第28話 対の力
浄化の準備が整ったのは、俺が倒れてから十二時間後だった。
残り時間は——あと十二時間。
管理局本部の地下にある特殊処置室。普段はS級呪術事件の被害者を処置するための部屋だ。壁一面に防呪結界が張られ、呪力の漏洩を防ぐ設計になっている。
ベッドに横たわる俺の体は——もう半分以上が呪痕に覆われていた。
黒い紋様が顔の半分を覆い、首から胸、腹、両腕、両脚。残っているのは右手の指先と、左の頬のわずかな肌だけだ。
痛みは——もう感じなくなっていた。感じなくなったのではない。痛みが強すぎて、感覚が麻痺しているのだ。
雫が処置室に入ってきた。
白い病衣に着替えている。髪を後ろで束ね、目元は腫れていたが、表情は落ち着いていた。六時間眠り、食事を取り、体力を回復させた。マリと志摩さんが無理やり休ませたらしい。
その後ろにカナタ。
「準備はできている。——白峰、始められるか」
「はい」
雫が俺のベッドの横に立った。
「マリさんが見つけてくれた白峰家の文献に、浄化の手順が書かれていました」
「読んだのか」
「カナタさんが要約してくれました。——灰原さん。浄化の時、痛みがあるかもしれません」
「今さらだ」
「……ですよね」
雫が微笑んだ。ぎこちないが——笑おうとしている。
「灰原さん。一つだけ約束してください」
「何だ」
「起きていてください。意識を——保っていて。私が呼んだら、返事をしてください」
「……努力する」
「約束です」
雫が俺の右手を取った。黒い呪痕に覆われた手。唯一、指先にわずかな肌色が残っている。
雫の手が——光り始めた。
白い光。温かい。柔らかい。闇市の装置を浄化した時よりも、東京呪蝕の結界を破った時よりも——遥かに強い光。
「始めます」
雫の両手が俺の手を包んだ。
光が——体に流れ込んできた。
*
最初に感じたのは、熱だった。
雫の浄化の光が、体内の呪力と接触した瞬間——灼けるような熱が全身を走った。
呪力が抵抗している。三年間かけて体に定着した呪いが、消されまいと暴れている。
「ぐ——っ」
「灰原さん!」
「続けろ——止めるな」
歯を食いしばった。
雫の光が、呪力の表層を溶かし始めた。一番上の層——最近喰った影宮の呪力。密度が高く、重い。
白い光と黒い呪力がぶつかり合い、火花のような衝撃が体の中で弾ける。
痛い。
だが——これは、俺が今まで他人から喰い取ってきた痛みだ。
最初に溶けたのは影宮の呪力だった。黒い雨を降らせ、東京を覆い尽くそうとした呪い。その奥に——影宮の感情が残っていた。
娘を失った悲しみ。世界を変えたいという願い。手段を選べなかった絶望。
一つずつ、雫の光が溶かしていく。
次の層。東京呪蝕の夜に喰った呪霊たち。カナタが結界を維持している間に喰い続けた、無数の呪い。
その下。広域呪術式の装置から喰った呪力。新宿の廃ビル、品川の倉庫、世田谷の公園、足立の河川敷、板橋の神社。
さらに下。呪域の核。三年前の新宿汚染事件の残滓。
さらに下。闇市の呪い。八十を超える人工呪い。恨み、嫉妬、憎悪。人間の負の感情を凝縮した商品。
さらに——下。
「——っ」
最も深い層に触れた瞬間、意識が揺らいだ。
三年前の呪い。
仲間たちの呪い。
桐生の。夏目の。園田の。若菜の。
四人分の——命の重さ。
「灰原さん! 意識を——」
「……起きてる」
雫の声が遠い。だが——聞こえている。
暗闇の中に、沈んでいく感覚。
*
白い空間だった。
三年前、呪域の核を喰った時にも見た場所。何もない白い世界。
だが今回は——四人がいた。
桐生。夏目。園田。若菜。
三年前に死んだ、俺のかつての仲間たち。
「よう。灰原」
桐生が笑っていた。あの時のままの姿。
「……桐生」
「ひどい顔だな。真っ黒じゃねえか」
「お前らの呪いのせいだよ」
「違えよ。お前が勝手に喰ったんだろ」
夏目が呆れたように言った。
「そうそう。頼んでないのに」
園田が頷いた。
「灰原くんは昔からそう。誰にも頼まれてないのに、全部一人で背負おうとする」
若菜が溜息をついた。
三年前と同じ四人。同じ顔。同じ声。
だが——あの時と違って、苦しそうな顔はしていなかった。
「お前ら——」
「蓮」
桐生が真面目な顔になった。
「もういいんだよ」
「何が」
「俺たちの呪いを——背負い続けなくていい」
体が震えた。
「三年間、ずっと抱えてただろ。俺たちの分まで。痛い思いして、体壊して。——もう充分だよ」
「充分じゃない。お前らは——俺のせいで」
「お前のせいじゃない」
桐生が遮った。
「あの日、俺たちが死んだのは——影宮の実験のせいだ。お前のせいじゃない。お前は——俺たちの呪いを喰って、一人だけ生き残った。それは罪じゃない。重荷でもない」
