第20話 追われる者
二日目の夜。
事務所で眠りについた直後——スマホの着信で叩き起こされた。
カナタだった。
「灰原。今すぐ事務所を出ろ」
「何があった」
「影宮が第一課の実働班に命令を出した。お前の身柄を拘束しろ、と。理由は『暴走呪力の保有者による公共の脅威』。——実質的な逮捕令状だ」
体が跳ね起きた。
「いつ来る」
「一時間以内。——白峰も一緒か」
事務所の隅を見る。雫はソファで眠っていた。最近は自宅に帰らず、事務所に泊まることが増えていた。
「いる」
「連れて逃げろ。影宮の本当の目的は白峰だ。お前を拘束して、白峰を保護の名目で確保する。そうすれば——」
計画が動き出す。浄化体を手に入れれば、影宮は呪術浄化計画を実行できる。
「お前は」
「俺は管理局内部にいる。まだ動ける。——局長への報告は明日の朝に前倒しする。それまで持ちこたえろ」
「分かった」
電話を切り、雫を起こした。
「白峰。起きろ」
雫が目を開けた。俺の顔を見て、即座に状況を察した。
「逃げるんですか」
「ああ。管理局が来る。一時間以内にここを出る」
雫は文句一つ言わず、荷物をまとめ始めた。
俺も最低限の持ち物をバッグに詰める。鎮痛剤。スマホ。充電器。缶コーヒー二本。ノート——三年前の事件と、影宮の計画に関するメモ。
「行くぞ」
事務所の灯りを消した。
裏口から出る。非常階段を降り、ビルの裏手の路地に出た。表通りの監視車両からは死角になる。
夜の歌舞伎町を、二人で走った。
*
逃げ込んだのは、中野の安いビジネスホテルだった。
現金払い。偽名。部屋は狭く、ベッドが一つとユニットバスだけ。
「灰原さん。ベッドは使ってください。私は床で——」
「お前がベッドだ。俺は椅子で寝る」
「でも——」
「議論の余地なし」
雫がベッドに座り、膝を抱えた。
「逃げてるだけじゃ、解決しないですよね」
「ああ。カナタが明日の朝、局長に直接報告する。それが通れば——影宮を止められる」
「通らなかったら」
「……その時はその時だ」
雫が黙った。
スマホにマリからメッセージが入った。
『管理局第一課の実働班六名が歌舞伎町に展開。あなたの事務所は空振り。現在、周辺を捜索中』
マリの情報網は生きている。ありがたい。
『捜索範囲は新宿区内。中野まではまだ来ていない。——でも時間の問題よ。呪力追跡を使えば、あなたの呪痕は隠しきれない』
呪力追跡。呪痕を持つ人間の位置を、呪力の痕跡から特定する技術。Aランクの感知型呪術師なら可能だ。
「灰原さん。呪力追跡って——防げないんですか」
「普通は防げない。だが——」
考える。俺の体に蓄積された呪力は膨大だ。隠すのは難しい。
だが——逆に言えば、周囲の呪力をかき乱すことで追跡を困難にすることは可能かもしれない。体から微量の呪力を放出し、ノイズを撒く。追跡する側はノイズの中から本体を見つけなければならない。
「やれるか分からないが——試す」
右手に意識を集中し、体に蓄積した呪力をごく少量だけ外に漏らした。黒い霧のような呪力が指先から滲み出し、部屋の空気に溶けていく。
呪痕が疼いた。制御が難しい。開けた蛇口から水が噴き出すように、呪力が溢れようとする。
「——っ」
歯を食いしばって制御する。少量だけ。ノイズの量を一定に保つ。多すぎれば暴走、少なすぎれば追跡を防げない。
「灰原さん、大丈夫ですか——腕が」
左腕の呪痕が激しく脈動している。だが——出血はない。制御できている。
「大丈夫だ。これで多少は追跡を遅らせられる」
雫が心配そうに見つめていた。
「灰原さん。私にできることは——」
「寝ろ。明日が本番だ」
