第5話
夜の帳が、帝国の後宮を深く、濃密な闇で覆い隠していた。
長慶宮の一室、窓辺に立つ夕霧は、遠くに見える月影の宮の明かりをじっと見つめていた。
その光は、後宮の闇に蠢く陰謀の、まがまがしい象徴のように、夕霧の目に映った。
昼間の妃としての穏やかな表情は、彼女の顔から完全に消え失せ、
その瞳には、泥棒として獲物を追い詰めるような、研ぎ澄まされた鋭い光が宿っている。
物置部屋で見つけた毒の原料、そして侍女たちの不審な会話。
全ての点と点が線で繋がり、月影がこの一連の毒殺未遂事件に深く関与しているという確信が、
夕霧の中で、もはや疑いようのない事実として固まっていた。
「 ここから先は、もっと危険だ。
いや、もはや引き返すことはできない 」
夕霧は、そう心の中で呟いた。
月影の宮は、後宮の中でも特に厳重な警備が敷かれている。
皇帝の寵愛を一身に受ける上級妃の宮は、その地位の高さを示すように、まるで鉄壁の要塞だ。
しかし、夕霧の好奇心は、もはや抑えきれないほど膨れ上がっていた。
それは、ただの好奇心ではない。
毒によって苦しめられている妃たちの姿が、彼女の脳裏に焼き付いて離れなかった。
彼女たちが緩やかに、しかし確実に命を奪われるだろうという予感。
それは、かつて自身が毒によって死の淵を彷徨った経験を持つ夕霧にとって、
どうしても見過ごすことのできない光景だった。
あの時の絶望的な苦痛、そして誰にも助けてもらえなかった孤独。
それが、今の夕霧を突き動かす原動力となっていた。
夕霧は、身軽な動きで寝台から降りると、動きやすい簡素な黒い衣装に着替えた。
上質な絹の肌触りは、夜の闇に紛れるにはあまりにも贅沢だったが、それしか持ち合わせがない。
髪はきっちりと一つにまとめ、足元には音のしない布製の靴を履く。
顔には、目立たぬよう薄い黒布を巻いた。
彼女の身体能力は、もはや盗賊というよりも、熟練した忍びのそれに近かった。
幼い頃から家を飛び出し、飢えをしのぎ、身を守るために必死で培ってきた身体能力は、
こんな後宮の隠密行動において、何よりも頼りになる武器だった。
どんなに狭い場所でも、どんなに高い壁でも、彼女はまるで水のように潜り込み、風のように駆け抜けることができる。
彼女の指先は、わずかな足場も捉え、足の裏は、重心の移動を寸分違わず調整する。
一歩、また一歩と、夕霧の動きは、闇に溶け込むように静かだった。
長慶宮の裏通路を抜け、後宮の暗闇に紛れ込む。
月影の宮までは、複数の宮の裏庭を横切り、警備の目を掻い潜らなければならない。
夕霧は、昼間のうちに頭に叩き込んだ後宮の地図と、衛兵の巡回ルートを完璧に記憶していた。
彼女の耳は、風の音、虫の声、遠くでかすかに聞こえる衛兵の足音の規則的な間隔を正確に識別する。
微かな物音一つも聞き漏らすまいと、全身を神経に研ぎ澄ませた。
彼女の嗅覚は、夜風に乗って流れてくる月影の宮特有の、甘く重い香りを捉え、その方角を正確に示していた。
その香りは、月影が愛用している高価な香料だが、夕霧にとっては、獲物を示す微かな手がかりでもあった。
庭園の樹木を隠れ蓑にし、建物の影に身を潜めながら、夕霧は着実に月影の宮へと近づいていく。
宮の周囲には、衛兵の姿がいつもより多いように感じられた。
通常の夜間警備よりも、明らかに人員が強化されている。
月影が、何かを警戒しているのか、あるいは、夕霧のように、誰かがこの宮を探りに来ると予測しているのか。
夕霧は、その強化された警備を前にしても、動じることはなかった。
むしろ、警戒が厳重であるほど、そこに重要な秘密が隠されていると直感した。
彼女の泥棒としての経験が、そう囁いていた。
獲物が守られているほど、その価値は高い。
夕霧は、衛兵の巡回経路を慎重に見極め、その隙間を縫うように移動した。
彼女の動作は、しなやかで、まるで風に舞う木の葉のようだった。
屋根伝いに移動する際には、瓦一枚たりとも音を立てない。
彼女は、かつて命を狙われ、必死で生き延びるために身につけた、あらゆるサバイバル術を総動員していた。
一瞬の油断も許されない、命がけの綱渡りだ。
月の光が、瓦の表面にわずかな影を落とす。
その影すらも利用し、夕霧は自身の存在を消し去るかのように進んだ。
月影の宮の裏手に回ると、夕霧は、宮の壁にツタが絡まっているのを見つけた。
そのツタは、人の手によって意図的に配置されたかのように、二階の窓へと伸びている。
そこは、ちょうど警備の死角になっていた。
衛兵の視線は、あくまで地上に向けられ、高さのある場所には意識が向かない。
