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第26話 総力戦

 影宮の体から放射される呪力は、想像を絶していた。


 独房の壁が黒い紋様に覆われ、天井から床まで全てが脈動している。影宮の体が術式の中核として機能し、東京全域に呪蝕の雨を降らせ続けている。


 俺が影宮の腕に触れた瞬間——体内に呪力が奔流のように流れ込んできた。


 「ぐ——っ」


 S級の呪殺術式を喰った時以上だ。密度が段違い。影宮が自分の命を燃やして生み出している呪力は、人間一人の限界を遥かに超えている。


 体の呪痕が一斉に反応した。左腕の紋様が膨張し、皮膚が黒く変色していく。


 喰いきれない——?


 「灰原さん!」


 雫が反対側から影宮に手を当てた。白い光が溢れる。


 二方向からの同時アプローチ。俺が呪力を吸い出し、雫が浄化する。


 だが——影宮の術式は止まらない。体から湧き出す呪力の量が、俺たちの処理速度を上回っている。


 「足りない——」


 俺の声が掠れた。


 「もっと——もっと喰わないと——」


 限界を超えて呪力を吸い込む。体が悲鳴を上げる。視界が赤く染まる。口の中は血の味でいっぱいだ。


 同時に——外の世界でも戦いが続いていた。


    *


 結界の外。管理局本部の前。


 カナタが結界の隙間を維持しながら、次々と湧き出す呪霊と戦っていた。


 影宮の術式が放つ呪力は、結界の外にも溢れ出し、呪霊を自然発生させている。低級のものから、B級に匹敵する大型のものまで。


 「第一課、展開! 結界の防衛に全力を注げ!」


 カナタの指示で、第一課の呪術師たちが陣形を組んだ。呪刃、呪弾、結界術。管理局の最精鋭が、呪霊の群れと戦い始めた。


 「カナタ! このままでは持たない!」


 第一課の副官が叫んだ。呪霊の数が増え続けている。


 「持たせるんだ! 灰原と白峰が中で戦っている! 俺たちの仕事は——あの二人が仕事を終えるまで、ここを守ることだ!」


 カナタの呪刃が閃いた。大型呪霊を一刀両断にする。


 エリートのプライドでもなく、命令への忠誠でもない。


 仲間を守る——それだけのために、カナタは戦った。


    *


 同時刻。新宿。


 マリは歌舞伎町の路上にいた。


 黒い雨が降り注ぐ中、倒れた一般人を建物の中に運び入れていた。


 情報屋に戦闘能力はない。呪いを喰うことも、浄化することも、斬ることもできない。


 だが——人を助けることはできる。


 「あんたたち、中に入りなさい! 雨に当たるな!」


 通行人を誘導し、ビルの中に避難させていく。


 「マリさん! あっちにも倒れてる人が——」


 マリの隣には——志摩さんがいた。


 管理局の制服のまま。志摩さんも管理局を飛び出して、一般市民の避難誘導にあたっていた。


 「志摩さん。あなた、管理局にいなくていいの」


 「今は——ここにいるべきだと思ったから」


 のんびりした口調はそのままだった。だが、行動は迅速だった。


 二人の女が、歌舞伎町の路上で一般人を守っていた。


    *


 独房の中。


 俺と雫の戦いは、消耗戦になっていた。


 影宮の術式から呪力を吸い出し、浄化し、また吸い出し——その繰り返し。終わりが見えない。


 「灰原くん」


 影宮が目を開いた。体は光り続けているが、声は穏やかだった。


 「あなたは——なぜそこまでする」


 「何の話だ」


 「自分の体を壊してまで。他人の呪いを喰い続けてまで。——なぜ」


 「決まってる。放っておけないからだ」


 「それだけですか」


 「それだけだ。——大層な理由なんてない。目の前に苦しんでる奴がいたら、喰ってやる。それだけだ」


 影宮が微笑んだ。


 「あなたと私は似ている。——方法が違うだけで」


 「似てない。お前は人を道具にした。俺は——自分の体だけを使ってる」


 「自分の体を犠牲にすることと、他人を犠牲にすること。どちらが正しいのでしょう」


 「どっちも間違ってるさ。——でも、俺は自分を犠牲にする方を選ぶ」


 「……そうですか」


 影宮の声が少し変わった。微笑の下に——何かが揺れた。


 「私にも——かつて、大切な人がいました」


 「何?」


 「呪いに殺された。私の娘が。五歳の時に。低級の呪いで——たった一つの、取るに足らない呪いでした」


 体が止まった。


 「管理局に相談しました。でも——D級事案は対象外だと。自分で呪術師を探せと。見つけた時には——間に合わなかった」


 影宮の目に、涙が浮かんでいた。


 「あの日から——私は誓いました。呪いのない世界を作ると。誰の娘も、呪いで死なない世界を」


 理想は——本物だった。


 動機は——人間だった。


 「影宮。——お前の気持ちは分かる」


 「分からないでしょう」


 「分かるよ。俺だって——呪いで大切な人間を失ってる。お前のせいでな」


 影宮が目を伏せた。


 「だから分かる。お前の怒りも、悲しみも。——だけど、方法が間違ってたんだ。人を殺して作る平和は——平和じゃない」


 影宮が黙った。


 そして——体の光が、少しだけ弱まった。


 「影宮。術式を止めてくれ。——別の方法を探そう。お前の理想を、人を犠牲にしない方法で実現する道を。俺と——こいつと」


 雫を見た。雫が頷いた。


 「影宮さん。私の力は——浄化の力です。人を犠牲にしなくても、呪いを消すことはできるかもしれない。時間はかかるけど——一つずつ。灰原さんが喰って、私が浄化して。一つずつ」


 影宮が二人を見つめた。


 長い、長い沈黙。


 「……一つずつ、ですか」


 「ああ。一つずつだ。割に合わないくらい遅い方法だ。——でも、誰も死なない」


 影宮の微笑が——変わった。


 初めて見る、悲しくて、穏やかで、本物の笑顔。


 「私は——間違っていたのでしょうね」


 影宮の体の光が——消えていった。


 術式が停止した。


 東京の空を覆っていた黒い雲が、裂け始めた。隙間から朝の光が差し込んだ。


 黒い雨が止んだ。


 影宮が——意識を失い、椅子から崩れ落ちた。体内術式を限界まで駆動した反動。命に別状はないだろうが——しばらくは目を覚まさない。


 「灰原さん——」


 雫が俺の腕を掴んだ。


 俺の体も限界だった。膝が折れ、床に座り込む。全身の呪痕が焼けるように痛む。影宮の呪力を大量に喰った代償。


 だが——生きている。


 「終わった……のか」


 「終わりました。——灰原さん、体が——」


 「大丈夫だ。痛いだけだ。痛いってことは生きてるってことだ」


 雫が泣きながら笑った。


 結界が消え、カナタが飛び込んできた。


 「灰原! 白峰!」


 「カナタ。——影宮は止まった」


 「分かっている。空を見ろ」


 独房の天井越しに——空が見えた。黒い雲が消え、青い空が広がっている。


 東京の空が、晴れた。

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