第13話
「 黙れ、月影!そなたの企みなど、俺が許すものか! 」
玄葉は、雄叫びを上げて、剣を抜いた。
銀色の刀身が、月明かりを反射して冷たく光る。
彼は、皇帝としての威厳と、夕霧を守るという強い決意をその剣に込めて、月影に斬りかかった。
月影は、不敵な笑みを浮かべたまま、扇子を広げた。
扇子には、月の氏族特有の紋様が描かれ、その先端からは、わずかに緑色の毒煙が立ち上っている。
彼女の動きは、まるで舞を舞うかのように優雅でありながら、その内には、冷酷な殺意と、計算し尽くされた戦略が秘められていた。
「 無駄よ、陛下。
私の秘術は、もはやあなたの剣では届かぬ領域にある 」
月影は、扇子を素早く振り、毒煙を玄葉に向かって放った。
玄葉は、とっさに身を翻し、毒煙を避ける。
しかし、その刹那、月影は玄葉の背後へと回り込み、毒の塗られた短刀を突き出した。
月影の背後に控えていた黒装束の男も、同時に動き出し、玄葉の側方から奇襲を仕掛ける。
玄葉は、その二つの気配を察知し、間一髪で体を捻り、短刀の切っ先をかわす。
しかし、毒の刃は彼の腕をかすめ、わずかな裂傷を残した。
背後の男の攻撃も、間一髪で剣の腹で受け止めるが、その衝撃で体勢が僅かに崩れた。
玄葉は、一瞬の痛みに顔をしかめたが、すぐに体勢を立て直し、月影に斬りかかる。
背後の男は、再び玄葉に斬りかかろうとするが、夕霧が素早く動いて男の間に割って入った。
夕霧は、玄葉の戦いを傍で見守る。
彼女の脳裏には、古文書に記された「 荊棘の呪い 」の記述が鮮明に蘇っていた。
月の氏族の毒は、単なる猛毒ではない。
それは、生命力を蝕み、精神をも侵す、恐ろしい秘術だった。
玄葉が、月の氏族の毒に侵されてはならない。
「 陛下!毒に、お気をつけください! 」
夕霧は、叫んだ。
彼女の視線は、玄葉の動きと、月影の扇子の動きを追っていた。
同時に、目の前の黒装束の男の動きも警戒する。
男は、夕霧に刃を向けたまま、一歩一歩、間合いを詰めてくる。
月影は、夕霧の叫びを聞くと、不敵な笑みを浮かべた。
「 その通りよ、夕霧。
私の毒は、ただの毒ではない。
この毒は、精神を蝕み、最も大切なものを奪い去る。
陛下の心を、蝕んで差し上げましょう 」
月影は、扇子を大きく振り、執務室全体に、毒煙を撒き散らした。
緑色の毒煙が、瞬く間に部屋を満たしていく。
玄葉は、息を止めて毒煙を吸い込まないようにするが、視界が遮られ、月影の姿を見失う。
目の前の黒装束の男も、毒煙の中に紛れ込み、姿が見えなくなった。
その時、夕霧の脳裏に、古文書の断片が閃いた。
『 荊棘の呪いは、月の光を浴びることで、その力を増す。
しかし、真の太陽の光は、その力を浄化する 』
「 陛下!窓を! 」
夕霧は、とっさに叫んだ。
そして、自身も迷わず、窓へと駆け寄った。
彼女は、窓を覆う厚い緞帳を、力任せに引き剥がす。
夜の帳が降りた帝都に、わずかな月明かりが差し込んでいる。
しかし、その月明かりは、月の氏族の毒の力を増幅させているのだ。
月影は、夕霧の行動に一瞬戸惑った。
「 何を企んでいる……!? 」
夕霧は、さらに奥の窓へと駆け寄った。
そこは、東の空を望む窓で、夜明けには最初に太陽の光が差し込む場所だった。
彼女は、そこもまた、緞帳を剥がし、窓を大きく開け放った。
冷たい夜風が吹き込み、毒煙を外へと押し流し始める。
同時に、夜明け前の帝都の冷たい空気が、執務室の淀んだ空気を洗い流す。
「 月影様!あなたの毒は、月の光を糧とする。
ですが、夜が明ければ、真の太陽の光が、あなたの力を無力化するでしょう! 」
夕霧は、月影に向かって叫んだ。
それは、半ば賭けだった。
古文書の記述は、あくまで古い言い伝えに過ぎなかったが、夕霧は、それに一縷の望みをかけていた。
月影の顔から、余裕の表情が消え失せた。
彼女の瞳には、怒りと焦りの色が浮かぶ。
「 たわけたことを!そんな伝説を信じるなど……! 」
玄葉は、毒煙が薄れ、視界が回復したことで、再び月影に剣を向けた。
「 夕霧の言う通りだ、月影!お前は、太陽の光を恐れている! 」
玄葉は、その隙を見逃さず、月影に猛攻を仕掛けた。
彼の剣は、先ほどよりも鋭く、重い。
月影は、もはや毒煙で玄葉を惑わすことはできない。
彼女は、必死に剣をかわすが、玄葉の攻撃は容赦ない。
黒装束の男も、毒煙が晴れたことで再び夕霧に襲いかかるが、夕霧はすでに彼の間合いを見切っていた。
その時、月影は、自らの懐から、もう一つの秘具を取り出した。
それは、水晶玉のようなものだった。
彼女は、それを床に叩きつける。
水晶玉は、粉々に砕け散り、そこから、禍々しい黒い靄が噴き出した。
黒い靄は、みるみるうちに形を成し、まるで生きた影のように、執務室の中を蠢き始める。
「 月の氏族の秘術は、これだけではないわ!