「灰原さんこそ」
「俺はいい。呪力のノイズを維持しなきゃならないから、寝られない」
「……じゃあ、起きてます」
「寝ろって——」
「嫌です。一人で起きてる灰原さんを寝かせて、私だけ寝るなんて——嫌です」
頑固な子だ。
「……好きにしろ」
結局、二人とも眠れないまま夜を過ごした。
ベッドに座った雫が、ぽつりぽつりと話し始めた。
「灰原さんは——呪いを喰い始める前は、どんな人だったんですか」
「普通だよ。普通の、何も特別じゃない呪術師の見習いだった」
「楽しかったですか」
「……ああ。仲間がいて、毎日訓練して、馬鹿なことして笑って。——楽しかった」
「その仲間が——三年前に」
「ああ」
「灰原さんが悪いんじゃないですよ。それは分かってますよね」
「……頭では」
「心でも、分かってほしいです」
雫の声は静かだった。
「灰原さんは——ずっと自分を罰してるみたいに見えます。痛い思いをして、危険なことをして、それが当然だって顔をして。でも——灰原さんが幸せになっちゃいけない理由なんて、どこにもないです」
言葉が胸に刺さった。
十七歳の少女に、核心を突かれた。
「……お前、カウンセラーにでもなったらどうだ」
「なりません。灰原さんの助手が忙しいので」
ホテルの窓から、空が白み始めていた。
明日——いや、今日。全てが決まる。
「白峰」
「はい」
「——お前は強いな」
雫が笑った。
*
朝八時。カナタから連絡が入った。
『局長室に入る。これから報告する。——信じろ』
俺は返信した。
『信じてる。——頼む』
スマホを置いて、窓の外を見た。
中野の街。朝の通勤ラッシュ。普通の人々が普通に生きている街。この人たちは呪いのことも、管理局のことも、影宮の計画のことも知らない。
知らなくていい。知らないまま、平穏に生きていてほしい。
そのために——俺たちが動く。
一時間が経った。連絡はない。
二時間。まだない。
三時間——。
スマホが鳴った。
カナタではなく——マリ。
「灰原。まずいことになったわ」
マリの声に、明らかな動揺があった。
「カナタくんが——管理局で拘束された」
心臓が止まるかと思った。
「局長に報告しようとしたところを、影宮の手の者に阻止されたの。局長室に入る前に。——第一課の任務停止違反を理由に、独房入りよ」
全ての道が——塞がれた。
カナタも捕まった。志摩さんも動けない。認可は取り消され、事務所は追われ、今は逃げている身。
「マリ。——もう打つ手はないのか」
長い沈黙。
「一つだけ。——でも、あなたの命がかかるわ」
「聞かせろ」
「影宮に——直接会いに行きなさい」
「管理局本部に? 捕まるぞ」
「捕まるわ。でも——影宮はあなたに会いたがってる。『喰呪体』としてのあなたに。だから会えば——話を聞く」
「話を聞かせて、それから何だ」
「影宮の口から、計画の全容を引き出す。それを——録音する。物理的な証拠を作って、外に出す」
「外に出す方法は」
「私が手配する。あなたが影宮と話している間に、録音データを外部にリアルタイムで転送する仕組みを作る。——あとは、それを局長の耳に届ければいい」
危険だ。影宮の懐に飛び込む。
だが——他に方法がない。
「やる」
雫が俺の腕を掴んだ。
「灰原さん——!」
「白峰。お前はマリと一緒にいろ。データの転送と、局長への伝達を頼む」
「でも——」
「頼む」
雫の目を見た。まっすぐに。
「信じてくれ」
三度目の、その言葉。
雫が唇を噛んだ。長い数秒。
「……必ず、帰ってきてください」
「帰る。缶コーヒー飲みたいからな」
ホテルを出た。
管理局本部に——乗り込む。




