第4話
長慶宮の物置部屋で発見した液体の匂いは、夕霧の記憶の奥底に、ある強烈な体験を呼び起こした。
それは、故郷を追われ、家出したばかりの頃、まだ盗みすら覚束なかった頃の、死の淵をさまよった記憶だった。
当時、路頭に迷っていた夕霧は、見知らぬ男たちに絡まれ、無理やり飲まされた奇妙な液体で気を失った。
数日間、意識が混濁し、全身が鉛のように重く、吐き気と激しい頭痛に苛まれた。
その時、命からがら逃げ込んだ廃屋で、偶然手にした古びた薬草図鑑に、その液体の原料となる植物の記述があった。
その毒は、即効性はないが、じわじわと体の機能を低下させ、精神を蝕む類のものだった。
幸い、若かった夕霧は、野生の勘で毒が盛られていることに気づき、
必死に体から毒を排出する方法を探し、図鑑に記された解毒法を試すことで、九死に一生を得たのだ。
以来、彼女は身を守るため、様々な毒物や薬草について、独学で必死に調べてきた。
泥棒として様々な屋敷に忍び込んだ際も、書庫や蔵の奥で偶然目にした毒に関する文献や、
怪しい薬瓶の情報を、警戒心と好奇心から頭に叩き込んできたのだ。
物置部屋の液体の匂いは、まさにその時のものと酷似していた。
「 間違いない……あれは、緩効性の神経毒だ 」
夕霧は、長慶宮の自室に戻り、誰もいないのを確認すると、静かに息を吐いた。
淑妃や徳妃の体調不良は、偶然などではなかった。
計画的な毒殺未遂、あるいは緩やかな排除。
その事実が、夕霧の胸に重くのしかかった。
それから数日、夕霧は、毒を盛られていると思われる妃たちの宮の様子を、より細かく観察し始めた。
彼女たちの食事の傾向、特に甘いものや香りの強いものに毒が混ぜられているのではないかと推測した。
衛兵の巡回経路を完璧に把握している夕霧にとって、他の宮の様子を探ることは、それほど難しいことではなかった。
淑妃の宮からは、毎日のように侍女が、珍しい菓子の材料を仕入れているのが見えた。
徳妃の宮からは、夜中に侍女がこっそり、特定の薬草のようなものを運び込んでいる気配がした。
夕霧は、侍女たちの些細な仕草、言葉の端々、そして彼女たちの宮から漂ってくる微かな匂いまで、
あらゆる情報を逃さなかった。
彼女の泥棒としての**「 獲物を追う 」観察眼**
が、今、後宮の闇に潜む真実を暴こうとしていた。
侍女・冬花は、夕霧の細やかな観察力や、妃たちの体調不良に対する並々ならぬ関心に気づいてはいたものの、
それが毒によるものだとは、思いもよらなかったようだ。
彼女は、ただ
「 妃殿下は優しい方だ 」
と、夕霧の行動を善意で解釈している。
夕霧は、この真面目で融通の利かない侍女に、これ以上危険な情報を与えるべきではないと判断した。
冬花が、もし後宮の深い陰謀に巻き込まれれば、彼女自身が危険に晒される。
夕霧は、単独で調査を進めることを決意した。
自身の正体がバレるという絶大なリスクと、無実の妃たちの命を救うべきかという葛藤が、彼女の心を苛む。
しかし、目の前で静かに命を蝕まれている者たちがいるのに、見過ごすことはできなかった。
それは、泥棒として、決して正義の味方ではなかった夕霧の中に、かすかに芽生え始めた、
人間としての感情だったのかもしれない。
そんな夕霧の異変に対する独特の反応や、他の妃たちとは異なる行動は、
後宮の頂点に立つ皇帝・玄葉の目にも留まっていた。
玄葉は、日課として、後宮の妃たちの動向を密かに探らせていた。
それは、妃たちの間での権力争いや、不満の芽を早期に察知するためだったが、
最近、報告書に頻繁に登場する名前があった。
それが、長慶宮の夕霧だった。
「 長慶宮の妃が、淑妃の宮に足を運ばれ、体調を気遣う言葉をかけられた、と? 」
執務室で報告を聞いた玄葉は、感情の読めない顔で、書簡に目を落とした。
侍従の報告は、夕霧が、体調不良の淑妃にさりげなく助言をしたり、
不審な場所を注意深く観察したりする様子を伝えていた。
他の妃たちが、自身の保身と寵愛争いに明け暮れる中、夕霧の行動は、異質だった。
「 はい。
また、徳妃の宮で、最近持ち込まれたという珍しい鉢植えを、熱心にご覧になっていたとか。
その鉢植えは、珍しい香りを放つ、毒性のある植物だという噂もございますが 」
侍従の言葉に、玄葉の瞳がわずかに動いた。
彼の目は、報告書に記された
「 毒性のある植物 」
という言葉に釘付けになった。
彼は、夕霧が通常の妃とは違う
「 何か 」
を持っていることに、漠然と気づき始めていた。
彼女は、本当に
「 病弱で世間に疎い妃 」
なのだろうか?
