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第25話 東京呪蝕

 平穏は三日しか続かなかった。


 影宮が拘束され、広域呪術式の装置を全て停止し、管理局は正常化に向けて動き始めていた。カナタは第一課に復帰し、志摩さんは第七課で通常業務に戻り、俺の認可取消も撤回の手続きが進んでいた。


 三日目の朝。事務所で缶コーヒーを飲んでいたら、空が変わった。


 窓の外を見た。


 東京の空が——黒く染まっていた。


 朝の八時。太陽が出ているはずの時間。だが、空全体が黒い雲に覆われている。雲ではない。呪力だ。凝縮された膨大な呪力が、空を覆い尽くしている。


 「何だ、これは——」


 スマホが一斉に鳴った。志摩さん、カナタ、マリ——全員から。


 最初に繋がったのはカナタだった。


 「灰原。見ているか」


 「見てる。何が起きた」


 「影宮だ。独房の中から——術式を起動した」


 「独房の中から? 枷をかけていたはずだろう」


 「枷は無事だ。だが——影宮はもう一つ隠し持っていた。自分の体内に刻んだ術式。枷で外部への呪力放出は封じられていたが、体内の術式は止められなかった」


 体内術式。自分の体を媒介にした呪術。影宮は自分自身を——最後の装置にしていた。


 「十二基の装置は停止した。だが、影宮本人が十三基目だった。しかも——最も強力な」


 窓の外で、黒い雲から何かが降ってきた。


 黒い雨。


 雨粒の一つ一つが呪力を帯びている。地面に落ちた雨は、アスファルトの上に呪痕を刻んでいく。


 「呪蝕だ。東京全域に呪力の雨が降っている。——一般市民にも影響が出始めている。体調不良の報告が都内全域から上がっている」


 「影宮は何を考えて——」


 「計画の強行だ。装置を壊されたなら、自分の体を使う。——影宮は、命を捨てる覚悟で計画を完遂しようとしている」


 狂気。


 いや——信念だ。影宮にとっては。呪いのない世界を作るために、自分の命すら差し出す。


 だが——その代償は、東京の一千万人が払うことになる。


 「カナタ。影宮の独房は」


 「既に第一課が向かっている。だが——独房の周囲に強力な結界が展開されている。影宮の体内術式から発生した結界だ。破れない」


 「俺が行く」


 「灰原——」


 「結界は呪いだ。俺なら喰える。——雫の浄化と合わせれば、結界を突破して影宮の術式を止められる」


 雫が傍にいた。会話を聞いていた。


 「行きます」


 迷いのない声だった。


    *


 事務所を飛び出し、管理局本部に向かう。


 東京の街は異常な光景に包まれていた。黒い雨が降り注ぎ、道路や建物に呪痕が刻まれていく。通行人たちは突然の暗闘と体調不良に混乱し、あちこちで人が膝をついている。


 「一般人にも影響が——」


 「呪蝕だ。微量だが、雨に含まれる呪力が体に浸透している。長時間浴びれば——」


 言わなくても分かる。呪痕が刻まれ、呪域事件の時と同じことが起きる。規模はその比ではない。


 管理局本部に到着した。


 ビル全体が黒い光に包まれていた。影宮のいる地下独房から、呪力が噴き出している。


 入口にカナタがいた。第一課の精鋭が展開しているが、結界に阻まれて手が出せない。


 「灰原。来たか」


 「結界の状態は」


 「S級以上。今まで見たことのない強度だ。第一課の総力でも破れなかった」


 「俺が喰う。時間はかかるが——」


 「時間がないんだ。呪蝕は加速している。あと数時間で東京全域の呪力濃度が危険水域に達する。そうなったら——」


 取り返しがつかない。


 マリから連絡が入った。


 「灰原。一つ提案があるわ」


 「聞く」


 「結界を喰うのは時間がかかりすぎる。——でも、結界に穴を開けることはできない? 全体を喰うんじゃなく、一点集中で」


 「一点集中——」


 「カナタくんの呪刃で結界の一点を攻撃して亀裂を入れる。その亀裂から灰原が呪力を吸い出す。雫ちゃんが浄化で亀裂を広げる。——三人の力を一点に集中させるの」


 三人の力の同時投入。


 カナタを見た。カナタが頷いた。


 「やる」


 雫も頷いた。


 結界の前に三人が立った。


 「カナタ。最も薄い点はどこだ」


 カナタが目を閉じ、結界を精査した。


 「左下。地面に近い部分が僅かに薄い。——ここだ」


 カナタが呪刃を構えた。


 「合図で同時にいくぞ。三、二、一——」


 カナタの呪刃が結界に叩きつけられた。A級の全力。火花が散り、結界に亀裂が走った。


 「今だ!」


 俺が亀裂に手を突っ込み、呪力を吸い始めた。雫が隣から白い光を注ぎ込んだ。


 亀裂が——広がっていく。


 カナタがもう一度呪刃を振るう。亀裂が縦に裂け、人一人通れる隙間が生まれた。


 「通れる!」


 「灰原、白峰、行け! 結界の維持は俺が受け持つ!」


 カナタが結界の隙間を呪刃で保持した。閉じようとする結界を、力づくでこじ開けている。


 俺と雫が結界の内側に飛び込んだ。


 結界の向こう側。管理局の地下。


 黒い光が充満している。空気そのものが呪力に染まっていて、息をするだけで胸が痛む。


 独房の扉は既に吹き飛んでいた。


 中に——影宮がいた。


 椅子に座ったまま。枷はかかっている。だが——体全体が黒い光を放っていた。


 影宮の体そのものが、巨大な術式装置と化していた。


 全身に呪痕が浮かび上がり、脈動している。目は閉じている。口元には——微笑。


 「影宮!」


 影宮が目を開けた。


 「灰原くん。来てくれましたか。——予想通りです」


 「術式を止めろ。東京が壊れる」


 「壊れません。——浄化されるのです。この雨が全ての呪いを洗い流し、東京は生まれ変わる」


 「代償に何百万人が苦しむんだぞ!」


 「一時的な苦痛です。呪いが消えた後の世界を思えば——」


 「お前の命はどうなる」


 影宮が微笑んだ。今までで一番穏やかな笑顔だった。


 「私の命一つで、呪いのない世界が作れるなら。——安いものです」


 自己犠牲。


 この男は——俺と同じだ。


 自分の命を捨てて、何かを成し遂げようとしている。方法が間違っているだけで——根っこは同じだ。


 「影宮。お前の理想は分かる。だが——こんな方法は認めない」


 「ならば——止めてみてください」


 影宮の体から、呪力の波動が放射された。


 凄まじい圧力。立っているのがやっとだ。


 だが——立っている。


 「雫」


 「はい」


 「二人で——こいつを止める」


 影宮の体に手を伸ばした。


 最後の戦いが——始まった。

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