第14話 三年前の残響
呪域の中は、地獄だった。
見慣れたはずの新宿の街が、まるで別世界になっている。
アスファルトの道路はひび割れ、隙間から黒い靄が噴き出している。ビルの壁は呪痕に覆われ、脈動するたびに建物全体が軋む。頭上には黒い雲が渦を巻き、太陽の光を完全に遮断していた。
そして——声が聞こえる。
呻き声。泣き声。助けを求める声。結界の内側に閉じ込められた一般人たちだ。ビルの中や地下に逃げ込んでいるのだろう。直接は見えないが、声だけが呪域の中に反響している。
「くそ……」
急がなければ。
結界の内側から穴を開ける。カナタとの約束は一時間。それまでに結界の一部を喰い破って、管理局の突入ルートを作る。
だが——結界に向かう前に、この呪域の「核」を探す必要がある。核を潰さなければ、結界に穴を開けても呪域は拡大し続ける。
核はどこだ。
三年前の事件を思い出す。あの時も、呪域の中心に核があった。呪力が集約するポイント。新宿汚染事件の核は、新宿駅の地下——
足が止まった。
目の前の交差点に、黒い影が立っていた。
人の形をしているが、人間ではない。全身が黒い靄で構成されており、顔はない。だが、こちらをじっと見つめている気配がある。
呪霊。呪域の中で自然発生した呪霊だ。
それも——見覚えがある。
あの影は、三年前にも見た。呪域の中を彷徨う影。当時は「残留思念」と呼ばれていた。呪域に飲まれた人間の負の感情が凝縮し、形を得たもの。
影がゆっくりとこちらに向かって歩いてきた。
手を伸ばす。指先が影に触れた瞬間——
声が聞こえた。
『助けて——誰か——出して——ここから——』
閉じ込められた人間の恐怖。それが凝縮して、影になっている。
「……悪いな。今は喰えない。先にやることがある」
影を避けて進む。呪域の中心に向かって。
道を進むごとに、呪力の濃度が上がっていく。空気が重くなり、視界が狭まる。呪痕が壁や地面だけでなく、空気そのものに浮かんでいる。
通りの角を曲がったとき——足が止まった。
目の前に、廃墟があった。
正確には、かつて居酒屋だったビル。一階が飲食店、二階が事務所。三年前の事件で破壊され、そのまま放置されている建物。
この場所は——知っている。
三年前。ここが、全ての始まりだった。
記憶が奔流のように押し寄せてきた。
*
三年前の俺は、二十二歳だった。
管理局に認可されたばかりの新人呪術師。能力は「呪喰い」。ランクはE。
当時はまだ——体に呪痕はほとんどなかった。
「蓮。今日の任務、聞いたか」
声をかけてきたのは、桐生創太。同期の呪術師。Cランク。攻撃型。人懐っこい笑顔と、腕っぷしの強さが自慢の男。
「新宿駅周辺の呪力異常の調査だろ。どうせ低級呪霊の掃討だ」
「たぶんな。でも、念のため気をつけろよ」
チームは五人だった。
桐生創太。Cランク、攻撃型。リーダー。
水瀬彩音。Dランク、感知型。呪力の感知に優れた女性。
藤堂健吾。Cランク、防御型。結界術の専門家。
黒川舞。Dランク、解呪型。呪いの分析が得意。
灰原蓮。Eランク、喰呪型。——お荷物。
五人で新宿の地下を調査した。通常の任務のはずだった。
だが——地下三階に降りた瞬間、全てが変わった。
呪力の暴走。予告なく、地下全体が呪いに飲まれた。結界が発生し、外との連絡が途絶えた。
藤堂が防御結界を張った。だが呪力の圧力が強すぎて、結界は五分で破られた。
水瀬が呪力の発生源を感知した。地下の最深部に、何かがある。だが辿り着く前に、呪霊が次々と出現した。
桐生が呪霊を斬った。一体、二体、三体。だが数が多すぎた。十体以上の呪霊が、四方から押し寄せてきた。
黒川が呪霊の弱点を分析しようとしたが、解析が間に合わなかった。
一人ずつ——倒れていった。
「蓮、逃げろ!」
桐生の声。最後に聞いた桐生の声。
倒れた仲間の体に、呪痕が広がっていく。呪域の中で死んだ人間の体は、呪いに飲まれる。放置すれば、彼らの体が新たな呪霊の苗床になる。
できることは一つだけだった。
