第22話 白峰の末裔
目を覚ましたのは、独房の中だった。
管理局本部の地下。拘置施設。コンクリートの壁。鉄の扉。窓はなく、天井の蛍光灯だけが白い光を投げている。
両手に呪縛の枷がかけられていた。手首を黒い光の輪が締め付けている。これがある限り、呪力の操作はできない。呪いを喰うこともできない。
「……くそ」
体を起こす。全身が痛むが、致命的な怪我はない。影宮の言った通り、殺す気はないらしい。
扉の小窓が開いた。
見覚えのある顔。御堂司。第一課のA級呪術師。雫にS級呪殺術式をかけた男。
「目が覚めたか」
「お前——まだ影宮の下にいるのか」
「命令だからな」
御堂の声は相変わらず無感情だった。
「白峰は」
「確保された。管理局が保護した——建前としては」
雫が捕まった。
体から力が抜けそうになった。が、歯を食いしばって堪える。
「どこにいる」
「教える義務はない。——だが、危害は加えられていない。影宮上席が必要としている以上、丁重に扱われているはずだ」
丁重。道具を壊さないようにという意味での丁重か。
「御堂。お前は——これでいいのか。影宮の計画を知って、それでもなお従うのか」
御堂が一瞬だけ沈黙した。
「俺は——命令に従う。それが俺の在り方だ」
「命令が間違っていても?」
「正誤を判断するのは俺の仕事じゃない」
小窓が閉まった。
一人きりの独房。
録音データは転送済みだ。マリの手に渡っている。あとはそれが局長の耳に届けば——
だが、マリは動けるだろうか。影宮が雫を確保したなら、マリにも手が伸びているかもしれない。
スマホは没収された。外部との連絡手段はない。
打つ手が——ない。
壁に背を預け、天井を見上げた。
雫。
あいつは今、どこにいるのだろう。怖がっていないだろうか。一人で。
「……俺が守るって——言ったのに」
声が震えた。独房の壁に吸い込まれて、消えた。
*
時間の感覚がなくなっていた。蛍光灯が常に点いているため、昼夜の区別がつかない。
食事は一日二回運ばれてきた。質素だが、食えないほどではない。
鎮痛剤は没収されていた。呪痕の痛みが、何の緩衝もなしに全身を蝕む。慣れた痛みのはずだが、鎮痛剤なしでは集中できない。
何度目かの食事が運ばれてきたとき——食事トレイの下に、紙切れが挟まっていた。
『隣の独房にカナタ。志摩は無事。マリが動いている。——待て。S』
S——志摩さんだ。
査問委員会にかけられているはずの志摩さんが、内部からメッセージを送ってきた。
マリが動いている。まだ終わっていない。
紙を読んで、飲み込んだ。証拠は残さない。
壁を叩いた。三回。隣の独房に向けて。
しばらくして、向こうからも三回返ってきた。
カナタ。生きている。
心臓が少しだけ軽くなった。
*
何日目かの夜——だと思う——に、独房の扉が開いた。
入ってきたのは、影宮だった。
「灰原くん。お元気ですか」
「最高だよ。鎮痛剤がないのを除けばな」
「申し訳ない。規則ですので」
影宮が椅子を持ち込み、独房の中に座った。
「白峰雫のことをお伝えしに来ました」
体が固まった。
「彼女は元気ですよ。管理局の保護施設にいます。食事も睡眠も取れている。——ただ、あなたに会いたいとずいぶん言っていますが」
「会わせろ」
「それはできません。今は準備期間ですから」
「準備?」
「呪術浄化計画の実行準備です。あと一週間で——全ての条件が整います」
一週間。
「広域呪術式の展開に必要な装置を、東京の要所に設置しています。完了次第、計画を実行します」
「俺は協力しないと言った」
「協力は必要ありません。あなたは——喰呪体として機能すればいい。意志は関係ない」
冷たい声。穏やかな微笑の下の、本当の影宮。
「広域呪術式が起動すれば、日本中の呪いがあなたの体に引き寄せられます。あなたの意志に関係なく。そして白峰が浄化する。——それだけです」
「雫も——望んでないはずだ」
「白峰さんには説明しました。呪いのない世界のために必要なことだと。彼女は——拒否しましたが、強制することもできます」
強制。
「お前は——本当に、これが正しいと思っているのか」
「正しいかどうかは歴史が判断します。私は——最善だと信じています」
影宮が立ち上がった。
「一週間。それまでに心境の変化があれば——お知らせください」
扉が閉まった。
一人きり。
一週間。
それまでに——何とかしなければ。
だが、方法が思い浮かばない。呪縛の枷がある限り、力は使えない。独房の壁は厚く、扉は鉄。
カナタも隣の独房にいる。志摩さんは内部で動いているが、限界がある。マリは外で何かしているらしいが、管理局本部の内部にまでは手が届かないだろう。
雫——。
あの子は今、どんな顔をしているだろう。
怖がっている? 泣いている? それとも——
ふと、思い出した。雫が言った言葉。
『私、もう普通の高校生には戻れません。この力がある以上。——それなら、灰原さんの隣で使いたいんです』
あいつは——弱くない。
俺が思っているより、ずっと。
壁に背を預けた。目を閉じた。
考えろ。手はあるはずだ。
影宮は俺を「喰呪体」として必要としている。殺さない。つまり——生かすしかない。
生かすなら——いずれ、枷を外す瞬間がある。計画の実行時に。
その瞬間が——唯一のチャンスだ。
一週間。
待つしかないのか?
いや——待つだけじゃない。
準備する。体の中の呪力を、呪縛の枷の内側で整える。使える瞬間が来た時に、最大限の力を出せるように。
目を閉じたまま、呼吸を整えた。
体内の呪力に意識を向ける。蓄積された膨大な呪い。三年間分の呪い。仲間の呪い。被害者の呪い。呪域の呪い。S級の残滓。
全部——俺の中にある。
使い方次第で、これは武器になる。暴走させるのではなく、制御する。
一週間。この独房の中で——呪力制御の訓練をする。
「……やるしかないな」
独房の壁に呟いた。
返事はない。
だが——壁の向こうから、三回のノック。
カナタだ。
俺も三回叩き返した。
まだ——終わっていない。




