表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
荊棘後宮の盗妃伝  作者: ひらめ
第1章
8/24

第7話


後宮の夜は、普段以上に静寂に包まれていた。

それは、嵐の前の静けさであり、あるいは、深淵の底で何かが蠢き始めたことを示唆するかのようだった。

長慶宮の夕霧の部屋にも、普段と変わらぬ穏やかな空気が流れている。

しかし、夕霧の心臓は、内緒で皇帝・玄葉に指示書を渡したあの日以来、常に警戒と緊張の狭間で揺れ動いていた。

彼女は知っていた。真実の種を蒔いた以上、それが芽吹き、嵐となるのは時間の問題だと。

玄葉の密命を受けた後の変化は、微かではあったが、夕霧にははっきりと感じられた。

まず、長慶宮の周囲の警備が、以前よりも、ほんのわずかに厳重になったように思えたのだ。

それは、表向きは他の妃の宮と変わらないが、巡回する衛兵の顔ぶれの中に、

時折、玄葉の近衛兵に似た、隙のない、それでいて目立たない動きをする者が混じっているのを見かけた。

彼らは夕霧に直接声をかけることはないが、その視線は、常に彼女の宮を意識しているようだった。

目に見えない監視網が、夕霧の周囲に張り巡らされている。

だが、それは、彼女を捕らえるための監視ではない。

むしろ、彼女を守ろうとする、玄葉からの無言のメッセージだった。

このことに気づいた時、夕霧の胸には、わずかな安堵が広がった。

あの冷徹な皇帝が、自分の言葉を信じてくれた。

そして、自らの命を守ろうとしてくれている。

それは、後宮という絶望的な場所で、夕霧が初めて感じた、かすかな希望だった。

しかし、その希望は、同時に、これから起こるであろう激しい嵐の序章でもあった。

安堵は長くは続かなかった。

後宮全体の空気が、じわじわと冷たく、重くなっていったのだ。

特に月影の宮からは、以前にも増して、不穏な空気が漂い始めていた。

月影は、自身の陰謀が玄葉に露見し始めたことを、鋭敏に察知していた。

あの夜、物置部屋に誰かが侵入したこと、そして、その直後から玄葉の動きに変化が見られること。

月影は、全ての証拠が夕霧を指し示していると確信していた。

彼女の優雅な微笑みの裏には、獲物を見定めた捕食者のような、冷酷な殺意が宿っていた。

「 長慶宮の妃の動向を、より厳重に監視しなさい。

些細なことでも見逃すでない。

そして、あの桔梗の花の出どころも、徹底的に調べさせなさい 」

月影の指示は、以前よりも苛烈になっていた。

彼女の配下の侍女たちは、後宮内に張り巡らされた情報網を駆使し、夕霧の一挙手一投足を報告し始めた。

夕霧が宮の庭を散策する際、他の妃と話す際、あるいはただ窓辺に座って物思いにふける際まで、

全てが月影の耳に届く。

まるで、彼女の周囲に目に見えない蜘蛛の巣が張られたかのようだった。

その蜘蛛の巣は、夕霧だけでなく、彼女に近づく者、彼女と親しい者をも捉えようとしていた。

月影は、この後宮の支配者として、些細な動きも見逃さなかった。

ある日の午後、夕霧は長慶宮の奥にある、あまり人が立ち入らない小さな薬草園で、珍しい薬草を調べていた。

それは、毒の作用を弱める効果のある植物で、もしかしたら妃たちを苦しめている毒の解毒に役立つかもしれないと、かすかな期待を抱いてのことだった。

彼女が根の張りを調べていると、背後から突然、慌ただしい足音が近づいてきた。

「 妃殿下!大変でございます! 」

冬花が、息を切らしながら駆け寄ってきた。

その顔は蒼白で、何か恐ろしいものを見たかのように震えている。

彼女の瞳には、恐怖と混乱が入り混じっていた。

「 どうしたのです、冬花。

落ち着いて 」

夕霧は、冬花を優しく抱きしめ、背中をさすった。

冬花の身体は、小刻みに震えていた。

その震えが、夕霧にも伝わってくる。

「 わ、わたくし……月影様の宮の近くで、水を汲んでおりましたら……

