第1話
夜の帳が降りた帝都は、日中の喧騒を忘れ、静寂の中にその姿を潜めていた。
しかし、その深い闇の中を、一匹の影がしなやかに駆け抜けていく。
路地裏のレンガ塀を猫のように跳び越え、屋敷の瓦屋根を音もなく渡る。
影の主は、まだあどけなさの残る少女、夕霧
だった。
彼女は、生まれついての盗人ではない。
故郷を追われ、帝都の片隅で日々の糧を得るために、この道を選んだのだ。
貧しい暮らしの中で、盗みは生きるための術だった。
飢えを満たし、寒さを凌ぐための、切実な手段。
だからこそ、彼女の盗みには、どこか悪意がなく、鮮やかで、しかし確かな技術が光っていた。
夕霧の五感は、研ぎ澄まされていた。
微かな風の音、遠くで犬が吠える声、わずかに香る花木の匂い。
それら全てが、彼女にとっての情報源だった。
特に、その鋭い聴覚は、どんなに小さな物音も聞き分け、
彼女の行く手を阻む警備の動きを正確に察知する。
バランス感覚もずば抜けており、細い梁の上も、滑りやすい瓦の上も、
まるで平地を歩くかのように軽々と進んでいく。
その夜、夕霧が狙いを定めたのは、帝都でも指折りの豪商、羅家の広大な屋敷だった。
先日、商会を訪れた際に耳にした噂によれば、羅家には珍しい宝飾品が運び込まれたばかりだという。
きらびやかな宝石や、精巧な細工が施された調度品には興味はない。
夕霧が本当に欲しているのは、日持ちする干し肉や、腹持ちのする穀物、
そして暖を取るための上質な毛布、といった実用的なものだった。
羅家の屋敷は、帝都でも屈指の警備を誇っていた。
高い塀には忍び返しが取り付けられ、定期的に巡回する衛兵の足音が聞こえる。
しかし、夕霧はすでに、昼間のうちに下見を済ませていた。
裏手の木々が生い茂る場所には、警備の死角がある。
夕霧は、風に乗って微かに揺れる木の枝を掴み、その身を宙に舞わせた。
しなやかな体で塀を乗り越え、屋敷の庭へと音もなく着地する。
庭は手入れが行き届いており、甘い香りのする花々が咲き誇っていた。
「 贅沢な匂いがするわね 」
夕霧は、鼻をひくつかせながら、花壇の影に身を潜めた。
衛兵の足音が遠ざかるのを確認すると、彼女は音もなく屋敷の裏手へと回った。
ここには、古びた使用人用の通用口がある。
夕霧は、懐から細い針金を取り出すと、慣れた手つきで鍵穴に差し込んだ。
カチリ、と微かな音が響き、扉がゆっくりと開く。
屋敷の中は、外観とは裏腹に静まり返っていた。
使用人たちはすでに就寝しているのだろう。
夕霧は、闇に溶け込むように廊下を進んだ。
彼女の目標は、食料庫だ。
しかし、途中で目的とは異なる、豪華な装飾が施された一室が目に入った。
煌びやかな絹の布地、金糸が織り込まれた絨毯、そして壁一面に飾られた絵画。
おそらく、豪商の私室だろう。
その部屋を通り過ぎようとした時、部屋の奥から、微かな物音が聞こえた。
人影? 警備だろうか。
夕霧は咄嗟に身を隠した。
しかし、聞こえてきたのは、衛兵の足音ではなかった。
女性の、かすれたような声だ。
「 誰か……助けて……! 」
夕霧は、好奇心に駆られ、障子の隙間から部屋の中を覗き込んだ。
部屋の中央には、豪華な装飾が施された大きな箪笥が置かれていた。
そして、その箪笥の裏側に、一人の女性がうずくまっていた。
彼女は、上質な絹の着物を身につけ、顔は深々と被った頭巾で隠されている。
しかし、その体から滲み出る尋常ならざる高貴な雰囲気に、
夕霧は一瞬で、この女性がただ者ではないことを悟った。
女性は、震える手で何かを抱きしめている。
そして、彼女の周囲には、すでに複数の男たちが詰め寄っていた。
彼らは、皆、見慣れない奇妙な装束を身につけ、短剣を手にしている。
「 観念しなさい、妃殿下!
逃げおおせられるとでも思ったか! 」
男の一人が、低い声で脅しつけた。
「 妃殿下 」
という言葉に、夕霧の耳がぴくりと動いた。
この女性は、後宮の妃?