この闇に、あなた方は囚われるがいい! 」
黒い靄は、玄葉と夕霧を取り囲み、彼らの視界を完全に奪う。
それは、物理的な視界だけでなく、精神的な視界をも奪い、彼らの心を不安と恐怖で満たそうとしているようだった。
黒装束の男も、その靄の中に紛れ込み、再び姿を消した。
玄葉は、剣を構え、影の靄の中で月影と黒装束の男の気配を探る。
しかし、靄は、彼の五感を鈍らせ、月影と男の位置を特定させない。
「 くそっ……!これは、視界を奪うだけではない……!
精神に直接作用する毒か……! 」
玄葉は、額に冷や汗をかいた。
このままでは、月影の思う壺だ。
その時、夕霧が、再び声を発した。
彼女の右手には、あの木彫りの鈴が握られていた。
彼女は、無意識のうちに、その鈴を強く握りしめていたのだ。
「 月影様!あなたは、本当に月の氏族の悲願を願っているのですか!? 」
夕霧の叫びは、靄の中に響き渡った。
月影は、その声に、不気味な笑みを浮かべた。
「 当然よ。これこそが、我ら月の氏族が、長きにわたり待ち望んだ悲願なのだから! 」
「 ならば、なぜ、その悲願のために、無辜の命を奪うのです!
わたくしの故郷のように、多くの人々を犠牲にして、一体何が得られるというのですか!? 」
夕霧の声は、怒りに震えていた。
彼女は、月影の狂気に、そして、その秘術によって奪われた命の重さに、耐えきれない思いだった。
月影は、夕霧の言葉に、わずかに動揺を見せた。
「 黙れ!それが、この呪いを解く唯一の道なのだ!
穢れた血を浄化し、真の月の氏族の血を取り戻すために……! 」
「 それは違う!あなた方は、自らの血を穢し続けているだけだ!
他者の命を奪い、その血を利用するなど、決して正しき道ではありません! 」
夕霧は、鈴を強く握りしめた。
彼女の全身から、不思議な力が湧き上がってくるのを感じた。
それは、彼女の血に秘められた、「 清浄なる血 」の力だった。
その時、鈴が、かすかに光を放ち始めた。
そして、その光は、黒い靄を、まるで霧を晴らすかのように、ゆっくりと押し返していく。
鈴から放たれる光は、黒い靄とは対照的に、温かく、清らかな光だった。
その光は、黒装束の男を照らし出し、男は苦痛に顔を歪めながら、靄の中に後退した。
月影は、その光景を見て、目を見開いた。
彼女の顔から、狂気に満ちた笑みが消え失せ、驚愕と、そして、かすかな恐怖の色が浮かび上がる。
「 な……何だ、この力は!?この鈴は……! 」
玄葉もまた、鈴から放たれる光に驚きを隠せない。
その光は、彼の精神を蝕もうとしていた毒の靄を、瞬く間に浄化していく。
視界が回復し、玄葉は、夕霧の手に握られた鈴が、光を放っているのを見た。
「 夕霧……その鈴は……! 」
玄葉の声には、驚きと、そして、新たな希望が混じっていた。
夕霧は、鈴から放たれる光に、確かな手応えを感じていた。
この鈴は、単なる魔除けではない。
それは、彼女の「 清浄なる血 」と共鳴し、月の氏族の秘術を打ち破る、**『 真の力 』**を秘めていたのだ。
「 陛下!この鈴の力で、この闇を払います!
