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荊棘後宮の盗妃伝  作者: ひらめ
第1章
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第2話


夕霧は、目覚めると同時に、肌に触れる滑らかな絹の感触に驚いた。

今まで慣れ親しんだ、薄汚れた粗末な敷物とは全く違う。

ゆっくりと目を開ければ、そこは金糸で刺繍された豪華な天蓋付きの寝台の中だった。

部屋を見渡せば、昨日までの薄暗い路地裏や、簡素な隠れ家とは似ても似つかぬ、

豪奢な装飾品と、見たこともないほど上質な調度品で埋め尽くされている。

壁には、異国の風景を描いたらしい巨大な絵画が飾られ、部屋の隅には、高価な香木が静かに燻っていた。

「 ……夢、じゃないんだな 」

夕霧は、そっと自分の頬をつねった。

痛みはあった。紛れもない現実だ。

昨夜の出来事が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。

追われる高貴な女性、咄嗟の着物の交換、

そして自分が

「 影の妃 」

として後宮に連れてこられたという信じがたい事実。

「 妃殿下、お目覚めになられましたか? 」

部屋の扉が静かに開き、一人の侍女が中に入ってきた。

彼女は、三十代半ばだろうか、整った顔立ちに、きっちりと結い上げられた髪。

その表情は、厳格でありながら、どこか献身的な色を帯びていた。

「 わたくしは、この長慶宮ちょうけいきゅうの筆頭侍女、冬花トウカ

と申します。

これより、妃殿下のお世話をさせていただきます 」

冬花は、深々と頭を下げた。

彼女の言葉遣いは、これまで夕霧が耳にしてきたどんな言葉よりも丁寧で、淀みがなかった。

夕霧は、咄嗟にどう返事をすればいいのか分からなかった。

貧しい暮らしの中で、まともな教育など受けてこなかったのだ。

「 あ、ああ……そうか…… 」

なんとか絞り出した声は、ひどく間の抜けたものだった。

冬花は、一瞬だけ怪訝な表情を浮かべたが、すぐに元の無表情に戻った。

「 妃殿下、お食事の準備が整っております。

まずは、お召し替えを 」

冬花は、指示を出すと、別の侍女たちに目配せした。

侍女たちは、手際よく寝台の周りに集まり、夕霧が身につけていた寝間着を脱がせにかかった。

夕霧は、されるがままに、豪華な絹の着物を身につけさせられた。

その着物は、何重にも重なり、一人では着ることが難しいほど複雑な構造をしていた。

朝食の席に着くと、目の前には見たこともないような豪華な食事が並べられていた。

色鮮やかな点心、香り高い粥、珍しい果物。

どれも、夕霧がこれまで口にしたことのないものばかりだ。

しかし、どう箸を使えばいいのか、どの皿から手を付ければいいのか、全く分からない。

夕霧は、冬花の動きを盗み見した。

彼女は、流れるような優雅な動作で、箸を使いこなしている。

夕霧は、ぎこちない手つきで箸を握り、恐る恐る点心をつまんでみた。

それは、想像を絶するほど繊細で、美味だった。

「 妃殿下、何かお気に召しませんでしたでしょうか? 」

冬花が、心配そうに尋ねた。

夕霧は、慌てて首を横に振った。

「 い、いえ、美味い……その、とても美味しい 」

言葉遣いも、ままならない。

冬花は、わずかに眉をひそめたが、何も言わなかった。

夕霧は、とにかく正体がバレないように、ひたすら慎重に振る舞うことを心に決めた。

侍女たちの目を盗み、彼女たちの会話に耳を傾ける。

後宮の情報を、少しでも多く集める必要があった。

冬花は、夕食後、夕霧に後宮の簡単な説明をしてくれた。

「 この後宮は、皇帝陛下がお住まいになる宮城の奥に位置しております。

妃殿下方がお住まいになる宮は、全部で八つ。

それぞれ、高位の妃殿下から順に、中央に位置する玉華宮ぎょくかきゅうが皇后陛下の宮。

その東西に、貴妃きひ淑妃しゅくひ徳妃とくひの宮がございます。

妃殿下がお住まいの長慶宮は、比較的奥まった場所にございますが、

落ち着いてお過ごしいただけるかと存じます 」

冬花は、一枚の後宮の地図を取り出し、丁寧に説明してくれた。

地図には、色鮮やかな建物がいくつも描かれている。

夕霧は、その複雑な構造に目を見張った。

後宮は、まるで一つの小さな国のようだった。

「 妃殿下方の序列は、厳格に定められております。

皇后陛下を筆頭に、貴妃、淑妃、徳妃、そして妃、夫人、嬪、そして貴人きじん