「桐生——」
「お前は生きたんだ。俺たちの分まで。——それで充分だ」
夏目が一歩前に出た。
「灰原。あの女の子——雫ちゃんだっけ。いい子じゃん」
「……ああ」
「大事にしなよ」
園田が笑った。
「灰原くんにもったいないくらいの子よね」
若菜が微笑んだ。
四人が——少しずつ、光に溶けていく。
「待て——桐生——」
「行けよ、蓮。お前にはまだやることがあるだろ」
桐生が手を振った。
「呪い除去、承りますってやつ」
笑っていた。
四人の姿が——白い光に包まれて、消えた。
温かかった。
涙が出た。
白い世界が——崩れていく。
*
「灰原さん!」
雫の声で意識が戻った。
処置室の天井。白い蛍光灯。
体の中で——何かが変わっていた。
最も深い層にあった呪力——桐生たちの呪い——が、消えていた。三年間ずっと体の底にあった重石が、なくなっている。
雫が俺の手を握ったまま、白い光を注ぎ続けている。額に汗が浮かんでいる。息が荒い。
「雫——大丈夫か」
「大丈夫です。——まだ、続けます」
強い声。だが体が震えている。
浄化は——まだ半分も終わっていない。三年分の呪いの半分を浄化しただけで、雫の体力はかなり消耗している。
「無理するな。休め」
「休みません」
「雫——」
「灰原さんは——私の呪いを喰った時、休みましたか」
言葉に詰まった。
七日間。一睡もせずに走り回り、S級の呪いを喰い、意識を失うまで戦った。休むなんて選択肢はなかった。
「休まなかったでしょう。——だから私も休みません」
雫の光が——さらに強くなった。
呪痕が——少しずつ、消えていく。
右腕の黒い紋様が薄れた。首筋の呪痕が剥がれるように消えた。
一つ消えるたびに——記憶が蘇る。
あの呪いを喰った日。あの依頼人の顔。あの痛み。
三年間の全てが——巻き戻されていく。
「灰原さん。——聞こえますか」
「聞こえてる」
「もう少しです。——もう少しで」
雫の声が震えた。光が揺れた。
限界が近い。
「雫。止めろ。お前が——」
「止めません」
雫の目から涙が落ちた。
「私は——灰原さんに、朝を迎えてほしいんです。痛くない朝を。鎮痛剤なしで起きられる朝を。——それだけです」
白い光が——爆発的に膨れ上がった。
処置室全体が白い光に包まれた。防呪結界が軋む。
「白峰!」
扉の外からカナタの声が聞こえた。
「大丈夫です——!」
雫が叫んだ。
光の中で——俺の体から、呪痕が剥がれ落ちていく。
黒い紋様が、白い光に触れるたびに灰になって消える。
胸の呪痕が消えた。腹の呪痕が消えた。背中の呪痕が消えた。
三年分の痛みが——一つずつ、消えていく。
雫の手が、俺の手を握り続けている。
「灰原さん——」
雫の声が掠れた。体が傾ぐ。限界だ。
「雫!」
「最後——あと一つ——」
最後の呪痕。左腕に最初に刻まれた、最も古い呪痕。三年前、桐生の呪いを喰った時のもの。
さっき白い空間で、桐生たちが消えた。でも痕跡だけが残っていた。
雫の光が——その最後の一つに触れた。
白い光と黒い紋様がぶつかり合い——
消えた。
呪痕が——全て、消えた。
雫の手から光が消え——体が崩れ落ちた。
「雫!」
俺はベッドから身を起こし——動けた。痛みがない。体が軽い。
崩れ落ちる雫を受け止めた。
「雫——雫——!」
雫の目が薄く開いた。
「灰原さん——顔」
「え?」
「呪痕——消えてます」
微笑んだ。
そして——意識を失った。
俺の腕の中で。
「——医療班!」
叫んだ。
扉が開き、カナタと医療班が飛び込んできた。雫を受け取り、処置台に寝かせる。
「白峰の状態は——」
「呪力の使いすぎによる極度の消耗。——だが、命に別状はない」
医療班のリーダーが言った。
「休息を取れば回復します」
膝から力が抜けた。
床に座り込んだ。
「灰原」
カナタが俺の顔を見ていた。
「お前——」
「何だよ」
「顔が——」
カナタが近くにあった小さな鏡を差し出した。
受け取って、自分の顔を見た。
呪痕がなかった。
影宮の呪力を喰って顔にまで広がっていた黒い紋様が消えている。目の下の隈はあるが——呪痕は、一つもない。
腕を見た。長袖をまくった。
白い肌。呪痕のない、普通の腕。
胸に手を当てた。心臓が普通に動いている。呪力の脈動がない。
「……消えてる」
声が震えた。
「全部——消えてる」
カナタが何か言った。だが聞こえなかった。
三年間——ずっと体の中にあったもの。ずっと痛かったもの。ずっと俺を蝕んでいたもの。
全部、消えた。
雫が——消してくれた。
処置台の上で眠る雫を見た。
穏やかな寝顔。
「……ありがとう」
声にならなかった。口だけが動いた。
だが——伝わったと思う。
雫の唇が、微かに動いた気がした。