夕霧は、そのツタを掴み、するすると壁を登っていく。
その身軽さには、猿も舌を巻くだろう。
あっという間に二階の窓にたどり着くと、懐から細い針金を取り出し、慣れた手つきで鍵を解錠した。
カチリ、と微かな金属音が響き、窓がゆっくりと開く。
その音は、外の虫の声にかき消され、誰にも気づかれることはない。
宮の中は、静まり返っていた。
しかし、微かに香木の甘い匂いが、夕霧の鼻腔をくすぐる。
それは、月影が常用している高価な香料の匂い。
夕霧は、足音を立てないよう、絨毯の上を慎重に進む。
月影の宮は、長慶宮よりもはるかに豪華で、隅々にまで贅が尽くされていた。
壁には、異国の美術品が飾られ、部屋の中央には、巨大な水晶のシャンデリアが輝いている。
足を踏み入れるだけで、その圧倒的な財力と権力を感じさせる空間だった。
しかし、夕霧の目は、そんな装飾には目もくれず、何か不審なものがないかを探していた。
彼女の五感は、不自然な空気の流れ、微かな異臭、そして普段使われていない部屋の気配を捉えていた。
特に、他の部屋とは異なる、土と植物のわずかな匂いが、夕霧の注意を引いた。
いくつかの部屋を通り過ぎた後、夕霧は、奥まった場所に位置する、ほとんど使われていない物置部屋を見つけた。
そこは、普段は侍女たちもあまり立ち入らないような場所だと、昼間の情報収集で把握していた。
埃っぽい空気の中に、かすかに、あの毒の原料となる植物の匂いが混じっている。
その匂いは、夕霧の脳裏に、かつて自分を苦しめた毒の記憶を鮮明に蘇らせた。
生か死かの境で必死に得た知識が、今、再び彼女の命を救おうとしている。
夕霧は、物置部屋の扉にそっと手をかけた。
鍵はかかっていなかった。
軋む音を立てないよう、ゆっくりと扉を開ける。
部屋の中は、埃っぽい匂いが充満していたが、その奥からは、植物特有の、わずかに刺激的な香りが漂ってくる。
窓はなく、明かりはわずかな隙間から差し込む月の光のみだ。
部屋の隅には、いくつかの鉢植えが並べられていた。
そこに植えられているのは、やはりあの毒の原料となる植物。
その植物は、後宮の庭園では見かけない、珍しい品種だった。
おそらく、特定のルートで極秘に持ち込まれたものだろう。
鉢植えの土は、湿っていて、最近水がやられたばかりのように見えた。
そして、その植物の葉には、ところどころに切り取られた跡があった。
「 ここで、毒を育てていたのか…… 」
夕霧は、吐き気を覚えた。
華やかな後宮の裏で、このような忌まわしいことが行われているとは。
毒は、その植物から抽出されているに違いない。
想像を絶する悪意が、この美しい後宮の地下で蠢いていた。
さらに奥を探ると、古びた木製の箱を見つけた。
箱の中には、何種類もの薬草が乾燥された状態で保管されていた。
その中には、毒を調合するために必要な、特定の薬草も含まれている。
これらは、毒の作用を強めたり、逆に症状を隠蔽したりするために使われるものだ。
夕霧が過去に命を狙われた際、毒の種類を特定するために参考にした図鑑にも、
これらの植物の組み合わせが記されていた。
そして、その傍らには、使用済みの乳鉢と乳棒が置かれていた。
それらは、丁寧に洗浄されているものの、微かにあの毒の匂いが残っていた。
使い込まれた乳鉢は、この場所で、繰り返し毒が調合されてきたことを物語っていた。
夕霧は、証拠を掴んだ。
この場所が、妃たちを蝕む毒が調合されている秘密の場所だ。
そして、その乳鉢の下に、一枚の紙が挟まっているのを見つけた。
それは、墨で書かれた簡潔な指示書だった。
紙は薄く、後宮で使われる上質な紙ではない。庶民が使うような、粗い紙質だ。
しかし、その内容が、夕霧の心を凍り付かせた。
『 李蘭
の体調不良は、順調に進んでいる。
この調子で、淑妃、徳妃にも。
くれぐれも、衛兵に見つからぬよう。
決して失敗は許されない。』
その記述に、夕霧は息を呑んだ。
李蘭。
それは、自分が身代わりとして後宮入りした、本物の妃の名前だった。
そして、淑妃や徳妃の名前も記されている。
この指示書は、まさしく、自分を含め、複数の妃を狙った毒殺計画の証拠だ。
夕霧は、知らず知らずのうちに、命の危険に晒されていたのだ。
自分は、李蘭の身代わりとして、後宮の闇に引きずり込まれただけではなかった。
李蘭自身も、この陰謀のターゲットになっていたのだ。
「 まさか……李蘭まで狙っていたのか……一体なぜ? 」
夕霧は、驚きと怒りに震えた。
なぜ李蘭が狙われたのか?