その、月影様が、侍女たちに、ある香りを、その、長慶宮に流すよう、指示しておられました…… 」

冬花は、涙声で震えながら告白した。

彼女の純粋な心には、後宮の闇が、あまりにも重くのしかかっていたのだろう。

「 香り、ですか? 」

夕霧の脳裏に、不穏な警鐘が鳴り響いた。

月影が、ただの香りをわざわざ長慶宮に流すよう指示するはずがない。

それは、きっと、夕霧が宮に潜入した際に嗅いだ、あの毒の原料となる植物の匂い、

あるいは、その毒の成分を微量に含んだものに違いない。

冬花が、月影の罠にかかりそうになったのだ。

無自覚に、毒の運び屋にされかねなかったのだ。

「 ええ……その香りは、とても甘く、しかしどこか、痺れるような、嫌な匂いがいたしました……

わたくし、その香りを、御簾に染み込ませて、長慶宮の風通しの良い場所に置くよう、言われたのですが…… 」

冬花は、言葉を詰まらせた。

彼女は、月影の指示に従う寸前だったのだ。

その声は、恐怖と、月影の命令に背くことへの罪悪感で震えていた。

「 冬花、それは決して行ってはなりません! 」

夕霧は、冬花の肩を強く掴み、真っ直ぐに彼女の目を見つめた。

彼女の顔は、かつてないほど真剣だった。

その瞳には、冬花を守ろうとする強い意志が宿っていた。

「 なぜでございますか、妃殿下……わたくし、月影様の命令とあらば…… 」

冬花は、怯えたように言い返す。

後宮における上級妃の命令は、絶対だ。

逆らえば、厳しい罰が待っていることを、彼女は知っていた。

「 その香りは、冬花。

恐らく毒だ。

あるいは、毒を体内に取り込む準備段階の香りだ。

月影様は、わたくしを……いや、長慶宮の者を狙っているのです 」

夕霧は、冬花に、毒に関する彼女の知識を説明し、その香りの危険性を懇切丁寧に語った。

冬花は、夕霧の言葉を信じられないといった様子で、蒼白な顔をさらに青くした。

その瞳には、混乱と恐怖が入り混じっていた。

「 そ、そのような……まさか…… 」

「 信じてください、冬花。

わたくしは、かつてその毒に苦しめられた経験がございます。

だからこそ、その危険性を知っているのです。

貴女は、わたくしにとって、かけがえのない大切な侍女。

貴女を危険な目に遭わせるわけにはいかない 」

夕霧の切実な訴えに、冬花は、震える手で口元を覆った。

彼女は、夕霧の言葉を信じた。

そして、自分がどれほど恐ろしい状況に巻き込まれそうになったのかを理解し、恐怖に打ち震えた。

「 で、では、どうすれば……月影様は、決してわたくしを許しはしないでしょう…… 」

冬花は、泣き出しそうな声で訴えた。

月影の命令を拒めば、彼女自身の命が危うくなる。それが後宮の掟だった。

「 大丈夫です。

わたくしが何とかします。

その香りの瓶を、わたくしに渡してください。

そして、月影様には、『わたくしが、この香りを大変気に入ったため、長慶宮全体に広げるために、自ら持ち帰った』と伝えなさい。

そうすれば、貴女は疑われることはない。

貴女は何も知らなかった、ただ命令に従っただけだと 」

夕霧は、冬花から香りの瓶を受け取ると、それを厳重に布で包み、

誰も近づかない長慶宮の地下にある、かつて泥棒として侵入した際に発見した、隠された貯蔵庫へと隠した。

そこは、湿気が多く、香りが広がるのを防ぐのに最適だった。

そこならば、月影も簡単には見つけられないだろう。

この一件は、夕霧に大きな危機感を与えた。

月影は、もはや手段を選ばなくなっている。

そして、夕霧の周囲に、直接的な危険が迫っていることを実感した。

彼女は、冬花の純粋さゆえの危うさにも心を痛めた。

彼女を守らなければ。

その決意が、夕霧の胸に強く刻み込まれた。

玄葉の密命と月影の暗躍により、後宮内の妃たちの間にも不信と亀裂が生じていた。

淑妃は、体調不良が改善しないことに焦りを感じ、徳妃は、精神的な不安定さが悪化していた。

