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第11話 二枚舌

 氷室が逮捕されてから三日後。


 闇市は壊滅した——はずだった。


 事務所で取引データの残りを整理していたとき、スマホが鳴った。マリからだ。


 「灰原。まずいことになったわ」


 マリの声に、いつもの余裕がなかった。


 「氷室が釈放された」


 「は?」


 「今朝。管理局の上層部から圧力がかかって、即日釈放。取引データも『証拠不十分』で棄却。——全部、なかったことにされた」


 血の気が引いた。


 氷室が言っていた。後ろ盾がいると。管理局の中に。


 「データを持ち込んだのは第三課だろう。第三課の課長が承認して逮捕したのに、その上から潰された。——相当な権限を持った人間よ」


 「影宮か」


 「分からない。でも、第九課——監査部門が動いたという話はある」


 第九課。影宮総一郎が所属する部署。


 「マリ。お前、闇市に情報を流してたのか」


 沈黙。


 「……何の話」


 「氷室は俺を特定した。事務所の場所も、雫の存在も知ってた。その情報を流せたのは——限られた人間だ」


 長い沈黙。


 「……あなた、鋭いわね」


 マリの声が変わった。余裕が戻った。だが、その余裕は——別種のものだった。


 「ええ。流したわ。あなたの情報を氷室に」


 「なぜだ」


 「情報屋は二枚舌よ。両方に売るのが商売。あなたにも氷室にも情報を売った。——悪く思わないで」


 悪く思わないで。人の命が懸かっていたのに。


 「お前の案内で雫を管理室に送り込んだ。あの時点で、お前は俺の側にいたはずだ」


 「いたわよ。あの時点ではね。でも——私にも立場がある。氷室が釈放された以上、私は元の位置に戻るしかない」


 「元の位置?」


 「氷室の側よ。彼が力を取り戻した以上、私が敵対すれば殺される。——あなたに協力したことは、もう氷室に知られてる。私の首は繋がっているけど、条件付きよ」


 「条件」


 「あなたの情報を流し続けること。あなたの居場所、行動パターン、弱点。——全部」


 胸の奥で何かが冷えた。


 裏切り。分かっていたはずだ。マリは最初から「金次第」と言っていた。信じた俺が馬鹿だった。


 「一つ聞く。雫の情報も流したのか」


 「……まだ流してない。でも、氷室に求められたら——」


 「流すな」


 「灰原、私だって——」


 「流すな」


 声が低くなった。自分でも驚くほど。


 マリが黙った。


 「……分かったわ。白峰ちゃんの情報は流さない。それだけは約束する」


 「信じていいのか」


 「信じなくてもいい。でも——あの子には、まだ借りがあるから」


 電話が切れた。


 スマホを握りしめた手が震えている。怒りか。不安か。


 たぶん——両方だ。


    *


 「裏切られたんですか」


 事務所に来た雫に事情を話すと、予想外に冷静な反応だった。


 「ああ。マリは氷室側についた」


 「最初から信用してなかったです」


 「え?」


 「サングラスの奥の目が、ずっとこっちを値踏みしてました。あの人は味方じゃない。でも——完全な敵でもない気がします」


 「何でそう思う」


 「私の情報は流さないって言ったんですよね。それが本当なら、あの人にも守りたいものがあるってことです」


 十七歳の洞察力に舌を巻く。


 「それで、どうするんですか。氷室は釈放されて、管理局は動かない。データも没収された」


 「振り出しに戻った。——いや、振り出し以下だ。氷室は俺を敵と認識した。次に何をしてくるか分からない」


 考える。


 氷室の後ろ盾は管理局の上層部。おそらく影宮。氷室を潰すには、後ろ盾ごと引きずり出す必要がある。


 だが、影宮は管理局の監査官だ。監査する側の人間を監査できるのは、さらに上——局長級しかいない。


 手が届かない。


 「灰原さん」


 「何だ」


 「闇市のデータのバックアップ、取ってあります」


 「——は?」


 「USBメモリからコピーする前に、自分のスマホにも転送しておきました。念のため」


 雫がスマホの画面を見せた。取引データのファイル一覧が表示されている。


