第17話
夕霧が聖なる泉のある地下へと進むと、その先には、より深く、より広大な地下空間が広がっていた。
そこは、月の氏族が長きにわたり秘密裏に儀式を行ってきた場所なのだろう。
空間の中央には、泉の水が満たされた巨大な円形の祭壇が築かれており、その水面には、紅い満月の光が、地下深くにある泉へとわずかに差し込んでいた。
祭壇の壁面には、複雑な陰陽の紋様がびっしりと刻まれている。
祭壇の周囲には、黒い装束をまとった月の氏族の幹部たちが、複雑な紋様が描かれたローブを纏い、不気味な呪文を唱えている。
彼らの手には、帝都の市場から消え去った香木の束が握られ、その煙が渦を巻いていた。
「 月の氏族め……ここで、一体何を…… 」
夕霧は、身を隠し、祭壇の様子を伺った。
すると、祭壇の中央に、一人の老いた男が姿を現した。
彼の顔には、月の氏族特有の紋様が深く刻まれ、その瞳は、狂気に満ちた輝きを放っていた。
彼は、月の氏族の最高位の幹部、あるいは長老なのだろう。
彼の纏うローブは、他の幹部たちよりも一層豪華で、月の刺繍が施されていた。
「 時が来た。長きにわたり、我らが血にかけられた呪いを解き放つ時が来たのだ! 」
老人の声が、地下空間に響き渡る。
老人は、祭壇の泉に、自らの血を滴らせた。
血が泉に落ちると、水面が紅く染まり、異様な輝きを放ち始めた。
そして、泉の水面から、巨大な影がゆっくりと浮かび上がってきた。
それは、かつて古文書に記されていた、「 月の呪い 」によって生み出された、異形の怪物だった。
怪物は、不定形な闇の塊でありながら、見る者に恐怖と嫌悪感を抱かせる存在だった。
夕霧は、息を呑んだ。
この怪物が、月の氏族の血を穢し、その力を蝕んできた呪いの具現化なのだろうか。
「 この怪物を浄化し、我らが血の真の力を取り戻す。
そのためには、『 清浄なる血 』の力が必要なのだ! 」
老人は、夕霧が身を隠している方向へと視線を向けた。
彼の瞳は、闇の中でも夕霧の存在を正確に捉えているようだった。
「 夕霧!あなたは、我らが悲願を達成するための、最後の『 贄 』となるのだ! 」
夕霧は、隠れる場所を失い、祭壇の前に姿を現した。
彼女の手に握られた木彫りの鈴が、微かに震える。
老人は、夕霧に向かって手をかざした。
すると、祭壇の周囲に描かれた紋様が輝き出し、夕霧の体を、目に見えない力で縛り付けた。
彼女は、身動きが取れなくなった。
「 この力は、月の氏族の秘術……! 」
夕霧は、苦痛に顔を歪めた。
老人は、邪悪な笑みを浮かべた。
「 その『 清浄なる血 』を、この怪物に捧げれば、我らは呪いから解放され、再び世界を支配する力を手に入れることができるのだ! 」
老人は、夕霧の腕を掴み、祭壇の泉へと引き寄せた。
夕霧の腕が、紅く輝く泉の水面に触れる。
すると、彼女の全身から、眩い光が放たれた。
それは、鈴から放たれる光とは異なる、彼女の血そのものが持つ、清らかな光だった。
老人は、その光に驚き、一瞬手を離した。
「 まさか……この血は、これほどの力を秘めていたのか……! 」
その隙を見逃さず、夕霧は、意識を集中させ、鈴を強く握りしめた。
彼女の全身から、さらに強い光が放たれた。
その光は、祭壇の周囲に描かれた紋様を打ち消し、老人の秘術の力を弱めていく。
「 くっ……!この力は……! 」
