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荊棘後宮の盗妃伝  作者: ひらめ
第1章
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第3話


後宮に

「 影の妃 」

として足を踏み入れてから、夕霧は密かに、そして着実に変化していた。

当初は慣れない豪華な暮らしと、いつ正体がバレるかわからない恐怖に苛まれていたものの、

日を追うごとに、彼女は妃としての生活に巧妙に適応していった。

冬花が教える貴族の教養や作法は、夕霧にとって新たな知識の宝庫だった。

詩歌や琴の演奏は、正直なところ退屈に感じたが、書物の読み方や、歴史、地理、

そして帝国の政治に関する講義は、彼女の好奇心を強く刺激した。

特に、帝都の歴史や、後宮の成り立ちに関する記述は、

この巨大な宮殿のどこに秘密が隠されているのかを探る上で、貴重な手掛かりを与えてくれた。

彼女は、持ち前の記憶力で、それらの知識をスポンジが水を吸い込むように吸収していった。

表面上は、物静かで憂いを帯びた妃を演じ続ける。

侍女たちに過度な要求はせず、常に控えめな笑みを浮かべた。

しかし、その内面では、彼女の五感は常に研ぎ澄まされていた。

足音一つで、誰がどこを歩いているか、風の匂いで、どの宮からどんな香りが漂ってくるか、

彼女の耳と鼻は、後宮の隅々までを監視する

「 網 」

となっていた。

長慶宮での日々は、表向きは穏やかだった。

冬花は、相変わらず真面目で、夕霧の言葉遣いや振る舞いの粗さに眉をひそめることもあったが、

彼女の献身的な態度は変わらなかった。

夕霧は、そんな冬花の目を欺きながら、彼女の行動パターンや、他の侍女たちとの関係性を把握していった。

冬花は真面目すぎて融通が利かないが、裏を返せば、規則に忠実で予測しやすい。

これは、夕霧にとって好都合だった。

しかし、後宮全体に、どこか澱んだ空気が漂っているのを、夕霧は感じ取っていた。

それは、目に見えるものではなく、肌で感じるような、微かな不穏さだった。

そして、その不穏さは、日を追うごとに、具体的な噂として形を成していった。

「 淑妃様が、また体調を崩されたそうよ 」

「 ええ、最近お召し上がりになるものが、どうも合わないとかで 」

夕食の準備中、侍女たちが囁き合う声が、夕霧の耳に届いた。

淑妃しゅくひとは、後宮の上級妃の一人だ。

「 そういえば、徳妃様も最近、お顔色が優れないように見えるわ 」

「 きっと、皇帝陛下からお声がかからないからでしょう?

