第10話 取引の夜
闇市を襲撃してから二日。
体は最悪だった。
八十個以上の呪いを一度に喰った反動で、全身の呪痕が腫れ上がっている。両腕は腫れて袖が通らず、胸の紋様は心臓の鼓動に合わせて脈打っている。鎮痛剤を倍量飲んでも、痛みは引かない。
だが、仕事はしなければならない。
「志摩さん。データを送った。見てくれ」
電話の向こうで、キーボードを叩く音が聞こえた。
「……蓮くん。これ、本物?」
「本物だ」
「闇市の取引記録。顧客名簿。売買された呪具のリスト。被害者の——これ、三百人以上いるじゃない」
「ああ。過去半年分の取引だ」
志摩さんが息を飲んだ。
「これだけの証拠があれば、管理局も動かざるを得ない。——でも、蓮くん、これをどうやって手に入れたの」
「聞かない方がいい」
「……聞かない。聞かないけど——無茶したでしょ」
「いつものことだ」
「いつものことじゃないでしょ、こんなの」
志摩さんの声に苛立ちが混じっていた。珍しい。普段はのんびり屋のこの人が、感情を露わにするのは稀だ。
「このデータは第三課——犯罪捜査部門に回す。正式な捜査が始まれば、闇市は壊滅できる。でも時間がかかるわ。管理局の手続きは——知ってるでしょ」
知ってる。遅い。恐ろしく遅い。
「どれくらいかかる」
「正式な捜査令状が出るまで最短で一週間。実際の摘発はその後。——二週間は見てほしい」
二週間。その間に氷室が逃げたら元も子もない。
「分かった。頼む」
「蓮くん」
「何だ」
「これ以上は、自分で動かないで。管理局に任せて」
「……善処する」
電話を切った。
善処。つまり約束はしていない。
*
その日の夕方、事務所のドアが叩かれた。
雫ではない。雫はノックしない。勝手に入ってくる。
ドアを開けると——見覚えのない男が立っていた。
氷室の部下だ。長身、オールバック、バーテンダーのような男。あの夜のVIPルームに俺を案内した男。
「灰原蓮さん。氷室からの伝言です」
「伝言?」
男が封筒を差し出した。中には一枚の紙。
『今夜午前零時。新宿中央公園。一人で来い。来なければ、お前の大切な人間から始末する』
脅迫。
氷室が俺を特定し、報復に出てきた。当然の反応だ。闇市の在庫を潰し、データを盗んだ。黙っているはずがない。
「大切な人間」が誰を指すかは明白だ。雫。あるいは志摩さん。
「返事は」
「行くと伝えろ」
男が頷いて去った。
ドアを閉めて、額に手を当てた。
罠だ。分かりきっている。一人で来いという時点で、氷室側の有利な状況で始末するつもりだろう。
だが——行かなければ、雫に危害が及ぶ可能性がある。
「灰原さん?」
雫が階段を上がってきた。学校帰り。制服にカバンを背負ったまま。
「白峰。今日は帰れ」
「え? まだ——」
「今日は用事がある。お前は家に帰って鍵を閉めろ。明日の朝まで外に出るな」
雫の顔が曇った。何か察したのだろう。
「何かあったんですか」
「何もない」
「嘘ですね」
「嘘じゃない。今日は早く終わりたいだけだ」
雫が数秒、俺の顔を見つめた。
「……灰原さん。また一人で何かしようとしてませんか」
鋭い。この子は、俺が嘘をつくと分かる。
「白峰」
「前に約束しました。灰原さんが言うことに従うって。でも——一人で危険なことをするのは約束に入ってません」
「入ってる。『死ぬなと言ったら死ぬな』の範囲内だ」
「灰原さんが死なないでくださいっていう約束は?」
返す言葉がなかった。
雫が一歩、近づいた。
「一緒に行きます」
「駄目だ」
「じゃあ行かないでください」
「そうもいかない。お前の安全がかかってる」
「——え?」
封筒を見せた。雫が紙を読み、顔色が変わった。
「私のせいで——」
「お前のせいじゃない。俺が闇市を襲ったからだ。自業自得だよ」
「でも——」
「だから、お前は安全な場所にいろ。俺が行って話をつける」
「話をつけるって——一人で、元Bランクの呪術師のところに?」
「喧嘩しに行くんじゃない。交渉しに行くだけだ」
嘘だ。交渉で済むとは思っていない。だが、雫を巻き込むわけにはいかない。
雫は黙って俺を見つめていた。目の奥に怒りと心配が入り混じっている。
「……分かりました。帰ります」
意外だった。あっさり引いた。
「でも」
雫がカバンからスマホを取り出した。
「三十分ごとにメッセージを送ってください。途切れたら、私は志摩さんと警察に電話します」
「……分かった」
雫が出ていった。階段を降りる足音が遠ざかる。
一人になった事務所で、俺は準備を始めた。
鎮痛剤の残りを全部ポケットに入れる。缶コーヒーを一本飲む。全身の呪痕を確認する。
腕をまくった。黒い紋様が脈打っている。
