第2話 七日の宣告
目が覚めたのは、空き缶が倒れる音だった。
机に突っ伏していた顔を上げる。首が痛い。時計は午前六時を回っていた。窓の外はまだ薄暗く、歌舞伎町の朝は遅い。
デスクの上には缶コーヒーの空き缶が四本と、走り書きだらけのノート。一晩中、白峰雫の呪いを観察して分かったことをまとめた結果がこれだ。
結論から言えば——予想より、ずっと悪い。
ソファに目をやる。毛布にくるまった雫は、まだ眠っている。呼吸は浅いが安定している。首筋の呪痕は昨夜より少しだけ広がっていた。耳の後ろまで達している。
進行している。確実に。
俺は五本目の缶コーヒーを開けて、一口飲んだ。ぬるい。
「……ん」
雫が身じろぎした。目を開け、見慣れない天井を見上げ、一瞬だけ混乱した顔をして——それから全部思い出したらしい。表情が引き締まった。
十七歳にしては落ち着いた反応だ。
「おはよう。気分は」
「……頭が少し痛い。それ以外は大丈夫です」
体を起こして毛布を畳む。こういうところが妙に律儀だ。
「水、そこのペットボトル飲んでいい。それと——話がある」
雫がペットボトルのキャップを開けながら、じっとこちらを見た。覚悟はできている、という目だった。
「一晩かけて、お前の呪いを調べた」
ノートを開く。
「S級呪殺術式。正式には『七日蝕命式』と呼ばれるやつだ。かけられた人間を七日で確実に殺す。ここまでは昨日話した通り」
「はい」
「問題は中身だ。この術式は段階的に進行する。初日から三日目までは頭痛と倦怠感。四日目から五日目にかけて、幻覚と高熱。六日目に内臓機能の低下が始まって、七日目——心臓が止まる」
淡々と告げた。感情を混ぜても意味がない。
雫は水を飲み込んで、小さく頷いた。
「今が二日目の朝。頭痛は始まってる。予定通りってことですね」
「……ああ」
こいつ、肝が据わっている。自分の死の予定表を聞かされて、「予定通り」とは。
「それで、灰原さん。喰える、んですか。この呪い」
核心を突いてくる。
「分からない」
正直に答えた。
「S級を喰った経験はない。C級でも毎回体に負担がかかってる。S級を喰ったら——最悪、俺が死ぬ」
「それじゃ——」
「ただし」
雫の言葉を遮った。
「いきなり喰うのは最終手段だ。もう一つ方法がある。呪いの発信源——つまり、お前にこの呪いをかけた奴を見つけ出す。術者本人に術式を解除させるか、術式の構造を完全に把握して安全に解体するか。どっちかだ」
「犯人を見つける」
「そういうことだ。どんな呪いにも始点がある。呪いと術者は見えない糸で繋がってる。その糸を辿れば、かけた奴に辿り着ける」
雫が少し考えて、言った。
「管理局には——その方法は伝えたんですか?」
「伝えたと思うか? S級事案なら管理局も追跡くらいやるだろう。それでも解呪を断ったってことは——犯人が見つからなかったか、見つかったけど手が出せなかったか。どっちかだ」
雫の顔が曇った。
「……管理局の人は、私の話を聞いて、書類だけ書いて、『現状では対処が困難です』って言いました。五分で終わりました」
五分。人一人の命が懸かった相談が五分。
怒りが喉元まで込み上げたが、飲み込んだ。管理局ってのはそういう組織だ。今さら驚かない。
「他の呪術師は?」
「三人回りました。二人は呪いを見た瞬間に断られました。三人目のBランクの方が、一番長く話を聞いてくれて——でも最後に『自分の手には負えない。残された時間を大切にしなさい』って」
声が少し震えた。だが泣かなかった。唇を一度噛んで、持ち直した。
「それで、ネットで探して——ここを見つけました」
ネット。たぶん、怪しい口コミサイトか何かだろう。歌舞伎町の裏路地にある安い呪い除去屋。評判は「安くて雑だけど確実に効く」程度のはずだ。
「白峰」
名前で呼ぶと、雫が少し驚いた顔をした。
「一つ聞く。お前、呪術とか霊とか、そういうものに関わったことは? 家族に呪術師がいたとか」
「ありません。両親は二年前に交通事故で……普通の会社員でした。私も、呪いをかけられるまで、こういう世界があるなんて知りませんでした」
普通の高校生。普通の家庭。呪術とは無縁の人生。
それなのに、S級呪殺術式。
釣り合わない。C級やD級の嫌がらせ呪術なら、恨みを持った知人が闇ルートで依頼することもある。だがS級は別だ。使える人間が国内に片手もいない超高等術式。そんなものを、なぜわざわざ一般人の女子高生に使う?
