に椅子を引き寄せ、座った。
雫の顔を見た。
こいつが——俺を救ってくれた。
あの夜、俺の事務所の前に倒れていた少女。S級の呪殺術式をかけられ、七日で死ぬはずだった少女。
あの時、俺が喰った。
今度は——こいつが、俺の呪いを消してくれた。
対の力。喰うと、浄化する。
「……起きろよ。朝だぞ」
小さく声をかけた。
雫の瞼が——微かに動いた。
「……灰原、さん」
目が開いた。
「おはよう」
「おはよう——ございます」
寝ぼけた声。目を擦る。ベッドの上で体を起こそうとして——ふらついた。
「無理するな。まだ回復してないだろ」
「大丈夫です。——灰原さんこそ。体は」
「ああ」
腕を見せた。呪痕のない、白い腕。
雫の目が見開かれた。
「消えて——」
「全部消えた。お前のおかげだ」
雫の目に涙が溜まった。
「よかった——よかった——」
泣き出した。
「おい、泣くなよ」
「だって——」
「割に合わねえだろ、泣かれると」
「灰原さんがその台詞言うたびに——私、泣きたくなるんです」
「じゃあもう言わない」
「……嘘つき」
笑いながら泣いている。
扉がノックされた。
「入るぞ」
カナタだった。手にコンビニの袋を持っている。
「起きたか。——二人とも、飯を食え」
袋の中身は——缶コーヒーと肉まんだった。
「カナタ。お前、気が利くな」
「志摩さんに言われただけだ」
ぶっきらぼうに言って、椅子に座った。
缶コーヒーのプルタブを開けた。微糖。いつもの味。
一口飲んだ。
美味い。
痛みなしで飲むコーヒーは——こんなに美味かったのか。
「灰原。管理局から正式な報告がある」
カナタが姿勢を正した。
「影宮総一郎は、管理局の独房に収監された。呪縛の枷に加え、体内術式を完全に封じる処置が施された。今後、管理局特別法廷で裁かれる。——三年前の新宿汚染事件の首謀者として」
「……そうか」
「影宮は抵抗しなかった。独房の中で——穏やかな顔をしていたらしい」
穏やかな顔。あの微笑みを思い出す。
最後に見せた、悲しくて、穏やかで、本物の笑顔。
影宮は——悪人だった。手段を間違えた。人を殺した。俺の仲間を殺した。
だが——根っこにあったのは、娘を失った父親の悲しみだった。
「他には」
「八神局長から、管理局の改革方針が発表された。D級以下の呪術事案にも対応する体制を整備する。——影宮が求めていたことの一部は、正規のルートで実現されることになる」
「誰の娘も呪いで死なない世界、か」
「影宮の方法は間違っていた。だが——問題提起は正しかった。局長はそう判断した」
カナタが缶コーヒーを開けた。
「それから——灰原。お前の呪術師認可は回復した。E級のままだが」
「E級で充分だよ」
「あと——御堂が管理局に出頭した。影宮の命令に従った罪を自首するために」
御堂。あの無表情の男。
「御堂は——処分は」
「まだ決まっていない。だが——志摩さんが嘆願書を出している。命令に従っただけの末端を重く罰しても意味がないと」
志摩さんらしい。
「志摩さんは?」
「通常勤務に復帰した。第七課の事務官として。——いつも通り、のんびり仕事をしているらしい」
笑った。
そう。志摩さんは——いつも通りが一番似合う。
「マリは」
「連絡がつかない。——いつものことだろう」
「ああ。あいつはそういう奴だ」
マリは風のような女だ。必要な時に現れて、用が済んだら消える。
だが——次に困った時、また現れるだろう。高額な情報料とともに。
カナタが立ち上がった。
「俺は第一課に戻る。東京呪蝕の後始末がまだ残っている。呪霊の掃討と、呪痕の除去作業」
「手伝おうか」
「馬鹿を言うな。今日くらい休め」
カナタが扉に手をかけた。
「灰原」
「何だ」
「お前は——最弱じゃない」
振り返らずに言った。
「ランクはEだ。攻撃力はゼロだ。だが——お前は俺が知る中で最も多くの人間を救った呪術師だ」
「……カナタ」
「もう行く。——また依頼を持っていく。D級の雑呪だがな」
カナタが出て行った。
雫と二人きりの病室。
窓の外を見た。東京の空は青かった。昨日まで黒い雲に覆われていた空が、嘘のように晴れている。
「灰原さん」
「何だ」
「私——学校に戻ろうと思います」
「……そうか」
「でも、放課後は事務所に行きます。助手の仕事がありますから」
「助手って。お前に給料払ったことないぞ」
「缶コーヒーと肉まんで充分です」
「安い助手だな」
「安いのが取り柄です」
笑い合った。
普通の会話。何でもないやり取り。
それが——こんなに心地いい。
「灰原さん」
「何だ」
「呪痕が消えたら——呪いを喰う力も、なくなったんですか」
「……分からない。試してみないと」
体の中を意識してみる。
呪力は——ある。微かに。呪痕が消えても、能力そのものは残っているようだ。
だが、三年分の蓄積はない。体は空っぽだ。喰呪師としてはゼロからのスタート。
「多分——喰える。ただ、今までみたいに大量には無理だ。蓄積がないから」
「少しずつ、ですね」
「ああ。少しずつだ。——影宮にも言ったな。一つずつ、って」
「はい。一つずつ」
雫が窓の外を見た。
朝の東京。ビルの間から差し込む光。
「きれいですね」
「ああ」
「呪いのない朝って——こんなにきれいなんですね」
俺も窓の外を見た。
三年間——朝を迎えるたびに、痛みで目が覚めていた。鎮痛剤を飲んで、缶コーヒーで流し込んで、重い体を引きずって事務所に向かっていた。
今日の朝は——ただ、明るかった。
缶コーヒーを飲み干した。
「退院したら、事務所に帰る」
「はい」
「掃除してないから汚いぞ」
「知ってます。いつも汚いです」
「……悪かったな」
肉まんを半分に割って、雫に渡した。
雫が受け取って、かじった。
「美味しい」
「ああ。美味い」
普通の朝。普通の肉まん。普通の缶コーヒー。
それだけで——充分だった。