そして、月の氏族の秘術を止めます! 」
夕霧は、鈴を天に掲げた。
鈴から放たれる光は、さらに強く輝き、執務室全体を覆い尽くす。
黒い靄は、光に触れると、まるで蒸発するかのように消え去っていった。
黒装束の男は、光に焼かれるように苦悶の声を上げ、やがて塵となって消滅した。
それは、月の氏族の秘術によって生み出された存在だったのだろう。
月影は、夕霧と鈴から放たれる光の力に、後退した。
彼女の顔は、驚きと、そして、焦燥に満ちていた。
「 まさか……『 清浄なる血 』の持ち主が、このような力を持つとは……!
この鈴が、その力を増幅させるというのか……! 」
月影は、再び扇子を構え、毒を夕霧に放とうとする。
しかし、玄葉が、その動きを許さなかった。
「 させるか! 」
玄葉は、月影に猛然と斬りかかった。
彼の剣は、迷いなく、そして、容赦なく月影に迫る。
月影は、必死に扇子で攻撃をかわすが、鈴から放たれる光の影響か、彼女の動きは鈍くなっていた。
「 くっ……! 」
月影は、玄葉の剣撃をかわしきれず、腕に深手を負った。
血が、扇子に滴り落ちる。
その隙を見逃さず、夕霧は、光を放つ鈴を月影に向かって投げつけた。
鈴は、まるで意志を持っているかのように、月影の胸元に吸い込まれていく。
鈴が月影の体に触れた瞬間、月影の全身から、眩い光が放たれた。
それは、月の氏族の紋様が刻まれた扇子からも、同じ光が放たれるように見えた。
「 ぎゃああああああっ!! 」
月影は、悲鳴を上げた。
彼女の体から、黒い靄が噴き出し、そして、その黒い靄が、鈴から放たれる光によって、浄化されていく。
月影の顔は、苦痛に歪んでいたが、その瞳の奥には、わずかながら、狂気が消え失せ、どこか澄んだ光が宿っているように見えた。
彼女の扇子は、光の中でひび割れ、砕け散った。
月影の身体から放出された黒い靄が完全に消え去ると、鈴は、月影の胸元から離れ、床に落ちた。
その光も、次第に弱まり、元の木彫りの鈴に戻っていく。
月影は、その場に崩れ落ちかけた。
しかし、その瞬間、彼女の瞳に、再び鋭い光が宿った。
彼女は、残された力を振り絞り、床に倒れる寸前で体勢を立て直すと、執務室の奥の隠し扉へと駆け出した。
「 まだだ……!まだ終わっていない……! 」
月影の声は、血を吐くように掠れていたが、その瞳には、敗北を認めない強い執念が燃え盛っていた。
彼女は、隠し扉の中に消え去る寸前、玄葉と夕霧を睨みつけた。
「 この借りは、必ず返してもらうわ……!
『 清浄なる血 』は、必ず私のものとなる! 」
月影の姿は、闇の中に消え去った。
玄葉は、剣を納め、月影が消えた隠し扉を睨みつけた。
彼女の深手と、黒装束の男が消滅したことから、月影が完全に力を失ったわけではないが、この場から退却せざるを得なかったのは明らかだった。
「 夕霧……そなたの力か……。
この鈴が、その力を増幅させたのだな 」
玄葉は、鈴を拾い上げ、その光景をまじまじと見つめた。
夕霧は、安堵の息を漏らした。
「 はい。
わたくしの血と、この鈴が共鳴したようです。
古文書に記された『 真の太陽の光が、毒を浄化する 』という記述は、比喩ではなく、
わたくしの血の力と、この鈴の力が合わさることで、月の氏族の秘術を打ち破る、という意味だったのかもしれません 」
夕霧は、玄葉の傍らに倒れた月影がいた空間を見つめた。
そこには、ただ静寂だけが残されていた。
「 月影は、これで月の氏族の秘術を使うことはできまい。
しかし、まだ月の氏族の陰謀が全て終わったわけではない。
彼女の背後にいる者、そして帝国の内に潜む者たちを、まだ暴き出す必要がある 」
玄葉は、月影が逃走した通路の先を警戒する。
夕霧は、玄葉の隣にそっと寄り添った。
彼女の心には、玄葉と共にこの困難を乗り越えたことへの、深い安堵と、そして、彼への、より一層強い信頼が芽生えていた。
この夜の戦いは、彼らの絆を、さらに強固なものにしたのだ。
月の氏族の長きにわたる陰謀が、ついにその牙を剥き出しにした。
しかし、玄葉と夕霧の連携、そして夕霧の「 清浄なる血 」の覚醒により、
その第一の刺客である月影は、ついに退けられた。
しかし、これは、あくまで序章に過ぎない。
月の氏族の真の目的、そして帝国内に潜む影は、まだ明らかになっていない。
物語は、さらに加速していく。
玄葉と夕霧の戦いは、これからが本番なのだ。