第27話 代償
東京の空が晴れて——三十分後。
俺の体が、壊れ始めた。
最初は左腕だった。影宮の呪力を喰い過ぎた左腕の呪痕が、膨張を始めた。黒い紋様が手首から肘へ、肘から肩へ。まるで墨汁が水面を這うように、止まらない。
「灰原さん! 腕が——」
雫の悲鳴で気がついた。見下ろした左腕が——真っ黒だった。
「あ——」
声を出そうとした瞬間、全身に電撃のような痛みが走った。膝が折れ、床に叩きつけられる。
「灰原!」
カナタが駆け寄ってきた。体を支えようとする手が、俺の肩に触れた瞬間——引っ込めた。
「……熱い。体が灼けるように熱い」
俺の体温が異常に上がっている。影宮から喰い取った膨大な呪力が、制御を失って全身を暴れ回っている。
三年分の蓄積に、影宮の生命力を燃やして生み出された呪力が上乗せされた。人間一人が抱え込める量じゃない。
「医療班! 医療班を呼べ!」
カナタの声が遠くなる。
視界が赤く滲んだ。天井の蛍光灯が歪んで見える。
体中の呪痕が一斉に脈動している。黒い紋様が胸から腹へ、背中から首へ。今まで長袖で隠せていた呪痕が、顔にまで這い上がってきた。
「っ——」
口から血が溢れた。床に赤い染みが広がる。
痛い。体の内側が灼けている。呪力が暴走して、血管を、神経を、内臓を焼いている。
鎮痛剤——いつも飲んでいた鎮痛剤なんて、とっくに効かないレベルだ。
「灰原さん! 灰原さん!」
雫が俺の顔を覗き込んでいる。涙が頬を伝っている。
「だい、じょう——」
大丈夫、と言おうとした。だが声にならなかった。喉から血が上がってくる。
意識が遠くなる。
*
気がつくと、白い部屋にいた。
管理局本部の医療区画。白い壁。白い天井。消毒液の匂い。
体に何本もの管が繋がっている。点滴。心電図。呪力モニター。
動けない。指一本すら重い。
視界の端に——誰かがいた。
「……目が覚めましたか」
志摩さんだった。白衣のまま。目が赤い。泣いていたのだろう。
「いま——」
「影宮の術式が止まってから六時間。あなたは意識を失って運ばれたの。——蓮くん、体の状態は深刻よ」
志摩さんの声が震えている。のんびり屋の志摩さんが、こんな声を出すのは初めてだ。
「体内の呪力が制御不能になっている。医療班が呪力の排出を試みたけど——排出できない。あなたの体に定着しすぎている」
「つまり」
「このままだと——呪痕が全身を覆い尽くす。そうなったら、体が呪力に耐えきれなくなって——」
志摩さんが言葉を切った。言えないのだ。
俺が代わりに言った。
「死ぬんだろ」
志摩さんが唇を噛んだ。
「どのくらいだ」
「医療班の見立てでは——二十四時間。いま処置で進行を遅らせているけど、それが限界」
二十四時間。
影宮を止めて、東京を救って——そのツケが、これか。
「……割に合わねえな」
笑おうとしたが、口が動かなかった。
「蓮くん! 笑い事じゃないわよ!」
志摩さんが声を荒らげた。初めて聞く、志摩さんの怒声。
扉が開いた。
カナタが入ってきた。その後ろに——マリ。
二人とも、ひどい顔をしていた。カナタは管理局の制服が汚れたまま。マリはコートの裾が破れている。さっきまで東京の街で呪霊と戦っていたのだろう。
「灰原。——状態を聞いた」
カナタの声は硬かった。
「管理局の呪術医療の全力を投入している。だが——手が見つからない」
「蓄積呪力の量がS級を遥かに超えている。通常の解呪処置では追いつかない」
志摩さんが補足した。
「灰原」
マリが煙草を手で弄びながら言った。火はつけていない。病室だから当然だが——マリが煙草に火をつけないのは、それだけ動揺しているということだ。
「あんた、馬鹿よ。影宮の呪力を全部喰うなんて」
「喰わなきゃ——止められなかった」
「知ってるわよ。だから馬鹿だって言ってるの」
マリの声が掠れた。
沈黙が落ちた。
白い部屋に、消毒液の匂い。心電図の電子音だけが一定のリズムを刻んでいる。
「——雫は」
俺が聞いた。
三人が顔を見合わせた。
「白峰は——」カナタが言いかけて、口を閉じた。
「雫ちゃんは、あなたの処置室の前にいるわ。ずっと」
