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第12話 喰い尽くす

 三日後の深夜。歌舞伎町一丁目。


 氷室の拠点は、大通りから二本裏に入った廃ビルだった。五階建て、窓は全て板で塞がれている。一見するとただの廃墟。だが、俺の目には見える——ビル全体を包む結界の紋様。


 「結界は三重。外側がDランクの排除型、中間がCランクの警報型、内側がBランクの攻撃型。中に無断で入れば、攻撃型が起動する」


 マリが小声で説明した。


 「解除できるか」


 「外側と中間は私が解除できる。氷室のシステムを管理してたのは私だもの。内側のBランクは——」


 「喰う」


 「そうなるわね」


 雫はマリの隣にいた。黒いパーカーを借りて、髪を帽子の中に隠している。


 「白峰、最後に確認する。中に入ったら俺が先行する。マリが鏡の場所まで案内する。お前は二人の後ろにいて、絶対に前に出るな」


 「分かりました」


 「何かあったらすぐに逃げろ。来た道を戻って表通りに出ろ。約束だ」


 「……はい」


 マリが結界の解除を始めた。両手を壁に当て、小声で何かを呟く。紋様が一枚ずつ剥がれていく。外側——消えた。中間——消えた。


 「ここからはあなたの仕事よ」


 内側のBランク結界。俺は壁に手を当て、攻撃型の呪力を吸い始めた。


 重い。Bランクの結界は一人の人間の呪力とは比べ物にならない密度がある。だが——壁一枚分だ。人を丸ごと喰うのとは違う。


 三十秒。結界が崩れた。


 「入れる」


 ビルの裏口から中に入った。薄暗い廊下。電気は通っていない。マリが小型のライトを点けた。


 「地下への階段はこっち」


 階段を降りる。一階、地下一階。空気が澱んでいく。呪いの濃度が上がっている。


 地下一階は倉庫だった。棚が並び、呪具の在庫が積まれている。闇市で売るための商品だ。


 その量に目を疑った。


 「……こんなにあるのか」


 「新しく製造したのよ。あなたに喰われた分を補充するために、三日間フル稼働で生産してた」


 棚の上、棚の下、壁際の段ボール箱の中。呪具の山。百、二百——数えきれない。


 「鏡はどこだ」


 「さらに下。地下二階。——でも、ここを素通りしていいの?」


 マリが棚を見上げた。


 「これだけの呪具が出回ったら、被害者は前回の比じゃないわ」


 分かっている。


 分かっているが——全部喰えるか?


