第23話 それぞれの矜持
六日目。
独房の中で、俺は呪力の制御訓練を続けていた。
枷がある限り呪力を外に出せない。だが——体内で呪力を操作することは可能だ。蓄積された呪力を集め、圧縮し、制御下に置く。
三年間、暴走を恐れて蓋をしてきた力。それを——使いこなす。
最初は全く制御できなかった。呪力を動かそうとするだけで全身が痛み、呪痕が暴れた。だが——少しずつ、コツが分かってきた。
呪力は「味」がある。それぞれの呪いに固有の味。C級の雑呪は薄味。B級は重い。S級は灼けるような。
味を手がかりに、呪力を分類する。種類ごとに層を作り、秩序を与える。乱雑に堆積していた呪力に——構造を作る。
「……見えてきた」
六日間の訓練で、体内の呪力の全体像が把握できるようになった。
膨大だ。量だけなら——S級呪術師を凌駕する。
問題は出力。枷が外れた瞬間に、この呪力を制御して放出できるか。暴走させずに。
一発勝負。練習はできない。
壁を三回叩いた。カナタから三回返ってきた。
明日が——決行の日になるだろう。影宮が言った「一週間」の期限。
そのとき——扉の外で物音がした。
鍵が回る音。扉が開いた。
入ってきたのは——志摩さんだった。
「志摩——」
「しっ。声を出さないで」
志摩さんは管理局の白衣を着ていた。医療班の制服だ。手には書類ファイルと——鍵束。
「査問委員会は切り抜けたわ。証拠不十分で無罪。——今は医療班の臨時スタッフとして潜り込んでる」
「どうやって」
「医療班に知り合いがいるの。——時間がないわ。聞いて」
志摩さんが低い声で手早く状況を伝えた。
「マリさんが録音データを持って動いてる。局長に直接届けようとしたけど、影宮の警備が厳しくて接触できていない。——でも、別の方法を見つけたわ」
「別の方法?」
「管理局の全館放送システム。本部ビルの全フロアに一斉放送できる。ここに録音データを流せば、全職員が聞く。局長も。——影宮一人では隠蔽できない」
「放送室はどこだ」
「三階。セキュリティは——私が何とかする」
志摩さんが鍵束を見せた。
「この鍵であなたの枷も外せる。——ただし、外した瞬間に警報が鳴る。セキュリティが来るまで三分」
「三分で充分だ」
「隣のカナタくんも出す。二人で——影宮を止めて」
志摩さんの手が震えていた。だが目は真っ直ぐだった。
「志摩さん。お前も危険だ」
「知ってるわ。——でもね、蓮くん。私は管理局の人間よ。管理局を内側から腐らせてる奴を放っておけない。——これが、私の矜持」
矜持。のんびり屋の事務官が、その言葉を使った。
「ありがとう」
「お礼は後で。——準備はいい?」
「ああ」
志摩さんが枷の鍵穴に鍵を差し込んだ。
カチリ。
枷が落ちた。
手首が自由になった瞬間——体内の呪力が目覚めた。
六日間かけて整えた呪力が、全身を駆け巡る。呪痕が一斉に脈動する。だが——暴走しない。制御できている。
「行くぞ」
隣の独房。志摩さんがカナタの枷も外した。
カナタが独房から出てきた。一週間ぶりに見る顔は痩せていたが、目の光は失われていなかった。
「灰原」
「カナタ」
目が合った。言葉は少なくていい。
「影宮を止める」
「ああ」
志摩さんが踵を返した。
「私は放送室に向かう。三分で準備する。——あなたたちは、雫ちゃんを」
「どこにいる」
「十階。特別保護室。——影宮もそこにいるはずよ。計画の実行準備を進めてる」
「分かった」
三人が散った。志摩さんは階段を三階へ。俺とカナタはエレベーターを十階へ。
*
十階。
エレベーターが開いた瞬間、廊下に六人の呪術師が立ちはだかった。
影宮の護衛。全員C級以上。
カナタが一歩前に出た。右手に呪刃が展開される。一週間の拘束で衰えたはずだが——刃の輝きは以前と変わらなかった。
「六人か。——三分で片付ける」
カナタが走った。
A級の速度。最初の一人が反応する前に、呪刃が一閃。呪縛が砕ける。二人目。三人目。
「灰原、先に行け! 白峰を!」
「任せた!」
カナタに背中を預け、走った。廊下の奥——特別保護室。
扉の前に、もう一人。
御堂司。
A級呪術師。相変わらず無表情。
「通さない」
「御堂。お前はまだ——」
「命令だ」
御堂の右手に呪縛が展開された。
俺はその場に立ち止まった。
「御堂。一つだけ聞く。——お前は、影宮の命令で女子高生を殺そうとしたとき、何を思った」
御堂の手が——微かに震えた。
「何も。命令だから」
「嘘だ。お前の呪殺術式を喰ったとき、味が分かった。あの呪いには——迷いがあった。苦味があった。お前は——嫌だったんだ。少女を殺すことが」
