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第13話 新宿封鎖

 それは、何の前触れもなく起きた。


 ある水曜日の午後三時。新宿駅東口。


 最初に気づいたのは、通行人ではなかった。管理局に設置された呪力観測計器が、数値の急激な上昇を検知した。新宿区内の呪力濃度が、三秒間で通常の百倍に跳ね上がった。


 それを俺が知ったのは、志摩さんからの電話だった。


 「蓮くん。新宿がおかしい」


 「おかしいって何だ」


 「分からない。計器が振り切れてる。第一課が出動した。——あなたのところの窓から見える?」


 事務所の窓に駆け寄った。


 見えた。


 新宿駅の東口方面。ビルの隙間から見えるその上空に——黒い柱が立っていた。


 地面から空に向かって伸びる、真っ黒な光の柱。煙ではない。雲でもない。呪いだ。凝縮された、膨大な量の呪い。


 「何だ、あれは——」


 窓に手を当てた瞬間、衝撃波が来た。


 ビルが揺れた。窓ガラスにひびが入る。棚から缶コーヒーが落ちて床に転がった。


 「蓮くん!」


 「大丈夫だ。——志摩さん、今の見えたか」


 「見えた。本部も揺れた。——蓮くん、新宿東口から半径五百メートルの区域が、呪いに包まれた。管理局は即時封鎖を決定した」


 「封鎖?」


 「一般人の避難と、呪術師の突入態勢を並行で進めてる。でも——中に閉じ込められた人がいる。数百人規模で」


 数百人。


 あの黒い柱の内側に、一般人が閉じ込められている。


 「俺も行く」


 「待って。第一課が対応する。Eランクの出る幕じゃ——」


 「いや、これは——」


 窓の外をもう一度見た。黒い柱の根元から、半透明の黒い膜が広がっている。ドーム状に区域全体を覆い始めている。


 あの黒い呪力。あの濃度。あの膜の展開パターン。


 見覚えがある。


 三年前と——同じだ。


 「志摩さん。これ、新宿汚染事件と同じだ」


 電話の向こうで、息を呑む音が聞こえた。


 「三年前と——?」


 「間違いない。呪力の質が同じだ。あの時と同じものが、新宿を飲み込もうとしてる」


 三年前の悪夢が、繰り返されようとしている。


    *


 事務所を飛び出した。


 歌舞伎町から新宿駅方面へ走る。周囲は混乱の渦だ。サイレンが鳴り響き、人々が駅から離れる方向に逃げている。何が起きたか分からない顔。当然だ。一般人に呪いは見えない。ただ、地面が揺れて、空気が重くなって、本能的に「逃げなければ」と感じているのだろう。


