第15話 歪んだ街
核を喰い始めた瞬間——世界が変わった。
黒い光が両手から体内に流れ込み、全身の呪痕が一斉に反応した。今まで喰ってきたどの呪いとも違う。重さ、密度、深さ——全てが桁違いだ。
Sランクの呪殺術式は「針」だった。鋭く、精密に対象を殺す呪い。
これは——「海」だ。方向も形もない、純粋な呪力の奔流。飲まれたら終わる。
歯を食いしばった。喰え。止まるな。
核から呪力が流れ込むたびに、視界が歪んだ。新宿の街が二重に見える。今の歪んだ新宿と——三年前の、崩壊していく新宿が重なる。
幻覚だ。核の呪力が記憶を刺激している。
「灰原! 後ろ!」
カナタの声。振り返る暇はない。背後で呪刃が空を裂く音。呪霊を斬る音。
核を喰い始めた瞬間から、周囲の呪霊が集まってきていた。核は呪域のエネルギー源だ。それを脅かす存在——俺を排除するために、呪域全体が反応している。
「任せた」
「分かっている!」
カナタの呪刃が閃く。黒い影が裂け、散り、消える。一体、二体、三体。さすがはAランク。呪霊の処理速度が段違いだ。
俺は核の呪力を喰うことに集中する。
三年前と同じ味。あの日、仲間たちの体から喰った呪いと同じ根源。
だが——今の俺はあの日の俺じゃない。三年間、呪いを喰い続けてきた。体に蓄積された呪い。鍛えられた——いや、酷使された体。
核の外殻を一つ、また一つと喰い破っていく。
呪力の流入が加速した。全身が熱い。背中の呪痕が膨張し、皮膚の下で蠢いている。口の中に血の味が広がった。
核の表面に亀裂が入った。
あと少し。もう少し——
そのとき、核の内部から——声が聞こえた。
『蓮——』
心臓が止まるかと思った。
桐生の声だ。
『蓮。逃げろ。俺たちのことは——』
幻覚。核の中に残留した三年前の記憶が、声として再生されている。
分かっている。分かっている、のに。
目頭が熱くなった。
『蓮。生きろ。お前は——生きろ——』
「うるせえよ、創太……」
声が震えた。
三年間。この声を、何度夢に聞いたか。何度目を覚まして、空っぽな天井を見つめたか。
仲間を助けられなかった夜。その呪いだけを喰って生き残った夜。あの日から、俺はずっと——
「お前らの分まで喰ってやるって——言っただろ」
核を喰う力を強めた。呪力が激流のように体内に流れ込む。もう味なんて分からない。ただ、喰う。喰う。喰う。
核の亀裂が広がっていく。
「灰原! 体が——」
カナタが叫んだ。俺の体を見て、何かに気づいたらしい。
知っている。左腕の呪痕が限界を超えて膨張している。皮膚が黒く変色し、紋様が腕全体を覆い尽くしている。暴走の一歩手前。
だが——止まれない。
核の外殻が崩壊した。内部のエネルギーが露出する。
ここからが本番だ。
核の心臓部。三年前の呪力の根源。これを喰い切れば——終わる。
両手を核の内部に突っ込んだ。
世界が真っ白に飛んだ。
*
白い空間にいた。
体がない。自分が「どこ」にいるのかも分からない。ただ、白い。
「蓮」
振り返った。
桐生が立っていた。
いつものCINMA Tシャツ。スニーカー。人懐っこい笑顔。三年前に死んだはずの男が、目の前に立っている。
「創太——」
「幻覚だよ。分かってるだろ」
桐生が笑った。
「俺は核の中の残留思念だ。三年前にここに閉じ込められた俺たちの記憶。お前が核を喰い始めたから——出てきた」
分かっている。でも——声が出なかった。
「三年間、大変だったろ」
「……お前らの呪いを喰って、体はぼろぼろだけどな」
「知ってるよ。全部見えてた」
「見えてたのかよ」
「核の中から。——お前が毎日鎮痛剤飲んでるのも、缶コーヒーばっか飲んでるのも、全部」
桐生が少し悲しそうな顔をした。
「蓮。お前、自分を大事にしなさすぎだ」
「お前に言われたくない。あの日、俺を逃がそうとして——」
「それは俺の選択だ。お前が背負うことじゃない」
桐生が一歩近づいた。
「蓮。俺たちの呪いは——もう、下ろしていいんだ」
「何を——」
「お前の体に残ってる俺たちの呪痕。三年間お前を苦しめてきたもの。——今、核と一緒に喰い切れ。俺たちを解放してくれ」
桐生の姿が薄くなっていく。
「待て——創太——」
「ありがとな、蓮。お前が生きてて——よかった」
桐生の姿が消えた。
白い空間が砕け、現実が戻ってきた。
*
新宿の広場。核の前。
両手は核の内部に突っ込んだまま。
涙が頬を伝っていた。いつから泣いていたのか分からない。
「——喰い切れ」
自分に言い聞かせた。
核の心臓部を——三年前の仲間たちの残留思念ごと——引きずり込んだ。
不味い。今までで一番不味い。でも——あいつらの味は、知ってる。三年間ずっと、体の中にいたんだから。
核が砕けた。
黒い結晶が粉々に崩れ、黒い粒子となって空に散っていく。
同時に——呪域全体が揺れた。
頭上の黒い雲が裂け、隙間から光が差し込んだ。昼の陽光。呪域の外の、普通の空。
結界が崩壊していく。
ビルの壁を覆っていた呪痕が剥がれ落ちる。地面のひび割れが閉じていく。黒い靄が風に流され、消えていく。
新宿が——元に戻っていく。
膝をついた。体が動かない。両腕の呪痕は以前の倍に膨張し、左手の指先まで真っ黒に染まっている。全身が震えている。鎮痛剤を飲む気力もない。
「灰原!」
カナタが駆け寄ってきた。呪刃を解除し、俺の肩を支える。
「核を——喰ったのか。全部」
「ああ。——終わった」
呪域が消える。黒い膜が溶けるように消失し、向こう側の普通の新宿が見えた。管理局の部隊が突入してくる。閉じ込められていた一般人が救出され始める。
「三百人は」
「全員無事だ。呪いの侵食が本格化する前に解放できた。——お前のおかげだ」
カナタの声に、さっきまでの侮蔑はなかった。
「礼は言わない。お前がやるべきことをやっただけだ」
「……素直じゃねえな」
「うるさい」
カナタが俺の腕を自分の肩にかけ、立ち上がらせた。
「医務室に連れていく。その体——ひどいものだぞ」
「知ってる。いつものことだ」
「いつものことがこれなのか」
カナタが呆れた声で言った。
管理局の医療班が駆けつけ、俺は担架に乗せられた。
空が見えた。青い空。さっきまで黒い雲に覆われていた空。
三年分の呪いを——喰い切った。
核の中にいた仲間たちの残留思念も、一緒に。
もう夢では聞こえないだろう。桐生の声。
それが——少しだけ、寂しかった。
「創太。——三年分の借り、返したぞ」
誰にも聞こえない声で呟いた。
目を閉じた。