あんなに麗しいお方なのに 」

別の侍女が、嫉妬めいた口調で言った。

高位の妃たちの体調不良や、皇帝の寵愛の偏り。

最初は単なる宮中のゴシップだと聞き流していた夕霧だが、

その噂が、特定の妃に集中していることに気づいた。

そして、彼女は、単なる体調不良や寵愛争いとは異なる、何か異質なものを感じ取っていた。

夕霧の頭の中では、泥棒としての

「 獲物を探す 」

本能が、静かに、しかし確実に刺激されていた。

この後宮のどこかに、何か

「 不自然なもの 」

が隠されている。

それは、金目の宝ではない。

もっと、人の営みの根源に深く関わる、秘密めいた何か。

皇帝・玄葉の動向もまた、夕霧の注意を引いた。

彼は、表向きは後宮の妃たちを公平に扱っているようだったが、

実際には特定の妃の宮を頻繁に訪れているという噂もあれば、

逆に全く訪れていない妃もいるという噂も耳にした。

特に、皇后陛下が病で伏せられているという噂が流れて久しいにもかかわらず、

玄葉が玉華宮を訪れる気配は一向にない。

彼の冷徹な仮面の下に、一体どのような意図があるのか。

夕霧は、彼の瞳の奥に、何か深いものを隠しているように感じていた。

それは、権力者の思惑なのか、それとも個人的な感情なのか。

ある夜、夕霧は、部屋の奥で静かに書物を読んでいた。

冬花は、すでに就寝している。

静寂に包まれた長慶宮の中で、夕霧の耳は、微かな物音を捉えた。

それは、通常の巡回衛兵の足音ではない。

もっと不規則で、何かを隠すような、忍び足の音だった。

「 ……こんな夜中に、誰が 」

夕霧は、書物を閉じ、寝台からそっと抜け出した。

足音を立てないよう、細心の注意を払いながら、部屋の扉に近づく。

扉の隙間から外を覗けば、薄暗い廊下を、一人の侍女が足早に歩いているのが見えた。

彼女は、夕霧が知っている侍女ではない。どこか見慣れない顔立ちだった。

その侍女は、長慶宮の奥、ほとんど使われていない古い物置部屋の方へと向かっているようだった。

物置部屋?

あんな場所に、一体何の用が?