それとも、何か別の目的があって、後宮に入り込んでいるのか?
玄葉は、夕霧に興味を抱き、密かに彼女の動向を探らせるよう命じた。
「 長慶宮の妃の行動を、引き続き報告せよ。
特に、変わった動きがあれば、すぐに 」
一方、後宮の権力者である上級妃・月影もまた、夕霧の行動に警戒心を抱いていた。
月影は、後宮で最も情報網が発達していると言われており、
新しい妃である夕霧の素性について、様々な探りを入れていた。
「 長慶宮の妃が、淑妃の宮を訪れたとか。
病気と聞いていたが、ずいぶんお元気になったものだわね 」
月影は、侍女が差し出した茶を優雅に啜りながら、呟いた。
彼女の侍女は、月影の目の前で、何気ない顔で後宮の噂話を報告する。
「 はい、そのようでございます。
しかし、その妃殿下、どうも言動にどこか粗野なところがございまして……
噂とは随分とかけ離れておりました 」
侍女の言葉に、月影の口元に冷ややかな笑みが浮かんだ。
「 あら、そう。
病が治ると、性格まで変わるのかしら。
それとも…… 」
月影の真意は、単なる嫉妬心なのか、それとも後宮の裏で動く別の勢力と関わっているのか、
夕霧にはまだ見当がつかなかった。
しかし、彼女が夕霧の正体に何らかの疑念を抱いていることは明らかだった。
月影の行動は、夕霧にとって新たな警戒対象となった。
この女は、自分が生き抜く上で、最も厄介な存在になるかもしれない。
夕霧は、ある日、淑妃の宮の庭園に、見慣れない種類の鉢植えが置かれているのを目にした。
それは、徳妃の宮から侍女が運び込んでいた薬草と似た香りを放っていた。
夕霧は、その鉢植えを注意深く観察した。
その植物は、特定の毒物の原料となるもので、かつて自身が命を狙われた際に、図鑑で確認した植物の一つだった。
「 まさか、こんなに堂々と…… 」
夕霧は、身震いした。
毒を盛る者たちは、相当な自信を持っているのか、
それとも、後宮の誰もがその植物の危険性を知らないと踏んでいるのか。
夕霧は、夜中に再び物置部屋へと向かった。
前回、見つけた液体の容器は、きれいに洗われていたが、
棚の奥には、その毒の原料となる植物の乾燥した葉が、いくつか残されているのを発見した。
夕霧は、それらの葉を指で擦り、匂いを嗅いだ。
「 この匂い……やはり、間違いない 」
この植物は、見た目には普通の薬草と区別がつきにくい。
しかし、その葉を擦ると、微かに独特の、嗅ぎ慣れない香りがする。
これが、毒の証拠だ。
夕霧は、この毒がどこから持ち込まれているのかを探るため、後宮の地図を再び頭の中で広げた。
物置部屋は、裏通路を通じて、特定の宮へと繋がっている。
それは、毒を盛られている妃たちの宮ではない。
むしろ、その妃たちとは対立関係にある、別の高位の妃の宮の近くにあることが分かった。
「 これは、誰かの指示で、侍女たちが動いている……? 」
夕霧は、毒を盛っている実行犯は、侍女たちであることは確信した。
しかし、彼女たちの背後には、もっと大きな存在がいるはずだ。
妃たちの権力争いか、それとも、皇帝の寵愛を巡る争いか。
夕霧は、泥棒時代に培った隠密行動の技術を駆使し、深夜、後宮の裏道を抜け、
月影の宮の周辺を探ることを決意した。
月影の宮は、後宮の中でも特に警備が厳重で、闇雲に近づけばすぐに衛兵に見つかるだろう。
しかし、夕霧は、後宮の地図に記された裏道や、警備の死角をすでに把握している。
「 これを見過ごすわけにはいかない 」
夕霧は、自身の身に危険が迫ることを理解していた。
しかし、無実の妃たちが毒で蝕まれ、この後宮が闇に包まれていくのを、黙って見ていることはできなかった。
それは、泥棒としての好奇心だけでなく、過去に自らも命を狙われた経験から、
毒の恐ろしさを知っているからこそ、という強い使命感にも近いものだった。
夜陰に紛れ、夕霧は長慶宮を抜け出した。
彼女の足音は、闇に溶け込み、まるでそこに存在しないかのように静かだった。
目的は、月影の宮の周辺。
そこで、何らかの証拠を見つけ出すことだ。
この後宮の深部に潜む闇の正体を、彼女は必ず暴いてみせる。
たとえそれが、彼女自身の命を危険に晒すことになっても。