第1話 呪いを喰う男
呪いってのは、不味い。
甘い呪いも辛い呪いもあるが、総じて不味い。今この瞬間、俺の舌の上で溶けているこいつは、腐った魚と錆びた鉄を煮込んだような味がする。
左手を佐々木さんの首筋に当てる。指先に、ぬるりとした感触。黒い紋様が彼女の肌を離れ、俺の指を伝って手首を這い上がってくる。蛇みたいに。腕の内側に辿り着くと、既にある紋様の群れに混じり、新しい模様を刻んだ。
胃が跳ねた。
全身の呪痕が一斉に熱を帯びる。背中を這う紋様が脈打ち、腹の底から吐き気がせり上がってきた。奥歯を噛み締めて堪える。呪いは暴れる。体の中に入れられた異物だ。当然、拒絶反応が出る。だが、ここで吐いたら元に戻る。
——三、二、一。
呪いが胃の底に沈んだ。紋様の蠢きが収まり、熱が引いていく。
終わった。
「か、灰原さん……大丈夫ですか?」
目の前のソファに座った中年の女性——佐々木さんが、青い顔でこちらを見ている。つい十秒前まで彼女の首筋にべったりと張りついていた呪痕は、もう跡形もない。
俺が喰ったからだ。
「大丈夫。終わったよ」
缶コーヒーを手に取り、口の中を洗い流す。微糖。呪いの後味は微糖じゃ消えないが、ブラックは空きっ腹に堪える。
「あ、ありがとうございます……。もう治ったんですか?」
「ああ。首、触ってみな」
佐々木さんが恐る恐る首筋に手を当てる。何もない。黒い紋様も、触ると冷たかったあの感覚も、綺麗に消えている。
「……本当だ。嘘みたい」
目に涙が浮かんでいた。三ヶ月間、原因不明の体調不良に苦しみ、病院を転々とし、藁にもすがる思いで寺社を巡り、最後に辿り着いたのが歌舞伎町の裏路地の雑居ビル三階。我ながら、辿り着くまでが長すぎる。
「お代は——」
「三万。最初に言った通り」
佐々木さんは財布から丁寧に三万円を取り出し、テーブルに置いた。
C級の呪い除去で三万。相場なら八万はする。だが、この六畳一間の事務所に正規料金で来る上客は来ない。壁のペンキは剥げ、蛍光灯はチカチカ点滅し、看板は手書き。管理局認可の呪術師で最安値。それが俺のセールスポイントだ。
我ながら情けない。
「病院じゃ原因不明って言われて、お祓いにも三ヶ所行ったんですけど全然で……。灰原さんに出会えて本当に——」
「寺や神社じゃ無理だよ、あれは。呪術師が意図的にかけた呪いだ」
佐々木さんの顔がこわばった。
「誰が、そんな……」
「さあ。心当たりがあるなら管理局に相談するのも手だけど——まあ、一般の相談は受けてくれないだろうな、あそこは」
肩をすくめる。この国の呪術行政を仕切る管理局は、一般市民の相談なんてまず受けない。捜査対象はB級以上の呪術犯罪だけ。C級の嫌がらせ呪術なんて、連中にとっちゃ路上の喧嘩と同じだ。
だから俺みたいな底辺呪術師に仕事が回ってくる。
「とにかく呪いは消えた。もしまた同じ症状が出たら来てくれ」
佐々木さんを送り出し、ドアを閉めた。
*
事務所に一人きり。
窓の外ではネオンがちらついている。歌舞伎町の喧騒が薄い壁を通して遠く聞こえる。酔っ払いの笑い声。客引きの呼び込み。この街は夜が本番だ。——表も、裏も。
左腕の袖をまくった。
手首から肘まで、黒い紋様がびっしりと刻まれている。右腕も同じだ。胸にも背中にも、首筋の際にまで。
呪痕。俺が今まで喰ってきた呪いの残滓。一つ喰うたびに一つ増える。増えることはあっても消えることはない。もう何百あるか、数えるのはとっくにやめた。
鎮痛剤のシートから二錠を押し出し、水なしで噛み砕く。苦い。でも呪いよりはマシだ。
呪痕は常に痛む。鈍い、低い痛み。体の内側から炙られているような。慣れたと言えば慣れたが、消えたわけじゃない。鎮痛剤がなければ眠れない夜もある。
ポケットでスマホが震えた。画面を見て、小さく舌打ちする。
——管理局 第七課 志摩
「……はい」
「蓮くーん。月次報告、まだなんだけどー」
間延びした声。管理局第七課の事務官、志摩遥。管理局認可の呪術師は毎月の活動報告が義務付けられている。面倒だが、怠ると認可取消になる。
「明日出す」
「もう五日遅れてるんだけどね。あと、年度末のランク更新査定の案内も来てるよ。今年は受ける?」