俺は——仲間の体から呪いを喰った。
桐生から。水瀬から。藤堂から。黒川から。
四人分の呪いを、一度に喰った。
世界が真っ暗になった。全身が引き裂かれるような痛み。意識が千切れ飛ぶ。
気がついたとき、俺は管理局の医務室にいた。
呪域は消えていた。管理局の大規模チームが外から結界を破って救出したらしい。
生存者は俺一人だった。
そして——俺の体には、数え切れないほどの呪痕が刻まれていた。
仲間の呪い。四人分の呪いと、呪域で浴びた大量の呪力。全てが俺の体に沈殿していた。
事件の公式報告書には「呪力の自然暴走による事故」と記された。
書いたのは——影宮総一郎。
*
記憶から戻った。
廃墟の前に立ち尽くしていた。拳を握りしめている。爪が掌に食い込んでいた。
三年前と同じ呪力。同じパターン。同じ場所。
偶然じゃない。
誰かが——三年前と同じことを、意図的にもう一度起こしている。
「影宮……」
呟いた。確信はない。だが——繋がりは見えている。三年前の事件の報告書を書いた男。御堂に雫の呪殺を命じた男。氷室の後ろ盾だった男。
全ての線が、影宮に集まっている。
考えるのは後だ。今は——三百人の命がかかっている。
足を進める。呪域の中心に向かって。
三年前は間に合わなかった。仲間を救えなかった。
今度は——
足元の地面が揺れた。呪力の波動。核が近い。
新宿駅東口の前。普段なら人でごった返す広場。今は黒い靄に覆われ、地面全体が呪痕で脈動している。
広場の中央——そこに、核があった。
地面から突き出した黒い結晶。高さ三メートルほど。周囲の呪力を吸い集め、呪域全体に供給するポンプのような役割を果たしている。
これを壊す——いや、喰う。核を喰えば呪域は崩壊する。
一歩踏み出した。
「止まれ」
背後から声。
振り返ると——カナタが立っていた。
黒い制服が呪力の黒い靄に染まっている。右手に呪刃を展開し、左手は結界で体を守っている。
「お前——中に入ったのか」
「入った。結界の外から見てても埒が明かない。——お前より先に核を見つけたようだな、Eランク」
カナタの目は、相変わらず傲慢だった。だが——ここに来たということは、外から結界を破る方法では間に合わないと判断したのだろう。
「核はあれだ。あの結晶を壊せば呪域は消える」
「分かっている。——俺がやる。お前は下がれ」
カナタが呪刃を構え、核に向かって走り出した。
呪刃が核に叩きつけられた。黒い光が散る。
だが——核は傷一つついていなかった。
カナタの顔が歪んだ。もう一度。もう一度。三回、四回、五回。Aランクの呪刃が核を叩き、火花を散らすが、表面に傷すら入らない。
「くそ——なぜだ!」
「物理的な攻撃じゃ壊せない。あの核は呪いの塊だ。呪いを呪いで斬ることはできない」
カナタが肩で息をしながら、俺を睨んだ。
「ならどうする」
「喰う」
「——喰う?」
「あの核を喰う。呪いを呪いで斬れないなら、呪いを喰えばいい。それが俺の仕事だ」
カナタの顔に、信じられないという表情が浮かんだ。
「あれを喰う? あの大きさの呪いの結晶を? 死ぬぞ」
「死なない」
「根拠は」
「ない。でも——三百人が閉じ込められてる。他に方法があるか」
カナタが黙った。
長い沈黙の後——呪刃を下ろした。
「……一つ条件がある」
「何だ」
「お前が核を喰っている間、俺が護衛する。呪霊が集まってくるはずだ。それを俺が斬る」
「……頼む」
予想外の申し出だった。あのプライドの高い男が、Eランクの俺に仕事を任せると言っている。
「勘違いするな。お前を信頼したわけじゃない。三百人を救うために、使える手段は全て使うだけだ」
「分かってる」
核の前に立った。
黒い結晶が脈動している。近づくだけで全身の呪痕が悲鳴を上げる。この中に、三年前と同じ呪力が凝縮されている。
あの日の仲間の顔が浮かんだ。桐生。水瀬。藤堂。黒川。
「……待ってろ。今度は、全部片付ける」
両手を核に押し当てた。
黒い光が爆発的に溢れ出した。
喰い始める。