女性は、身を震わせながら、夕霧の方に顔を向けた。
頭巾の隙間から見えたその顔は、驚くほど夕霧と瓜二つだった。
年齢も、体格も、見慣れない着物の下にあるはずの肌の色も、そっくりだったのだ。
「 お願い……誰でもいい……助けて……! 」
女性は、かすれた声で夕霧に助けを求めた。
その瞳には、恐怖と絶望の色が浮かんでいる。
夕霧は、迷った。
自分は泥棒だ。
こんなことに巻き込まれたら、命を落とすかもしれない。
しかし、同時に、彼女の心の中に、見知らぬ女性を助けたいという、
泥棒稼業には似つかわしくない感情が芽生えた。
それは、かつて自分も、誰にも助けてもらえなかった記憶と重なったのかもしれない。
「 ねぇ、一つ取引しない? 」
夕霧は、小声で女性に話しかけた。
女性は、はっと顔を上げた。
「 わたしと、着物を交換して。
あなたは逃げて。
あなたなら、きっと逃げられる 」
女性は、一瞬ためらった。
しかし、追っ手の足音が近づいてくる。
このままでは、捕まってしまう。
彼女は、夕霧の提案に飛びついた。
二人は、素早く着物を交換した。
夕霧は、女性が身につけていた豪華な絹の着物を身につけ、
彼女の顔を覆っていた高貴な布を深々と被る。
女性は、夕霧の地味な着物を纏い、夕霧の顔を隠していた古びた布で顔を覆った。
「 わたしは逃げるのが得意なんだ。
あなたは、そのまま逃げて。
あの男たちも、あなたを追うことはできないでしょう 」
夕霧は、女性の耳元でささやくと、彼女を屋敷の裏口へと促した。
女性は、夕霧の言葉を信じ、素早く闇の中へと消えていった。
夕霧は、女性が残した豪華な着物を纏い、深々と顔を覆ったまま、再び箪笥の裏に身を潜めた。
追っ手の男たちが部屋に入ってくる。
「 妃殿下!
どこへ行かれた!? 」
男たちは、部屋中を探し回った。
やがて、箪笥の裏に隠れている夕霧の姿を見つける。
「 いたぞ!
妃殿下はここに! 」
男たちは、夕霧を取り囲んだ。
夕霧は、心の中で舌打ちした。
逃げるはずだったのに、まさかこんなことになるとは。
しかし、顔を隠しているおかげで、彼らは夕霧が別人であることに気づいていない。
「 おとなしくしていただくぞ! 」
男の一人が、夕霧の腕を掴んだ。
夕霧は、抵抗することなく、彼らに身を任せた。
どうせこのまま逃げたところで、追いつかれてしまうだろう。
ここは、ひとまず彼らの言う通りにして、隙を見て逃げ出すのが賢明だ。
男たちは、夕霧を輿に乗せた。
豪華な輿は、街中をゆっくりと進んでいく。
夕霧は、輿の中から、夜の帝都の景色を眺めた。
見たこともないほど煌びやかな建物が並び、夜にもかかわらず、
そこかしこに明かりが灯っている。
そして、輿は、とある巨大な門をくぐった。
その門は、今まで夕霧が目にしたどんな建物よりも荘厳で、圧倒的な威厳を放っていた。
門の向こうには、星が降るかのように無数の提灯が灯され、伽藍のような建物がそびえ立っている。
「 ここが……後宮? 」
夕霧は、思わず息を呑んだ。
まさか、自分が後宮に連れてこられるとは。
輿が止まり、扉が開かれる。
夕霧は、周囲の侍女たちに促されるまま、輿から降りた。
彼女の目の前には、広大な庭園が広がっていた。
そこには、見たこともないほど美しい花々が咲き乱れ、甘い香りが漂っている。
「 ようこそおいでくださいました、影の妃殿下。
お待ちしておりました 」
一人の老齢の侍女が、深々と頭を下げて挨拶した。
その言葉に、夕霧は背筋が凍りついた。
「 影の妃殿下 」
自分が身代わりとして、妃として後宮入りしてしまったことを、
夕霧はそこでようやく完全に理解した。
侍女たちは、夕霧を豪華な部屋へと案内した。
そこは、これまでの夕霧の人生では想像もできなかったような、贅沢の限りを尽くした空間だった。
上質な絹の寝台、金銀で飾られた調度品、そして見たこともないほど高価な香木が焚かれている。
夕霧は、与えられた部屋の中で、一人、呆然と立ち尽くした。
「 妃殿下、お召し替えでございます 」
侍女たちが、次々と豪華な衣装を運んできた。
夕霧は、されるがままに衣装を身につけ、髪を結い上げられた。
鏡に映った自分の姿は、普段の泥棒の姿とは全く異なる、絵画から抜け出てきたような美しさだった。
「 これより、陛下の御前に 」
老侍女の言葉に、夕霧は背筋が寒くなった。
皇帝に会う?
正体がバレたらどうなる?
処刑?
心臓が激しく脈打つ。
しかし、泥棒として培った
「 生き抜く 」
ための本能と、どんな困難も乗り越えてきた度胸が、夕霧を突き動かした。
「 ここで捕まって、首を刎ねられるわけにはいかない…… 」
夕霧は、心の中で固く決意した。
このままでは、殺される。
何が何でも、この後宮で生き抜いてみせる。
そして、いつか隙を見て、ここから逃げ出してやる。
彼女は、高貴な妃としての振る舞いを、必死に模索し始めた。
侍女たちの動きを観察し、言葉遣いや立ち居振る舞いを真似る。
表情には、これまで見せたことのない、憂いを帯びた淑やかさを装う。
夕霧の、荊棘の後宮での、波乱に満ちたサバイバル生活が、今、始まったばかりだった。