老人は、苦痛に顔を歪めた。
夕霧は、その力で、祭壇の泉から後退し、老人の術から解放された。
彼女は、鈴を高く掲げ、泉の中心にいる異形の怪物に向かって、強い意志を込めて鈴を振った。
鈴から放たれる光は、怪物に触れると、怪物の体を構成する黒い靄を、少しずつ浄化していく。
怪物は、苦痛に唸り声を上げ、その体が、ゆっくりと崩れ始めた。
「 ばかな!我が月の氏族の悲願が……! 」
老人は、絶叫した。
しかし、怪物の浄化は、まだ完全ではない。
夕霧は、鈴の力をさらに引き出そうと、意識を集中させた。
その時、彼女の脳裏に、古文書の「 五行の逆転の均衡 」という記述が、鮮明に浮かび上がる。
夕霧は、聖なる泉の底に、かすかに輝く何かがあることに気づいた。
それは、泉の底に埋められた、古の玉だった。
その玉は、五行の紋様が刻まれ、中央には、太陽を象徴する光の紋様が描かれている。
「 これだ……!この玉が、聖なる泉の真の力……そして、五行の均衡を保つ鍵だ! 」
夕霧は、直感した。
しかし、玉は泉の底深くにあり、触れることができない。
そして、老人が再び秘術を使い、夕霧に迫ろうとしていた。
その時、地下の通路の奥から、剣の音と激しい足音が響いてきた。
玄葉が、霊廟での激戦を終え、月の氏族の残党を退けながら、夕霧の鈴の音を頼りに、ついにこの地下深淵へとたどり着いたのだ。
「 夕霧! 」
玄葉の声が、地下空間に響き渡る。
彼の姿が、闇の中から現れた。
その剣は、月の光を浴びて、鋭く輝いていた。
玄葉の声が地下深淵に響き渡ると、老人の顔に焦りの色が浮かんだ。
彼は、夕霧を捕らえることを優先し、彼女に向かって術を放とうとした。
しかし、玄葉の動きはそれよりも速かった。
「 そこを動くな! 」
玄葉は、老人に真っ直ぐに斬りかかった。
剣の切っ先が老人のローブをかすめ、老人は、わずかに後退した。
その隙に、玄葉は夕霧の元へと駆け寄る。
「 夕霧、無事か! 」
玄葉は、夕霧の肩を掴み、その無事を確認した。
夕霧は、力強く頷いた。
「 はい、陛下。
ですが、この怪物を完全に浄化するには、聖なる泉の底にある玉の力が必要です! 」
玄葉は、泉の中心に浮かぶ異形の怪物と、その底で輝く玉を見た。
そして、周囲の月の氏族の幹部たちが、新たな呪文を唱え始め、祭壇の力を再び高めようとしているのが分かった。
「 この玉が、聖なる泉の力を制御する鍵か……だが、どうやって玉に触れる? 」
玄葉は、泉の深さを見つめた。
老人は、激怒に顔を歪ませ、再び術を放った。
彼の周囲に、月の紋様が渦巻き、それが巨大な闇の波動となって玄葉と夕霧に襲い掛かる。
「 邪魔をするな、陛下!
今こそ、我らの悲願が成就する時なのだ! 」
玄葉は、剣を構え、その闇の波動を受け止める。
しかし、その力は強大で、玄葉の体が、わずかに押し戻される。
その時、夕霧の鈴が、再び輝きを放ち始めた。
夕霧は、その光を闇の波動に向かって放った。
清らかな光が闇の波動と衝突し、互いの力が拮抗する。
「 陛下!あの怪物を完全に消滅させるには、五行の均衡を逆転させる必要があります!
そのためには、あの玉の力が不可欠です! 」
夕霧は、老人の術を鈴で押し返しつつ、叫んだ。
玄葉は、夕霧の言葉に頷いた。
彼は、一瞬の間に状況を判断した。
「 俺がこの老人の動きを止める!