妃殿下は、新たに妃の位を授かっております。

しかし、後宮では、序列が全てでございます。

どうか、ご自身の立場を弁え、軽率な行動はお慎みくださいませ 」

冬花は、釘を刺すように言った。

その言葉には、後宮の厳しさが滲み出ていた。

華やかな外見とは裏腹に、ここは自由のない、閉鎖的な空間なのだと。

夕霧は、改めて自分の置かれた状況の危険性を認識した。

正体がバレれば、即座に処刑される。

それが、この後宮のルールなのだ。

数日後、夕霧は皇帝への謁見を命じられた。

玉華宮の奥に位置する、皇帝の執務室。

夕霧は、冬花に促されるまま、豪華な衣装を身につけ、顔に薄く化粧を施された。

鏡に映る自分の姿は、まるで別人だ。

泥棒だった自分が、こんなにも着飾って、皇帝に謁見するとは、誰が想像できただろうか。

「 妃殿下、決して失礼のないように。

陛下は、非常に厳格な方でございます 」

冬花が、心配そうに忠告した。

夕霧の心臓は、激しく脈打っていた。

しかし、ここで怯むわけにはいかない。

皇帝の執務室は、これまで見てきたどの部屋よりも広大で、威厳に満ちていた。

部屋の中央には、巨大な玉座が鎮座しており、その玉座に、一人の男が座っていた。

それが、この大国の皇帝、玄葉ゲンヨウ

だった。

彼の瞳は、夜の闇のような漆黒で、感情を一切感じさせない。

その顔立ちからは、若くして帝国の頂点に立つ者の冷徹なまでの鋭さが感じられた。

夕霧は、彼の一挙手一投足から目が離せなかった。

彼は、まさに玉座に座るにふさわしい、圧倒的な存在感を放っていた。

夕霧は、冬花に教えられた通り、深々と膝をつき、頭を下げた。

「 長慶宮の妃、夕霧、陛下にご挨拶申し上げます 」

夕霧は、必死に高貴な言葉遣いを模倣した。

声が震えないよう、細心の注意を払う。

「 ……顔を上げよ 」

玄葉の声は、低く、重々しかった。

まるで、凍りつくような氷の響きを持っていた。

夕霧は、ゆっくりと顔を上げた。

玄葉の冷徹な視線が、真っ直ぐに夕霧を貫く。

まるで、彼女の素性を全て見透かすかのような、鋭い視線だった。

夕霧は、内心で冷や汗をかいた。

「 そなたが、影の妃か 」

玄葉の言葉に、夕霧は微かに身を震わせた。

「 影の妃 」

という言葉は、夕霧が本物の妃ではないことを、皇帝自身も知っているかのようだった。

しかし、それを問い詰めることはできない。

「 は、はい…… 」

夕霧は、なんとか返事をした。

玄葉は、しばらくの間、何も言わずに夕霧を見つめ続けた。

その沈黙は、夕霧にとって、永遠のように感じられた。

彼女は、あらゆる情報を彼から読み取ろうとした。

彼の表情、視線の動き、呼吸のわずかな乱れ。

しかし、玄葉からは、まるで感情の欠片も読み取ることができなかった。

彼は、完璧に感情を制御している。

「 下がってよい 」

やがて、玄葉は冷たく言い放った。

夕霧は、安堵の息を吐き、再び深々と頭を下げて部屋を後にした。

「 ……やはり、一筋縄ではいかないな 」

執務室を出た後、夕霧は思わず呟いた。

皇帝は、彼女が考えていたよりもずっと、手強い相手だった。

後宮での生活は、表向きは華やかだったが、裏側には常にピリピリとした緊張感が漂っていた。

夕霧は、妃としての教養を身につけるため、冬花から書物の読み方や詩歌、琴の演奏などを習った。

それは、泥棒稼業とは全く異なる、新たな知識だった。

最初は退屈に感じたが、次第に、知識を得ることの喜びを感じ始めた。

特に、歴史書や地理に関する書物を読むのは、

故郷を離れて様々な場所を渡り歩いてきた彼女にとって、新しい世界を見せてくれるようで楽しかった。

ある日、庭園の散策中、夕霧は後宮で最も美しいと噂される上級妃の一人、月影ツキカゲ

と遭遇した。

月影は、長い黒髪をなびかせ、まるで月の光を浴びたかのような神秘的な美しさを持っていた。

彼女の周りには、常に数人の侍女が付き従い、その存在は、後宮の妃たちの中でも一際目立っていた。

月影は、夕霧に気づくと、優雅な動作で近づいてきた。

その表情は、友好的な笑みを浮かべていたが、

夕霧は、彼女の瞳の奥に、何かを探るような冷たい光を感じ取った。

「 あら、新しい妃殿下でいらっしゃいますね。

わたくしは月影と申します。

どうぞよろしく 」

月影の声は、鈴を転がすように美しかった。

夕霧は、冬花に教えられた通りの作法で、深々と頭を下げた。

「 ご挨拶申し上げます、月影様。