他の妃たちも、互いに疑心暗鬼になり、自分の宮の衛兵を増強したり、献上物を厳重にチェックさせたりするなど、警戒を強めていた。

食事の際も、隣の妃の皿を警戒の目で見るなど、疑心暗鬼は深まる一方だった。

後宮全体が、嵐の前の静けさのような不穏な空気に包まれており、それぞれの妃が、自身の保身のために情報収集や根回しを行う様子が目についた。

この状況は、月影の狙い通りだった。

互いに疑心暗鬼になることで、結束力を失わせ、月影自身の権力をより強固にする狙いがあったのだ。

しかし、その亀裂の背後で、玄葉の調査は着実に進んでいた。

水面下で、巨大な力が動き始めていた。

玄葉からの密命を受けた調査官たちは、妃たちの体調不良の具体的な原因として、夕霧が指摘した毒の存在を明確に確認し始めていた。

医官たちは、妃たちの症状を詳しく調べ、血液や体液の検査を秘密裏に行った結果、

微量ながらも、これまで特定できなかった異物が検出され始めたのだ。

その異物は、夕霧が記述した

「 緩効性の神経毒 」

の作用と寸分違わず一致していた。

その毒は、特定の植物から抽出されたもので、一般的な薬草と混ぜ合わせることで、その痕跡を巧妙に隠蔽することができた。

しかも、その症状は、疲労、食欲不振、不眠、精神的な不安定さなど、一般的な病気や後宮でのストレスと酷似しており、発見が極めて困難だった。

医官たちは、その精巧な調合技術に舌を巻いていた。

「 まさか、このような精巧な毒が、後宮で用いられていたとは…… 」

玄葉は、調査官の報告書を読み込みながら、深く眉をひそめた。

彼の表情は、一見すると平静を装っているが、その瞳の奥には、深淵のような怒りと、皇帝としての屈辱が渦巻いていた。

自らの統治する後宮で、これほどまでに忌まわしい陰謀が密かに進行していたことに、彼は強い憤りを感じていた。

彼の握りしめた拳には、血管が浮き出ていた。

「 この毒の入手経路、調合方法、そして関与した全ての者について、徹底的に調べ上げろ。

決して、一人たりとも見逃すな。

後宮の闇を、根こそぎ暴いてくれる 」

玄葉は、低い、しかし力強い声で命じた。

彼の言葉には、絶対的な権力を持つ皇帝としての、揺るぎない決意が込められていた。

彼の命令は、嵐の前の雷鳴のように、静かに、しかし確実に響き渡った。

調査は、宮廷の奥深くまで及び、月影の宮の不審な動き、彼女の侍女たちの過去の経歴、

さらには彼女の出身氏族との繋がりまでもが調べ上げられていく。

後宮の裏側で密かに蠢いていた毒の蔓延は、今や帝国全体を揺るがす大事件へと発展しようとしていた。

玄葉は、この陰謀が後宮内に留まらず、帝国の根幹を揺るがしかねないことを悟っていた。

この緊迫した状況の中、月影の魔の手は、より直接的に夕霧に迫っていた。

ある日、長慶宮の湯殿で、夕霧が湯につかっていると、湯気が立ち込める中で、かすかに奇妙な香りが混じっていることに気づいた。

それは、花の香りにも似ていたが、どこか粘つくような、不快な匂いだった。

夕霧は、すぐに湯から上がると、湯船の縁に、小さな網状の袋が沈められているのを見つけた。

中には、見慣れない乾燥した薬草のようなものが入っていた。

それは、湯の熱で成分が溶け出し、湯気とともに毒が広がる仕掛けだった。

「 やはり、月影様は…… 」

夕霧は、怒りを通り越し、静かな絶望を感じた。

ここまで執拗に狙ってくる月影の悪意に、心底うんざりした。

しかし、同時に、彼女を追い詰めるほど、月影が焦っている証拠でもあった。

夕霧は、素早く湯殿から薬草の袋を取り出し、別の容器に厳重に封印した。

もし、侍女たちが先に毒の湯に入っていたら、取り返しのつかないことになっていただろう。

夕霧は、自らの過去を思い出した。

彼女が毒の知識を必死に学んだのは、まさにこのような危険から身を守るためだった。

彼女の故郷は、かつて**「 疫病 」と呼ばれた災厄**によって壊滅的な被害を受けた。