彼女が後宮に入ることで、誰かに不都合なことがあったのか?
それとも、李蘭の家系自体が、何らかの理由で排除されるべき対象だったのか。
指示書には、発信者の名前は記されていない。
しかし、この宮の奥に、これほど大規模な毒の栽培場所があること。
そして、この指示書が
「 月影 」
という言葉を一切使わずに、まるで当然のように計画を進めていることから、
月影がこの事件の黒幕、あるいは深く関与している可能性が強く示唆された。
彼女は、妃たちを排除し、後宮における自身の絶対的な地位を確立しようとしているのか。
それとも、さらに大きな野望があるのか。
夕霧の頭の中では、月影の冷ややかな笑みと、探るような視線が蘇る。
あの女は、最初から自分に不審を抱き、探りを入れていたのだ。
そして、夕霧自身が、李蘭の身代わりであることに、薄々気づいていたのかもしれない。
その時、物置部屋の扉の外から、微かな物音がした。
足音だ。複数の足音。衛兵ではない。
もっと軽やかで、しかし確かな、人の気配。
そして、月影の侍女たちの声が聞こえる。
「 妃殿下、中にお戻りくださいませ。
夜は冷えます 」
月影の声だった。
冷たく、しかし確かな殺意を帯びた声が、扉の向こうから聞こえてくる。
まるで、獲物の気配を察知した獣の声のように。
「 誰かいるわね。
ここよ、ここから気配がするわ 」
月影の鋭い声が、さらに近づいてくる。
夕霧は、全身に冷たい汗が流れるのを感じた。
見つかった。
まさか、このタイミングで月影本人がこの物置部屋に来るとは。
完全に不意打ちだった。
彼女は、月影の警戒心を甘く見ていたのかもしれない。
「 早く、あの小娘を捕らえなさい。
何か証拠を見つけられたら面倒だわ 」
月影の指示が聞こえる。
複数の侍女たちが、扉を開けようと手をかけている。
扉がギシギシと軋む音は、すぐそこまで迫っている。
夕霧は、咄嗟に室内を見渡した。
逃げ道はどこだ?
窓は、鍵がかかっているし、ここから飛び降りれば、衛兵に見つかる。
一瞬にして、脳裏に状況が整理される。
死角はどこか?
彼女の体は、過去の死線を乗り越えてきた本能で動いた。
その時、天井近くに、小さな換気口があることに気づいた。
普段は埃まみれで目立たないが、泥棒として、狭い空間に潜り込むことに慣れている夕霧にとって、
あれは唯一の脱出経路だった。
過去、食料庫に忍び込んだ際、ネズミのように狭い通気口を這い回って脱出した経験が、今、活かされる。
夕霧は、素早く乳鉢と乳棒を元の位置に戻し、指示書を懐に隠した。
紙は薄く、肌に貼り付ければ気づかれにくい。
そして、天井の換気口目掛けて、身軽に飛び上がった。
壁のわずかな窪みに指をかけ、一瞬でよじ登る。
ギギギ、と古びた木材が軋む音がするが、構わず体を押し込んだ。
狭い空間は、埃とカビの匂いが充満しているが、彼女はそれを呼吸することすら躊躇わなかった。
ただ、身を隠すことに集中する。
ちょうどその時、物置部屋の扉が勢いよく開かれた。
月影が、数人の侍女を引き連れて部屋に入ってくる。
その表情は、普段の優雅な微笑みとは裏腹に、鋭い怒りに満ちていた。
彼女の瞳は、まるで蛇のように冷たく、殺意を宿している。
「 誰かいるはずだわ!