その間に、夕霧、そなたが玉に触れろ! 」
玄葉は、再び剣を構え、老人に突進した。
彼の剣は、先ほどよりも鋭く、老人の放つ術の隙間を縫って、その懐へと迫る。
老人は、玄葉の猛攻に、防戦一方となる。
夕霧は、その隙を見逃さなかった。
彼女は、鈴から放たれる光で祭壇の紋様を打ち消し、祭壇へと駆け上がった。
泉の縁に立つと、聖なる泉の水面が、まるで彼女を招き入れるかのように、微かに波打った。
しかし、泉の水は、非常に冷たく、深く、底の玉までは手が届かない。
「 くっ……! 」
夕霧は、歯を食いしばる。
彼女は、自らの「 清浄なる血 」の力を最大限に引き出そうと、意識を集中させた。
鈴が、激しく光り始める。
その光が、泉の水を照らすと、泉の水が、まるで生きた生命体のように、夕霧の足元から泡立ち始めた。
そして、水面に、かすかな紋様が浮かび上がった。
それは、古文書に記されていた、五行の気を操るための紋様だった。
夕霧は、迷わず、その紋様が描かれた水面に手を差し入れた。
すると、水が、夕霧の手に吸い寄せられるように、玉の元へと導いていく。
「 何をしている!やめろおおお! 」
老人が、絶叫した。
彼は、玄葉の剣撃を振り払い、夕霧に向かって術を放とうとする。
だが、玄葉は、その動きを許さなかった。
「 貴様の好きにはさせん! 」
玄葉は、老人に最後の猛攻を仕掛けた。
剣と術が激しくぶつかり合う音が、地下空間に響き渡る。
夕霧の手が、ついに泉の底の玉に触れた。
玉が、夕霧の手に触れた瞬間、眩い光が泉全体から放たれた。
その光は、泉に満ちる紅い月の光を打ち消し、清らかな輝きで満たしていく。
光は、地下空間全体に広がり、祭壇で呪文を唱えていた月の氏族の幹部たちを包み込んだ。
彼らは、苦痛に顔を歪ませ、その体が、まるで霞のように消え去っていった。
彼らもまた、月の氏族の秘術によって生み出された存在だったのかもしれない。
そして、泉の中心にいた異形の怪物が、光に包まれると、その体が、みるみるうちに浄化され、白い光となって天へと昇っていった。
それは、月の氏族の血を穢していた「 月の呪い 」が、完全に消滅した瞬間だった。
老人は、その光景を見て、呆然と立ち尽くした。
彼の瞳から、狂気の光が消え失せ、深い絶望の色が浮かび上がる。
「 馬鹿な……我が月の氏族の悲願が…… 」
玄葉は、その隙を見逃さなかった。
彼の剣が、老人の胸元に迫る。
老人は、抵抗する術もなく、その場に崩れ落ちた。
彼の体もまた、わずかな光を残して、消え去っていった。
聖なる泉の力は、月の氏族の秘術を打ち破り、怪物を浄化すると、その輝きを増した。
そして、その光は、地下空間を抜け、帝都の空へと昇っていった。
帝都の空に広がる紅い満月が、その光を浴びると、瞬く間に本来の白銀の輝きを取り戻した。
そして、帝都に降り注いでいた異様な光の柱も、次々と消え去っていった。
人々の悲鳴は止み、混乱が収束していく。
玄葉は、夕霧の元へと駆け寄った。
「 夕霧、そなたが……この帝都を救ったのだ! 」
玄葉の顔には、安堵と、そして夕霧への深い感謝の念が浮かんでいた。
夕霧は、玉をしっかりと握りしめ、玄葉に微笑んだ。
彼女の心には、故郷の悲劇を繰り返させないという強い決意と、そして、玄葉と共にこの困難を乗り越えたことへの、確かな手応えがあった。
しかし、その安堵も束の間だった。
聖なる泉の光が消え、地下空間が再び静寂に包まれた時、隠し通路の奥から、かすかな足音が聞こえてきた。
それは、月の氏族の幹部たちとは異なる、洗練された、そして、どこか冷たい足音だった。
玄葉と夕霧は、その音に顔をしかめた。
そして、闇の中から、再びあの冷たい笑みが現れた。
「 さすがね、夕霧。
その血の力と、あの玉を覚醒させるとは。
ですが、ここからが、真の試練よ 」
そこに立っていたのは、月影だった。
彼女の顔には、先の戦いで負った傷は全く見当たらず、その瞳は、以前にも増して冷酷な光を放っていた。
彼女は、何らかの秘術を用いて、自らの傷を癒し、さらなる力を得ていたのだ。
月影は、その手に、先ほど砕け散ったはずの扇子を握っていた。
しかし、その扇子は、以前よりも黒く、禍々しい輝きを放っていた。
その扇子の柄には、見たことのない、新たな紋様が刻まれている。
「 『 荊棘の呪い 』は、まだ終わってはいないわ。
そして、この玉は、私たちが本来手にするべきもの。
ここで、あなたには消えてもらう 」
月影の背後には、新たな黒装束の者たちが、影のように従っていた。
玄葉は、剣を構え、夕霧を背後に庇った。
「 月影……!貴様、まだその力を……! 」
月影は、扇子をゆっくりと開いた。
そこから放たれる毒煙は、以前よりも濃厚で、暗い闇を纏っていた。