 新宿通りまで来て、足が止まった。


 目の前に——壁があった。


 黒い壁。半透明の膜が地面から空まで伸びて、通りを完全に遮断している。膜の向こう側は暗く、建物の輪郭がかろうじて見える程度。


 呪域結界。この膜の内側が、呪いに侵食された区域——呪域だ。


 膜の手前に、管理局の制服を着た呪術師たちが展開していた。十人以上。結界の外側から内部を観測しようとしている。


 その中心に——一人の男が立っていた。


 長身。短髪。黒い制服の上にコートを羽織っている。年齢は二十代前半。整った顔立ちだが、表情には余裕がなかった。


 朱鷺野(ときの)カナタ。Aランク呪術師。管理局第一課。


 「内部の呪力濃度は計測不能。結界強度はAランク以上。突入は——」


 カナタが部下に指示を出している途中で、俺に気づいた。


 目が合った。


 カナタの表情が、明らかに不快に変わった。


 「何をしている。一般人の避難誘導は——」


 「俺は一般人じゃない。Eランク呪術師、灰原蓮」


 「Eランク?」


 カナタの目に、露骨な軽蔑が浮かんだ。


 「Eランクがここで何ができる。邪魔だ。下がれ」


 「この呪いを知ってる。三年前の新宿汚染事件と同じものだ」


 カナタの眉が動いた。


 「新宿汚染事件? ——あれは事故だ。暴走した呪力が区域を汚染した。三年前に解決済みのはず——」


 「解決してない。三年前の事件は終わってなかった。今、同じことが起きてる。俺にはこの呪いの『味』が分かる。三年前に喰ったのと同じ呪力だ」


 カナタが数秒、俺を見つめた。信じるか信じないかを天秤にかけている目。


 「仮にそうだとして——Eランクに何ができる」


 「中に入って、呪いを喰える」


 「馬鹿を言うな。中の呪力濃度は計測不能だぞ。Aランクの俺でも単独突入は危険だ。Eランクが入れば——」


 「死ぬかもしれない。分かってる」


 「分かってるなら引っ込め! これは管理局の管轄だ。民間のEランクが口を出す案件じゃない」


 カナタの声が苛立ちを帯びた。


 言いたいことは分かる。正論だ。組織として、最弱ランクの人間を危険地帯に送り込むわけにはいかない。


 だが——


 「中に何人閉じ込められてる」


 「推定三百人以上」


 「呪域の中にいる一般人は、時間が経てば呪いに侵食される。三年前は——六時間で侵食が完了した。そうなったら、もう助けられない」


 カナタの顔が引き締まった。


 「それは分かっている。だから第一課が全力で——」


 「結界を外から破るつもりか。何時間かかる」


 「——」


 「六時間以内に突入して、内部の呪いの核を潰さなければならない。外から結界を破って突入するのに何時間かかる。正直に言え」


 カナタが唇を噛んだ。


 「……最短で十二時間」


 「間に合わない」


 「分かっている!」


 カナタが叫んだ。周囲の部下が驚いてこちらを見る。


 カナタは自分の声の大きさに気づいたのか、一瞬だけ目を閉じて呼吸を整えた。


 「……分かっている。だから焦っているんだ」


 エリートの仮面の下に、焦りがある。三百人の命が自分の肩にかかっている。管理局のAランク呪術師としてのプライドと、間に合わないかもしれないという恐怖。


 「朱鷺野。一つ提案がある」


 「何だ」


 「俺が先に中に入る。結界の内側から穴を開ける。呪いを喰って、結界の一部を弱体化させる。そこからお前たちが突入する」


 カナタが眉を寄せた。


 「内側から結界を喰う? そんなこと可能なのか」


 「やったことはない。でも理論上は——呪いは呪いだ。俺に喰えないものはない」


 嘘だ。人にかかった呪いを喰うのと、呪域の結界を喰うのは訳が違う。だが、言い切らなければカナタは動かない。


 カナタが長い間、俺の目を見つめた。


 「……死んでも責任は取れない」


 「責任は俺自身にある。お前じゃない」


 「…………一時間だ。一時間で結界に穴を開けろ。できなければ撤退しろ」


 「分かった」


 カナタが部下に指示を出す。結界の観測態勢を維持しつつ、俺の突入に合わせた突入態勢を準備する。


 黒い壁の前に立った。


 膜に手を当てる。冷たい。呪力が指先から流れ込んでくる。


 この呪力は——間違いない。三年前と同じだ。


 あの日の記憶が蘇る。仲間の顔。叫び声。一人ずつ倒れていく姿。


 拳を握った。


 今度は——終わらせる。


 結界の膜に両手を押し当て、喰い始めた。膜の呪力が体内に流れ込む。重い。だが——通れる。膜を溶かすように、体ごと呪域の中に押し入った。


 視界が黒く染まった。


 呪域の内部。


 新宿の街が——歪んでいた。


 ビルが傾き、道路が波打ち、空は黒い雲で覆われている。街灯は消え、代わりに呪痕が壁や地面のいたるところで脈動し、不気味な光を放っている。


 空気が重い。息をするだけで、肺に呪いが入り込んでくる。


 これが——呪域。


 三年前、俺はこの中で全てを失った。


 「……さあ、始めるか」


 歪んだ新宿の街に、一歩を踏み出した。

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