第六話
何時間経っただろう。私はあちこちの帯域を調べながら、自分の記憶を探している。
次に通信機器の画面に映ったのは、レストランで食事をする老夫婦だった。店内にある大きなピアノの前に、ドレスを着たピアニストが座っている。彼女の指が鍵盤の上を跳ね回ると穏やかな曲が流れはじめた。レストランでの食事に彩りを添えるような演奏だなと、私はほっと息をついた。
「新婚旅行以来だわねぇ」
「懐かしいね。海外旅行に行くのも久しぶりだ。腰が悪くなってしまったからなぁ」
「あなたが定年退職するまでは、お正月だって、ゆっくりできませんでしたからねぇ」
おじいさんが自分の腰に手を当ててさすっている。ウェイターがスープを運んでくると、おばあさんは「ありがとう」と小さく会釈した。
私はこの景色を、知っている気がした。
思い出してみる。口元に手を当てると、手袋のもこもこがほんの少しちくちくした。私のいる場所が寒すぎて、手袋の繊維が凍ってしまっているのかもしれなかった。
通信機器の画面の中で、おばあさんはスプーンを手に取る。一口スープを飲んで、うれしそうに目を細める。おじいさんはテーブルの上にいくつか並んだスプーンのうち、どれを使えばいいのか一瞬迷って、おばあさんの手元を見た。
「あら。私も間違えているかもしれませんよ」
「いつまで経っても慣れないんだよなぁ。新婚旅行のときも緊張して、頭から吹っ飛んじまったよ」
「ふふ。そうそう、こんな味でしたよ。オマール海老のビスク。味がしっかりしていて、驚いたのよねぇ。私が初めて食べたビスクですよ」
「美味い」
おじいさんがパンをちぎってスープを拭っている。よほど美味しかったのだろう。
けれども、何十年も前に一度食べたきりの味なんて覚えているものかな? と、私は不思議になる。
こういう疑問がわいてくるということは、私自身の記憶ではなさそうだ。どこかで見ていた、あるいは聞かされた──そんなところだろうか。
頃合いを見計らってウェイターが次の皿を運んでくる。前菜、メインディッシュ、デザート……老夫婦はすっかり平らげたようだ。食後のコーヒーが運ばれてくる。
「いやあ、美味かったね」
「なんだか懐かしくなりましたよ」
おばあさんの微笑みに、おじいさんは少し困ったように笑って頭をかいた。
「美味かった。美味かったが……僕が新婚旅行で食べたのがこの味だったかは、思い出せない。……すまん」
「歳をとれば、物忘れも増えますからねぇ」
おばあさんは素知らぬ顔をして、ゆるやかな湯気のたっているコーヒーに角砂糖を入れる。
「……そういうんじゃないんだがなぁ。新婚旅行のとき、かなり緊張してたからだろう。……悪かったね」
「ふふ。そうだったんですか? じゃあ、今度は覚えてくださいね」
「次に来られるのは、いつだかわかりゃしないよ。その前にお迎えが来るかもしれない。ボケちまうこともあるかもしれん」
コーヒーにゆっくりとミルクが渦を巻いている。おばあさんはティースプーンでかき混ぜると、一口コーヒーを飲んだ。
「それでもいいんですよ。一緒に食事をしたことが、思い出になるんだから」
「そうか。それなら覚えとこう」
おじいさんは笑いながらコーヒーを飲むと、ほっとしたように肩から力を抜いた。
窓の外で花火が上がっている。レストランの中でもクラッカーが鳴って、「A HAPPY NEW YEAR!」と新年の挨拶があちこちで聞こえてきた。
「今年もよろしく」
老夫婦がどちらともなく言ったところで通信機器の画面にノイズが走り、音がかすれていった。老夫婦は何か話しているようだったけれど、もう聞き取ることはできなかった。
「割と近い気がするんだけどな」
通信機器のしぼりをひねって微調整するが、再び老夫婦の思い出に接続することはできなかった。
「私の記憶は、どこなんだろう」