Sランクを喰い、DランクからCランクの呪具を八十以上喰い、御堂の呪力を一部喰い——今の俺の体には、相当量の呪いが蓄積されている。
使うつもりはない。使えば暴走する。
だが——最後の手段としては、ある。
*
午前零時。新宿中央公園。
街灯が等間隔に並ぶ遊歩道。夜中だが、都心の公園は完全な暗闇にはならない。だがこの時間、人影はない。
芝生の広場の中央に、氷室が立っていた。
一人——ではなかった。
周囲に五人。全員が呪術師だ。DランクからCランク。氷室の手下。
「来たか。律儀だな」
氷室が静かに言った。
「一人で来いって言ったよな」
「私は一人だ。彼らはただの保険だ」
六対一。普通なら絶望的だ。だが——正直、Cランク以下の呪術師は脅威にならない。呪いを喰えばいいだけだ。問題は氷室一人。
「灰原。私の商品を八十以上喰い、取引データを盗んだ。その落とし前をどうつけるつもりだ」
「落とし前。——あんたの商品で何人が苦しんだと思ってる」
「それは買った人間の問題だ。私は売っただけだ」
「どこかで聞いたような言い訳だな。——氷室。闇市は終わりだ。取引データは管理局に渡した。正式な捜査が始まる。あんたが今やるべきことは、俺を始末することじゃなく、逃げることだ」
氷室の目が細くなった。
「管理局? ——ああ、そう。それは困った」
困ったと言いながら、氷室は困っていないように見えた。
「灰原。一つ教えてやろう。管理局がデータを受け取ったとしても、捜査にはならない」
「何?」
「私のビジネスには——後ろ盾がある。管理局の中に」
体が固まった。
「お前がデータを渡した相手——第七課の事務官か。情報は全て上がってくる。揉み消されるだろうな」
管理局の中に後ろ盾。闇市は管理局の黙認のもとで運営されていた——?
「誰だ。後ろ盾は」
「私が言うと思うか?」
氷室が右手を持ち上げた。黒い光が凝縮する。
「灰原。お前は面白い男だった。だった、が——面白いだけでは生き残れない」
五人の手下が、一斉に呪術を展開した。
呪縛、呪弾、呪刃——五方向からの同時攻撃。
喰う。五つ同時に。
体に衝撃が走った。五つの呪いが一度に体内に流れ込み、胃が悲鳴を上げる。だが、DランクとCランクだ。この程度は——
その隙に、氷室が動いた。
速い。
Bランクの呪弾が、至近距離から胸に直撃した。
吹き飛ばされ、芝生の上を転がった。胸が焼ける。肋骨が軋む。視界が白く飛ぶ。
「もう終わりか、Eランク」
氷室の声が降ってくる。
——終わり?
冗談だろ。
体を起こす。口から血が垂れた。拭わない。
「まだ喰い足りないんだよ——」
氷室に向かって走った。
二発目の呪弾。横に転がって避ける。三発目。膝で地面を蹴って跳ぶ。
氷室の懐に飛び込んだ。
左手を氷室の腕に叩きつける。直接接触。呪力を吸い始める。
「また——この手か!」
氷室が俺を蹴り飛ばした。だが一瞬で相当量の呪力を吸い取った。氷室の顔色が変わる。
「貴様——どこまで喰う気だ」
「全部だ」
立ち上がる。体はぼろぼろだ。でもまだ立てる。
手下たちが再び攻撃態勢を取った。氷室が次の術式を構築し始める。
この体では、長くは持たない。
だが——持たせなくていい。
遠くで、サイレンが聞こえた。
氷室の顔が初めて歪んだ。
「——何をした」
「俺一人で来たとは言ってない」
サイレンではなかった。管理局の実働部隊が使う呪術警報。
公園の四方から、黒い制服の人影が現れた。管理局第三課——犯罪捜査部門の実働部隊。
雫だ。
あいつ、おとなしく帰ったふりをして、志摩さんに連絡を取っていた。志摩さんがデータを根拠に緊急の出動要請をかけたのだ。「揉み消される前に」動いた。
「氷室誠一。呪術犯罪容疑で拘束する」
管理局の部隊が包囲を狭めていく。
氷室が俺を睨んだ。
「……やられたな」
「Eランクを舐めるからだ」
氷室は抵抗しなかった。手下たちも同様に拘束された。
公園に静けさが戻った。
俺はその場に座り込んだ。体がもう動かない。全身の呪痕が焼けるように痛む。
「灰原さん!」
雫が走ってきた。公園の入口から——志摩さんと一緒に。
「白峰……お前、帰ったんじゃ——」
「帰りました。家に。それから志摩さんに電話しました」
「……お前なあ」
「約束は守りました。家に帰って鍵を閉めました。——その後のことは何も言ってません」
屁理屈だ。だが——助かった。
志摩さんが駆け寄ってきた。
「蓮くん。ボロボロじゃない——」
「志摩さん。データは」
「第三課に直接持ち込んだわ。課長が即決で動いてくれた。揉み消される前に、ね」
志摩さんが俺の横に膝をついた。
「……間に合ってよかった」
「ああ」
空を見上げた。都心の空。星は見えない。だが、さっきより少しだけ——明るく見えた。