「受けない」
「だよねえ。万年Eランク」
悪気はないのだろう。だが地味に刺さる。
呪術師のランクはEからSまで。Eは最弱。つまり俺は公式に「最も弱い呪術師」だ。
査定で測定するのは攻撃系呪術の威力と精度。殴る力、斬る力、撃つ力。
俺の能力は「呪喰い」——呪いを喰うこと。攻撃力はゼロだ。何度査定を受けたってEから動くはずがない。
「じゃ、報告よろしくねー」
電話が切れた。
時計を見る。午後九時。今日はもう店じまいだ。
立ち上がり、背筋を伸ばす。全身が鈍く軋んだ。さっき喰った佐々木さんの呪いが、まだ体に馴染んでいない。胃の奥がじくじくと痛む。
——まあ、こんなもんだ。
三年間、ずっとこうやって生きてきた。裏路地の小さな事務所で、誰にも注目されず、一つずつ呪いを喰って、三万円を稼いで、鎮痛剤を飲んで眠る。
たいした人生じゃない。だが、少なくとも俺が喰った呪いの分だけ、誰かが楽になっている。それでいい。それだけでいい。
看板の灯りを消そうと、ドアに手をかけた。
*
そのとき——廊下で、音がした。
何かが崩れ落ちるような、重い音。
反射的にドアを引く。
薄暗い廊下に、人が倒れていた。
制服姿の少女。高校生だ。肩で荒い息をして、顔は紙のように白い。膝が折れ、壁に背中を預けるようにして床に座り込んでいる。
——けど、そんなことより。
息を呑んだ。
少女の首筋から、黒い紋様が這い出していた。鎖骨を越え、顎の線を辿り、頬にまで達している。
ただの呪痕じゃない。
紋様が脈打っていた。明滅を繰り返し、少女の肌の上を蠢いている。まるで——生きているかのように。
腹の底に冷たいものが落ちた。
俺はこれまで何百という呪いを見てきた。喰ってきた。D級の嫌がらせ呪術から、B級の本気の呪殺未遂まで。
だが、こんなものは初めてだ。
S級呪殺術式。
対象を七日以内に確実に殺す、最凶の呪い。管理局の記録でも、解呪に成功した例は片手で数えるほどしかない。
「——おい。聞こえるか」
しゃがみ込んで声をかける。少女が薄く目を開けた。焦点の合わない瞳が、俺の顔を捉える。
「ここ……呪い、除去の……」
かすれた声。階段を上がって、看板を見て来たのか。この状態で。
「そうだが——」
「たすけ、て」
少女の手が伸びて、俺の袖を掴んだ。
小さい手だった。震えていた。
「管理局も、他の呪術師さんも……みんな、無理だって。あと七日しかないって……もう、ここしか……」
七日。
やっぱりそうだ。S級呪殺術式の標準猶予期間。
関わるべきじゃない。
頭の中で冷静な声がそう告げる。S級の呪いなんて喰ったことがない。喰えるかどうかすら分からない。仮に喰えたとして、俺の体がどうなるか。最悪——死ぬ。
三万円のC級除去でヒイヒイ言ってる男が、S級に手を出す?
馬鹿げてる。
断れ。「うちじゃ無理だ」と言え。管理局のSランク呪術師を当たれと言ってやれ。
——それが正しい。
それが、賢い判断だ。
だけど。
少女の手は、俺の袖を離さなかった。
細い指。白い肌に黒い紋様が這う腕。あと七日でこの子は死ぬ。誰にも助けてもらえないまま。
こういう目をされると、俺は——。
……ああ、くそ。
「立てるか」
少女の肩を支えて、事務所の中に引き入れた。ソファに座らせ、棚から引っ張り出した毛布をかける。
「名前は」
「……白峰、雫」
「白峰。正直に言う」
向かいの椅子に座り、少女の目を真っ直ぐ見た。
「お前にかかってるのはS級の呪殺術式だ。七日で確実に殺す、最悪の呪い。俺はEランクの呪術師で、普段は雑魚呪いの除去しかやってない。本来なら手に負える代物じゃない」
雫の目に、絶望の色が滲んだ。
ああ、この目だ。ここでも駄目なのかという目。何軒も回って、何度も同じことを言われて、それでも最後の望みを持ってここまで来て——また同じ言葉を聞かされる目。
何度見ても、慣れない。
缶コーヒーの残りを一気に飲み干した。
「——だが」
空き缶をテーブルに置く。
「呪いを喰うのだけは、誰よりも得意だ」
ポケットから鎮痛剤のシートを出して、二錠を口に放り込む。噛み砕く。苦い。
七日間。最弱の呪術師が、最凶の呪いに挑む。
——まったく、割に合わない。