夕霧の胸中で、泥棒としての好奇心がむくむくと頭をもたげた。

これは、何か不穏な兆候に違いない。

彼女は、すぐにその侍女の後を追うことを決意した。

しかし、闇雲に後を追うわけにはいかない。

夕霧は、まずはこの長慶宮の内部構造を正確に把握する必要があると感じた。

昼間、冬花が説明してくれた後宮の地図は、頭の中に入っている。

だが、細部までは記憶できていない。

「 そうだ、あの地図だ 」

夕霧は、冬花の部屋に忍び込むことを決意した。

冬花は真面目な性格ゆえに、支給された資料をきちんと整理しているはずだ。

彼女の部屋には、きっと後宮の詳細な地図があるに違いない。

冬花の部屋は、長慶宮の奥、夕霧の部屋からは少し離れた場所にあった。

夕霧は、身軽な足取りで廊下を進む。

侍女たちの寝室は、すでに静まり返っている。

微かな寝息しか聞こえない。

冬花の部屋の扉は、外から鍵がかけられていた。

しかし、夕霧にとって、それは障壁とはならない。

懐から細い針金を取り出すと、慣れた手つきで鍵穴に差し込む。

カチリ、と微かな音が響き、扉がゆっくりと開いた。

部屋の中は、整理整頓されており、簡素だが清潔だった。

夕霧は、まず書棚に目を向けた。

予想通り、そこには後宮に関する様々な書類が整然と並べられていた。

その中に、一枚の広げられた地図があった。

それは、冬花が以前見せてくれたものよりも、はるかに詳細なものだった。

宮の内部構造、地下通路の存在、衛兵の巡回経路、

そして妃たちの居室の配置まで、細かく書き込まれている。

「 これは……凄い 」

夕霧は、地図を食い入るように見つめた。

そこには、これまで見えてこなかった後宮の

「 裏側 」

が描かれているようだった。

特に、夕霧の宮がある長慶宮の奥には、ほとんど使われていない

「 裏通路 」

の存在が記されていた。

そして、その裏通路は、先ほどの侍女が向かっていた物置部屋へと繋がっているように見えた。

地図を記憶していると、夕霧はふと、冬花の机の引き出しに目をやった。

何気なく開けてみると、そこには、数枚の薄い紙が挟まっていた。

それは、複数の妃の名前が記されたリストだった。

そして、それぞれの名前の横には、

「 体調不良 」

「 不眠 」

「 精神不安定 」

など、具体的な症状が記されている。

淑妃の名前も、徳妃の名前もあった。

「 これは……体調管理の記録? 」

夕霧は、そのリストを注意深く見た。

それぞれの症状には、時期と、服用した薬の名前が記されている。

そして、その薬の名前に、夕霧は違和感を覚えた。

それは、一般的に用いられる薬草とは異なる、どこか見慣れない、

しかし、かつて故郷で学んだ薬学の知識の片隅に、微かに記憶されているような名前だった。

「 もしかして、あの噂は…… 」

夕霧の脳裏に、一つの仮説が閃いた。

これらの妃たちの体調不良は、偶然ではないのかもしれない。

彼女は、リストを元の場所に戻し、鍵をかけた。

そして、地図の記憶を頼りに、長慶宮の奥へと向かった。

目指すは、あの物置部屋へと続く裏通路だ。

裏通路は、地図に記されている通り、薄暗く、埃っぽい空間だった。

普段は使われていないため、人影は全くない。

夕霧は、微かな光を頼りに、慎重に足を進めた。

彼女の耳は、先ほど聞いた侍女の足音を探している。

通路の突き当りに、古びた木の扉があった。

扉の隙間からは、微かな光が漏れている。

そして、人の声が聞こえてくる。

複数の声だ。

夕霧は、物音を立てないよう、扉の隙間から中を覗き込んだ。

部屋の中には、数人の侍女たちがいた。

その中に、先ほど夕霧が後を追った侍女の姿もある。

彼女たちは、何かの容器を囲んで、ひそひそと話し合っていた。

「 ……これを、淑妃様の食事に混ぜるのね? 」

「 ええ。

決して気づかれないように。

量が多すぎると、すぐにばれてしまうわ 」

「 これで、淑妃様も、もうしばらくは陛下の御前には立てないでしょう 」

侍女たちの会話に、夕霧は衝撃を受けた。

彼女たちは、淑妃の食事に何かを混ぜている。

それは、淑妃の体調不良の原因だったのか?

夕霧は、彼女たちの手元を凝視した。

容器の中には、見たことのない、奇妙な色の液体が入っていた。

それは、微かな刺激臭を放っており、その匂いは、夕霧の鼻腔を強く刺激した。

この匂い……どこかで嗅いだことがある。

しかし、それが何だったのか、すぐに思い出せない。

さらに彼女たちの会話は続く。

「 しかし、いつまでこんなことを続けるのですか。

もしバレたら…… 」

「 黙っていれば問題ないわ。

それに、これは淑妃様だけのことではない。

徳妃様も、貴人の方々も、皆、同じように『 体調不良 』を訴えているでしょう? 」

「 あの薬は、本当に効き目があるのですね。

匂いも味も、ほとんど分からないのに 」

「 薬 」

という言葉に、夕霧の頭の中で、故郷の薬学の知識が閃光のように駆け巡った。

あの匂い、あの奇妙な液体……。

あれは、特定の薬草を煎じた、ごく微量の毒だった。

すぐに命を奪うような毒ではない。

しかし、長期間摂取すれば、徐々に体の機能を低下させ、精神を不安定にさせる。

そして、その症状は、通常の病気と見分けがつきにくいのだ。

「 誰が……何の目的で…… 」

夕霧は、全身に鳥肌が立つような悪寒を感じた。

これは、単なる妃たちのいざこざではない。

後宮全体を巻き込む、計画的な毒殺未遂だ。

しかも、複数人に対して、継続的に行われている。

彼女は、侍女たちが部屋を後にするのを待ち、物置部屋へと足を踏み入れた。

部屋の中には、液体が入っていた容器が、使用済みのまま放置されている。

夕霧は、容器を手に取り、その匂いを改めて嗅いだ。

間違いない。

この匂いは、かつて故郷の薬師の元で、禁忌の毒草として教えられたものと、驚くほど似通っていた。

この毒は、簡単に手に入るものではない。

そして、その調合には、専門的な知識が必要だ。

夕霧は、容器を元の場所に戻し、素早く物置部屋を後にした。

彼女の心臓は、激しく脈打っていた。

この後宮の華やかな表面の下には、想像以上に深い闇が潜んでいる。

誰が、何のために、妃たちを毒で蝕んでいるのか?

そして、その背後には、一体誰がいるのか?

夕霧は、自身の身の安全と引き換えに、この後宮の闇の真相を暴き出すことを決意した。

それは、泥棒としての好奇心だけでなく、無実の罪で苦しめられている妃たちへの、

かすかな同情の念も混じっていたのかもしれない。

彼女の、後宮での新たな

「 盗み 」

が、今、始まったばかりだった。

それは、金目のものではなく、真実という名の、最も価値ある宝を盗み出すための、命がけの始まりだった。

この荊棘の園で、夕霧は、その身一つで、真実という名の光を手に入れられるのだろうか。

そして、その光が、彼女自身の隠された過去を照らし出すことになることも、まだ知る由もなかった。



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