御堂の無表情に、亀裂が入った。
「……黙れ」
「お前は道具じゃない。命令に従うだけの機械じゃない。——御堂。今からでも遅くない。退け」
長い沈黙。
御堂の右手が——下りた。
「……三十秒だけだ。三十秒で通り抜けろ。それ以上は——俺も立場がある」
「充分だ。——ありがとう」
御堂の横をすり抜け、特別保護室の扉を開けた。
*
部屋の中央に、雫がいた。
椅子に座っている。手錠はない。だが——周囲に呪術式の紋様が床に描かれている。雫を中心とした円形の術式。
広域呪術浄化の術式。
雫の向かい側に、影宮が立っていた。
「灰原くん。早かったですね。——計画を前倒しする必要がありそうだ」
影宮の手が動いた。床の術式が光り始めた。
「雫!」
「灰原さん!」
雫が立ち上がろうとしたが、術式の光に足を取られ、動けない。
「もう遅い。術式は起動しました。あと数分で——広域展開が始まります」
影宮が微笑んだ。
穏やかな笑顔。最初に会った時と同じ。
「灰原くん。協力してくれませんか。最後の——お願いです」
「断る」
術式に踏み込んだ。
光が体を包む。呪力が引き寄せられ始める——だが、まだ弱い。広域展開はまだ完了していない。
今なら——止められる。
術式の紋様を喰う。足元の光を、直接。
「させません——」
影宮が呪術を放った。A級——いや、それ以上。影宮自身も呪術師だったのか。
黒い光弾が胸に直撃した。吹き飛ばされ、壁に叩きつけられる。
「ぐ——」
「私の本来のランクはS級です」
影宮が眼鏡を直した。
「監査官という立場上、表には出していませんでしたが」
S級。
都市規模の呪いに単独対処可能とされる、呪術師の中でも数十人しか存在しない特急戦力。
この男が。
「灰原さん!」
雫が叫んだ。
俺は壁から体を起こした。口から血が出ている。
だが——まだ立てる。
六日間訓練した呪力の制御。今こそ使う時だ。
体内の呪力を——集める。左腕に。右腕に。胸に。
全身の呪痕が光り始めた。黒い光。蓄積された三年分の呪い。
影宮の目が見開かれた。
「その呪力を——制御しているのか? 暴走せずに?」
「六日間、お前の独房で練習させてもらった。——ありがとな」
呪力を拳に集中させ——影宮に向かって走った。
同時に——ビルの全館放送が響き渡った。
『——三年前の新宿汚染事件は、必要な犠牲でした——』
影宮の声。録音されたあの会話が、管理局本部の全フロアに流れている。
志摩さんが——やり遂げた。
影宮の顔が、初めて歪んだ。
「くっ——」
その隙に——拳が届いた。
呪力を込めた右拳が、影宮の胸に叩き込まれた。
影宮が吹き飛んだ。壁に激突し、床に崩れ落ちる。
同時に——床の術式の光が消えた。影宮の集中が途切れ、術式が停止した。
「灰原さん!」
雫が術式から解放され、駆け寄ってきた。
「大丈夫か」
「私は大丈夫です。灰原さんこそ——」
全館放送が続いている。影宮の告白が、管理局の全職員の耳に流れ込んでいる。
もう——隠蔽できない。
「終わりだ、影宮」
床に座り込んだ影宮を見下ろした。
影宮は——笑っていた。
微笑ではない。乾いた、諦めた笑い。
「そうですか。——終わりですか」
「ああ」
「残念です。呪いのない世界は——まだ遠い」
扉が開き、カナタが飛び込んできた。その後ろに管理局の制服組。局長直属の護衛班だ。
「影宮総一郎。管理局長命令により、あなたを拘束します」
局長が動いた。放送を聞いて、即座に。
影宮は抵抗しなかった。
立ち上がり、両手を差し出した。呪縛の枷がかけられる。
最後に——俺を見た。
「灰原くん。一つだけ覚えておいてください。呪いは——なくならない。あなたが生きている限り。人が恨みを持つ限り」
「知ってるよ。——だから俺は、呪いを喰い続ける」
影宮が連行されていった。
部屋に残ったのは、俺と雫とカナタ。
三人が顔を見合わせた。
「……終わった、のか」
カナタが呟いた。
「ああ。——終わったんだよ」
雫が俺の腕にしがみついた。体が震えている。泣いているのか。
「帰ろう。——缶コーヒー飲みたい」
雫が泣きながら笑った。
「肉まんも」
「ああ。肉まんも」
管理局の廊下を歩く。志摩さんが放送室から駆けつけてきて、マリが正面玄関から入ってきて。
全員が——無事だった。
*
ただし。
影宮は拘束されたが——彼が東京各所に設置した広域呪術式の装置は、まだ残っていた。
そして、その装置の一部は——既に起動していた。