どこよ! 」
月影の鋭い視線が、部屋の中をなめるように探る。
侍女たちも、部屋の隅々まで目を凝らす。
物置の中、棚の裏、隅々まで。
しかし、部屋の中には、夕霧の姿はない。
彼女は、すでに換気口の奥へと身を潜め、息を殺していた。
彼女の体温と鼓動は、極限まで抑え込まれている。
泥棒として追われることに慣れている夕霧にとって、これは日常の一部だった。
「 ……気のせいかしら。
妙ね 」
月影は、不満そうな顔で部屋を見渡した。
侍女たちは、首を傾げている。
「 いいえ、確かに気配がいたしましたわ、妃殿下。
この耳で、微かな音を 」
一人の侍女が、不安げに月影に訴えた。
月影は、不機嫌そうに舌打ちした。
そして、念入りに部屋の中を調べ始めた。
毒の原料となる鉢植え、そして乳鉢と乳棒。
全てが、以前と変わらずそこにあることを確認すると、月影は安堵したように息を吐いた。
彼女は、証拠が奪われていないことを確認し、油断したのだ。
「 何もないわね。
私の気のせいだったのかしら。
最近、後宮の小娘たちが、無闇にうろつき回っているから、つい神経質になってしまうわ 」
月影は、そう言うと、部屋を後にした。
侍女たちも、月影の後を追って部屋を出ていく。
扉が閉まる音を聞くと、夕霧は、安堵の息を吐いた。
間一髪だった。
もう少し遅れていたら、確実に捕まっていた。
彼女の心臓は、まだ激しく鼓動している。
換気口の奥から、再び物置部屋へと降り立つ。
夕霧は、懐に隠した指示書を握りしめた。
これは、決定的証拠だ。
この一枚の紙が、後宮の闇を切り裂く光となるのか。
あるいは、夕霧自身の首を絞める凶器となるのか。
この事実を、誰に、どのように報告すべきか。
皇帝・玄葉は、夕霧の行動に興味を抱いている。
彼の元に直接訴え出るべきか。
しかし、そうなれば、自分が
「 影の妃 」
であるという正体も同時に明かすことになる。
それは、即刻処刑を意味する。
しかし、もし玄葉が、本当にこの後宮の異変に気づき、真相を探っているのなら……。
彼は、月影と対立する勢力なのか。
それとも、この陰謀に加担しているのか?
彼の冷徹な瞳の奥に隠された真意は、まだ測りかねる。
夕霧は、長慶宮へと戻る裏道を、足早に進んだ。
彼女の脳裏では、今後の戦略が目まぐるしく巡っていた。
信頼できる者はいるのか?
侍女・冬花は、あまりにも純粋で、この陰謀には巻き込めない。
かといって、他の妃に相談することもできない。
後宮は、どこを見ても疑心暗鬼の園だ。
誰もが、自分の保身しか考えていないように見える。
この状況で、誰を信じればいいのか。
夕霧は、自分の身の安全と引き換えに、この真実を暴き出すことを決意していた。
それは、彼女自身の命を危険に晒すことになっても、引き返せない道だ。
手に入れた指示書は、命がけの証拠。
この一枚の紙が、後宮の闇を切り裂く光となるのか。
あるいは、夕霧自身の首を絞める凶器となるのか。
その答えは、まだ闇の中だった。
彼女は、長慶宮の自室に戻ると、指示書を誰にも気づかれないよう、寝台の底板を外し、その隙間に隠した。
証拠は手に入れた。
しかし、これをどう使うか。
それが、次の課題だ。
月影が、自分がこの宮に潜入したことに気づいている可能性も高い。
彼女が、さらなる行動に出る前に、手を打たなければならない。
後宮の均衡は、今、揺らぎ始めている。
夕霧の行動が、その均衡を完全に崩壊させることになるのか、あるいは新たな秩序をもたらすのか。
夜は、まだ長い。
夕霧は、窓から差し込む月の光を見つめながら、これから起こるであろう激しい嵐の予感に、身を引き締めていた。
彼女の、荊棘の後宮での戦いは、今、新たな局面を迎えたのだ。
泥棒として培った知恵と度胸、そして過去の経験から得た毒の知識を武器に、
夕霧は、この偽りの宮で、真実を掴むことができるのだろうか。
そして、その先に、彼女自身の隠された過去が、どのように後宮の運命と結びついていくのか。
それは、まだ誰も知らない物語の始まりに過ぎなかった。
夕霧の運命は、複雑に絡み合った後宮の糸の中で、今、大きく動き出そうとしていた。