 「白峰。お前——」


 「灰原さん。管理局がダメなら、別のルートで公開する方法はないですか」


 「別のルート?」


 「マスコミとか」


 一般メディアに呪術関連の情報を流す? 通常はあり得ない。呪術の存在自体が非公開だ。


 だが——取引データの中身は「犯罪組織が一般市民に対して有害物質を販売している」とも読める。呪術の部分を伏せて、犯罪の部分だけを切り出せば——


 「リスクが大きい。呪術の秘匿が破れる可能性がある」


 「秘匿を守って人が苦しむのと、秘匿を破って人を救うのと、どっちが大事ですか」


 正論だ。


 だが、まだその段階じゃない。もう少し——


 ドアが叩かれた。


 雫と目を合わせる。客か?


 ドアを開けた。


 黒いコートの女が立っていた。


 マリ。


 「……何の用だ」


 「入れて。——話がある」


 マリの顔から、いつもの飄々とした表情が消えていた。代わりにあるのは——焦り。


 事務所に入ったマリは、ソファにどさりと座った。


 「氷室が動き出した。次の深夜市を三日後に開く。——そして、あなたたちへの報復も準備してる」


 「報復」


 「呪術師を五人雇った。全員Cランク以上。あなたの事務所を襲撃して、白峰ちゃんを人質に取る計画」


 雫の顔が強張った。


 「マリ。お前、さっき氷室側についたって——」


 「ついたわよ。だから内部の情報が手に入る。——灰原。私は二枚舌よ。でも、二枚舌には二枚舌の使い方がある」


 マリがサングラスを外した。初めて見る素顔。思ったより若い。目の下に隈がある。疲れている。


 「私はね、氷室のことが嫌いなの。呪いを金に変える男が。——でも逆らえなかった。力がないから」


 「だから情報を売って、両方から金を取って——」


 「生き延びるためよ。力のない人間の生存戦略。あなたにそれを責める権利はないでしょう」


 返す言葉がなかった。


 「でも——白峰ちゃんを人質にすると聞いて、さすがに黙ってられなくなった。私にも、越えちゃいけない線はある」


 マリが雫を見た。


 「ごめんなさいね、白峰ちゃん。あなたの情報は流さないって約束したけど——氷室はもう別ルートであなたの存在を掴んでた。私が流したかどうかは関係なかった」


 雫が小さく頷いた。


 「分かってます。——マリさん。ありがとうございます、教えてくれて」


 マリが少し面食らった顔をした。裏切り者に礼を言う人間は珍しいのだろう。


 「……変わった子ね」


 「それで、どうする」


 俺がマリに聞いた。


 「三日後の襲撃を待つ? それとも先手を打つ?」


 マリが煙草をくるくる回した。


 「先手を打ちましょう。——氷室の弱点は、私が知ってる」


    *


 マリの情報は具体的だった。


 「氷室の呪力の源は、彼自身の力だけじゃない。呪力を増幅する呪具——『集呪鏡(しゅうじゅのかがみ)』を持ってる。それがなければ、氷室はせいぜいCランク程度の力しか出せない」


 「集呪鏡?」


 「鏡の形をした呪具。周囲の呪いを集めて、使用者の呪力を増幅する。氷室が管理局を除名された後も力を維持できてるのは、これのおかげよ」


 「その鏡を壊せば——」


 「氷室の力はCランクまで落ちる。あなたでも喰える」


 問題は鏡の場所だ。


 「氷室の拠点。歌舞伎町一丁目の廃ビル。地下に隠してる。——案内するわ」


 「信用していいのか」


 マリがまっすぐ俺を見た。


 「信用しなくていい。結果で判断して」


 二枚舌。だが——今は、この二枚舌に賭けるしかない。


 「分かった。——白峰、お前は——」


 「行きます」


 雫が即答した。


 「今度は留守番とか言わないでください。氷室が私を狙ってるなら、一人でいる方が危険です」


 「……正論だな」


 反論できなかった。


 三人は顔を見合わせた。


 呪術師と、高校生と、情報屋。


 ろくでもないチームだ。


 だが——悪くない。


 「三日後の夜。氷室より先に動く」


 マリが煙草に火をつけた。今度は本当に。


 煙が天井に昇っていく。換気扇が回る音だけが、事務所に響いていた。

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