長慶宮の夕霧と申します 」

夕霧は、高貴な言葉遣いを心がけた。

月影は、夕霧の顔をじっと見つめた。

その視線は、夕霧の心の奥底を見透かすかのような鋭さだった。

「 お噂はかねがね。

妃殿下は、ご病気のために、長らくお姿をお見せにならなかったと伺っておりますが……

すっかりお元気になられたようで、何よりでございますわね 」

月影は、笑顔の裏で探りを入れている。

夕霧が

「 影の妃 」

であるという事実を、彼女はどこまで知っているのだろうか。

夕霧は、内心焦りながらも、平静を装って答えた。

「 はい、皆様にご心配をおかけいたしました。

幸い、回復することができました 」

「 それはよろしゅうございました。

しかし、妃殿下は、その……大変ご謙遜なさっていらっしゃるのですね。

そのお召し物、妃殿下のお家紋ではございませんもの 」

月影は、夕霧の着物、特にその紋様をじっと見つめた。

夕霧が着ているのは、本物の

「 影の妃 」

の家紋が入った着物だ。

しかし、月影の言葉は、その着物が夕霧自身の出自とは異なることを示唆していた。

彼女は、夕霧が本物の妃ではないこと、あるいは何か秘密を抱えていることに、

既に気づいているのかもしれない。

夕霧の心臓が、ドクンと音を立てた。

この女は、一体どこまで知っている?

「 ええ、この着物は、少し前にいただいたものでございますわ。

たまたま、気に入って着ておりますの 」

夕霧は、苦しい言い訳をした。

月影は、夕霧の顔をじっと見つめ、口元に意味深な笑みを浮かべた。

その視線は、まるで獲物を見つけた猛禽類のようだった。

「 そうですか。

それは、大変お似合いでいらっしゃいますわね 」

そう言うと、月影は優雅に会釈し、侍女たちを引き連れて去っていった。

夕霧は、月影の背中が見えなくなるまで、その場に立ち尽くした。

「 冬花……あの月影様は、何かご存知なのですか? 」

夕霧は、思わず冬花に尋ねた。

冬花は、わずかに顔を曇らせた。

「 月影様は、後宮でも一、二を争うほど聡明な方でございます。

そして、お父様は宰相でいらっしゃる。

些細なことでも、すぐに勘づかれるやもしれません 」

冬花は、曖昧な返事をした。

夕霧は、月影が自分を試していることを確信した。

この後宮には、皇帝だけでなく、他にも手強い相手がいる。

夜になり、夕霧は自室に戻ると、すぐに部屋の様子を探索し始めた。

侍女たちの目を盗んで、戸棚の裏や、絨毯の下、壁の隙間など、あらゆる場所を調べた。

盗賊としての習性が、こんな場所でも役に立つとは、皮肉なものだ。

彼女は、壁の裏に隠された小さな扉を見つけた。

それは、使用人用の通路へと繋がっているようだった。

そして、書棚の奥に、後宮の詳細な地図が隠されているのを発見した。

地図には、各宮の配置だけでなく、警備の巡回ルートや、隠された通路なども記されている。

「 これは……使えるな 」

夕霧は、地図を注意深く記憶した。

いつか、ここから逃げ出すための布石になるかもしれない。

また、侍女たちの会話や、他の妃たちの噂話からも、夕霧は多くの情報を集めていた。

「 最近、淑妃様が体調を崩されているらしいわ 」

「 徳妃様は、皇帝陛下からなかなかお声がかからないと、ご立腹のようです 」

「 玉華宮の皇后陛下は、病で伏せられていると聞くが…… 」

後宮は、まさに女たちの戦場だった。

皇帝の寵愛、地位、そして権力。

それらを巡って、妃たちは水面下で激しい争いを繰り広げている。

表向きは優雅だが、その裏では毒を盛り、呪詛をかけるような、暗い陰謀が蠢いているのかもしれない。

夕霧は、自分がこの後宮で生き抜くためには、

ただ

「 影の妃 」

を演じるだけでは足りないことを悟った。

彼女は、持ち前の鋭い観察眼と、盗賊時代に培った細やかな感覚、

そして貧しい暮らしで培った知識と度胸を駆使して、

この華やかな

「 荊棘の後宮 」

の闇を、少しずつ暴いていくことを決意した。

「 どこから、この後宮の秘密を暴いてやろうか…… 」

夕霧の瞳に、泥棒時代と同じ、獲物を見つけたかのような、好奇心に満ちた光が宿った。

彼女の、後宮での新たな

「 盗み 」

が、今、始まる。

それは、金目のものではなく、真実という名の、最も価値ある宝を盗み出すための始まりだった。


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