多くの人々が、原因も分からぬまま、苦しみながら命を落としていった。

幼い夕霧も、その災厄の中で家族を失い、自身も死の淵を彷徨った。

意識が朦朧とする中で、彼女は、身体を蝕む毒の症状と、それに対応する薬草の知識を必死に脳裏に刻み込んだ。

それが、彼女が生き残るための、唯一の希望だった。

家族が苦しむ姿を、彼女は忘れることができなかった。

その地獄のような光景は、彼女の心に深く刻み込まれ、決して消えることのない傷となった。

奇跡的に生き延びた夕霧は、故郷の混乱の中、幼い身でありながら身を隠し、流浪の身となった。

彼女は、残された僅かな記憶と知識を抱え、ひたすら逃げ惑った。

生きるためには、どんな手段でも使わなければならなかった。

その中で、彼女は泥棒としての技術を習得した。

様々な屋敷や、隠された書庫に忍び込み、盗んだのは、金品だけではなかった。

毒に関する文献、薬草の知識、そしてあらゆる生存術を必死で学んでいった。

彼女が泥棒になったのは、生きるためだけでなく、いつか故郷を滅ぼした災厄の真実を突き止めるため、

そして同じ悲劇が二度と起こらないようにするための、知識と力を得る手段でもあったのだ。

彼女の窃盗は、復讐と、未来への希望を秘めていた。

彼女は、自分と同じ苦しみを誰にも味わわせないという、強い決意を胸に秘めていた。

そして、運命は、夕霧と本物の李蘭を結びつけた。

夕霧が後宮を目指して帝都を彷徨っていた際、偶然、彼女は李蘭に出会った。

李蘭は、玄葉の後宮入りを間近に控えた名家の娘だったが、

その時すでに、月影の初期の毒(あるいは、毒殺未遂の準備段階で試された、比較的弱い毒)によって重病に陥り、生命の危機に瀕していた。

李蘭の症状は、夕霧がかつて経験した、故郷を襲った災厄の症状と酷似していた。

夕霧は、李蘭が苦しむ姿に、故郷の悲劇と、愛する家族を失った痛みを重ね合わせた。

李蘭は、夕霧の持つ毒の知識に驚きながらも、彼女が信頼できる唯一の人物であると直感した。

李蘭は、夕霧に自身の身代わりとして後宮に入ることを懇願した。

「 わたくしは、このままでは、きっと後宮に入る前に命を落としてしまうでしょう。

しかし、わたくしには、どうしても陛下にお伝えしたい、秘密があるのです。

この体では、それも叶いません。

どうか、わたくしの代わりに、後宮に入って、真実を暴いてくださいませんか?

あなた様ならば、きっと…… 」

李蘭は、夕霧の腕を掴み、必死に懇願した。

彼女の瞳には、夕霧と同じ、真実を求める強い光が宿っていた。

その切なる願いが、夕霧の心を強く揺さぶった。

夕霧は、李蘭の切実な願いを受け入れた。

それは、単なる義侠心だけではなかった。

李蘭の症状は、自分の故郷を襲った災厄と酷似している。

もし、後宮で同じ毒が使われているとすれば、その背後には、

故郷の滅亡と繋がる大きな陰謀が隠されているかもしれない。

李蘭を救うことは、故郷の復讐と、二度と悲劇を繰り返さないという自身の誓いにも繋がる。

「 わたくしは、李蘭様の命を救うために、そして、二度とあのような悲劇が起こらないようにするために、ここへ来たのです 」

夕霧は、自身の心の奥底で、固く誓っていた。

李蘭と夕霧は、血縁こそないものの、互いの境遇と痛みを理解し合う中で、深い絆で結ばれていた。

李蘭は、夕霧の過去と、彼女が持つ毒の知識に驚きながらも、夕霧に全てを託したのだ。

夕霧が、命を賭してまで李蘭を守ろうとし、後宮の闇に挑む理由が、

単なる義侠心だけでなく、自身の過去と、二度と悲劇を繰り返さないという誓いによるものであることが、明確にされた。

彼女の胸には、李蘭への義理、そして故郷への誓いが、深く刻み込まれていた。

後宮の暗闇の中で、夕霧は、自らの内に秘めた決意を、改めて燃え上がらせていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