「白峰」という姓が引っかかる。どこかで見た覚えがある。だが、思い出せない。
「……分かった」
立ち上がって、壁に掛けたジャケットを取った。
「手伝う。ただし条件がある」
「何でも」
「何でもは危ないぞ。——いいか、俺が言うことには従え。危ないと言ったら逃げろ。死ぬなと言ったら死ぬな。それだけだ」
雫がまっすぐこちらを見て、頷いた。
「分かりました。——灰原さん」
「何だ」
「ありがとうございます」
その声が、あまりにも真っ直ぐだったから。
俺は何も言えずに、缶コーヒーのぬるい残りを飲み干した。
*
昼間は動けない。
呪いは夜に活性化する。暗闇の中でこそ、呪痕は本来の姿を見せ、術者との繋がり——俺たちは「呪糸」と呼ぶ——が視認できるようになる。
雫にはコンビニで買った弁当を渡し、夜まで休むように言った。体力は温存すべきだ。進行はまだ初期段階。頭痛程度で済んでいるうちに手を打たなければならない。
俺は事務所のデスクで、古い資料を引っ張り出していた。管理局が発行する呪術関連のデータベース。Eランクでもアクセスできる範囲は限られているが、「七日蝕命式」の基礎情報くらいは載っている。
——使用記録のある術者は過去十年で四名。全員A級以上。
四名。そのうち二名は既に死亡。一名は服役中。残る一名は——
データが黒く塗り潰されていた。閲覧制限。Eランクにはアクセス権がない。
「……志摩さんに聞くか」
気は進まないが、管理局内部の情報はあの人に頼るしかない。
スマホを取り出す。が、ここで志摩に連絡すると面倒なことになる。S級事案に非公式で関わっていると知られれば、認可取消どころの話じゃない。
慎重にいかないと。
午後。雫はソファで静かに眠っていた。時折、眉を寄せる。頭痛は続いているのだろう。
彼女の寝顔を見ながら、俺は三年前のことを考えていた。
あの日も、助けを求める人間がいた。あの日も、俺は引き受けた。
そして——。
「……同じ失敗はしない」
誰にも聞こえない声で呟いて、鎮痛剤を二錠、口に放り込んだ。
*
午後八時。日が完全に落ちた。
雫を起こす。顔色はまだ悪いが、目には力があった。
「行くぞ。呪いの根を辿る」
事務所を出て、歌舞伎町の夜に踏み出す。ネオンが目を刺す。酔客が肩をぶつけながら通り過ぎていく。この街は相変わらず喧しい。
だが——俺の目には、普通の人間には見えないものが映っている。
路地の隅で蹲る黒い靄。ビルの壁を這う紋様。電柱に絡みつく細い糸のようなもの。
呪いの残滓。東京という街の裏側。
隣を歩く雫が、俺の視線を追って首を傾げた。
「灰原さん、何を見てるんですか」
「お前には見えないものだよ。——今のところは」
歌舞伎町の喧騒を背に、俺たちは夜の東京に足を踏み入れた。
六日間のカウントダウンが、始まった。