志摩さんが静かに言った。
「ずっと——六時間、一度も離れていない。食事も取っていない。何度も中に入ろうとして、医療班に止められて」
雫——。
「会いたいと言ってる。——会う?」
「……いや」
「蓮くん?」
「この顔を——見せたくない」
自分の顔に手を当てた。指先に触れたのは——呪痕。顔にまで広がった黒い紋様。
今の俺は、呪いの塊みたいなものだ。
「馬鹿言わないで。雫ちゃんはそんなこと気にしないわ」
「分かってる。分かってるけど——」
「灰原」
カナタが遮った。
「白峰に会え。——あいつは、お前のために泣いている。お前が拒否する権利はない」
厳しい声。だが——正しかった。
俺が何も言えずにいると——扉が開いた。
雫が立っていた。
目が赤い。頬が濡れている。制服が汚れている。六時間、廊下に座り続けていたのだろう。
「灰原さん」
声が震えていた。
雫は俺の顔を見た。黒い呪痕に覆われた顔を。
泣いた。
声を上げて泣いた。
「灰原さん——灰原さん——」
ベッドの横に膝をつき、俺の手を握った。体温が——俺の手だけ異常に高いはずなのに、雫は離さなかった。
「痛いだろ」
「痛くないです」
嘘だ。俺の手は灼けるように熱い。
「離せ」
「離しません」
強い声。涙で顔がぐしゃぐしゃなのに、目だけは真っ直ぐだった。
「私が——私が浄化します」
空気が変わった。
カナタと志摩さんとマリが、同時に雫を見た。
「白峰。何を——」
「私の力で、灰原さんの中の呪いを浄化します。闇市の時も、装置の時も、浄化できた。灰原さんの中の呪いだって——」
「白峰」
カナタの声が厳しくなった。
「灰原の中にある呪力の量は、装置の比じゃない。三年分の蓄積に影宮の呪力が加わっている。S級を何倍も上回る量だ。——お前の体が持たない」
「持たせます」
「無茶だ。お前まで倒れたら——」
「カナタさん」
雫がカナタを見上げた。
「最初の時。灰原さんは、私のS級の呪いを喰ってくれました。死ぬかもしれないのに。体が壊れるかもしれないのに。——私を、助けてくれました」
雫の手が、俺の手を強く握った。
「今度は私の番です」
誰も——何も言えなかった。
「雫——」
俺の声は掠れていた。
「お前が倒れたら——意味がない。俺が影宮を止めたのは——」
「灰原さん」
雫が俺の言葉を遮った。
「あなたはいつもそうです。自分だけが犠牲になればいいと思っている。自分の体を壊して、痛みを我慢して、鎮痛剤で誤魔化して。——でも、それは間違っています」
涙が、俺の手の甲に落ちた。
「一人で全部背負わなくていいんです。——私がいるから」
「……雫」
「お願いです。——私に、助けさせてください」
白い光が——雫の手から漏れた。
微かに。だが確かに。
浄化の力。白峰の血が受け継いだ、呪いを消す力。
雫の目に——覚悟があった。
あの夜、俺の事務所に倒れ込んできた、あの怯えた少女はもういない。
ここにいるのは——呪術師だ。
俺と対になる、もう一人の呪術師。
「……勝手にしろ」
「はい」
雫が笑った。泣きながら。
「勝手にします」
志摩さんがカナタを見た。カナタがマリを見た。マリが煙草をポケットにしまった。
「準備が必要ね」
マリが言った。
「浄化を始めるなら——最善の環境を整える。カナタくん、管理局の呪術医療の設備を全て使えるように手配して。志摩さん、雫ちゃんの体力を回復させる処置を。——私は白峰家の文献を探す。浄化の手順に参考になるものがあるかもしれない」
マリが動き始めた。カナタと志摩さんも。
俺のために——全員が動いている。
「灰原」
カナタが振り返った。
「死ぬなよ。——借りがある」
「どっちがだよ」
カナタが口の端を上げた。笑ったのだと思う。
部屋を出ていく三人の背中を見送り——雫だけが残った。
俺の手を握ったまま、離さない。
「雫」
「はい」
「……ありがとう」
雫が首を横に振った。
「お礼は、全部終わってからにしてください」
「ああ。——缶コーヒーくらいは奢る」
「肉まんも」
「……ああ。肉まんも」
雫の手の中で——白い光が、静かに灯っていた。




