第14話
月影が去った執務室には、激しい戦いの痕跡だけが残されていた。
砕け散った水晶玉の破片、焦げ付いた壁の染み、そして、何よりも濃く残る月の氏族の秘術の冷たい残滓。
玄葉は、その全てを厳しい表情で見回した。
夕霧の腕の変色痕は既に完全に消え去っていたが、彼女の心に刻まれた衝撃は、そう簡単に消えるものではなかった。
「 月影は逃げたが、完全に力を失ったわけではないだろう。
そして、彼女の背後には、まだ多くの月の氏族の者が控えているはずだ 」
玄葉は、隠し通路の入り口を塞ぐように、護衛の兵士たちを配置した。
彼らは、玄葉の命を受け、隠し通路の徹底的な調査を開始する。
しかし、この通路が宮廷内部のどこかに繋がっているとすれば、内通者の存在は避けられない。
「 この通路を知る者が、まだ宮廷内部にいるということか…… 」
玄葉の声には、苦悩が滲んでいた。
信じるべき臣下の中に、月の氏族の手の者がいる可能性は、彼の心を深く苛む。
夕霧は、床に落ちた木彫りの鈴を拾い上げた。
その鈴は、先ほどまで放っていた眩い光を失い、ただの古びた鈴に戻っていた。
しかし、夕霧には、その鈴が確かに彼女の「 清浄なる血 」と共鳴し、奇跡を起こしたことがはっきりと分かっていた。
「 この鈴は……わたくしの力を引き出してくれたようです。
ですが、あの月影様が、なぜそこまで『 清浄なる血 』に固執するのか…… 」
玄葉は、夕霧の言葉に頷いた。
「 『 清浄なる血 』が、月の氏族の秘術の鍵であることは間違いないだろう。
だが、なぜ彼らは、それほどまでにその血を求めるのか。
そして、『 荊棘の呪い 』とは、一体何なのだ 」
玄葉と夕霧は、再び卓の上に広げられた古文書に目を落とした。
古文書には、月の氏族の歴史と、彼らが信仰する月の女神、そして、代々伝わる秘術の断片が記されている。
しかし、その全てを解き明かすには、あまりにも情報が断片的すぎた。
「 あの月影の言葉……『 李蘭は、あくまで贄に過ぎぬ 』。
この言葉の意味も、まだ完全に理解できていない。
月の氏族が李蘭を狙い続けていたのは、夕霧の血の真の力を引き出すための、単なる『 触媒 』だったというのか 」
夕霧は、李蘭の苦痛を思い、胸が締め付けられる思いだった。
「 李蘭様は、わたくしが守らなければなりません。
わたくしのせいで、彼女がこれ以上苦しむのは耐えられません 」
玄葉は、夕霧の肩にそっと手を置いた。
「 もちろんだ。
李蘭の身の安全は、最優先事項だ。
だが、今回の月影の行動は、奴らが『 清浄なる血 』の持ち主を完全に特定したことを意味する。
もはや、李蘭の身代わりとしてではなく、夕霧、そなた自身が狙われることになるだろう 」
夕霧は、玄葉の言葉に、覚悟を決めたように頷いた。
「 はい。
わたくしは、この血の宿命から逃れることはできません。
ならば、この力を、月の氏族の陰謀を打ち破るために使います 」
玄葉は、夕霧の瞳に宿る強い意志を感じ、改めてその決意を固めた。
「 月の氏族は、この帝都の地下に、別の隠し通路を持っているかもしれぬ。
そして、その隠し通路を通じて、帝都の重要な要所へと繋がっている可能性もある。
不審火、香木の消失、そして地下水路の影……これらの出来事は、全て彼らの動きに関わるものだ 」
玄葉は、兵士たちに、宮廷内の全域、特に地下水路や廃墟となった建物の地下室を徹底的に捜索するよう命じた。
同時に、宮廷内の重臣たちの監視も強化した。
内通者がいるとすれば、彼らの中に潜んでいる可能性が高い。
「 夕霧、そなたには、引き続き古文書の解読を頼む。
特に、月の氏族の秘術の全貌と、その弱点について、何か新たな情報を見つけてほしい。
そして、李蘭の症状についても、詳細に調べてくれ。
もしかしたら、月の氏族の毒には、まだ我々が知らない、別の側面があるのかもしれない 」
「 かしこまりました、陛下 」
夕霧は、深く頭を下げた。
翌日、帝都には、夜の戦いの余波が、かすかに感じられた。
宮廷の警備は、目に見えて厳しくなり、衛兵の巡回が頻繁に行われるようになった。
しかし、月の氏族の動きは、水面下で、より巧妙に、より深く進行していた。
玄葉の元には、新たな報告が次々と寄せられた。
北の国境付近で、奇妙な病が蔓延し始めたという報せがあった。
その病は、人を衰弱させ、精神を不安定にするという。
月の氏族の毒と似た症状であり、玄葉は、それが彼らの新たな秘術である可能性を疑った。
帝都の市場では、夜間に不審な薬草が密かに取引されているという情報が入った。
その薬草は、古文書に「 月の秘薬 」として記されているもので、月の氏族の儀式に不可欠なものとされていた。
そして、最も玄葉を震撼させたのは、宮廷内のある部署の記録書庫から、重要な地図の一部が盗まれていたという報告だった。
その地図は、帝都の地下の構造を詳細に記したものであり、月の氏族が新たな隠し通路を開拓している証拠となる可能性があった。
「 北の病、密売される薬草、そして盗まれた地図……これらは全て、月影の行動を裏付けるものだ。
月の氏族は、ただ夕霧の血を狙うだけでなく、帝国全体を揺るがす、より大規模な陰謀を企んでいる 」
玄葉は、地図を広げ、盗まれた部分が示していたであろう場所を推測した。
それは、帝都の中央、皇帝の居室から最も近い、地下深くにある聖なる泉の場所だった。
古文書には、その泉に関する記述があった。
『 古の昔、月の氏族は、聖なる泉の水を月の光で清め、その力を用いて、森羅万象を操る秘術を行っていた 』
玄葉の脳裏に、一つの恐ろしい仮説が浮かび上がった。
もし、月の氏族が、その聖なる泉の力を利用しようとしているのならば、その目的は、ただの帝国の支配に留まらない。
彼らは、世界の秩序そのものを変えようとしているのかもしれない。
夕霧は、古文書を読み解きながら、新たな発見をしていた。
「 陛下、月の氏族の秘術には、月の満ち欠けが深く関わっているようです。
そして、特定の月の周期に、彼らの力が最も強くなる、と記されています 」
玄葉は、顔を上げた。
「 特定の月の周期……だと?
ならば、彼らが次に動く日も、限られてくるということか 」
夕霧は、カレンダーと照らし合わせ、ある日付を指差した。
「 次の満月の日です。
その日、月の力が最も満ちる時、彼らは何かを企んでいるはずです 」
玄葉の瞳に、強い決意の光が宿った。
「 満月の日……。それが、奴らが動き出す日か。
ならば、その日までに、全ての謎を解き明かし、奴らの陰謀を完全に阻止せねばならぬ 」
月の氏族の陰謀は、玄葉と夕霧の想像を遥かに超えて、深く、そして広範囲に及んでいた。
彼らは、ただの復讐者ではない。
世界の根幹を揺るがすほどの、途方もない力を手にしようとしていた。