 前回は八十で限界だった。今回は倍以上ある。体はまだ前回の反動から完全には回復していない。


 「……先に鏡を壊す。氷室を無力化してから、在庫を処分する」


 「合理的ね」


 地下二階への階段を降りる。


 そこで——足が止まった。


 階段の下に、人影があった。


 「来ると思っていたよ」


 氷室の声。


 階段の先、地下二階の入口に氷室が立っていた。白いシャツ。冷たい目。その背後に——大きな鏡。


 集呪鏡。高さ二メートルほどの姿見のような鏡。フレームに黒い紋様が刻まれ、鏡面が暗い光を放っている。


 氷室の傍らに五人の呪術師が並んでいる。雇われた報復要員だ。


 「黒瀬。お前が寝返ったのは分かっていた」


 氷室が言い、マリが唇を噛んだ。


 「全部お見通しか」


 「二枚舌は便利だが——三枚目はないと思っていたよ」


 氷室が手を上げた。五人の呪術師が一斉に動く。


 「白峰、下がれ!」


 雫を階段の上に押し返す。五つの呪術が同時に飛んできた。呪弾、呪縛、呪刃——


 喰う。五つ同時に。


 体に衝撃が走る。だが——Cランク以下だ。耐えられる。


 「マリ、鏡を壊せ!」


 「分かってるわ!」


 マリが横に走った。氷室の視線が一瞬、マリに向く。


 その隙に俺は五人の呪術師に向かって突進した。右手で一人目の胸を掴み、呪力を吸い出す。左手で二人目の腕を掴む。同時に吸う。


 二人が膝をついた。呪力を抜かれれば、呪術師はただの人間だ。


 三人目が呪刃を振り下ろしてきた。刃の軌道を読んで半歩ずらす。刃が空を切る。その腕を掴んで——喰う。


 四人目、五人目も同様に処理した。全員が地面に倒れる。


 だが——氷室がマリに追いついていた。


 「黒瀬——」


 氷室の手がマリの首を掴んだ。マリが苦しそうに喘ぐ。


 「お前は便利な駒だった。だが——もう用済みだ」


 氷室の手に黒い光が集中する。首への直接攻撃。Bランクの呪力で——


 「離せッ!」


 呪力が放たれる前に、俺が氷室の腕を掴んだ。


 直接接触。呪力を吸い始める。


 「——また、この手か!」


 氷室が俺を振り払おうとする。だが今度は離さない。両手で氷室の腕にしがみつき、全力で呪力を引きずり出す。


 不味い。猛烈に不味い。氷室の呪力は集呪鏡で増幅されていて、密度が異常に高い。体中の呪痕が一斉に反応し、皮膚の下で蠢き始めた。


 暴走の兆候。


 体に溜まった呪いが、新しい呪力の流入に反応して暴れている。制御を失えば——


 「灰原さん!」


 雫の声。階段の上から。


 「来るな!」


 叫んだ。だが——


 雫が走ってきた。階段を駆け降り、地下二階に飛び込んでくる。


 そして——集呪鏡の前に立った。


 「白峰、何を——」


 雫が鏡に手を当てた。


 瞬間——鏡が光った。


 白い光。呪いの黒とは正反対の、純粋な白い光。


 雫の手が光っていた。掌から白い光が溢れ、鏡の表面に広がっていく。鏡面に刻まれた黒い紋様が——消えていく。


 浄化。


 雫の中に眠っていた力が——白峰の血が——目覚めた。


 「これ、は——」


 雫自身が一番驚いていた。自分の手から溢れる白い光を、呆然と見つめている。


 だがその光は、確実に集呪鏡を浄化していた。鏡のフレームの紋様が一つずつ消え、鏡面の暗い光が白い光に飲まれていく。


 「やめろ——やめろッ!」


 氷室が叫んだ。俺の拘束を振りほどき、雫に向かって走る。


 させない。


 俺は氷室の背中に飛びついた。両腕を首に回し、全体重をかけて引き倒す。


 「白峰! 続けろ!」


 雫が歯を食いしばって鏡に力を注ぎ込んだ。白い光がさらに強くなる。


 鏡に亀裂が入った。


 一本。二本。三本——


 鏡が砕けた。


 白い光の爆発。目を開けていられない。体ごと吹き飛ばされ、壁に叩きつけられた。


 静寂。


 目を開ける。地下二階は白い光の残滓で満たされていた。集呪鏡は粉々に砕け、フレームだけが床に転がっている。


 氷室が膝をついていた。呪力が抜け落ちたように、顔色が灰色になっている。鏡を失った氷室は——もう、脅威ではなかった。


 「終わりだ、氷室」


 「……終わり、か」


 氷室が虚ろな目で砕けた鏡を見つめた。


 「あの子は——白峰の血か。まさか、本当に残っていたとは——」


 「白峰の血を知っていたのか」


 「私に闇市の運営を持ちかけた人物が、教えてくれた。白峰の末裔が東京にいる。監視しろ、と」


 「誰だ。その人物は」


 氷室が薄く笑った。


 「影宮、総一郎」


 やはり。


 「あの男は——呪いの全てを管理したがっている。闇市も、白峰の血も、お前の呪喰いも。全ては——あの男の掌の上だ」


 氷室の目が閉じた。呪力を失った体が、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。


    *


 マリが管理局に匿名で通報した。二十分後、第三課の実働部隊が到着し、氷室と手下の呪術師を拘束した。今度は鏡もなく、後ろ盾に連絡を取る暇もない。


 地下一階の呪具在庫は、管理局が押収した。二百以上の呪具。これが市場に出回っていたら——考えたくもない。


 ビルの外に出た。夜明けが近い。東の空が薄く白んでいる。


 三人とも、ぼろぼろだった。


 俺は全身の呪痕が暴走しかけた反動で、立っているのがやっと。雫は初めての力の発動で消耗し切って、足がふらついている。マリは首に氷室の掴んだ痕が残り、声が嗄れていた。


 「マリ」


 「何」


 「最初から——こっち側のつもりだったのか」


 マリが火のついていない煙草を咥えた。


 「さあね。自分でも分からないわ。——でも、あなたに賭けた方が、面白いとは思ってた」


 「面白い」


 「情報屋の直感よ。——氷室は終わる。でも影宮は終わらない。あの男の方が、何百倍も厄介よ」


 知っている。今回の件で、影宮の影がより鮮明になった。闇市も、雫の呪殺も、全て影宮の差し金。


 あの男は何を企んでいる。


 「灰原さん」


 雫が隣に立った。右手を見つめている。さっき白い光を放った手。


 「私の中に——力があるんですね。本当に」


 「ああ。白峰の血。呪いを浄化する力だ」


 「浄化……」


 「俺が呪いを喰うのと、対になる力だ。俺は呪いを自分の中に取り込む。お前は呪いを消し去る。——正反対で、でも同じ目的のために使える」


 雫がしばらく黙って、自分の手を見つめていた。


 「使いこなせるようになりたいです。灰原さんの役に立てるように」


 「役に立たなくていい。お前はお前の人生を——」


 「灰原さん」


 雫がまっすぐこちらを見た。


 「私はもう、普通の高校生には戻れません。この力がある以上。——それなら、灰原さんの隣で使いたいんです」


 その目があまりにも真っ直ぐで、俺は何も言えなかった。


 マリが煙草をくるりと回した。


 「いい子ねえ。——私は退散するわ。氷室が捕まった後の混乱で、いい情報が拾えるだろうから」


 マリが歩き出し、ふと振り返った。


 「灰原。忠告。影宮は——氷室の比じゃないわ。気をつけなさい」


 黒いコートの背中が、朝靄の中に消えていった。


 俺と雫、二人が残った。


 「帰るか」


 「はい」


 「缶コーヒー買っていくか」


 「肉まんも買いましょう」


 夜明けの歌舞伎町を歩く。


 一つ、片がついた。闇市は壊滅し、雫の力が目覚めた。


 だが——影宮の影が、じわりと濃くなっている。


 缶コーヒーを開けた。微糖。いつもの味。


 次の戦いは、もっと大きなものになる。


 そんな予感が——確信に変わりつつあった。

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