第17話 二つの刃
朱鷺野カナタが事務所に来た。
アポなしで。管理局の制服のまま。
雫がドアを開けて、固まった。
「あ、あの——灰原さん、お客さんです。管理局の——」
「知ってる」
カナタが事務所に入り、周囲を見回した。六畳一間。剥げたペンキ。チカチカする蛍光灯。壁の手書き看板。
「……ここで仕事をしているのか」
「文句あるか」
「ある。照明を替えろ。目が悪くなる」
まさかの実務的なアドバイス。
カナタはソファに座らず、壁際に立ったまま切り出した。
「調べた。三年前の新宿汚染事件の関連資料を、可能な範囲で」
「何か分かったか」
「公式報告書と、現場で回収された呪力サンプルの分析データに——矛盾がある」
カナタが鞄からファイルを取り出した。
「報告書は『自然暴走』としている。だが分析データを見ると、呪力のパターンに人為的な操作の痕跡がある。自然暴走なら均一に広がるはずの呪力が、特定のポイントに集約するよう設計されていた」
「設計。つまり——」
「誰かが意図的に呪域を発生させた。報告書は嘘だ」
カナタが資料をテーブルに置いた。その手が微かに震えていた。
「管理局の公式報告書が——虚偽。信じたくないが、データは嘘をつかない」
「報告書を書いた影宮が、事件の隠蔽を図った」
「そういうことになる」
カナタが壁に背を預け、天井を見上げた。
「俺は管理局に入ってから、組織を信じてきた。命令に従い、任務を遂行し、それが正しいことだと。——だが」
「組織が正しいとは限らない」
「分かっている。頭では。だが——」
声が途切れた。カナタにとって、管理局は人生そのものだったのだろう。幼い頃から呪術の才能を見出され、エリートコースを歩み、最年少でAランクに昇格した。組織への忠誠は、アイデンティティの一部だ。
それが揺らいでいる。
「朱鷺野。別に管理局全体が腐ってるわけじゃない。志摩さんみたいな人間もいる。腐ってるのは一部だ。影宮とその周辺だけだ」
「だとしても——」
「だとしても、お前がやるべきことは変わらない。正しいことをしろ。それだけだ」
カナタが俺を見た。
「お前は簡単に言うな」
「簡単じゃないさ。でも——やるしかないだろ」
カナタが小さく息を吐いた。
「……もう一つ、気になるデータがある」
「何だ」
「三年前の事件の後、影宮が個人的に収集していた研究データを見つけた。暗号化されていたが——第一課の解析班に頼んで復号させた」
「内容は」
「『呪術浄化』に関する理論研究。特定の条件下で、広範囲の呪いを一度に消滅させる理論。——その中に、二つのキーワードが繰り返し出てくる」
カナタが資料の別のページを開いた。
「『喰呪体』と『浄化体』。呪いを取り込む存在と、呪いを消す存在。この二つが揃えば——理論上、都市規模の呪いを一度に消滅させることができる」
体が冷えた。
喰呪体——俺。
浄化体——雫。
「影宮の目的が見えてきた」
雫が口を開いた。黙って話を聞いていた彼女が、静かに言った。
「影宮さんは——私と灰原さんを使って、大規模な呪いの浄化をしようとしている。そういうことですか」
「そういうことだ。三年前の事件は——喰呪体を作るための実験だったんだ」
声が震えた。自分でも気づいた。
三年前。あの事件で仲間が死んだのは——俺の力を試すための、影宮の実験だった。
大量の呪いを浴びせ、仲間の呪いを喰わせ、体に呪力を蓄積させる。俺は——作られたんだ。
「灰原さん——」
雫が俺の腕に触れた。
「大丈夫だ。——分かってはいたんだ。どこかで」
嘘だ。分かっていなかった。覚悟はしていたつもりだったが、現実に突きつけられると——体の芯が震える。
仲間の死は事故じゃなかった。計画的な殺人だった。
「灰原」
カナタの声。
「影宮を止める。必ず」
その声には、揺るぎない決意があった。
「まだ分からないことがある」
気持ちを押し殺して、思考を回す。
「大規模浄化が目的なら——なぜ雫を殺そうとした。最初に御堂に呪殺を命じた。浄化体を殺したら計画が成り立たないだろう」
「それは——確かに矛盾する」
カナタが眉を寄せた。
雫が静かに言った。
「試したんじゃないですか」
「試した?」
「私がSランクの呪いに耐えられるかどうか。白峰の血が覚醒するかどうか。——灰原さんが私を助けに来るかどうかも含めて」
全員が黙った。
もし雫が正しいなら——影宮は最初から全てを計算していた。雫に呪いをかけ、それを知った俺が助けに動き、その過程で雫の力が覚醒し、俺と雫が出会う。
全てが——影宮の筋書き通り。
「……面白い仮説だが、証拠がない」
カナタが言った。
「証拠は——影宮本人から引き出すしかない」
「直接対峙するのか」
「いずれは。だが今はまだ早い。もっと証拠を固めてからだ」
カナタが頷いた。
「俺は管理局の中で動く。影宮の行動記録、第九課の内部文書、三年前の事件に関わった人間のリスト。全て洗い出す」
「俺は外から。マリの情報網を使って、影宮の外部での動きを追う」
「私は——」
雫が手を挙げた。
「力の練習を続けます。次に何かあった時、足手まといにならないように」
カナタが雫を見た。
「君は——白峰雫か」
「はい」
「浄化の力を持っていると聞いた。——見せてもらえるか」
雫が右手を開いた。掌に白い光が灯る。前に見た時より、少しだけ明るく、安定していた。
カナタが息を呑んだ。
「本物か。白峰の血が——現代に残っていたとは」
「まだ全然弱いです。でも、毎日少しずつ——」
「焦る必要はない。力は——使い方を間違えなければ、必ず応えてくれる」
意外な言葉だった。カナタの声に温かみがあった。同じ呪術の力を持つ者同士の、共感のようなもの。
「ありがとうございます、朱鷺野さん」
「カナタでいい」
「え——」
「同じ目的のために動くなら、名前で呼ぶ方が早い」
カナタが事務所のドアに手をかけた。
「灰原。——お前は型破りだが、間違ったことはしていない。それだけは認める」
「褒め言葉か」
「事実だ。——連絡する」
カナタが出ていった。
事務所に二人。
「灰原さん。仲間が増えましたね」
「仲間っていうか——」
「仲間ですよ」
雫が笑った。
缶コーヒーを開けた。微糖。
仲間。三年ぶりの言葉だ。あの日以来、使うことがなかった言葉。
「……悪くないな」
「何がですか」
「何でもない」
缶コーヒーが、いつもより少しだけ美味かった。




